2004年3月8日月曜日

斉藤環『心理学化する社会』(PHP)

 

tamaki1.jpeg・今、時代のキーワードはつくづく、「心」と「身体」なのだと思う。原因の分からない犯罪、子どもたちの引きこもり、健康・清潔志向、過食に拒食、トラウマ………。癒しなどということばが頻繁に使われるのも、その典型だろう。
・落ち着いて、自信をもって生きるのが難しい時代なのは間違いない。自分自身の不確かさはもちろん、夫婦や親子の関係、友達、恋人、あるいは職場の人間関係。どれをとっても簡単ではない。
・だから、それを改善するために、確かなものにするために、誰もが私やあなたや誰かの心や身体に自覚的になる。心理学や精神分析、あるいは脳科学といったジャンルの本が売れ、その種の専門家がメディアで引っ張りだこになっている。
・この本の著者は精神医学の医者である。専門を離れて、最近の若者文化や思想についての発言も多い。いわば現代の売れっ子なのだが、この本はそんな心や身体に意識過剰な風潮に疑問を投げかけるといった内容になっている。
・たとえば「トラウマ」や「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」は精神医学の用語で、患者を診断した医者がつける病名だが、最近では人びとが自己診断をして日常的に使うことばになりつつあるという。「今、自分がこんな性格なのは幼児の頃にした経験のせい」とか「こんな行動をとってしまうのは、人間関係のなかで受けるストレスのせい」といった具合にだ。
・事件のたびに専門家が犯人の性格や犯罪の動機を説明する。映画や小説がそのような事件を好んで題材にする。著者はそのような傾向を八〇年代以降にヒットしたアメリカ映画や日本の小説、マンガ、あるいはヒット曲などから引きだしている。確かに、一つの事件の原因を主人公の心の病に求めて、その発端を突きとめる、といった内容はどんなジャンルの作品にもありふれていて、しかもヒットするものが少なくない。
・けれども、心理学にしても、精神分析にしても、一つのトラウマ経験とその後に形成される性格や行動の特徴の関係は、不確かであるのが現状のようだ。ましてやある犯罪の動機を特定のトラウマ経験に求めることはきわめて難しい。たとえば「連続幼女殺人事件」の犯人である宮崎勤に対しては、著名な十名の精神科医によって、それぞれまったく異なる精神鑑定がなされている。
・だからこそ診断は慎重に、というのが著者の立場だが、現実には「心」と「身体」は確実に、一つの市場として確立するほどに一般的になっている。ハウツーものの本、雑誌の特集、映画や小説、マンガ、歌、あるいはカウンセリング。さらには「癒し」目的の食品や電化製品など、その広がりはとどまることを知らないかのようである。
・わけのわからない状況におかれるよりは、たとえマイナスであっても、原因や理由を確かなものにしたい。それは一つのレッテル張りで、科学というよりは信仰に近い。その心情にビジネスが入りこむ。安易な心理学や精神分析がもたらす危険性。騒ぎの当事者が打ち馴らす警鐘であるだけに説得力がある。

(この書評は『賃金実務』2月号に掲載したものです)

2004年3月1日月曜日

Youssou N'dour

 

africa2.jpeg・ユッスー・ウンドゥールはアフリカを代表するミュージシャンで、セネガルの出身だ。日本ではホンダのCM(「オブラディ・オブラダ」)で有名だし、ワールド・カップのフランス大会の公式賛歌を歌ったりしているから、名前は知らなくても歌を聴いたことのある人は少なくないと思う。僕が最初に彼の歌を聴いたのは「So Why」という名のアルバムで、「アフリカ人による、アフリカ各地の紛争に対するメッセージ・アルバム」としてつくられたものである。
・ユッスー・ウンドゥールの音楽の魅力は、何と言っても明るいサウンド、軽快なリズムだ。しかし、いわゆる伝統的なアフリカ音楽とは違う。ロックだし、歌詞の多くは英語だから、それほど異質な音楽だという感じは受けない。彼の国はセネガルだが、歌は確実に世界を意識して作られている。そしてまただからこそ、その明るいサウンドとは裏腹の歌詞にも、したたかな計算が伺える。彼が歌うのはまさにアフリカの現実で、それを世界中に訴えようとしているのだ。


