2020年12月7日月曜日

加藤典洋『オレの東大物語』(集英社) 『大きな字で書くこと』(岩波書店)

 tenyo.jpg加藤典洋が亡くなった時に、僕はショックを受けて、このホームページで追悼文「加藤典洋の死」を書いた。『オレの東大物語』は、彼の死後一年以上たって出された遺作だが、死の直前に闘病生活をしている最中に、わずか二週間で書いたとされている。直接の死因は肺炎ということだったが、本書には急性骨髄性白血病だったとあった。ここ数年、周囲でも白血病に罹った人が二人いたから、その闘病生活の苦しさは想像することができた。まさに命を削っての、最後の著作だったのである。
だから、生死の境目で苦しみながら、なぜ、大学生時代のことを思い出して書こうと思ったのか。そんな疑問を感じながら読みはじめた。しかし、東大闘争に深く関わっていて、事細かに振り返っているから、読んでいて、夢中になれなかった。彼は安田講堂での攻防が鎮圧された後も、運動に関わるような、関わらないような、曖昧な生活を続けた。振り返ってみて改めてそのことを思い出すのだが、そんな態度が、彼がずっと批判し続けてきた、戦後の日本の姿勢に瓜二つであったことに気づくのである。

彼は山形から東大に現役で合格し、教養課程の駒場では、早くも文学評論の活動を始めている。そして、学内で起きたさまざまな問題に関わり、新宿や羽田で行われた大規模なデモにも参加している。父親が警察に勤務していたことから、機動隊に捕まることは極力避けなければならないことだった。他方で、新宿駅周辺にたむろしたフーテンたちにも興味を持って、頻繁に出かけることもあったようだ。ところが専門課程の本郷に移ると、その居心地の悪さを感じ、また激化する大学紛争に翻弄されるようになる。本当なら、ここで大学をやめてもよかったのだが、彼はズルズルと続け、大学を批判しながら大学院の入試を受け、二年続けて落とされることになる。

で、諦めて国立国会図書館に就職するのだが、仕事には全然興味が持てないままに、ここでも辞めずに続けることになる。そこで六年努めた後、カナダのモントリオール大学東アジア研究所での日本関係図書室拡充の仕事に派遣された。そこで鶴見俊輔と出会い、多田道太郎を紹介され、多田が開設に関与していた明治学院大学国際学部に勤務することになる。彼の処女作である『『アメリカ』の影』が出たのは1985年で、国会図書館を辞めて明治学院大学に勤めるのは翌年の1986年である。以後、文芸批評家として、戦後の日本の政治状況を批判的に語る人として、数多くの著作を残すことになった。

tenyo3.jpg『オレの東大物語』の「オレ」に、僕は違和感を持って読んだ。なぜ、「僕」や「私」ではなく、「オレ」だったのか。死後に出された『大きな字で書くこと』(2019)では主語は「私」になっている。こちらは、『図書』に死の直前まで2年半にわたって連載したものと、信濃毎日新聞に1年連載されたものをまとめたものである。幼い頃のこと、父のこと、そして大学時代のことなど、極めて個人的な話題が多いが、「私」である分だけ、冷静で、また距離も置いて書かれている。『オレの東大時代』と同じ内容で、ほとんど同じ文章のものもあるが、読んでいてずいぶん違う印象を持った。

「私」「僕」そして「オレ」。もちろん、ここには複数形の「私たち」「僕たち」「オレたち」と言い方もある。これらの使い分けには、もちろん、さまざまな理由がある。僕は一貫して「僕」を使い続けていて、論文に「僕」はおかしいなどとよく批判された。論文はエッセーではないから、「私事」や「個人的な視点や関心」を論文に入れてはいけないなどとも言われたが、いったいどこにそんな規則があって、それは誰が決めたものなのか。そんな反撥心を持って書き続けてきた。しかしさすがに「オレ」は使わなかった。日常的にも使わなかったからだが、加藤典洋はなぜ、大学時代を振り返って「オレ」にしたのだろうか。あるいは彼は、普段は「オレ」と言っていたのだろうか。2冊を読んで改めて、そんな疑問を持った。

『言語表現法講義』(岩波書店)
『可能性としての戦後以後』(岩波書店)、『日本の無思想』(平凡社新書)
『3.11 死に神に突き飛ばされる』岩波書店
『戦後入門』ちくま新書
『村上春樹はむずかしい』岩波新書

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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。