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- 茨木インター近く、芥川に架かる橋→
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・ディランのブートレグ・シリーズの続編が出た。1966 年にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでおこなったコンサートのライブ盤である。ぼくはディランを1965年にはじめて聴いて、それ以来のファンだが、このコンサートがもつ意味の重さを知ったのは、それから10年近くたってからのことだった。その海賊版が出ているといううわさを聞いてレコード屋を探し回ってやっと見つけたときの感激を、今でもはっきり覚えている。真っ白いジャケットにGWW(Great White Wonder)のハンコ、それに小さなThe Royal Albert Hallと曲目が書かれたコピー。確か2枚組で4000円ほどした。学生の身分ではけっして安い買い物とは言えなかった。たぶんその頃、かなりきつい肉体労働をしても、バイトでもらえる金は一日わずか2000円ほどだった。けれども、それを買うことに、ぼくは何の迷いもなかった。
・コンサートの海賊版は会場での隠し取りが多い。だから、当然、音は悪い。けれども、殺気だったディランのパフォーマンスから、オフィシャルなレコードとはまたちがう印象を受けることが多かった。この66年のツアーのバックはホークス(ザ・バンド)。曲の合間にしゃべるディランはろれつが回らないようで、ドラッグをやっていることがよくわかる。それが歌いはじめるとものすごい迫力の声になる。そのあまりの落差に驚き、客とのピリピリしたやりとりにドキドキする。会場から"Judas!"とヤジが飛ぶと、拍手や笑い声がおこり、ディランが"I don't believe you!"とやりかえす。そして"You are lier!"と吐き捨てるようにつづけて、最後の"Like a Rolling Stone"を歌いはじめる。ぼくはもう恍惚として涙を流さんばかりになった。もう、ディランがすべてという時期は過ぎていたが、それでも、その時の興奮は尋常ではなかった。
・1965年にもディランは長期のヨーロッパ・ツアーに出ている。ソロで生ギターだけだが、その時のドキュメントが"Don't Look Back"という題名でビデオ化されている。これを手にいれたのは、海賊版からさらに10年ほどたった頃。ジョーン・バエズがいつも一緒で、楽屋にはドノバンやアニマルズのメンバーが訪れたりしている。会話のやりとりはいつでも誰とでもとげとげしいが、とりわけインタビューを試みる新聞や雑誌に対しては挑発的で、敵対的だ。それにマリファナの回し飲みなどもやっている。ロイヤル・アルバート・ホールのコンサートにはビートルズの面々も聴きに来ているが、彼らにドラッグを教えたのも、このときのディランのようだ。
・ボブ・ディランは生ギターとハーモニカで演奏するフォーク・シンガーとしてデビューした。そのアバンギャルドな詩や独特の歌い方が主に政治や社会に自覚的な大学生に支持されて、またたく間に人気者になった。けれども、その堅苦しさにうんざりして、ディランはエレキ・ギターを手にしてロックンロールをやりはじめる。その変質にある者はとまどい、またある者は非難の声を浴びせた。1966年のヨーロッパ・ツアーはまさに、そんな騒ぎの最中におこなわれたものである。だからコンサートはどこでも罵声と歓声がいりまじる緊張したものになった。まじめなインテリの聴き手にとってはまさに「裏切りユダ」だったのである。しかし、これこそがまた、フォーク・ソングとロックンロールの出会い、あるいはディランとビートルズの融合でもあった。20世紀後半のポピュラー音楽の歴史の上で、最も重要な出来事が、このツアーのなかにはあったのである。
