2004年12月1日水曜日

柏木博『「しきり」の文化論』

 

sikiri.jpg・「しきり」は、それほど頻繁に使われることばではない。「しきり」「しきりなおし」など、相撲用語といってもいいかもしれない。しかし「しきる」は人間にとって、あらゆる意味で本質的なものである。
・「わたし」と「あなた」、「私」と「公」、家の内と外、市境、県境、国境。現在、過去、未来。昨日、今日、明日。あるいは一日、一時間、一分一秒。私たちは空間や時間をしきり、そこに違いをつけ、流れや関係を自覚する。それではじめて、形も大きさも長さもはっきりする。その意味では「しきり」は人間学や文化論の基本的なテーマだと言ってもいい。
・住居にはかならず、壁があり、屋根があり、窓があり、また扉がある。家の外には庭があり、庭の周囲には塀が張りめぐらされる。その仕組みはもちろん自然環境に影響される。暑いところでは風通しよく、寒いところでは逆に、冷気を遮断するように作られる。けれども、住まいの形はそれだけで決まるわけではない。
・アメリカの郊外住宅には塀はめったに見られない。対照的に日本の住居にはかならず塀が巡らされる。それを開放的と閉鎖的という国民性の違いとして見るのはあまりに単純だろう。外に対してはっきりした「しきり」をつくらないのは、「私」と「公」の区別がはっきりしているからで、日本の住居に塀が欠かせないのは、それがはっきりしていないせいではないかと著者は指摘する。
・もちろん、違いはそれで説明しつくされるわけではない。アメリカの郊外住宅は、郵便番号によって人種や学歴、あるいは収入がわかるほどに区分けされているのだという。しかも、近隣の人を招いてのホーム・パーティも盛んなようだ。どこの誰かわからない怪しい人影を警戒する必要は、事前に取りのぞかれているというわけである。一方で日本はというと、地縁・血縁の関係が崩れて都市化した住宅環境には、新しい自発的な関係が生まれにくかった。
・住居は「私」と「公」を区別する。しかし、日本における住宅やそこに持ちこまれた家財道具の変容は、「私」空間をさらに細分化する「しきり」にもなった。リビングと寝室の区分け、子ども部屋、そしてそれぞれに置かれたテレビと電話、あるいはパーソナル・コンピュータとケータイ電話。日本人の生活の仕方とそこに生まれた「しきり」をあらためてみつめると、戦後の日本人が家族内個人主義をめざして突っ走ってきたことがよくわかる。
・個人主義は「私」と「公」を区別するだけの考え方ではない。むしろ、そこを前提にした上での人間関係の持ち方や、「公」に対する姿勢や行動にこそ力点がおかれるべきものである。著者は、現在の日本人の「しきり」の作り方に、他人を配慮しない個人主義を感じとり、新しい住居の発想や、ホーム・パーティの流行なども紹介している。たしかに「しきり」に対する無自覚さと、それがもたらした問題を考え直す必要があるのだと思う。

(この書評は『賃金実務』11月号に掲載したものです)

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