2008年4月27日日曜日

A LOVE SONG FOR BOBBY LONG

 

bobby1.jpg・最近のアメリカ映画には珍しい、静かでしんみりとした話だった。舞台はニューオリンズで、墓地のシーンから始まる。死んだのはクラブ歌手だったようだ。参列したのは2人の同居人と、遊び仲間や近隣の人たちで、その集まりからは、暑くてけだるい感じ、生きることに疲れた様子が伝わってくる。

・死んだ歌手の娘が母の住んでいた家にやってくる。幼い頃から祖母に育てられて、母の思い出はほとんどない。けれども、母が住んでいた家に来て、そこに住もうと思うようになる。ただし、同居人の男二人がじゃまくさい。一人は老人で、元大学教授。もうひとりはかつての教え子で小説家をめざしている。師を慕う気持と、それゆえに枠を破れないでいるもどかしさ。二人の関係はまた親密でなおかつ束縛的だ。

bobby2.jpg ・ストーリーは、そんな三人の関係の変化を巡って展開する。追い出そうとする娘と抵抗する老人。間に入る売れない小説家。彼女は母が遺した衣服などを整理していて、ひとつの手紙を見つける。老人のボビー・ロングにあてたもので、娘はその老人が自分の父親であることを知る。ありふれた話といえばそれまでだが、それが大げさでなく展開するから、引きこまれてしんみりした気分になった。

・キャストは地味ではない。老人役はジョン・トラヴォルタで娘はスカーレット・ヨハンソン。この映画を見て、トラボルタはいい感じで老けたな、とあらためて思ったし、スカーレット・ヨハンソンもなかなかいい(ただし、日本のテレビCMで荒稼ぎは興ざめだ)。疲弊したけだるい町と人びとのなかに咲いた一輪の花。彼女に母がつけた名はパースレインで、このあたりに咲く野生のハーブだった。

capps1.jpg ・この映画に引きこまれた原因はもうひとつ、挿入歌にあった。ブルース、カントリーといった歌がうまくつかわれていて、それぞれがなかなかいい。トラボルタがギターをもって仲間たちの輪の中で歌うシーンもある。ぼそぼそとした歌い方で"I Really Don't Want To Know"(知りたくないの)やイギリス民謡の「バーバラ・アレン」を歌う。さっそくアマゾンで注文したが、気になったミュージシャンはGrayson CappsとTrespassers Williamだった。改めて聴くとまた、なかなかいい。で、今度はまたそのCDが欲しくなった。

・この映画にはミシシッピー川も出てきた。この映画が出来たのは2004年だから、ニューオリンズ周辺を壊滅状態にしたハリケーンのカトリーヌが襲った1年前ということになる。映画に出てきたあの家や町も粉々で水浸しになってしまったのだろうか。ボビーは映画の中で病死したし、作家志望の青年は本を出したが、パースレインや町の住人たちはどうしたんだろう。この映画には、そんなことをふと感じさせるようなリアリティがあった。

・ニューオリンズには一度だけ行ったことがある。もう30年以上も前のことだ。夏休み中だったから、とにかくじとっとした暑さだけを覚えている。「欲望という名の電車」に乗って、フレンチ・クオーターでブルースやジャズを聴いた。音楽の町、フランスや奴隷制の面影をのこした歴史の町。若さにまかせてアメリカ中を40日以上、グレイハウンドバスを乗り継いで旅をしたが、いま思い出すと、ニューオリンズが、そのクライマックスだったような気がする。

・この30年のあいだに海外旅行が大衆化した。その変容に乗り遅れまいとして、世界中の都市が歴史や景観を魅力あるものに作りかえてきた。アメリカにもそれですっかりブランド化した都市がいくつもある。しかし、ニューオリンズはその流れに乗り損い、そのうえに猛烈な台風でやっつけられた。ブランド化したアメリカの都市にはあまり興味はないが、ニューオリンズにはもう一度行ってみたい。そんな気持が強く感じられた。