・その、伝説のコンサートが32年たってやっと、公式に発売された。今あらためて聴いてみると、当然だが、音はきわめてクリアだ。二枚組の CDの一枚目は生ギターのフォーク・ソング、そして二枚目はロックとはっきりわけられている。前に買った海賊版とは曲目が少しちがうから、海賊版はいくつかのコンサートを寄せ集めたものかもしれない。クリントン・ヘイリンの『ボブ・ディラン大百科』(CBSソニー出版)によると、観客との険悪なやりとりはどこの会場でも見られたものらしい。そして、ディランが何を言ったかによって、どこのコンサートであるかがわかるそうだ。で、最後の曲の前にやっぱり「おまえはうそつきだ」ということばを発してディランが"Like a Rolling Stone"を歌いはじめた。
・ファンだったことを差し引いても、やっぱりすごい時代のすごい音楽、そしてもちろんすごいミュージシャンだったなとあらためて思う。歴史としてでもいいから、若い音楽好きの人にはぜひ関心をもってもらいたいアルバムである。
・今一番行ってみたいのはアイルランド。そんなふうに思わせる本を2冊読んだ。ぼくにとってのアイルランドへの関心のきっかけはもちろん、ヴァン・モリソンやU2だが、紛争の絶えないぶっそうなところだから、行きたいなどとはちょっと前まで考えもしなかった。映画の『父の名において』とかNHKのドキュメントで見る限り、のんびり旅行者が出かけるようなところではない気がしていた。
・イギリスのブレア首相とIRAとの間で平和協定が結ばれた。少しは安全になったのかなといった程度のものとして考えていたが2冊の本を読んで、ずいぶんちがった印象をもった。一つは栩木伸明『アイルランドのパブから』(NHKブックス)である。
・仲間とパブへくりだしたばあい、あるいはその場で知り合ったどうしが三、四人で飲んでいるとしよう。ぼくの目のまえのグラスが空に近くなると友人のひとりが「もう一杯やるかい」とたずねてくる。こうたずねるのがエチケットだからだ。ぼくが「イエス」と答えると、彼はほかの友人たちにも同じことをたずね、バーまで立っていき、みんなの飲み物を買ってくる。次は誰か別の人物の番だ。………結局はおごりっこを順番にしながら、誰も損も得もしないことになっているのだ。
・このようなパブでの儀礼を「ラウンド」と呼ぶらしい。この本の最初のところで、著者はパブで隣り合わせた老人に「アイルランドでは宗教改革も産業革命も経験しておりません。近代化はついこのあいだはじまったばかり。ダブリンは都市に見えるかもしれませんが、じっさいは巨大な村ですよ。」と言われるたと書いている。『アイルランドのパブから』は、そんな巨大な村にいくつもあるパブで出会った人びとや人間関係や音楽、そしてもちろんギネス・ビールについての本である。著者はそれを「声の文化」と呼んでいる。知らない者どうしがすぐに知り合いになって、ビールをおごりあい、いつの間にかはじまる音楽に耳を傾け、一緒に歌う。アイルランドはまさにフォーク音楽が生きている世界である。ぼくは酒に強くはないし、ことばだって不安だ。それに、人見知りが激しいから、パブで知らない人と一緒にうち解けることはできそうもない。けれども、何となくいいなーと感じてしまうのも確かだ。
・しかし、アイルランドは一方では辛酸をなめ続けた歴史をもった国でもある。ノルマン人やヴァイキングの侵入、イギリスによる支配、 19世紀の中頃に起こった飢饉とアメリカへの移民によって、人口が一挙に3割ほどに減ってしまうという時代も経験している。中等教育が義務教育として制度化されたのがやっと60年代になってから、そして経済的な発展が本格化するのは、初の女性大統領メアリ・ロビンソンが登場してからである。
・もう一冊の本『アイリッシュ・ミュージックの森』には最近のアイリッシュ・ミュージックについての記述が詳しい。ぼくはそのほとんどのミュージシャンや音楽を知らないが、次のような話には思わず、うなってしまった。
・ 1922年にアイルランドが独立したとき、政府は独立を支える文化的支柱を必要としたが、そこで使われたのはアメリカから輸入されたSP盤の伝統音楽だった。
・アメリカからのSP盤がほぼ全国的に伝統音楽のかたちを統一するほどの影響を及ぼしたのは、そこに録音されていた音楽が並外れて質の高かったものであったそのほかに、まずそれがすべて善きものの源泉アメリカからの到来そのものであったためであり、二つ目には教会の弾圧によって音楽の名手はみなアメリカに行ってしまったという残った人びとの劣等感が裏書きされたからだろう。
