・山歩きをしていてよく思うのは、登り始めが杉や桧の人工林で暗いということだ。間伐もしないで鬱蒼としているところや、間伐しても置き去りになって腐りかけているところが多いのである。それがある程度の高さになると広葉樹になって、明るさも見通しも一変する。杉や桧はほとんど戦後に植えられたもので、木材にすることを当てにしたのだが、安価な輸入材のために放置されたままになっているのである。そんな森を歩くたびに、何とかならないものかと思ってきた。 ・『森にかよう道』で語られる「豊かな森」とは、そこに住む村人が茸や山菜などを取り、薪や炭にするために枝打ちや伐採をした、手を入れた森である。あるいは家や農地を守るために作られた防風林や防砂林といったものもある。それを「暮らしの経済」と呼べば、広葉樹をすべて伐採して杉や桧の人工林を作るのは、あくまで木を商品価値を持った材木としか考えない「市場経済」ということになる。それは「山仕事」から「林業」への転換であるが、そうなると、森を管理するのは村人ではなく、森を所有する国や自治体になり、働く人たちは製材業者やパルプ会社に雇われる人になった。 ・もちろん、ここには戦後の経済成長による人々の働き方や暮らし方の大転換という要因もある。それによって村は過疎化し老齢化して、森に人の手が入るということも少なくなった。日本の森林率は7割近くで先進国の中では1位を維持しているようである。イギリスでは1割以下でヨーロッパの3割、ロシアの4割に比べれば、かなり多いといえる。しかし日本の木材利用の7割以上が輸入に頼っていて、それが熱帯の森を減少させる大きな原因にもなっている。 ・森とともに生きてきた村人には、森を維持し、生活する上で必要なものを森から手にするための「作法」がある。それは代々受け継がれてきたもので、村人たちはいちいち深く考えたり、ことばにしたりしないが、著者には一つの思想として受け止められるようになる。若い頃から群馬県の上野村に住み着き、職場がある東京との間を行き来してきた著者ならではの結論だと思う。近代化によって消しさられようとしている「里の思想」を再認識し、どう未来に生かしていくか。それが切実な問題であることは、山歩きをすればすぐに気づくことである。 |
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。