2008年4月20日日曜日

税金のかけ方、使い方


・期限付きのガソリン税がなくなって、負担がずいぶん軽減された。大学が始まって、毎週50Lほど使うから、1Lで25円安くなると、1200〜1300円ほども違う。とは言え、法案が衆議院で通れば、来月にはまた、もとにもどって、高いガソリンを買わなければならなくなる。道路を際限なく造るための税金なら当然、大反対だが、一般財源にするのも賛成という気にはならない。一般財源が必要なら消費税の税率を上げればいいのであって、批判の起こりにくいところ、既成事実として定着したところからとり続けようという発想が気にくわない。

・もっとも、ガソリンに税金をつけることに反対というわけでもない。無駄な消費を押さえるため、徴収した税金を環境保全などに使うことを明確にするのならば、僕は賛成だ。実際、EU諸国では、そういった名目でガソリンには高額な税金がかけられている。どこより、それをして欲しいのは、ガソリンを湯水のごとく使ってきたアメリカだが、日本だって、ガソリンに環境税として1Lあたり50円でも100円でもかけたらいい。無駄な走行をしなくなるし、コンビニとスーパーだけなら車はいらない、と思う人も増えるだろう。

・健康保険の制度が大きく変更されて、後期高齢者などという名称をつけられた75歳以上の人たちの負担が増えた。中には少額の年金から徴収されている人もあって、ぎりぎりの生活を余儀なくされたり、病院に行くことを控えたりする人もたくさんいるようだ。お年寄りを若い世代が支える形態を自己負担の割合を増やす方向で変更する。その趣旨自体に反対はしないが、健康保険の財源を確保する手段は、もっと他にもあるはずである。

・僕はタバコを吸う。大体1日一箱だから、月に1万円ほどの出費になっている。海外旅行をすると、多くの国でタバコが高額で売られていることに気がつく。一箱1000円なんてところも珍しくない。最初にそのことに気づいてびっくりしたのは、もう20年近くも前にカナダに行ったときだった。で、たばこ税は禁煙運動の高まりとともに多くの国に採りいれられてきたが、日本では、そんな議論すら起こらない。おそらくJTが強く反対するからだろう。

・僕は健康保険の財源としてタバコに高額な税金をかけたらいいと思う。一箱1000円。それでは吸えないというならやめればいいだけの話だ。そんなに高くしたらタバコを吸う人がいなくなるかというと、決してそんなことはないという気がする。実際、一箱1000円以上もするタバコを、ロンドンでもパリでもニューヨークでも、多くの人が吸っていたからだ。一日の食費を100円,200円と切り詰めて生活しなければならない高齢者からではなく、一箱のタバコに負担してもらう。それは極めて、理にかなった方法だと思う。

・で、タバコ代が月3万円にもなったら、僕はどうするか。実は今禁煙を実行しはじめている。海外旅行をするとどうしても、吸えない場所や時間が増えて、我慢せざるを得なくなる。そのことを何度か経験して、吸わなければ吸わないでいい、ということを自覚した。それにここのところ、原因不明の咳に悩まされていて、自然にタバコに手が伸びなくなった。「絶対吸わない!」というのではなく、吸いたくなったら吸ってもいいと思ってはじめて1週間が過ぎた。日に数本吸うことが今でもあるが、それはニコチンの禁断症状と言うより、口や手が寂しいといった欲求からくるようだ。

・他にも、必要な財源を確保する税金はある。高額な商品に10%でも20%でもあるいはもっと多くの消費税をかけることだ。おそらくそれに強く反対するのは消費者ではなく、生産者や小売業者だ。高くて買えないというなら買わなければいい。第一、日本で一番売れるブランド品などは、税金を何倍にもして、もっと高額にした方がかえって喜ばれるのかもしれない。自動車だって、高級車にはもっと税金をかけてもいいが、これもメーカーの反対が強いのだろう。

