2008年9月7日日曜日

再録「キャンパスブログ」(朝日新聞多摩版)1〜3

 

その1・河口湖から

・ 東京経済大学は国分寺市にある。キャンパスには緑が多く、多摩川の河岸段丘の傾斜地に建つ研究室の窓からは、雑木林ごしに府中の街並みが見える。天気がよければ多摩丘陵から丹沢山地、それに富士山まで見渡すことができる、極めて眺めのいい部屋である。

・ぼくはこの大学のコミュニケーション学部に所属して、「現代文化論」や「音楽文化論」を教えている。コミュニケーションと名のつく学部は日本で初めてのもので、IT技術の普及や文化研究の高まりを見越して、1995年に開設された。また、学部が卒業生を送り出した99年には大学院が新設され、ぼくはそのスタッフとして赴任した。コミュニケーション研究科もすでに9年がすぎて、何人もの博士を生みだしている。

・ 東経大に来るまでは、ぼくは京都に住んで、大阪の大学に勤めていた。で今は、河口湖に住んで、車で通勤している。長年の夢だった田舎暮らしを実現させたのだが、高速道路のおかげで片道1時間半ほどの行程ですんでいる。ただし、高低差が800メートルで、気温が時に10度も違うから、疲れがたまると体が悲鳴をあげることもある。だから、東京で道草などせず、用が済んだらすぐ帰還を心がけている。とは言え、ぼくは子どもから青年の時代にかけて府中で過ごして、両親が今でも健在だから、大学周辺にはなじみの場所も友人も少なくない。

・ JR中央線国分寺駅の南口から大学に向かって坂を下ると「ほんやら洞」という喫茶店がある。店主の中山ラビさんは、シンガー・ソングライターのさきがけだった人で、今でも熱心なファンがいて、時折、ライブ活動などもしている。ぼくは彼女と高校が一緒で、また京都でも、長い友達づきあいをしてきた。だからたまには店によって珈琲(コーヒー)を一杯といきたいのだが、それがなかなかままならない。昼休みではちょっと慌ただしいし、仕事帰りだと車を駐車場にとめなければならない。当然、珍しく顔をあわせると、「ご無沙汰(ぶさた)ね」と言われてしまうことになる。

・ この喫茶店、通学路にあるのに東経大の学生はめったに入らない。理由はと聞くと、こだわりやいわくがありそうで敷居が高いのと、学部の先生たちが入り口近くのカウンターにたむろしているからだという。だったらと、ゼミコンパをやって、雰囲気を味わってもらったりもした。60年代末の、ぼくやラビさんが学生だった頃の「風に吹かれて」、彼や彼女たちは、いったい何を感じるのだろうか。(2008年03月17日掲載)

 

その2・学生と個性

・ コミュニケーション学部は通称「コミ部」という。学生だけでなく、教授会でも通用しているが、ぼくはあまり好きではない。一度ゼミの学生から「なぜ?」と質問されたことがある。「『混(こ)み部』のようだし『ゴミ部』とも聞こえるから」と答えると、「でも、みんなふつうに言ってますよ」と返ってきた。そう、最近の学生たちは「みんな」「ふつう」が好きなのだ。みんなと一緒だと、何となく安心して落ち着ける。だから空気を読むことが大事なんだとつくづく感じさせられてしまう。

・ 学部のゼミは決して「混み部」ではない。10人前後が平均で、多い時でも15名ほどだから、少人数でじっくり勉強できる環境にある。ところが、みんながふつうを心がけるから、考えや感覚が違っても、それを巡って活発な議論が展開されたりはしない。一方では、彼や彼女たちは外見的な個性にはひどく気をつかう。髪の毛から履いている靴まで、そのこだわりは一目でわかる。そんな個性的であることへの関心が、なぜか、内面では抑えられてしまう。
・ 一番の理由は、対話や議論は訓練が必要なコミュニケーションの技術なのに、小学校から高校まで、ほとんど何もしてこなかったことにある。だから、じぶんらしい発言をしたいけど、意見の違いが人間関係を壊してしまうのではと感じてしまうのである。もう一つは、やっぱり「みんなふつう」からはずれることへの恐怖感。ゼミ生からこの垣根を取り去るのは簡単なことではない。

・ぼくは、「個性的な文章を書こうよ」で説得を始めることにしている。独りよがりじゃなく、人におもしろいとか、なるほどと評価される文章は、学生の多くも書きたいと思っている。そして学生たちは、この点でも、大学に来るまで十分な訓練を受けていない。ぼくがゼミ生に何度も出すのは、文章でスケッチするという課題だ。絵を描く人には常識だし、楽器を弾くためにだって、基本練習は欠かせない。じぶんの目でよく観察し、耳で、あるいは皮膚でよく感じとる。そしてじぶんの頭で考え、わからないことがあれば調べる。そうすれば、おのずとじぶんらしい個性的な文章が書けるようになる。

・「みんなふつう」のつまらなさは、学生たちも十分に自覚している。とは言えやっぱり、ふだんの人間関係では、個性的であることを抑えなければならない場合がかなりある。 「先生の個性は、社会に出たら通用しませんよ」。学生からのなかなか鋭い指摘である。(2008年03月24日掲載)

 

その3・消費する文化

・ 東京経済大学はその名の通り、経済学部だけの単科大学から始まった。開学は1949年だが、もともとは、1900(明治33)年に「大倉商業学校」として開校されている。コミュニケーション学部は、短大や夜間部の廃止に伴って開設された。「メディア社会」「企業コミュニケーション」「ネットワークコミュニケーション」、そして「人間・文化」の四つの専攻があり、ぼくは「人間・文化」に所属している。

・現代文化の最大の特徴は、それが商品として消費されるものだという点にある。衣食住のすべてにわたって、一からじぶんで作るのではなく、お金で品物として購入する。そんな生活スタイルは、20世紀後半から始まったものだから、その年月を生きてきた人ならば誰でも、次々と変容する有り様を具体的に記憶しているはずである。当然、ぼくにも、そのような記憶があって、何でも買って済ますことに違和感をもつことが少なくない。ところが学生たちは、消費という生活スタイルに、全く抵抗感がない。だから講義は、現在の文化の形態が、わずか半世紀ほどの間にもたらされた新しいものであることから始めることになる。

・「消費」という生活スタイルは簡便さや即時性を追求する。コンビニやファストフードはその象徴だが、どちらも学生たちにとっては不可欠の場に感じられている。欲しいモノがいつでも、どこでも手にはいる。このような感覚は、もちろん、話したい時にはいつでも、どこでも、誰とでもとなるし、聴きたい音楽や、見たいテレビも、いつでも、どこでも、何でもということになる。それは一面では、豊かさを実感させる根拠になる。けれども、その弊害もまた少なくないはずである。買わずにじぶんで作ってみる。やってみる。そんな発想が失われたところでは、結局、消費は浪費に行き着くしかなくなってしまう。そんな傾向を憂慮して「待てない子ども」「学ばない生徒」「働かない若者」といった問題を指摘する人もいる。確かに、そうかもしれないと思う。

・ けれども、ぼくが学生たちに対してもっとも憂慮するのは、時間と空間を超えてやってくる豊富なモノや情報が、逆に歴史や地理に対する感覚を失わせているという点だ。今、聴いている音楽は、いつ誰によって、どんな影響を受け、どんな思いをこめて作られ、歌われたのか。それをじぶんで調べて知ったなら、次々と聴き捨てることなどできなくなる。講義でくりかえし力説していることである。(2008年03月31日掲載)

 

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