2021年3月22日月曜日

言葉遣いがおかしいですね

 巣ごもり状態でめったに人と話をしませんから、これはあくまでテレビを見てのことです。言葉遣いがおかしいですね。もちろん最近ではなく、ずいぶん前からですが、いっそうおかしくなっているようです。丁寧に話すのがいいし、尊敬語や謙譲語をできるだけ多く使わなければいけません。そんな態度が当たり前になってきたかのようです。たとえば、誰かのおかげでもないのに「~させていただきました」などと言います。ただ「~します」とか「~しました」と言えばいいのになぜ、へりくだる必要を感じてしまうのでしょうか、と首をかしげてしまうことが多いです。

もっとも政治家が使うと、何ともいやらしく感じてしまいます。「国民の皆さまに、~していただきたいと思います」などと言われると、傲慢なくせに何を言うかと言いたくなりますし、これこそ慇懃無礼そのものだと思ってしまいます。そう、むやみにへりくだるのは、かえって相手をバカにすることにもなるのです。辞書には「言葉や態度などが丁寧すぎて、かえって無礼であるさま。あまりに丁寧すぎると、かえって嫌味で誠意が感じられなくなるさま。また、表面の態度はきわめて礼儀正しく丁寧だが、実は尊大で相手を見下げているさま。」とあります。

「上級国民」なんていうことばがよく使われるようになって、特別な待遇や扱いをされる人が目立つようになりましたし、富める者と貧しい者の差も大きくなりました。実態がそうですから、せめてことばや態度だけは上から目線を避けて、上下関係があからさまにならないようにしよう。あるいは反対や批判があろうと、自分の思うことを実行したいから、ここは頭を下げて、お願いするふりをしよう。テレビではそんな言葉遣いが毎日頻発しています。

一般人がインタビューなどで丁寧な言葉遣いをするのは、それがテレビという改まった機会だからなのかもしれません。あるいは、レポーターの丁寧な言葉遣いにあわせているだけなのでしょうか。しかし、上から目線にならないようにとか、横柄な態度に思われないようにといった気持ちが感じられることも少なくないようです。なぜこんなに言葉遣いに慎重になっているのでしょうか。

そう言えば、断定的に言うべきところで「かな」をつけることも目立っています。「かな」は自らの判断を保留して相手に問いかける時に使うものですから、相手が知らないことを伝える時には使うべきではないのですが、発言の最後に「かな」とやるのです。自信のなさは相手に不信感や疑念を与える危険性がありますが、断定して上から目線と見られるよりはまし。そんな判断が働いているのでしょう。

もう一つ気になっているのは、やっぱり最後に、「~みたいな」とつけることです。「みたいな」と言った途端に、それは仮定や比喩の話になってしまいますが、本人は、あくまで事実として話しているように受け取れるのです。ここにもやはり、発言の強さを和らげたいという意識が働いているように思えます。

人間関係やコミュニケーションについて、これほど慎重に用心深くしなければと思う時代が、かつてあっただろうかと思います。ちょっとしたことでバッシングをされたり、あからさまな誹謗中傷をされかねない。そんな不安がつきまとっているのでしょう。波風立てずに穏便に過ごせば、そんな不安も解消されるのかもしれません。しかし、人間関係はますます表層的で希薄なものになってしまいます。コロナ禍が、そんな傾向を増加させているとしたら、放っておけない傾向のように思えます。

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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。