・もっとも、税収入を増やす前に、いい加減な使い方をしていないかどうか、もっともっと厳しいチェックが必要だ。既得権をいいことにいい加減な使い方をしているところは、おそらく社保庁や国交省にかぎらないはずで、呆れるような実体がポロポロとリークされて明らかになっている。

2008年4月13日日曜日

朝日新聞「キャンパスブログ」


・朝日新聞に「キャンパスブログ」という名のコラムがある。現在これに連載中で、今日(4月14日)が最終回と思ったら、新聞の休刊日。で、最後は来週の月曜日(21日)掲載というにことになった。

・もっとも原稿は正月休みに考えて、1月下旬に5回分まとめて出したから、掲載までに2ヶ月から3ヶ月もの時間があった。最初は2月中旬とか、下旬といった話だったから、原稿もそれにあわせて準備したのだが、新聞の連載コラムは、何か事件などあるとはずされやすい部分だから、掲載の時期は直前にならないとわからないとは言われていた。

・だから、時節を話題には出来なかった。入試、卒業式、入学式、そして雪だの桜だのといったことだ。また、コラムの趣旨は、大学全体を紹介というわけではないから、パーソナルな内容でかまわないと言われた。で、5回の話題はおおよそ、次のような内容にした。


1.大学とほんやら洞(この話はそもそも「ほんやら洞」経由できた)
2.学部のゼミと学生(最近の学生気質や傾向)
3.学部の講義と学生(講義で話していること)
4.大学院とゼミの院生(多様な院生の紹介)
5.じぶん自身のこと(最近考えていること、やっていること)

・このコラムには毎回イラストが載る。その書き手にあてがあれば、それもこちらで決めていいということだったので、院生の佐藤生実(うみ)さんに書いてもらうことにした。彼女はイラストレーターではないが、ブログには自作の絵が掲載されているし、デパートのファッション部門で働いていて、仕事でも描いているようだ。しかし、公の場への発表ははじめてだから、ずいぶん苦労したようだ。何しろコラムのイラストは、文章に付属して、その意味をわかりやすくしたり、適切に強調しなければならない。そのあたりのことは彼女のブログにも書かれている。その苦労して描いたイラストに対する僕の印象はというと、ちょっと遠慮したのか気取ったのか、いつもの気味の悪さ(?)がなくて明るいといったものだ。


・反応は数件、直接僕のところに来ているが、学部の学生は無反応、というより読んでいない。改めて、学生が新聞を読まないことを実感した。もちろん院生は読んでいる。特にコラムでとりあげた瀬沼君はブログで感想を書いているし、かつて在籍した高校の先生の三浦さんもブログで取りあげている。このコラムは朝日の多摩版に掲載されるものだが、東京全域にも載っている。また朝日新聞のサイトにも掲載されているから、地域限定ではなく、どこからでも読むことが出来る。
と書いてアップしたら、宮入君のブログでも話題にされていた。

・『高学歴ワーキングプア』なんて本が話題になったせいか、あるいは、有名大学が大学院の定員を拡大し続けているせいか、今年度の大学院の受験生は激減した。僕のところも久しぶりに新入生が0だった。ちょっと寂しい気もするが、負担の軽減はありがたい。しかし大学としては、受験生を増やす対策も考えなければならない。このコラムを読んで受けてみようかという人が出てくるかもしれない。歓迎したい気もするし、やめておきなさいと言いたい気もする。アンビバレンツというかダブルバインドというか、何とも悩ましい気持である。

P.S.
・カンサスシティの野茂投手が1000日ぶりにメジャーで投げた。先発ではなくリリーフで負け試合だったし、3回投げてホームランを2発浴びた。ネットでチェックしていて、久しぶりにはらはらドキドキしたが、投げたあとのインタビューでは、いつもながらの無愛想な返事の中に、満足感や自信も感じられた。キャンプへの参加を認めてくれたのは1球団だけ、ベネズエラでの投球再開から茨の道で、先の見えない挑戦だったと思うが、ついにゴール、そして新たなスタート地点に立った。この人の意志の強さとがんばりには、今までくりかえし感心させられてきたが、今度もまた感服。メジャーリーグを追いかける楽しみが、また帰ってきた。