N'dour1.jpeg
これは若者のためだ 銃を捨てて学習を最優先せよ
いつか君も大人になって 知識が役にたつのだから
そうなることを願うのみだ
いつか君にもわかるはず
'My Hope is in you' in "JOKO"

・ユッスー・ウンドゥールは1959年生まれだから、今年で 45歳。デビューは74年で15歳の時だというから、すでに30年のキャリアになる。アルバム「JOKO」にラーナーノーツを書いている北中正和によると、生まれたのはダカールのメディナ地区で、ここは植民地として統治していたフランスが自分たちが住む場所とは区別してセネガル人を押し込めたところだという。アルバム「SET]には、そのメディナを歌った曲がある。
N'dour3.jpeg

そう、メディナ、オー、メディナ
あんたがおれを信じられないなら おふくろに聞いてみな
ここの子どもたちはいい子ばかりだって言うから
メディナの奴はみんなここに誇りを持っている
育ったところだし、伝統を身につけたところだから
メディナよりいいところなんて、他にあるものか
'Medina' in "SET"

N'dour2.jpeg・ユッスー・ウンドゥールはそのメディナでグリオ(伝承詩人)の家系に生まれた。王国の歴史を語る人、宗教行事を司る人、出来事を伝える人。語りは楽器に合わせて歌われたというから、ミュージシャンは彼の天職と言ってもいいのかもしれない。その彼が、今は世界に向かって、アフリカの現実を伝えている。
・僕が持っている彼のアルバムで一番古いのは「SET」で1990年の作品だが、1992年の「eyes open」と1999年の「JOKO」や2002年の「Nothing in Vain」を比べてみると、サウンドがシンプルなものから複雑なものへ、アフリカ的なものからロックへと変わっていることがよくわかる。ワールドカップなどの世界的なイベントに参加したり、CMに使われたりといった点とあわせて、「商業化」の好例だと言われかねないけれども、その歌の中身を聴くと、彼の姿勢に変化がないこともわかる。

N'dour4.jpeg・彼のアルバムには世界中に売り出されるもののほかにセネガルだけで出されるものがあるようだ。当然、使われている言語やサウンドに違いがあるはずだ。そんなことを考えると、彼が自分を「グリオ」として考えていることがよくわかる。
・僕が聴いていていいと思うのは、やっぱり最近のものだ。耳に違和感なく入ってくるし、アフリカの音楽だといった「ワールド・ミュージック」のレッテルを貼る必要も感じない。それは、世界言語としての英語に翻訳された歌詞であり、耳障りをよくするためにオブラートでくるんだ音楽であるかもしれないが、だからこそ、今のアフリカを物語る「グリオ」の声として聴くことができる。

keita1.jpeg・もう一人、気になるアフリカのミュージシャンも紹介しておこう。セネガルの隣国であるマリのサリフ・ケイタ。そのアルバム「MOFFOU」は小鳥たちから作物を守る笛の名前から取っている。残念ながら歌詞はわからないが、ウンドゥールのサウンドとよく似ている。インターナショナル・デビューが1987年というからウンドゥールと似たようなキャリアの持ち主なのかもしれない。

2004年2月16日月曜日

野村一夫『インフォアーツ論』(洋泉社)

 

info-arts.jpeg・僕のメールには毎日たくさんのジャンク・メールがやってくる。大半はアメリカからのもので、ヴァイアグラやアダルトサイト、ダイエット、あるいは株などの投資の宣伝だ。便利なメールが、これではかえって邪魔になる。どうしてこんな状態になってしまったのかと腹立たしく思う。他にも詐欺や違法コピー、匿名の誹謗中傷行為、あるいは自殺の呼びかけなど、インターネットが問題視される話題は少なくない。

・野村一夫の『インフォアーツ論』は、そのようなインターネットの現状についての批判と提案の書だ。彼はインターネットの初期から「ソキウス」というサイトを立ち上げて、ネット社会の将来についてリーダーシップをとってきた人だ。その彼が、この本の中ではかなり立腹している。

・インターネットは大学間の交信などからはじまった。個々のネットワークがたがいを結びあう形でおこなわれたから、基本には、自発的でボランティア的な発想が生まれ、「ネチズン」(ネット市民)とか「ネチケット」(ネット・マナー)といった意識が共有されるようになった。八〇年代から九〇年代にかけての話である。

