・ゴールデン・ウィークの喧騒もすんで気候も良くなった。で、どこかに出かけようということになって、桜の季節に新聞で紹介されていた光城山(ひかるじょうやま)と隣の長峰山から北アルプスを眺める計画を立てた。一番楽で横着なのは二つの山を車で走ることだが、残念ながら途中工事個所があって、車で行くのは長峰山だけにして光城山にはがんばって登ることにした。 ・天気は前日まで雨が降っていたのに,長峰山からの眺望はご覧の通り,素晴らしいものだった。山の名前はよくわからないが、北アルプスの北半分はきれいに眺めることができた。しかも前日までの雨で山は雪景色になったようだった。 ・光城山は頂上まで60分。登山道には桜の木が植えられていて、花の時期にはさぞ見事だっただろうと感じられた。ただ、あちこちに咲く花もあって、しんどさも程々だった。頂上には山の名前が分かる透明のシールドがあったが、残念ながら、雲に隠れて分からなかった。 ・ちなみに、甲府盆地から見えた南アルプスもきれいだった。桃の木の背後に、右から北岳、間ノ岳、農鳥岳。もう一つ,富士山も冷たい雨で雪化粧したが、森林限界に沿った波形ではなく、一直線に白くなったのは珍しかった。おそらく雪と雨の境界線だったのだろう。 |
2023年5月29日月曜日
長峰山から北アルプスを望む
2023年5月22日月曜日
ルー・リードとビロード革命
・NHKのBSで「ロックが壊した冷戦の壁」という番組を見た。デビッド・ボウイ、ルー・リード、そしてニナ・ハーゲンを取り上げていたが、ルー・リードとチェコ・スロバキアの関係にふれた部分に興味を持った。共産党政権が倒れた後に大統領になったヴァーツラフ・ハヴェルとルー・リードの関係については、リードの伝記を読んで知っていたはずだが、そのほとんどは忘れてしまっていた。 ・ハヴェルが中心になって共産党政権に抵抗し,打倒した運動は「ビロード革命」と呼ばれているが、それはルー・リードのバンド名である「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」に由来する。ただし、ルー・リードが直接、その革命に関わったというのではない。ハヴェルがニューヨークで手に入れたレコードをチェコに持ち帰ったことで、それが大きな影響力を持ったということだった。共産党政権下ではロック音楽は厳しく弾圧された。リードの作る歌は決して政治的なメッセージを持つものではないが、何より「自由」であることをテーマにする。そのことがハヴェルの心に響き、チェコの若いミュージシャンたちに共鳴した。 ・ハヴェルが大統領に就任した直後の1990年4月に,ルー・リードはプラハを訪れている。この番組にはなかったが,彼の伝記によれば、最初は躊躇していたのに、「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」の曲を忠実に再現するバンドの演奏を聴いた後に,リード自らステージに上がって歌ったとある。番組では、ホワイトハウスに招待されたハヴェルがルー・リードの出席と演奏を求め,クリントン大統領の前で歌った様子が映されていた。ホワイトハウスはおよそ,ルー・リードには似合わないが、ハヴェルにとってはどうしても一緒にいてほしい人だったようである。 ・「私が大統領になったのはルー・リードがいたからだ」。このようなことばを公言する人がチェコスロバキアの大統領になった。ハヴェルは政治家ではなく劇作家だったから、共産党政権下からの変容がどれほどのものだったかと、今さらながらに思った。そのハヴェルはチェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離した後も、チェコの大統領を2003年まで務めている。2011年に亡くなっているが,ルー・リードもまた2013年に亡くなった。ベルリンの壁前でコンサートをしたデビッド・ボウイ、東ドイツで弾圧に屈せず,抗議の歌を歌ったニナ・ハーゲンとは対照的なハヴェルとリードの関係に、僕は音楽の持つ力を強く感じた。 |
2023年5月15日月曜日
最近見た映画
