2011年4月4日月曜日

災害と情報

 

・大きな災害が起こるたびに、マスメディアのニュースの伝え方から個人の情報のやりとりにいたるまで、改めて、さまざまなことに気づかされる。とりわけネットやケータイの進歩と普及はめざましいから、家族や友人、あるいは仕事仲間などとの連絡には、日常ならば多様なメディアが自由に使えるのだが、3月11日の大震災の時には、役に立つものと立たないものの違いがはっきりした。

・たとえば僕は、勤務先で会議をしていて大揺れを経験し、すぐにパートナーにスマートフォンで電話を試みたが、すでに音信不通の状態だった。そこで、メールを出したのが、送ることはできたが返事があるまでには、かなりの時間がかかった。他にも数人とやりとりをして、早く連絡の取れた人もいれば、何時間もかかって返答があった人もいたから、近くの中継基地の混み具合などが影響したのだと思う。

・我が家では出かけるときには家庭電話をケータイに転送するサービスを使っている。だら、富士山の近くを震源にした地震があったときには、夜中にもかかわらず、何人もの人から電話やメールがあったのだが、その時僕は、日本の南西の外れにある西表島にいた。心配して電話やメールをした人は、安心と同時に拍子抜けしたことだろう。通信手段のモバイル化が地理的感覚を無効にしてしまうことを、このときほど実感したことはこれまでになかった。

・大災害が起こると、テレビ局は競って、その生々しい現場の中継に血眼になる。阪神大震災の時に強く批判されたことだったが、3月11日の東日本大震災でも、同じことが繰りかえされた。大津波が襲って、家や車や人を飲み込んでいく様子は余りに恐ろしくて、何度か見ると、もう拒絶感の方が強くなってしまうほどだったが、数日は、いつどのチャンネルをつけても、すぐにそのシーンが映しだされていた。これは映画ではなく現実だと思うと、とても見ていられない気がして、すぐに別のチャンネルに変えたり、消したりもした。

・テレビはどこも、数日間は一日中震災関連の番組で、それはBS放送でも放送された。BSには各局とも3つのチャンネルがある。普段はその一つしか使っていないのだが、地上波を流すチャンネルをいつでも流すようにすれば、地デジなどはいらないのに、と今まで繰りかえし言ってきたことを、またつぶやきたくなった。いつも聞いているインターFMが緊急時の特別の処置として、全国どこでもネットで聞けるようになった。普段は、電波が届く関東エリアに限ってネットでも聞けるのだが、山梨県の我が家では、電波が奇跡的なほどに鮮明にキャッチできるのに、ネットではダメということになっていて、このことについても、日本の電波行政のおかしさに腹が立っていたのだった。

・他方で、マスメディア経由でなくとも、海外のメディアが大震災や原発事故をどのように伝えているかを直接確認することも容易になった。我が家はたまたまISDNから光に変わったところだったから、アメリカやイギリスの放送局や新聞社のサイトにでかけて、動画や音声を途切れる心配をすることなく見聞きすることができた。このことについては、チュニジアに始まるアラブ諸国の革命でも、テレビや新聞以上に、多様で早い情報に接することができた。

・大震災の数日後から8日間ほど沖縄と先島諸島を旅して回った。東京からは2000km以上離れ、台湾とは200kmほどの近さだから、レンタカーのラジオをつけると、中国語の放送の方が圧倒的に多かった。その中から日本語の放送を探すと、どの番組でも被災した知人や友人のこと、ボランティアやカンパのことなどが話題になり、被災した人たちへの同情や励ましのことばが繰りかえされた。もっともその間にかかる歌が裕次郎や小林旭であったりしたから、物理的な距離感よりは時間的な距離を感じたりもした。

・自分がいつどこにいて、何と繋がり、何にアクセスしているか。ここ一月ほどは、そんな感覚に狂いが生じて、平衡感が失われたように自覚することが多い。スーパーに行くと、東京ほどではないにしても、米や水や電池や納豆(?)が棚から消えている光景を目の当たりにする。買い占めではなくちょっと買いだめをという気持ちが作りだした結果で感染源はマスメディアの情報だが、それに感染しないよう免疫を作るのもまた、メディアから得る情報なのだとつくづく感じている。

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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。