・インターネットやホームページ、あるいはメールが話題になりはじめたのが九〇年代の後半で、ブロードバンドやiモードが登場したここ数年で一挙に一般的なものになった。その気があれば、誰もが容易に活用し、参加できるメディアになったが、その急速な普及や使用の安易さがまた、さまざまな問題を引き起こしてもいる。

・たとえば、車を運転して道路を走るためには運転免許証を取得しなければならない。運転は道路交通法にしたがわなければ罰金を取られてしまう。もちろん、事故の危険性が常にあって、人やものを傷つけたり命を奪ったりもしかねない。ところが、インターネットには免許はいらないし、道交法のような法律もない。せめてネチケットぐらいはわきまえてほしいものだが、それを身につける機会もほとんどない。

・『インフォアーツ論』が注目するのは高校ではじまる「情報教育」で、著者はインターネットを利用する前に、その仕組み、そこでできることを教え、参加者としてのマナーやネットを支える一員であるという意識を植えつける必要があるという。ところが、現実のカリキュラムはIT(インフォテック)の授業ばかりで、「インフォアーツ」といった側面がまったく欠落しているというのである。

・インターネットは、個々の人々が利用者であると同時に、支える者としての自覚を持たなければ、やりたい放題の危うい場になってしまう。といって国や国際的な取り決めによってがんじがらめにされたのでは、その可能性が消えてしまう。
・著者が提案するのは、今こそ初心に戻ってインターネットの意味を自覚しなおすことで、特にこれから参加する若い世代の人たちに伝える必要があるという。まったくその通りだが、教育の場にはそのような自覚が乏しいし、人材もまた少ないようだ。

(この書評は『賃金実務』1月号に掲載したものです) (2004.02.16)

2004年2月9日月曜日

ボウリング・フォー・コロンバイン

 

・マイケル・ムーアはドキュメント映画の監督で、「ボウリング・フォー・コロンバイン」は去年のアカデミー賞に選ばれている。授賞式はアメリカ軍のイラン侵攻から4日目のことで、彼はそこで次のような発言をした。