2008年4月7日月曜日

田村紀雄『海外の日本語メディア』

 

tamura.jpg・田村さんは数年前に大学を定年退職されている。しかし、その元気さは相変わらずで、連絡があるたびに、何処どこへ出かけてきたといった話をされる。最近ではもちろん、取材や研究ではなく漫遊旅行が多いようだが、そのフットワークの軽さには驚かされる。出不精の僕にはとても真似の出来ないことだが、新しく書かれた本を読んで、そのことを一層痛感した。

・『海外の日本語メディア』は海外に移民した日本人とその記録を追いかけた、彼の研究の集大成といえる内容になっている。登場するのはカナダからアルゼンチンまでの南北アメリカ大陸と東南アジアで、彼はそのすべての国に出かけ、日系人にあってインタビューをし、残存する日本語新聞を探している。もちろん、その一つひとつについて、すでに本としてまとめられたものがほとんどだが、一冊にすると、あらためて、その精力的な仕事ぶりに感心してしまった。

・日本人の海外移民には、さまざまな理由がある。貧しさからの脱出や一攫千金の夢を抱いてというのが一般的に知られているが、留学や思想的な理由といったものも少なくなかった。特に日系移民を読者にした日本語新聞の発行に携わった人の中には、後者の人たちが多かったようだ。中には、海外から日本の政治や社会の状況を批判するための海外脱出といった例もある。このような多種多様さが、国や都市によって特色づけられる。
・例えば、それは倒幕と明治維新の時代から始まる。榎本武揚がメキシコに作ったコロニアル、自由民権運動への明治政府の抑圧を逃れた志士がサンフランシスコ周辺で発行した新聞、あるいは大正時代の売れっ子作家だった田村俊子と鈴木悦のバンクーバーへの逃避行と、現地での労働運動を目的にした『日刊民衆』の発行といった話もある。第二次大戦中にはアメリカはもちろん、カナダや南米の日系人も敵国人ということで住む土地から立ち退きを命じられ、財産を没収されて強制収容された。田村さんは、その収容所を訪ねて、カナダのバンクーバーから小さなプロペラ機に乗り、レンタカーを運転して、カズローという地図でも見つけにくい小さな街に出かけている。

・海外で発行される日本語新聞は、もちろん、移民した先のことばになれない日本人のために作られた。ところが二世、三世と世代交替が進むと、日本語をほとんど使わない日系人が多くなる。移民と日本語メディアとの関係は、そういう推移の中で役目を終えるのが一般的のようだ。だから、すでに廃刊されてしまった新聞を見つけだすのは大変な苦労をともなうことになる。
・また、ブラジルのように、日系人の二世や三世が日本に出稼ぎに来るようになって、日系人のコロニアル(コミュニティ)自体が脆弱化してしまったといった例もある。日本から海外へ移民といったことがなくなった現在では、海外の日本語メディアは、当然、その性格を大きく変えて存在すると言うことになる。海外駐在員、転勤族、留学生、そして観光客を受け手にした新聞や雑誌といったものになるし、インターネットが普及した現在では、HPやブログの役割も大きなものになっている。

・ざっと読み通して、時間的にも空間的にも大きなテーマをうまくひとつの世界にしていると感じた。しかし、ここで書かれているテーマにはまだまだ多様な側面があるし、未発掘の資料も少なくない。だから、田村さんはこれが端緒としての一冊にすぎないという。たしかにそうかもしれないと思う。けれども、今後、彼ほどにエネルギッシュでしかも持続的に「海外の日本語メディア」を追いかける研究者が果たして出るだろうか、とも思う。

