・大麻は幻覚作用をもたらす植物で、日本でも各地で自生しているものだ。茎は布として古くから加工されてきたし、種は七味唐辛子の一種でもある。麻布や当麻などと地名にも多くつかわれていて、人びとにとって極めて身近にある植物だった。当然、その葉に特殊な作用があることも、知られていたはずである。そのような植物の葉、そして種を所持したり、栽培したりすることが、とんでもない犯罪であるかのように扱われる。で、その理由も極めて一方的なものだ。そして新聞やテレビには、騒ぎを増幅させ、危険を煽ることはあっても、ことの真偽を問う冷静で批判的な視点はほとんどない。
・佐藤哲彦の『ドラッグの社会学』を読むと、ドラッグに対する規制が歴史的に、外からやってきた侵入者と合わせて扱われてきたことがよくわかる。つまり、アメリカではアヘンは中国人、大麻はメキシコ人、そしてコカインは南部の黒人たちとつながりの強いものとして考えられてきた。だからドラッグの禁止はよそから入りこんできた異物としての人間たちが与える悪影響を象徴するものと見なされてきた。ドラッグそのものがもたらす影響や害以上に、悪いものとして意味づけられてきた理由のいったんが、このような過程の中にある。
・現在の法律でドラッグが禁止される一番の根拠は、それが健康に害を与えるものだというところにある。健康的な生活をおくることが国民の基本的な権利であり、国家にはそれを守る義務があることからすれば、これはもっともな主張のように思える。しかし、それだけでは、ドラッグの所持や使用が重大な犯罪だとする理由は説得力をもたない。別の理由は、ドラッグが暴力団などの闇の資金供給源になっていること、中毒や幻覚作用が他の犯罪の原因になることなどがあげられる。しかし、こと大麻に関しては、健康も、闇の資金も、他の犯罪の原因も、必ずしも確かなものではない。
・だから、ヨーロッパの多くの国では、大麻の所持や使用は、罪に問われないか、せいぜい交通違反程度の罰金刑として扱われている。その理由は、「犯罪」というラベルを貼ることで生じる社会的な制裁や排除が、所持者や使用者をさらに社会的に見えにくいところに追いやってしまうとするところにある。つまり、非合法なドラッグが追放しきれないものであるならば、その「リスク」を制限するために、比較的軽い大麻は処罰の対象から外そうという考え方なのである。
・『ドラッグの社会学』には、このような国の政策についての考察の他に、ドラッグ使用者へのインタビューから得られた特徴が興味深い視点で分析されている。著者によれば、ドラッグの常用者の多くもまた、自らの健康や社会的な人間であることを強く自覚しているということだ。つまり、仕事に差しつかえないように、体をこわさないように自己管理をしているという発言が極めて多いという指摘である。ここには、軽い大麻から入って次第に強いものに行き、やがて耽溺して廃人になるという、取り締まる側、それを支持する人たちの主張とはずいぶん異なる実情が見えるのである。
・この本を読むと、最近の大麻の取り締まり方とメディアでの取り上げ方が、その使用者や流通ルートを闇に追いやる結果を引きおこすこと、摘発された若者たちが犯罪者として社会から強く排除されてしまうこと、そのためにかえって、より強力なドラッグの蔓延を招きかねないこと、闇のルートが暴力団に資金源を提供してしまうことなど、マイナスの側面ばかりが懸念されてしまう。
・ところで、そもそもドラッグは、悪を前提にしてしか捉えられない対象だったのだろうか。『ドラッグの社会学』が最後に問うのは、この問題で、強く取り締まって根絶を狙うのはもちろん、表に出して管理するという政策にも、ドラッグの社会に与える影響を軽減、あるいは無害化しようとする姿勢がある。しかし、ドラッグには現実の社会を強く相対化して批判的に見つめなおす視点を提供したり、あたらしい世界をイメージさせたりする力もあって、その力が認められてきた歴史もさまざまに存在する。取り締まる側にはもちろん、使用する人たちにも、おそらくこの点はほとんど忘れられた側面である。