2023年7月24日月曜日

富士山はなぜ文化遺産なのか

 
上垣外憲一『富士山 聖と美の山』(中公新書)


今年は富士山が世界遺産に認められて10年になる。コロナ禍で、一時的に減ったとは言え、最近は海外からの旅行者が目立っている。日本に来たら富士山というのは定番で、次は京都といった旅程を組んでいる人も多いのだろうと思う。そう言えばコロナ前は中国人の団体客が目立っていたが、今は世界中からやってきているようだ。富士登山をする人、河口湖で自転車に乗って、あるいは歩いて楽しむ人など様々だ。

ところで富士山は世界文化遺産だが、最初は自然遺産として申請をした。ところが、世界の山に比べて特に秀でているわけではないことや、開発が進みすぎていること、あるいはゴミが目立ち、トイレの設備が少ないことなどを理由に却下されたのである。確かに火山の独立峰で富士山より高い山は世界にいくつもある。富士山が特別の山であるのは、日本人にとってだけなのである。

fujisanbook.jpg で、それならと文化遺産で再申請して、やっと認められたのである。そもそも世界遺産に申請することに批判的だった僕は、いったい富士山のどこが文化遺産なんだと思っていた。そんな疑問もあって、上垣外憲一の『富士山 聖と美の山』を買ったのだが、読まずに積んでおいて、10年経ったというニュースを聞いて改めて読む気になった。「はじめに」で出てくるのは以下のような文である。

 富士山は、日本列島という人口も比較的稠密(ちゅうみつ)な、文化的な伝統にも奥深いものを持っている国に位置している。当然、この偉大な山とその周辺に住む人々との間に様々な形での交流が生まれてくる。
読んでみると、確かにその交流が長い歴史を持っていることがよくわかる。富士山にかぎらず山に対する信仰は、奈良や平安の時代からあった。おそらくそれ以前の縄文の頃から、山の近くで暮らす人にとって、山は神様の住むところとしてあったのだろう。そのような基盤があって平安時代以降になると、歌に詠まれたり、絵に描かれたりし、また様々な伝説が生まれることになった。修験道も盛んになって白山などの山が開かれたが、富士山にも長い歴史があったようだ。

聖徳太子が甲斐の黒駒に乗って富士山を飛び越えている「聖徳太子絵伝」、雪舟が描いた「富士三保清見寺図」狩野探幽「富士山図」、そして江戸時代になると北斎や広重などが浮世絵に描くようになる。「更級日記」や「十六夜日記」「伊勢物語」でも語られ、「古今和歌集」や「新古今和歌集」にも詠まれた和歌が載っている。そこには盛んに噴火を繰り返した平安時代と、穏やかになった鎌倉時代の対照が描きだされている。参勤交代をした大名が見た富士山、朝鮮通信使にとっての富士山、そして富士講で盛んになった庶民たちが登った富士山。この本を読むと、時代によって語られ、詠まれ、描かれる富士山はさまざまだが、途切れることなく注目され、崇められてきたことがよくわかる。

明治になると富士山にはナショナリズムといった思想がかぶせられる。あるいは日本にやってきた欧米人が語るようになる。そして戦後にリゾート地となった富士山。確かに文化遺産と言えるかな、と認識を新たにした。とは言え、五重の塔や鳥居越しに見える富士山に人気が集まるのは、外国人が好むとは言え、陳腐すぎて、なんだかなーと思ってしまう。

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