2008年3月31日月曜日

ハスキーな声、2人

 

rai1.jpg・NHKのBSで放送しているロックのライブ番組「ワールド・プレミアム・ライブ」を時々見る。知らないミュージシャンが多いから、つまらないことも多いが、気になってすぐCDを買うといったことがたまにある。2月に見た時にギター一本で歌う髭面が気になった。外見に似合わないハスキーな声で、ただコードを押さえて弾くだけのギターだったが、訴えかけてくるものがあった。
・レイ・ラモンターニュ。フランス人のような名前だが、ニューハンプシャー出身のアメリカ人で、放送したライブは、ビートルズで有名なロンドンのアビーロード・スタジオ。インタビューの形で語られたデビューのいきさつやレコーディングにまつわる話がおもしろかった。彼はすでに30歳を過ぎている。遅いデビューだが、音楽とはほとんど無縁の靴職人だった。きっかけはスティーブン・スティルスを聴いたことだという。

rai2.jpg・さっそくアマゾンに注文して2枚のCDを聴いてみた。ライブに比べると、音がずいぶんにぎやかできれいだ。ちょっと違うなと思いながら、彼がインタビューでした話を思いだした。じぶんの作った歌なのにCDではまるで違うようになった。だから、一度も聴いていない。そんな不満をつぶやくように話したが、なるほどな、という感じだった。
・家出した父、職を探して点々として暮らす母と子どもたち。転校先でのいじめと、ファンタジー小説を読んで過ごした時間。歌詞には、こんな子供時代のことが随所に感じ取れる。たとえば、他の男と一緒になって子供を捨てる母に「行かないで」と乞う歌がある。


あいつと母さんが一緒にいるところなんて見たら
僕は気が狂っちゃう
だから出来るもんならもう一度、キスしてみろよ
僕はここに残って、裸で燃えてやる  "Burn"

jm1.jpg・一ヶ月後の同じ番組でもう一人、気になるミュージシャンを見つけた。やっぱりアビーロード・スタジオでの録音で、まずびっくりしたのは、ちょっと聴いたらどっちの声かわからないほど、ラモンターニュとよく似たハスキー声だったことだ。ただしこちらはバックをつけたロックだから、曲風もサウンドもかなり違う。
・もう一点気になったのは、アングルによって若い頃のディランによく似た顔に見えるところだ。それにモリソンという名前からジム・モリソンやヴァン・モリソンも連想した。で、これもさっそくアマゾンに注文した。聴いてみると、これはテレビで聞いたのとほとんど同じだった。

・モリソンはインタビューで、コマーシャリズムがじぶんをダメにするという批判を話題にして、じぶんの思うとおりに作品を作り演奏していることを力説した。ギター一本がじぶんの音楽であるラモンターニュとの違いが見えて興味深かった。その意味ではたしかに、ロック音楽は、そのサウンドからして本質的にコマーシャライズされているのだということもできるかもしれない。MTVがかつて企画した「アンプラグド」(電気楽器を使わない)などが意味したのは、まさにそういうことだったはずだし、逆にディランがエレキ・ギターをもったときには、堕落としてずいぶん非難された。

・二人の共通点は声だけでなく、その生い立ちにもある。モリソンの父もやっぱり家を出て、母親が子供3人を育てている。多額の借金と逃げるようにしてくりかえした引っ越し。ただし、モリソンは早くから音楽に興味をもち、高校を出た後職を転々としながらも、ストリートで歌うようになる。


僕はどん底まで落ちぶれていて、それはだれにもすぐわかる
そんなところにいるのはおかしいよって、人はいう
窓越しに眺め、輪の外にいれば、彼らがどんなに幸せかわかる
僕もそうなりたいけど、またどうせ、へまをやらかすんだ
"Wonderful World"

・二人ともいい声をして、いい感覚をしていると思う。それだけに、ビジネスやコマーシャリズムの世界で自分を見失わないようにしてほしい。ジムではなくヴァン・モリソンのように、と思う。

2008年3月24日月曜日

わかりやすい季節変化

 

