2022年5月16日月曜日

断捨離について思うこと


五木寛之が『捨てない生き方』(マガジンハウス)を出して、その「断捨離」考について毎日新聞に寄稿しています。それによれば、彼の「捨てない生き方」の根拠は「どれひとつとっても,それを手に入れた時の人生の風景,記憶が宿っている」からということにあるようです。それらに囲まれて暮らすことこそ豊潤な時間で、過去を思い出すことでこそ心が生き生きして明日への活力になるというのです。ここにはもちろん,使い捨ての風潮に対する批判や、敗戦時に平壌にいて、自らが棄民になったという体験が加わります。

僕はこの意見にわが意を得たりと思いました。「断捨離」はわが家でもやるべきこととしてパートナーから言われています。しかし、そうすべきだと思うがなかなか捨てられないでいる自分がいる一方で、いや、そうではないのではという気持ちもまた捨てられないでいたからです。過去の思い出がよみがえるようなものは捨てる必要はない。新聞を読みながら、思わずそう呟きたくなりました。だから捨てるのは、当分やめておこう。そんな気にさせる意見でした。

ところが先日、僕の従兄弟が亡くなって、その後始末に出かけることになりました。彼は独身で身寄りがなく、火葬に出席したのは僕ら夫婦と甥っ子、それに身の回りの世話していた友人だけでした。そのお骨をもって家に着くと、どの部屋もモノだらけで、段ボール箱がうずたかく積まれて、足の踏み場もないほどでした。彼は白血病を病んで、ここ数年入退院を繰り返していましたから、訪ねた時はもちろん、メールのやり取りでも、「「断捨離」をして片づけておいた方がいいと繰り返してきました。しかし、モノはますます増えるばかりで、ここ数ヶ月の間にも,新しく買ったものや,新たに集めた資料などがあったようです。

彼は映像やアニメの専門家でしたから、それに関連する書籍や漫画本、ビデオやDVDがうずたかく積まれています。おそらく、資料として貴重なものも少なくないはずです。しかし、それを大事だと思う人に寄贈するにも、どこに声をかけたらいいのかわかりません。探しても遺書はもちろん、それらしい連絡先もわからないのです。おそらくまだまだ生きられると思っていたのでしょう。病院での化学療法などについてのメールを読むと、いつ死んでもおかしくないことはよくわかりましたが、本人だけはそう思っていなかったのかもしれません。

さて後始末はどうするか。甥っ子や友人と途方に暮れる思いで、当座のことを話して別れました。死んだ本人にすれば、どれもこれも捨てられない思い出深いもの、貴重なものだったのかもしれません。しかしそれほど縁が深いわけでもない僕らから見れば,すべてはゴミ同然でしかないのです。ですから、ほとんどはゴミとして処理するようになるのだと思います。

僕は今回の経験で、死が近づいてきたと実感できる頃になったら、自分の意思で、思い切って捨てておくべきだろうとつくづく思いました。我が家には数千の蔵書やCDがあります。そのほとんどはもう読みもしないものですし、CDは全曲パソコンに入れてありますから、処分しても困らないものなのです。Amazonに店を開いて,この際売ってしまおうかとも思いますが、それもまた面倒な話です。とりあえずは書類や雑誌、小冊子の類いから捨てることにしようか。そう思いはじめていますが、ひとつひとつ手に取ると、過去がよみがえって、やっぱり残しておこうと思うかもしれません。

何もなければまだ当分生きることになるでしょうから、まあぼちぼち、少しずつ。そんな言い訳をしている自分に呆れるやら、納得するやら。

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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。