われわれは作り物の理由でわれわれを戦争に送るような男がいる時代に生きている。戦争には反対だ。ブッシュ大統領よ、恥を知れ

・アメリカ人であれば戦争批判を躊躇するのがふつうの時期にした、きわめて率直で、当たり前の発言。ブッシュの強引な開戦理由にうんざりし、小泉の追随姿勢にあきれ、イラクの戦況に憂鬱になっていたから、痛快な気持になった。で、どんな映画なのか見たいと思った。もっとも、彼の作品が「最優秀ドキュメンタリー賞」を取ったのは、こんな時期だったからで、アカデミーの良心の表明なのではないか、といった気がしないでもなかったから、それほど期待もしていなかった。
・Wowowがマイケル・ムーアの特集(1月31日)をして、彼の作品を3本とテレビ番組を放映した。僕はその大半を見たが、作品の主張はもちろん、ムーア自身の存在感の強さに圧倒された。巨体で行動的、辛辣だがユーモアにもあふれている。カメラを持ってどこにでも出かけ、誰にでも会い、いきなりカメラを向けて、核心をつくインタビューを試みる。それはデビュー作からの一貫した、彼の姿勢と手法だった。
・彼のデビュー作は『ロジャー&ミー』。生まれ故郷のミシガン州フリントは世界最大の自動車メーカー「GM」創設の地だ。住民の大半はGMの工場で働いているのだが、輸入車に対抗するための海外への工場移転で、職を失ってしまう。ムーアは寂れていく街の様子や人々の暮らし、そしてGMの会長(ロジャー・スミス)を追い続けて、一本の作品にした。
・「ボウリング・フォー・コロンバイン」も手法はまったく同じだ。扱ったのはコロラド州のコロンバイン高校で1999年に起きた二人の生徒による銃の乱射事件で、彼らは13人を殺した後に自殺をしている。現場に行き当事者に会ってインタビューをする。そこに学校内に設置されたビデオカメラが撮ったできごとの様子を挟みこむ。そうして彼が問いつづけることは、子どもたちの信じられない行動を非難することではなく、銃とそれに対するアメリカ人の思いだ。
・アメリカには2億5千万丁の銃(国民一人に1丁)があり、それによって毎年11000人を超える人が殺されている。銃による殺人はイギリスでは68人、日本では39人で、銃の所持が厳しく制限されていることを考慮すればその少なさも納得できる。しかし、ムーアが問題にするのは、同じように銃の所持が簡単なカナダでも、それを使った殺人は米国とは比較にならないほど少ない点だ。
・彼はそこに、弱者や貧者に対する姿勢の違い、コマーシャリズムの度合いの違い、そして、アメリカの豊かな者たちの心に潜在する不安や恐怖心の大きさに注目する。その象徴として追いかけ回すのが「全米ライフル協会」の会長であるチャールトン・ヘストンだ。自分の命や財産は自分で守る。そのために銃は不可欠。銃は保険であり、精神安定剤でもある。頑丈な柵と塀に守られた豪邸に住み、襲われた経験のないヘストンだが、銃の必要性を信じて疑わない。そんな彼の姿勢が次第に恐ろしく、また滑稽に感じられてくる。
・ムーアの故郷フリントでは6歳の男の子が6歳の女の子を撃ち殺す事件が起きた。そのことをあげてヘストンを問いつめると、彼は不愉快な顔をして「もう時間をオーバーしている」とインタビューを拒否しはじめる。この時のヘストンの表情はけっして正義のガンマンではなく、「正義」や「悪」を好んで口にする時のブッシュの間抜けな表情によく似ていた。
・コロンバイン高校の事件の後、その原因としてやり玉に挙げられたのは、犯人の高校生がよく聴いていたロック・ミュージシャンのマリリン・マンソンだった。ムーアはマンソンにもインタビューをするが、このやりとりはきわめて率直で自然だ。ステージ上のおどろおどろしいマンソンとは違うふつうの青年の一面が見えた。
・ムーアは犯人の聴いていたロックが問題なら、犯人が好きだったボーリングだって問題だろうと言う。何しろ犯人の高校生は銃を乱射する直前まで、ボウリングをしていたのだから。アメリカでは、ボーリングのピンは射撃の訓練の標的によく使われている。理由は人間の身体に似ているから。ボーリングのピンを倒し、ストライクの痛快さを味わいながら、それが生きた人を倒す妄想に発展する。そんなことだってあるんじゃないか。「ボーリング・フォー・コロンバイン」というタイトルにはそんな意味が込められている。
・だったら、なぜ高校生はボーリングのピンを倒すように、同じ高校の生徒に銃を向け乱射したのか。銃があまりに手近にあり、それに頼り、それによって不安を拭おうとする大人たちが身近にいる。貧しい者、弱い者、持たざる者への蔑みと不信感。ムーアの主張はきわめてわかりやすくて、また説得力もあるが、そんな神経症的な不安感を世界中に振りまかれたのではたまったものではない。笑いながら同時に背筋が寒くなった。

2004年2月2日月曜日

氷の世界

 

forest31-5.jpeg・今年は暖冬で雪も全然降らなかったが、1月17日に20cm積もると、19日には10cmと続いた。17日は久しぶりの除雪機で、うきうきと雪かきをしたが、19日は出講日で、仕事前の一汗を余儀なくされた。続くと途端にしんどくなる。ましてや仕事の日となると、気が重い。

・雪はサラサラで箒ではいてもいいほど軽い。しかし一晩放っておくと、車に踏みつぶされたところが凍ってしまう。凍れば春先まで残る。で、きれいにした甲斐があって、アスファルトの道になったのだが、1週間後の26日にまた雪。今度は3cmほどで、試験監督で早めに出かけなければならなかったから、除雪はせずに出かけた。

forest31-8.jpeg・そうしたら、翌日には路面はすっかりアイスバーン。森の外は乾いているから、この道に入ってきた車は、一瞬躊躇して停車、それからそろそろと動き始める。スノータイヤを履いていなければ、ハンドルもままならないから、訪問客には、気をつけるように言わなければならない。