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forest66-2.jpg・この冬は久しぶりに、冬らしい冬だった。雪が何度も降り、最低気温が-10度になる日が数日続いた2月中旬にイギリス・フランスに出かけた。その時の河口湖は結氷して、家のまわりは一面まっ白だった。
・家の近くにワイン用のブドウ畑がある。まだ収穫の出来ない苗木ばかりだが、雪の積もった畑に毎日、フランス人が通ってきた。苗木を横に張った針金に一本ずつくくりつけている。フランスのボジョレーから来ているという。これから出かける国だから親近感を持ったが、僕が行くのはブドウが出来ないブルターニュ地方。彼は結局、旅から帰ってもまだつづけていて、一ヶ月以上毎日通って同じ作業をくりかえしていた。

forest66-3.jpg・旅行に出る朝、バッテリーが上がって車のエンジンがかからない。もう一台から充電して何とか動けるようにしたが、何とも不安なスタートになった。4,5日動かさなかったし、寒い日が続いた。バッテリーもぼちぼち交換時期だった。
・ロンドンに着くと、そこは温暖の地で、翌朝は深い霧が立ちこめていた。「霧のロンドン」を散歩して、テムズ川沿いにある巨大な観覧車「ロンドン・アイ」に乗った。眼下のビッグベンも霧にかすんでいる。いかにもロンドンらしい風景だった。前回は夏だったのに服装はほとんど同じ。日本と違って気候の変化が少ないことを改めて実感した。

forest66-4.jpg・天気はずっと曇り。それはフランスに移動しても変わらなかった。で、やっぱりそれほど寒くはなく、湿気がある。冬になると悩まされる乾燥肌の症状も消えて、体はすこぶる快調で、ロンドン同様、パリの街も歩きに歩いた。パリは人口が200万人ちょっとで、地理的にも大きな街ではない。東京なら山手線の内側程度で京都と同じぐらいかもしれない。だから数日歩いて、大体、地理感覚がわかった。
・サティは郊外のアルクイユからモンマルトルまで毎日歩いて通ったと言うが、その距離は片道12キロ。大変だが、自転車だったらどうということはない。ロンドンもそうだが、もう少し長く滞在して、自転車で走りまわりたくなる街だ。

forest66-5.jpg・帰ってきたら、日本も春になっていた。あたりの雪はとけ、朝には霧が立ちこめるようになった。最高気温も10度を超え、零下にならない日も出はじめた。そうすると、空の青さが薄まり、景色がぼやけてくる。黄砂がやってくると、天気がいいのに目の前にあるはずの富士山が隠れてしまったりもする。
・半月留守にしている間に、季節ががらっと変わった。旅行に出たせいもあるが、今年の季節変化ははっきりしてわかりやすい。とは言え、また突然寒くなって雪、なんてことが必ずある。テレビのニュースを見ていたら、世界の天気予報でロンドンは雪と言っていた。僕がいたときがたまたま暖かかったのかもしれない。
・ネットで調べると、ロンドンもパリも最低気温は零下になって、最高でも10度を越えないようだ。日本人が季節変化に敏感なわけだと、改めて納得した。


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2008年3月17日月曜日

謝罪と感謝

 

journal4-109-1.jpg・外国に行くと、いつでも、文化の違いに驚いたり、とまどったり、おもしろがったりすることがある。その一番わかりやすい例はマナーだろう。

・電車の切符を買うために列に並ぶ。ところがちっとも進まない。一人の客が何やら駅員と話していて、駅員は電話で問いあわせたりしている。窓口は一つで、列は僕の後ろにどんどん伸びていく。僕はすぐイライラしはじめるが、だれもが不思議と辛抱強く、文句も言わずに待っている。当の客は迷惑をかけて申し訳ないといった顔などしないし、駅員も、列が長くなっていることを気にする様子もない。おそらく急いでいる人もあるはずで、東京ではめったにお目にかからないパリの地下鉄にありふれた光景だ。

journal4-109-6.jpg・もっとも、パリの人たちがいつでも、こんな風に気長でのんびりしているというわけではない。道を歩く人は足早だし、信号が赤でも車の流れが途切れれば、堂々と横断する。それはロンドンでは一層目立つ。忙しくはするけれど、他人にとって必要な要件で待たされるなら我慢をする。そんなルールが了解されていることを感じた。

