2010年11月22日月曜日

晩秋の憂鬱

・毎年のことですが、ゼミの4年生の卒論が最後の仕上げの段階になっています。就職先未定者もかなりいて、卒論に集中できないということもありますが、今年のできは例年になく悪いです。特にひどいのは、読んだ本やネットで見つけた文章を、ほぼそのまま盗用して、それが悪いことだと思っていない点です。「パクリ」は駄目ということは、3年生の時点から、ゼミで繰りかえし言ってきたのに、いったい何を聞いていたのかと、学生たちににコメントを出すたびに雷を落とさざるを得ない状況です。

・ネットのおかげで、自分の調べようとしていること、考えようと思っていることが、ちょっとグーグルすれば、簡単に見つかるようになりました。学生たちにしてみれば、それを利用して要領よくまとめることがなぜ、してはいけないことなのかわかりにくいのかもしれません。あるいは、安直さは自覚しても、就職で頭がいっぱいで、卒論をがんばろうという気持ちがわいてこないということもあるでしょう。しかし、そんな付け焼き刃的な卒論を何本も読んでいると、憂鬱になって、読む気も起こらなくなってしまいます。

・そんなわけで、ここのところ気分は優れないのですが、プライベートなことでも面倒なことに煩わされています。高齢の父親が急に衰えて、いろいろしておかなければならないことに直面しているのです。葬式はどうしたらいいのか、遺言状をどうするのか、元気なうちに確かめておかなければなりません。介護や入院が必要になったらどうするか、相続の手続きはなど、わからないことばかりですから、ネットを検索しては、一から勉強しています。

・長寿といえども、死が近づいてくることを自覚すれば、不安や恐怖に囚われるようです。会えばすぐにあそこがいたい、ここが悪いと言った話をしてきます。夏前まではしていた街歩きもしなくなりましたし、近所への買い物もしなくなりました。そんな両親を見ていると、もう少しつきあう時間を増やさなければとも思うのですが、自分の仕事や生活を考えると、なかなかそういうわけにもいきません。

・憂鬱になる材料はまだまだあります。ぼくは大学に就職して以降、「長」と名のつく役職には、これまで一度も就かずにここまで来ました。何度か打診をされたことはあるのですが、その都度断って、何とか免れることに成功してきました。しかし、今度はそうもいかない状況に追い込まれそうな気配です。もちろん、今回も断固拒否の態度は貫くつもりです。日本人的な関係の中では、もちろん、そんな態度は疎まれます。だから自問自答をし悩んだりもするのですが、引き受けたらもっとしんどいことになりますから、憂鬱だといってばかりはいられません。

・晩秋になって、家から見える景色は赤や黄色に変わりました。天気のいい日を見つけては、周辺を歩いて、気分転換を図っています。ストーブを焚き始めて薪を積むスペースが空いてきたので、みずならの木を4立米ほど買って、チェーンソーでの玉切りと薪割りをはじめました。いつもと変わらない季節の仕事です。冷たい風が吹く中でじんわり汗をかくことは、しんどいけれども爽快なことでもあります。今年ほど、こんなことをしているときが一番いいと感じた年はありません。

2010年11月15日月曜日

ウィリアム・ソウルゼンバーグ『捕食者なき世界』文藝春秋

 

・生物の多様性を守るための会議「COP10」が名古屋で開かれた。さほど大きなニュースとして扱われなかったし、また画期的な提案がなされたわけでもなかったようだ。しかし、1年間に約4万種もの生物が絶滅していっている現在の状況は、本当はもっともっと、深刻な問題として真剣に考え、対処しなければならないことなのだと思う。何しろ、その原因のすべては人間にあって、現在の絶滅速度を放置すれば、やがて人間そのものが絶滅することになるからである。

journal1-139.jpg ・ウィリアム・ソウルゼンバーグの『捕食者なき世界』は生き物の生態を研究し、その変調を突きとめ、原因を究明した生物学者たちの物語である。現在地球に生きる生物は、自然環境に適応して進化してきた種である。そしてそれぞれの種が安定して生きつづけるためには、それぞれの間にあるバランスが保たれなければならない。肉食獣が草食獣を食べ、草食獣が植物を食べる。植物が肥やしにするのは動物の死骸や排泄物、そしてもちろん、朽ちて土に帰った植物だ。だからそのバランスが一つ崩れれば、その影響は生物全体に及ぶ。

