2024年9月23日月曜日

母の死

 

haha1.jpg 母が死にました。享年96歳、大往生といえる最後でした。ぼくにとっては、宮本礼子・顕二『欧米に寝たきり老人はいない』の書評で書いたように、脳溢血で倒れて意識不明になって以後の対応について、考えさせられた数ヶ月でした。

母は5月の末に入院し、1ヶ月ほどでそれまでとは違う老人ホームに移りました。入院中に何度か面会して、ほとんど意識がなく、栄養補給で生き長らえている状態でしたから、僕は弟や妹と相談して、老人ホームに戻って点滴だけにしてもらうことにしました。しかし、それまでいた老人ホームでは、栄養はもちろん点滴もできないと言われ、同じ系列の終末看護のできるところに代えざるを得なかったのです。

新しい老人ホームに移った後の母は、顔色が良く、ずっと元気そうに見えました。時々薄目を開けて僕を見るようでもありましたし、何より手を握ると強く握り返してくるのでした。痰がつまるのか咳払いをすることもありました。しかし1ヶ月ほど経った7月末に肺炎になり、また病院に入院することになりました。それをきっかけに点滴だけにして、肺炎が癒えたお盆過ぎにまた老人ホームに戻りましたが、今度は点滴もやめることにしました。

僕はいよいよこれで最後だと思いました。早ければ1週間ほどだろうか。そんなふうに思いましたが、2週間経っても元気で、3週目にやっと血圧の低下が見られるようになったのでした。結局飲まず食わずで1ヶ月近く生きたのですが、その生命力には感心するばかりでした。母の身体には脳の損傷以外には、悪いところはほとんどなかったのです。

葬儀の場であった母は、死に化粧のせいか顔色も良く、ふくよかな顔をしていました。葬儀を司ったお坊さんに、最後の様子を話すと、食べ物や水を断って死を迎えるのは、高名の僧侶の最後と一緒ですねと言われました。無理に寝たきりで長生きさせないでよかった、とつくづく思いました。

母は文字通り強い女でした。庭に畑を作り野菜作りをしていましたし、仕事人間だった父にかわって、子ども三人をほぼ一人で育てました。週に何回も電車やバスに乗ってスーパーに買い物に出かけ、大きなレジ袋を両手に下げて帰ってくる様子を、今でもよく覚えています。歯医者に通う以外には病院の世話になったこともありませんでした。しかし、父が衰えて寝てばかりの生活になると、心身ともに疲れ、最初の脳溢血を発症したのでした。それをきっかけに二人そろって老人ホームで暮らすようになったのですが、7年後に父が亡くなるまでは、けっこう楽しそうに暮らしていました。

脳溢血で直近の記憶がなくなりやすくなった母は、父の死によって認知症を進ませることになりました。コロナ禍では面会に行くこともできなかったですから、去年久しぶりに会いに行った時には、寝てばかりで、呼びかけても何も応えてくれませんでした。僕のことも忘れてしまっていたのだと思います。そんな時間が長かったので、5月末からの4ヶ月近くは、ほぼ毎週会いに行ったこともあって、濃密な時間を過ごすことができました。

母のお骨は持ち帰って家にあります。納骨式までの2ヶ月近くを一緒に過ごすのですが、母の骨は骨壷に納まらないほど多く、下あごなども崩れることなくはっきり残っていました。最後には歩くのが頼りなくなって、転んで大腿骨を折りましたが、火葬の係りの人は96歳でこんなお骨の人は珍しいと言ってました。最後の最後まで、子どもたちにとっては元気で強い母のままでした。


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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。