・はじめてイギリスに行ったとき、長距離鉄道の駅に改札口がないことに驚いた。だから切符がなくてもホームにはいることが出来るし、見送るのに車内に入ってハグしたり、キスしたりする。それはフランスでも一緒で、乗客は切符を買って所持していることが当たり前だとされている。車掌が検札に来て切符がなければ、高額な罰金を払わされる。そんな光景を、今度の旅行で目撃した。フランスの鉄道は、改札がない代わりに、じぶんで日時を刻印する機械がある。(→)切符をもっていてもこの刻印がないと、やっぱり罰則がある。だから、こういう習慣になれないうちは、ひどく気をつかうし、慌ててうっかり押し損なうなんてこともやってしまう。

・日本では、入る時にも出るときにも改札があって、しかも車内検札がある。それでも、無賃乗車やキセルがある。そのちがいを考えていて、不祥事を起こすと頭を下げてお詫びする光景を思いだした。「すみません、うっかりしてまちがえました。」とか「途中で気が変わって乗り越すことにしました。」とか「落としました」と言えば許してもらえる。しかし、イギリスやフランスでは、そんな「ごめんなさい」は通用しないようだ。

・毒入り餃子事件で、中国はその原因がじぶんのところにあると認めない。そのことを不快に感じる日本人は少なくないはずだ。そんな話をパリでたまたま出会って親しくなった人と話すと、フランス人だって一緒だと言った。「コップを落として割っても、謝らないし、コップが勝手に落ちたなんて平気で言う。」ちょっと驚くような話だが、逆に言えば、日本人がやたら謝りすぎるのかもしれない。どんな不祥事も経営者ががん首揃えて謝れば、それでひとまず許される。だから、似たような事件が続発して、いつまでたっても改まらない。謝ることを良しとする文化は、ひょっとすると日本人にしか通用しないのではないか。そんなことを改めて実感した。

journal4-109-2.jpg・反対に挨拶や感謝のことばはいたるところで聞いた。バスに乗ると運転手が「ボンジュール」という。だからこちらも慌てて「ボンジュール」と小声で応える。それは乗客一人一人にする行為で、降りるときには客の方から「メルシー」とか「オボア」と言う。運転手はバスも電車も普段着で制服はない。それがパーソナルな関係を象徴しているように感じた。日本だったら、規律のゆるみだと非難されるだろう。
・街ですれ違う人も目が合えば微笑んでくる。それになれない僕は、どぎまぎしたり、不審に感じたりした。知らない者同士だからこそ、ほんの少しの親近感をしめす。慣れると、そんな行為をごく自然に振る舞えることがうらやましくなった。都会に住む日本人には見られないコミュニケーションの仕方だ。忘れたのか、初めからなかったのか。

・外国旅行をしていて日本人を見かけることは少なくない。特にロンドンやパリの有名な場所に行くと、極端に言えば、日本人ばかりだったりする。しかも、その日本人たちは、日本にいるとき以上に、互いを無視しあう。そのことが気になったパートナーが、ある時から、見かけたら大きな声で「こんにちは」と言うことにした。そうすると、笑顔で「こんにちは」と応えてくる人もあるが、一層無視しようとする人もある。そんな反応の違いに「なぜ?」と好奇心が湧いた。理由を突きとめれば、立派なコミュニケーション論になるだろう。


・P.S.2月にイギリスに留学した院生がブログをはじめた。ロンドンであったときにカルチャーショックの話をいろいろするから、ブログをはじめて記録するようアドバイスした。ついでに勉強のために英語で書くよう勧めたのは僕のパートナーだ。(→Life in Britain)