・このコラムは「メディア」がテーマだが、最近は映画を取り上げることが多い。と言って取り上げるべき映画が多いというわけではない。新聞にしてもテレビにしても、面白いものが少ないし、もう批判する気にもならないほど堕落したと思うからだ。そこにいくと映画には、権力に対して正面から立ち向かって、その悪を告発するといった作品が少なくない。今回はそんな作品を取り上げてみた。ただしどれもAmazonビデオであって、映画館で見たわけではない。 ・『モーリタニアン・黒塗りの記録』は、ニューヨークで起きた同時多発テロに関わった疑いをかけられ、モーリタニアの自宅で警察に連行されて、キューバのグアンタナモ収容所に捕らえられたモハメドゥ・ウルド・スラヒの手記をもとにしている。厳しい訊問や拷問が繰り返されるが、主人公は決して関与を認めない。しかも起訴されたわけではないから裁判もなく14年も収監され続けたのである。 ・その不当さに気づいた弁護士のナンシー・ホランダーがさまざまな妨害にも屈せずに、無実であることと、不当な扱いを受けていることを告発する。開示された記録文書は黒塗りだが、スラヒ自身に収監中に受けた拷問や虐待を手記させて、裁判にまで持ち込むのである。裁判は2009年に始まり、2010年には勝訴するのだが、控訴されて2016年まで収用され続ける。で、アメリカ政府からの謝罪は結局行われなかった。 ・これはもちろん実際にあったことで、映画の最後は本人がディランの "The Man in Me" を「これは俺のことだ」と言って歌うシーンで締めくくられている。グアンタナモ収容所はオバマ大統領が閉鎖を決め、収容者の多くが釈放されたが、トランプが中断したためにまだ閉鎖されていない。 ・『スポットライト・世紀のスクープ』はボストンの新聞社で働く記者たちがチームを作って、カトリック教会内で行われた少年に対する性的暴行を取材し、記事として公開する話である。もちろんこれも実話で「ボストン・グローブ」紙は2003年に公益報道部門でピューリッツァー賞を受賞している。 ・始めは一人の神父を追ったのだが、やがて類似したケースが次々と見つかり、マサチューセッツ州だけで90人程度の神父が浮かび上がってくる。被害を受けた人たちから、その真相を聞きだすシーンは極めてリアルだが、一方でカトリック教会の圧力があり、記事にする最後の段階で同時多発テロが起こり、いくつもの壁にぶち当たることになる。最後には記事は公開されて、世界的な反響を呼ぶことになった。 ・こういう映画を見て、しかもそれが事実に基づくものであることを知ると、いっそう、今のメディアのだらしなさや権力への追従に腹が立ってくる。もちろん、例外的な事例だからこそ映画になるんだとも言えるだろう。権力に押しつぶされ、闇に葬られてしまうことがほとんどなのかも知れないとも思う。しかし日本では、こんな話はついぞ聞いたことがない。何しろ、「ジャニーズ」の件のように、外国のメディアに取り上げられても、国内のメディアは沈黙したままなのである。 |
2023年5月8日月曜日
一角獣とユニコーン
・「ユニコーン」は角の生えた馬のような伝説上の生き物です。力強く勇敢で足が速いということから、一昨年以来、大谷翔平選手の活躍を讚える時の敬称として使われています。ヨーロッパに伝わる伝説上の生き物で,もちろん,実在したわけではありません。しかし、ギリシャの古典文学や旧約聖書、あるいはケルトの民話などに登場する,極めてポピュラーなものでもあるのです。確かに打って,投げて,走ると何役もこなして、しかもすべてが超一流という大谷選手にはふさわしい呼び名かも知れません。とはいえ、日本では馴染みのあるものではなかったので、「ユニコーン」だと言われても,あまりピンと来ませんでした。 ・その大谷選手は,WBCでの躍動以降、今年も投打にわたって絶好調です。4月の月間MVPは取れませんでしたが、それは投手と打者の二部門に別れているためで、両方で活躍しているのは彼だけですから、総合すれば毎月MVPをとってしまうのだろうと思います。まさに「ユニコーン」ですが、今年も彼のような二刀流の選手が現れてこないところを見ると、これは彼にしかできないことなのかもしれません。フリー・エージェントになってどこに行くのかといったことが連日騒がれていますが、ケガをしないで,このまま元気で活躍してほしいものです。 ・ところで「ユニコーン」は日本語では「一角獣」と訳されます。それに見合う伝説や物語はありませんが、先週紹介した村上春樹の『街とその不確かな壁』や『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』には壁に囲まれた「世界の終わり」という名の街に住む生き物として登場します。決して強くはなく,むしろ穏やかで弱く,冬には寒さと食べ物の不足で多くが死んでしまうのです。この街に住むためには、街の入り口で影を切り離さなければなりません。その影はやがて衰弱して死んでしまうのですが、「一角獣」がしているのは、その影が持っていた「心」を吸い取ることなのです。 ・この本を読みながら思ったのは,今の日本の社会そのものではないかということでした。