・風月堂は60年代の終わりに「フーテン」のたまり場として有名になった。アメリカから起こった対抗文化運動や、その中心になった「ヒッピー」に影響された人たちが、新宿の東口広場にたむろし、マスコミの格好の取材対象になったが、新宿に現れた理由が、「風月堂」だったからだ。
・「風月堂」は昭和21年にクラシック音楽を聴かせる喫茶店として開店した。オーナーが集めていたレコードや絵画を利用したこの店は、戦後間もない新宿には場違いな「文化的な空間」になり、やがて、若くて無名の画家、作家、音楽家、詩人、役者、そして映画青年などが集まり、知らない者同士がさまざまな話題を議論する場になった。
・番組では三国廉太郎と山崎朋子の会話を中心に進み、状況劇場の唐十郎や、作曲家の三枝成彰、そして舞踏家の麿赤児といった人たちの思い出話がはさまれ、当時の店内の様子をうかがわせる写真や、時代状況を移したフィルムが紹介された。山崎朋子はそこでウェイトレスとして働き、唐十郎は一杯の珈琲を何時間もかけて飲みながら芝居の台本を書いた。
・新宿は戦後に登場した新しい文化や芸術と関連の深い街だ。この番組を見ると、それが「風月堂」という「場」に関わるものであったことがよくわかる。ただしこの店は、あくまで、知る人ぞ知る場所にすぎなかった。ここに「フーテン」が集まったのは、「風月堂」が日本にやってきたアメリカ人のヒッピーたちが訪れたからだが、それもまた、50年代の「ビート」に影響された日本人の詩人や小説家の集まる場所だったことに原因がある。
・ところが、「フーテン」が集まるようになり、マスコミが取り上げるようになると、常連客たちは敬遠するようになり、店の雰囲気は一変してしまう。同様に、ここにはベトナム戦争に反対する「ベ平連」の人たちもいたのだが、やがて、学生運動の活動家たちに占領されてしまうことになる。で、
1973年(昭和48年)に閉店された。
・僕は「風月堂」には一度も行っていない。「フーテン」で有名になった後だったから、店の前を通って、なかを覗いたことはあるが、入りたい気にはならなかった。この店を懐かしく思うのは、僕より一世代や二世代も上の人たちだが、早川義夫の歌を聴くと、同世代にも早熟な人がいたのだと思う。番組では彼の歌が最後に流れてきた。
どこからともなく、やってくる
みんなひとりでやってくる詩人とか、絵描きとか
でもだれも名を知らないみんな自分の夢に生きていた
新宿風月堂
・ただし、ぼくも早川義夫が歌うような場の雰囲気を、京都の「ほんやら洞」で経験している。どこのだれかわからないのに、誰かがはじめた話しの輪の中に入って、時にそれが白熱した議論になる。あるいは、そこから新しいイベントが始まったりしたこともあった。そもそも、ロンドンやパリで人びとが集まる場としてにぎわった「カフェ」は、そういう場所だったはずだ。ところが、「喫茶店」が「カフェ」と呼ばれるようになって気づくのは、知らない者たちは無関係なままで、仲間同士だけで互いに孤立する世界だろう。その最たるものがネットカフェやカラオケボックスなのは言うまでもない。だからやっぱり、早川同様、つぶやきたくなる。「あんなところ、いまはない。あんな空気いまはない」と。
0 件のコメント:
コメントを投稿
unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。