・さらに、アイリッシュ・ミュージックが一層盛り上がるのは、ロックンロールの流行と、その世界でのアイルランド出身のミュージシャンたちの活躍が引き金になる。このような経過を指摘しながら、著者はアイリッシュ・ミュージックを昔ながらの様式や素材に固執した伝統音楽ではなく、むしろ時代の流れに敏感に呼応するところから再生した音楽だと言う。「周縁ゆえに、辺境ゆえに伝統は『近代』の侵攻をこうむらず、その力を温存してきた。時を得て、伝統は『近代』のシステムを逆用し、新しい存在として生まれ変わる。」
・ぼくはこの本で紹介されているCDがたまらなくほしくなった。またTower Recordで散財してしまいそうだ。
・ひきつづき、メディアとスポーツ関連の本について、というわけでもないんだけれど、今週もまた似たような話題です。
・ラジオの実況中継がスポーツを大きく変えたことは、すでによく言われている。しかしこれまで、具体的な話も、理論的な展開についても、ラジオについてはそれほど豊富ではなかった。学生に聞いても、ラジオはほとんど聴かないと言う。聴いているのはお年寄りばかり。テレビその他の新しいメディアに押されて、ラジオはほとんど忘れられようとしている。そんな気がしないでもなかった。
・ラジオが話してと聞き手との間に直接的なコミュニケーションの世界を作りだすこと、それがしばしばきわめて親密に感じられることを指摘したのはM.マクルーハンである。彼はそのような世界の特徴を「部族的連帯」と呼んだ。このような特徴をうまく使ったのは、一方ではA.ヒトラーやF. ルーズベルトで、ラジオというメディアが情報操作に弱いことを示す好例としてよく紹介される。けれども他方では、ラジオはロックンロールやロック(FM)の登場には欠かせないメディアになったし、アメリカのプロスポーツ、特にメジャー・リーグを国民的なスポーツにするのにも大きな役割を果たした。日本では、何より大相撲、そして、オリンピック。
・ラジオが人びとに新しい世界を一つ提供したことはまちがいない。すぐ目の前でしゃべっているかのように感じられるアナウンサーの声が伝えてくる世界は、聴き手が想像力を働かせてはじめて再現できるものである。その現実とも空想ともつかぬ不思議な世界に対する驚き、それによってもたらされるきわめて強い興奮。これはテレビを知ってしまった者にはわからない感覚である。
・志村正順は昭和11年にNHKに入りスポーツ放送の主流がテレビになる東京オリンピックの頃まで、大相撲、東京六大学野球、あるいはプロ野球やオリンピックの中継で第一線の人気アナとして活躍した。スポーツ中継はあくまでジャーナリズムであるから、ニュースと同じように正確に、偏りなく、冷静に伝えなければならない。これがNHKの基本方針だが、ラジオによるスポーツ中継はけっしてそうではなかったようだ。誇張や脚色、あるいは全くの作り事が、時に聴いている者に、強い迫真力をもたらす。彼の語りの特徴はまずそんなところにあった。
・沢木耕太郎の『オリンピア』はベルリン・オリンピックの記録映画『民族の祭典』とその作者であるレニ・リーフェンシュタールとのやりとりから始まる。この映画の中には、実写ではない部分、わざとネガを反転させた箇所がずいぶんある。すでに90歳をすぎた作者の記憶は定かではないが、沢木はそれを、リアルに見せるための工夫だったと判断する。リアル、あるいは迫真力とは何か?たとえばベルリンで有名なのは例の「前畑がんばれ!前畑勝った!」の実況中継だが、ここにはいくつかのことばの連呼以外に何の描写もないにもかかわらず、聴いていた日本人を興奮の渦に巻き込んだという事実がある。
・映画『ラジオの時間』が暴いていたように、ラジオにはそれらしく聞こえさえすればいいという特徴がある。口だけ、音だけでどうにでもなる世界。今さらながらに、おもしろくて、怖いメディアだと思うが、そのような世界に浸りきるナイーブさを、残念ながら僕たちはもう持ち合わせてはいない。ここに紹介した2冊は、まさにそんな古き良き時代に思いを馳せるノスタルジックな本という感じで読んだが、ラジオのメディア的な特質は、もっともっと考えられていいテーマだとも思った。
