2005年7月12日火曜日

夏休み!

  ・半休状態ではあっても、やっぱり授業が終わるとほっとする。例年なら、試験期間で監督業務があるから、半月早く解放される。授業だけで、その他の業務がないのは非常勤暮らしをしていた頃以来だから、何年ぶりだろうか。今年は十分に長い夏休みが過ごせる、と考えると、それだけで、気分がいい。
・とは言え、休暇は研究のためにもらったものだから、長い休みはそれなりに使わなければならない。さて、どうしようか。と言うので、ぼちぼち準備を始めている。テーマはライフスタイル論だ。


・せっかく森の生活を始めたのだから、その経験をもとにライフスタイルについて考えよ。こんな宿題を、もう5年も前に世界思想社の中川さんからいただいているのだが、そのとっかかりや、切り口が見つけられないできた。もちろん、新しい生活のおもしろさや発見、あるいは都会との比較は日々感じていることで、このコラムでも定期的に書いているのだが、雑感だけでは、本にはならない。第一、田舎暮らしや自然とのつきあいといった話は、本や雑誌やテレビ番組にもありふれている。


・ヒントはいくつかある。その一つは昔から好きで読んでいたH.D.ソローとW.モリスを読み直して、そこから、考え始めることだ。ソローについてはこのコラムの最初の方で取りあげたから、ここではモリスについてちょっと書いてみることにしよう。
・モリスの『ユートピアだより』(晶文社)は19世紀の末に書かれている。ロンドンとテムズ川を舞台にした22世紀の話である。モリスは、産業革命による自然の破壊や階級制度の確立による貧富の差の拡大を批判し、改革を唱えた人だが、この物語は、いわば、彼がその時描きだした理想の世界だと言える。


・モリスが描くユートピアには政府も裁判所もない。ほしいものはただで手にはいるからお金もない。だから、人びとの諍いもないし、生きるために働く必要もない。あるいは、鉄道などの交通手段も新聞も廃止されているし、大量生産の機械もない。19世紀末の世界から迷い込んだ主人公は、そのあまりの違いに驚いてしまう。人が欲を出さず、競争をせず、自分なりの楽しみと生き甲斐を見つけ出せば、文明の利器は何も必要がないというわけである。
・22世紀になっても、そんな世界はやってこないと言えるかもしれない。少なくとも21世紀になった現在の世界は、テクノロジーとメディアなしにはすまないし、何よりお金がものを言う仕組みができあがっている。政府も裁判所も必要不可欠のものであるし、國や民族の間での対立も激しい。そういう意味で言えば、モリスのユートピアは、全くの絵空事のように思える。


・けれども、現在の日本はまた、飢えや貧困に苦しみ、生きることに精一杯という社会でもない。年金制度は心許ないが、定年後の生活は悠々自適が可能ということになっているし、ニートの問題に見られるように、働く意味を見つけにくい若い人たちも増えている。自分なりの生き甲斐を見つけることが今ほど難しい時代もないだろう。そういう意味で言えば、趣味をもつ、手作りを基本にする、あるいはエコツーリズムやボランティア活動に積極的になるといった生活スタイルは、モリスが描いた世界とかなりの点で重なってくる。


・そんなことを考えていたら、「ビオトープ」ということばを見つけた。水越伸の『メディア・ビオトープ』(紀伊國屋書店)である。「ビオトープ」とは「生物の棲息に適した小さな場所」という意味で、生物学や環境論のなかで使われている用語のようだ。水越伸はそれをメディアの現状に援用して、マスメディアが支配する社会のなかに、小さなメディアやそれを使った人びとの関係の必要性と可能性を見ようとしている。考え方としてはミニコミの時代からあるものでそれほど目新しくはないのだが、「ビオトープ」の発想には惹かれるものがある。


・杉ばかりで植林された山や、雑草がまるでない庭園だけでなく、多様な木が茂る山を作ったり、雑草や昆虫が生きられる場と環境をいかに残し、また新たに作り出していくか。それは環境問題そのものが直面する難題だが、同時にメディアの現状にも当てはまるし、日常の生活のすべて、人間関係や人と他の生き物とのかかわり方にも共通する。


・『ユートピアだより』はテムズ川をロンドンからコッツウォルドまで手漕ぎボートでさかのぼりながら、22世紀の世界を描きだしていく。その19世紀末に特徴的だった偉容さや華麗さが醜さや荒廃と対照をなすという風景は、22世紀には、限りなく自然に近い状態にもどされている。果たして21世紀初頭のイギリスはどうなのだろうか。夏休みに出かけてみようと思っている。

日時:2005年7月12日

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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。