・ここ数日は最低気温が-10度前後になっている。河口湖も氷が張り始めた。寒さがこのまま数日続けば全面に広がるだろう。精進湖はすでに全面結氷しているというので出かけてみた。途中の西湖はまるで凍っていない。水温が違うのは、たぶん深さのせいだろう。河口湖と精進湖に比べると西湖ははるかに深い。行かなかったが本栖湖にも氷はないだろう。精進湖は、氷の上に雪が積もってまだらになっているが、確かに氷に被われている。しかし、氷にのってワカサギ釣りというほどには厚くない。↓


forest31-4.jpegforest31-3.jpegforest31-2.jpegforest31-1.jpeg



・西湖の野鳥の森公園では、今年も氷のモニュメントが作られている。水をかけて少しずつ大きくするのだが、最高気温が氷点下の日が続かないとなかなか形にならない。今年はまだもう一歩で迫力に欠けるのだが、ライトアップした夜ならば、幻想的な風景に魅了されるかもしれない。しかし、それは寒いから遠慮して昼頃に出かけてみた。


forest31-10.jpegforest31-9.jpegforest31-7.jpeg


2004年1月26日月曜日

年賀状の憂鬱

 相変わらずジャンク・メールは届くが、だいぶ数は減った。クリスマスの商戦が終わったせいもあるし、お断りの返信をまめに出したせいだとも思う。今やってくるのは「メールお断り」の返信が出せないものや、出しても受取人不明で届かないもので日に20通ほど。同じものがほぼ毎日やってくる。
11月から12月は学生が送ってくる論文の処理で忙しい季節だが、それがジャンクメールに埋もれてやってきたから、本当にしゃくにさわった。ヴァイアグラはいらないし、ペニスを大きくする必要もないし、アドルトサイトも見飽きてる。ダイエットなど大きなお世話で薬も器具もいらない。金儲けに興味はないから投資もしないし、貴金属も買わない。そんなことをぶつぶつ言いながら、「リストから消せ」(unscribe)のボタンを押しつづけた。
ちょうど同じ時期に年賀状を書かねばならなかったから、今年はそれも何とも憂鬱だった。実は年賀状は何年も前からもやめようと思ってきた。実際に、枚数を極力絞って出したりもしたのだが、届いたものには返信を出すから、結局は同じことになってしまった。この慣行から何とか抜け出せないものか。ここ数年は、毎回それに苦慮している。
日頃顔を合わせている人に年賀状を出すのは意味はないし、もらっても興味は湧かない。まったくつきあいの途絶えた人とは、それだけの関係なのだから、消えてしまっても構わない。勤める大学では、年賀状はお互いに出さないようにしましょうという慣行がある。ゼミの学生にも住所は教えないことにしている。そんなふうに考えても、やってくる年賀状はなかなか減らない。
で、今年も50通ほど出したが、そのほかに、1月1日に年賀メールを100通ほど出した。1月1日にHPにアップした「ダイヤモンド富士」の紹介で、たくさんの返信が来た。1月1日に出かけて、即アップと思った人が多かったようだが、実際に見に行ったのは冬至の日だった。来年からはこれで行こうと意を強くしたが、かえって材料探しに苦労するかもしれない。

富士山の写真は、大変結構なものでした。ぼくはいつも、相模川の河川敷から夕刻の富士のシルエットを見ているところです。

ダイヤモンド富士の写真見せていただきました。写真を見ながら「すごい・・」ってつぶ やきが自然に出ました。ため息と同時に。おかげで今年はいい年になりそうな気がしました!

「ダイヤモンド富士」ってなに?と最初思いましたが、写真をみて圧倒されてしました。私もいつか拝みたいです。

富士山の模様素敵でした。初詣いけなかったので、なんだか行った気分になれました。

初日の出の写真は、本当に素敵でした。写真でもあんなに素敵なのだから、実際はもっとすごいんだろねと妻とともに画面に見入り感激しておりました。

しかし、先生も元気ですね〜。初日の出を高尾山に見に行ったことがありますが、山頂に着いたとたんビールを喰らうというバカな行動をし、その後の急激の体温の変化に泣かされた記憶があって、もうそんなことする気にもなりません。ま、今度するならば日本酒をポットにいれていこうかな・・・。

