・車用に取り外し可能なナビを買った。ふだんは走り慣れた道だから無用だが、たまに必要に感じることがあった。道路地図を持ち歩いていたのだが、老眼で見にくくなったし、地図では細部はわからない。ただし、車に備え付けるものは面倒だし、値段が高すぎる。音楽はipodで聴けるし、テレビやDVDを車でみることはない。そんな気があって以前から「Gorilla」に注目していたのだが、地図の更新をSDカードでするナビ専用のモデルを見つけて買うことにした。
・4.5インチでちょっと小さめだが、とくに見にくいという感じはない。電話番号や番地で目的地を詳細に検索することはできないが、その周辺までは確実に行けるから、後は地図を見ながらじぶんで微調整すれば問題ない。何よりいいのは、いつでも地図帳として使えることだ。
・ただし、車のなかはにぎやかになって出発までに時間がかかるようになった。まず、ipodを接続して、次にナビ、そしてETCカード。さらにはオービス探知のレーダーである。これだけにぎやかだと駐車していても目立つから、とめているときは当然、全部を取り外してダッシュボードにしまったり、持ち歩くということになる。ナビやipodほしさに窓ガラスをたたき割るなんて話がよくあるからだ。
・ナビもオービス探知レーダーもGPSを利用している。だから、いま車がどこにいるかが感知されるわけだが、その精度はナビをつかって改めて驚くほど正確だった。これを記録すれば、ぼくの車での行動はすべてあきらかになる。と考えると気分のいいものではないが、足取りはETCでも記録されていて、高速道路での走行は、料金や所要時間などがネットで確認できるようになっている。まさに管理社会で、それを強制されるのではなく自らすすんで求めているということになる。
・去年の夏休みにGoogle
Earthを使い始めて、パソコン上でも地図で遊ぶ機会が増えた。ぼくの住んでいるところは田舎だから、家までは確認できないが、都市部だと自分の家の屋根までわかってしまうし、駐車場に止めてある車まで確認できる。海外旅行をして出かけた都市の泊まったホテルや歩いた通りなどが立体でわかったりするし、著名な建物だと実物そっくりにできていたりするから、ついつい時間を忘れてヴァーチャルな散歩をしてしまうことになる。
・各国のスパイ衛星が地球上のあらゆる地点を監視していて、その精度はたばこ大のものまで見分けるほどだという話を聞いて驚き、ぞっとしたのは何年前だっただろうか。今は、それに近いものがネット上でだれにでも使えるようになった。ナスカの地上絵を確認したとか、アフリカのサバンナでゾウを見つけたといった楽しみ方がある一方で、悪用される危険性もまた大きいのではないかと心配してしまったりする。
・便利になること自体は悪くはないけれども、その分、かならず、プライバシーをあからさまにしたり、それが別の形で利用されたり、じぶんではよくわからないブラックボックスが増えていったりする。それを自覚せずに便利さに流れると、いざ問題が起きたときに、どうすることもできない状況においこまれたりする。ナビやETCやGoogle
Earthをつかっていると、その便利さやおもしろさと同時に、それと同じだけか、それ以上の不安も感じてしまう。
・ぼくは電車にはめったに乗らないのでSuicaなどのカードは必要ない。最近、どの電車やバスでも共通して使えるPasmoができて、切符を買う面倒がなくなったようだ。銀行のキャッシュカードやクレジットカードもふくめて、カードを使った履歴はすべて記録されていて、常にその情報が流出したり悪用される危険性をもっている。携帯もそうだから、じぶんのする行動のほとんどはデーター化されて残されていることになる。icチップはこれからもいろいろに使われそうで、図書館の貸し出しカード、スーパーのポイントカードから、本などの商品にまでつけられる可能性があるようだ。
・そんなふうに見回すと、もうすでに、とんでもない管理社会が実現していることに気づかされる。街路や建物には無数の監視カメラがあり、家の中には大画面の液晶テレビ。オーウェルの「1984年」そのものだが、それは強制されたのではなく、自発的に、望んで招き入れたものである。便利さや安心や確実さを求めてできあがるシステムには、かならず、それに相応した不便さや不安や不確かさがつきまとう。その負の側面がほとんど自覚されていない。「自由は奴隷、奴隷は自由」の社会。ナビをつかっていて、ふとそんなことを考えてしまった。
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。