・鷲田清一は現代の身体やモード、あるいはコミュニケーションをユニークに読み解く哲学者だが、また、哲学者の視点はもちろん、自分の記憶、関西人の笑い、あるいは京都人の皮肉さを駆使するエッセイイストでもある。その彼の『ことばの顔』が文庫で出版された。
・扱われるのは哲学者の名文句、流行語、そして現代を読み解くためのキーワード、また、すでに使われなくなった死語といったものである。それが鷲田流に調理されると、オリジナルな一品料理になる。
・「人間は天使でも獣でもない。」これはパスカルの人間の二重性を説いたことばだが、著者は生まれ育った京都の島原の思い出からこのことばを料理する。あでやかな舞妓さんとみすぼらしい格好の坊さんがいる町。化粧を落とした舞妓さんがお宮でじっと祈る姿、この世を超えた世界を説く僧侶。人間は一面ではわからないし、また人生も一本道ではない。その不確かさ、不均衡、不釣り合い。著者はそれこそ、「現実というもののいちばんリアルな感触なのかもしれない」という。
・携帯電話はもうすっかり、多くの人の必需品になった。もたずに出かけたりすれば不安でたまらない。そんな声もよく耳にする。人混みの中でのたがいの無関心と、携帯を使った親密なやりとり。そんな光景に出会うと、著者は寺山修司の「いまわたしたちが失いかけているのは『話しかけること』ではなくて『黙りあい』だ」を思いだすという。人混みでの無関心は、実は無関心ではない。不要な接触を避けるために、互いに細心の注意を払うことが必要な場で、結果として沈黙が訪れるのである。携帯を使ったきわめて紋切り型の親密そうなやりとりが、人混みを本当の無関心の場にする。社会が根っこのところで壊れだしている無気味さ。
・学生と話していて、時に通じないことばを喋ってしまうことがある。難しい専門用語や外国語ではない。ごく日常的に使っていたはずのことばで、いつのまにか使われなくなってしまったものだ。たとえば下着の名前。ズロースやシミーズがすでに死語であることは承知している。しかしパンツをズボンと同義に使う学生たちのことばには、今でも違和感をもってしまう。もちろん、ズボンは死語だが、著者によれば、パンツを下着に使ってきたのが間違いだったらしい。パンツはパンタロンの略語で、もともとズボンの意味だった。
・すでに死語と化したことばとして、この本では「ヤング」「TPO」「ボイン」などが上げられている。ことばとその意味の流動化の激しさを実感するが、そのことを一層強く感じさせるのは、この本で取りあげられている「いまのことば」がすでに半ば死語と化していることである。「援助交際」「ソッコー」「なんか」「プリクラ」。一時言われた語尾上げも、今では学生はあまり使わない。ことばや話し方がわずか数年で使い捨てにされる。この本を読みながら、そのことをあらためて考えさせられた。
(この書評は『賃金実務』8月号に掲載したものです)
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。