富士山、拝見しました。東京では、年越し、年明けのけじめがつけにくいのですが、やはり、新年を迎えるとはこういうことですね。
年賀状が不要だと思いはじめたのはずいぶん昔からだが、その思いが強くなったのは、HPを作りはじめてからだ。何かを表現する。誰かに何かを伝える。こういった欲求はHPでほぼ満たされている。感想なども来て、やりとりも結構ある。インターネットはやらない人、印刷したもののほうが読みやすいという人のために毎年「珈琲をもう一杯」の雑誌版を作っている。20〜30部ほどだが、それも10号を数えた。1年分となると毎号60〜70頁にもなって、かなりの分量だが、それに対しても丁寧な返事が来る。つきあいを続けたいと思っている人とは日頃からやりとりができているのだ。
とはいえ、それでも気になる人は何人か残る。何人かのためにもそれなりに工夫をして作らなければならない。そうすると、せっかく作ったのだからと、枚数が増えることになる。このジレンマから何年も抜け出せないでいる。

2004年1月19日月曜日

CDの値段

 

george1.jpeg・輸入盤のCDの値段が下がっている。新譜でも1300円前後で手に入る。日本版は同じものでも3000円ほどしているが、違いはアルバムやミュージシャンの解説や日本語訳の歌詞カードぐらいだ。そこに1000円以上の価値があるとはとても思えないが、それがほしくて買う人は、いったいどのくらいいるのだろうか。そのほかに、クラシック・ロックがリメイク盤として、1000円均一で売り出されている。60年代から70年代にかけてのロックの名盤といわれるものばかりだから、若い人で興味のある人にはたまらない値段だと思う。
・僕はレコードがCDに変わったときに大概のものは買い直した。今から考えるととんでもない額になるが、1000円ならと、見落としたもの、買い控えたものをさらに揃えようとチェックし直している。まだ出はじめたばかりだから買いたいものは多くはないが、これからの品揃えによってはまた大量に購入ということになるのかもしれない。とりあえず手に入れたのははブライアン・イーノ"Music for Airports"、タンジェリン・ドリーム"Phaedra"など。

morrison6.jpeg・ところで、CDが本当に売れていないようだ。買いたいものがないから、簡単にコピーできるから、と理由はいろいろあるだろう。洋盤の値下げはその対策の一つなのだろうか。あるいは単に円高の影響か。昔のものをリメイクというのも、新しいものが売れないからこその対応策なのだろうか。
・とはいえ、好きなミュージシャンの新譜も少なくない。スティング"Sacred Love"、プリテンダーズ"Loose Screw"、ヴァン・モリソン"What's Wrong With This Picture" "Vanthology: A Tribute to Van Morrison、ジョージ・ハリソン追悼記念コンサート "Concert for George"、トラヴィス"12 Memories"。

travis4.jpeg・スティングもプリテンダーズもヴァン・モリソンもいい。いつもながらの安定したできといったものだが、若いトラヴィスもREMを思い出させる音作りで、ちょっと新境地が感じられた。"Vanthology"はヴァン・モリソンの歌を多くのミュージシャンがカバーしたものだ。地味だが影響力のあるミュージシャンならばこそ、といったアルバムに仕上がっている。
・どれも、ただ聴いているだけでも十分楽しめるが、どれもまた、ことばを味わう価値がある。それをしないのは、おいしい料理の半分しか食べないのと同じで、何とももったいない。スティングはタイトルどおりラブ・ソングが多い。しかしたとえば1曲目のようになかなか哲学的で意味深いものがある。


sting3.jpeg 扉が愛で封印された中
眠った心の中
手袋の中の指の中
………
星が移動する、その外
世界が燃えている、その外
………
愛は絶え間なく争う子ども
愛は世界の果ての炎 "Inside"

・洋楽を聴かない大学生が言う理由は、決まって「歌詞がわからない」といったものだ。高校までで十分理解できるだけの英語を習っているはずだが、はなからわからないと決めつけてしまっている。だったら、日本人の歌う歌におもしろい歌詞はあるのか。そんな質問をしても、やっぱりはっきりした応えは返ってこない。だから、語学力の問題ではなく、歌のことばに対する関心のなさなのではないかと思ったりする。
barakan1.jpeg・ピーター・バラカンの『ロックの英詞を読む』(集英社)は、有名なミュージシャンの代表作ばかりを集め、その英語の歌詞に日本語訳をつけたものだが、その歌やミュージシャンや使われていることばについて、彼ならではの説明や解釈があって、なかなかおもしろい。こんなふうな読み方をすれば歌詞の意味はもちろん、英語にも興味がもてるのではないかと思う。