・ 9月9日から11日まで、京都のドイツ文化センターと立命館大学で旧東ドイツのポピュラー芸術をテーマにしたシンポジウムが開かれた。主に映画とデザインとロック音楽、ぼくはそのロックの講演のコメンテーターとして参加した。今回はそのことについて。
・ベルリンの壁崩壊にロックがある種の役割を果たしたことはよく知られている。たぶんロック音楽について考えようとすれば、それはまちがいなく一つの大きなテーマになる。けれども、その実状については、音楽そのものもふくめて、日本にはほとんど紹介されていない。ぼくも今まで東ドイツのロックは一つも聴いたことがなかった。講演者はアメリカ人で東独に留学経験をもつエドワード・ラーキーさん。彼は主に80年代の政治意識の強いロックについて、その歌詞の分析を中心に報告した。
思うようにいかない日がある/髪も半分、ベッドの半分は空
ラジオからは半分のボリュームで聞こえてくる:人類の半分がどこかで死んでいく
半神が金色の子牛のまわりで踊る/世界の半分はそんなところ
ハーフ・アンド・ハーフ、ハーフ・アンド・ハーフ
半分になった国で、半分に切り取られた街で/身の程に半分ばかり満足している
City "Halb und halb"
・東ドイツは西側に隣接していた。特に東ベルリンは壁一枚のみだった。だからどんなに情報を統制し、行き来を規制しても、電波(主にラジオ)をとおして西から東へ何でも筒抜けになってしまう。東ドイツのロックは、そんな特殊な状況のなかで独自性を生みだした。つまり政府は、ロックを全面的に禁止することはできないから、西からのものではなく、自前のものを作ってコントロールをしようとした。政治や社会の批判は困るから、当然厳しい検閲がある。けれども、一方では、西に負けない芸術性の高い作品を奨励したりもする。ラーキーさんは主に歌詞の部分で、検閲制度が文学性を高める役割を果たしたというアイロニーを指摘した。たとえばシリー(Silly)の「サイコ」(Psycho)は、もともとは「1000の眼」(Tauscend Augen)という曲で、監視体制を批判したものだが、検閲をくぐるためにヒッチコックの映画を題材にしたかのように見せかけたのだという。
1000の眼 サイコ
1000の眼がマットレスの下にある 1000の憧れが私の胸を開く
1000の眼が苔の中から突きでる 1000のナイフが私の腿をおそう
1000の眼が皮膚と皮膚の間に入り込む 1000の教皇が墓の下でのたうち回り
1000の眼ーはやく私を抱いて 1000の頭蓋骨が苔の中から覗いている
・ぼくはコメンテーターとして、その歌詞のレベルの高さに同意したし、規制が芸術を熟成させる機能の1例としても納得したが、同時にいくつかの疑問も指摘した。このような歌はいったいどんな階層の若者たちに受け入れられ、それはどの程度の割合だったのか?ラーキーさんははっきり確かめたわけではないが、インテリ層で、全体の1割程度ではないかと答えた。大半の若者たちは西側から聞こえてくる音楽に興味はもっても自国のものには関心を示さなかった。彼はそのことを残念ながら、という気持ちで話した。
・ロックは60年代に確立して、その時にリーダーシップをとったのはアメリカでもイギリスでもインテリ層だったが、それ以後の、たとえば「パンク」や「レゲエ」、あるいは「ラップ」などは、ほとんどが社会の最下層から生まれている。それは芸術性や文学性などという議論とは無関係なところから発生して、あらゆる階層、あらゆる国に広まるというプロセスをもっていた。そんなロックの偶発性、あるいは「限界芸術」的な側面に比べると、どうしても作り物だという感じがしてしまう。ぼくはそんな趣旨のコメントを言った。
・出席者の大半が旧東ドイツ、あるいはドイツ、そして美学や芸術学の専門家だったせいかもしれないが、全てのテーマが芸術性という一点で切り取られようとしていた気がする。ぼくはここに違和感をもって、芸術という視点はポピュラー文化を見る一つの物差しにすぎないのではと指摘した。たとえばロックは芸術ではなくスポーツと比較した方がよくわかるかもしれない。そんな意味のことを言ったのだが、わかってくれた人は少なかったようである。参加者のまじめさ真剣さに、へとへとに疲れてしまった。