「日本の終わり」という街では、徐々に衰えているのが事実なのに,人々はそのことに無関心です。もちろん,落日の経済大国で、生活が苦しくなっているのは明らかですが、そのことに目を向けないようにすることが、暗黙の了解事項であるかのようなのです。まるで「心」を「一角獣」に吸い取られてしまったかのように見えるのです。 ・他方で,この「日本の終わり」という街を支配する人たちは強欲で、壁の外に対する敵対心も強烈です。まさにやりたい放題ですが、それを批判する声は挙がりませんし、行動も起きません。こんな状況を見た時に思い当たるのは,「一角獣」とはメディアと教育システムではないかということでした。校則を厳しくして、自由な発言を制限する教育制度や、政権に忖度して、現実を見えないようにしているメディアこそが、人々の「心」を育てないように、失わせるように働いている。「ユニコーン」と「一角獣」が似て非なるものであることに、改めて気づかされた思いです。 |
2023年5月1日月曜日
村上春樹『街とその不確かな壁』 (新潮社)
・村上春樹の『街とその不確かな壁』
はおもしろかった。読者を引き込む物語作りはさすがだが、前作の『騎士団長殺し』や『1Q84』のような奇想天外な物語とは違って、いたって静かなものだった。この本には珍しく「あとがき」があって、すでに1980年に書かれた短編を書き直したものだとあった。書き直しとしては1985年に出した『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』があるのだが、さらに書き直した理由としては、また別の補完しあうような「もう一つの対応」があってもいいのではという気持ちがあったと書かれている。 ・確かに、物語は三部構成になっていて、第一部と第三部は壁に囲まれた「世界の終わり」が舞台になっている。もっとも,第一部の前半は主人公の少年と少女の出会いと手紙のやり取りやデートの話で、僕はそれを読んでいないからわからないが、これは最初の作品に書かれたもので、『世界の終わりと………』と併せて要約的にまとめたのだと思った。 ・新たに書かれた第二部は会津若松からさらに鉄道に乗って行く小さな街が舞台になっている。「世界の終わり」から戻った主人公はすでに30代になっていて、出版流通会社で働いていたのだが、それをやめて地方の図書館で働きたいと思うようになる。それで探し当てたのが福島の山奥にある小さな街だった。すでに死んでいるのだが幽霊のようにして現れる図書館の所有者だった老人や、学校に行かずに毎日図書館に来て本を読みあさる「少年」、そして街にあるコーヒーショップを営む女性との関係をもとに話は展開して、やがてまた「世界の終わり」に近づくようになる。 ・第三部ではまた「世界の終わり」が舞台になって、結末に至るのだが、『世界の終わりと………』との違いが気になってもう一度読みたくなった。「世界の終わり」と「ハードボイルド・ワンダーランド」の二つの世界が交互に展開する物語では、奇想天外に展開する「ハードボイルド」とは対照的に、「世界の終わり」は『街と………』の第一部とほぼ似かよったものだった。ただし、『世界の終わりと………』では、主人公が脱出した「影」と別れて街に留まったのに対して、『街と………』では、「街」に現れて留まる「少年」と別れて、現実の世界に戻るように暗示されている。 ・読み終わって改めて、この壁に囲まれた「世界の終わり」という街について考えた。この街に入るためには、入り口で「影」を切り離すことになっている。その「影」は「心」を担う部分で、その街で暮らす人には「心」がないということになっている。「心」をなくした「生」と「生」をなくした「心」。切り離された「影」はやがて死んで、そこに住む一角獣に吸い取られることになる。「心」がないから、街の人たちには愛憎の気持ちも欲望もない。争いごとのない平和な「ユートピア」でもあるし、街のシステムに抑圧された喜怒哀楽のない「逆ユートピア」のようでもある。 ・今の世界は欲望を動因にして営まれている。で、それが行きすぎているところに、さまざまな問題が噴き出している。それを解決するにはどうしたらいいか。あらゆる煩悩を乗り越えて静かに生きることが一つの道かも知れないが、それでは何のために生きているのかわからなくなってしまう。村上春樹が描きたかったのは、そんな人間の持つどうしようもない性(さが)についてだったのか、と思ったりした。 |
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