・生物の頂点にいるのは他の生物を補食しながら、みずからは被食されない動物だ。アメリカ大陸では、移民が始まり、開拓が進むにつれてオオカミやコヨーテ、そしてピューマといった猛獣が人間の手によって駆逐された。人や家畜を襲う危険で恐ろしい生き物として敵視されたからだ。人はこのほかにも、肉や毛皮を取るためにアメリカ・バイソンやラッコ、狐といった動物も殺して、その数を激減させている。一方で鹿などは狩猟の獲物として保護されたりもしたようだ。

・捕食動物がいなくなれば、被食動物の数は当然増える。北アメリカでは鹿の種類が急増して、森の木や草が食い荒らされてしまった。その典型はイエローストーン公園で、そのことに気づいてカナダで捕まえたオオカミを放つと、鹿の数は減り、森が再生しはじめたのだという。被食動物はたえず捕食される危険を意識しながら生きているが、簡単に捕まって食べられてしまうわけではなく、場合によっては捕食動物に傷を負わせたり、反対に殺してしまうほど反撃もするようだ。イエローストーン公園に放たれたオオカミとワピチ(シカ)の関係もそのようなもので、オオカミが捕食できるのは怪我をしたり体の弱いものや子どもだった。けれども興味深いのは、ワピチにはしばらく忘れていた被食という恐怖心がよみがえって、その分、オオカミに捕食される以上に数が減ったということである。

・この本には、そんな生き物間の捕食と被食の関係が人間の手によって崩された結果の例がいくつも登場する。アリューシャン列島に住むラッコは18世紀に、その毛皮を求めた者たちに次々殺されて絶滅の危機に瀕した。

1911年にラッコ・オットセイ保護条約が結ばれ、言うなれば休戦が宣言されたが、そのころには捕獲できるほどのラッコは見つけられなくなっていた。殺戮がはじまってから一世紀半で、50万から90万匹のラッコが太平洋から消えたのだ。

・生き延びたわずかのラッコが再生して、大群となる地域が確認できるようになったのは1960年代になってからである。その大群が繁殖する地域と、ほとんどいない地域を観察した生物学者が見た違いはジャイアント・ケルプという昆布の有無だった。ラッコの住む海にはジャイアントケルプが森のように繁茂して、それを食べるウニやさまざまな生き物が豊富に生きている。ところがラッコのいない海では昆布を食い尽くしたウニだけになり。やがてウニもいなくなった。

・日本では今年もあちこちで熊や猿が住宅地にやってきて人を襲ったというニュースが頻発している。また、鹿によって森が荒らされて危機的な状況にあると言われるようになって久しいし、イノシシによる農作物の被害も甚大だという。鹿を捕食するニホンオオカミは絶滅しているし、植林が進んだ日本の森では、広葉樹がもたらす栗やドングリ、あるいはブナの実などが減っている。もちろん、手入れをしない森は草も生えないほどに荒れている。捕食動物がいないのなら、生物の多様性を保つのは人間の仕事なのだが、儲かることにしか関心がないから、付け焼き刃的な対策しかとれていないのが現状だ。

・生物の多様性は、その頂点に位置する捕食動物によって守られる。しかし、その捕食動物の多くが絶滅の危機に瀕している。その原因が人間だということは、人間こそが地球上に生きる最強の捕食動物だということだろう。始末の悪いことに、人間にはその自覚がなく、しかも何であれ、なくなるまで食べ尽くし、取り尽くすという性悪の性質を持っている。世界中の生物学者が訴える現状は、絶望的なほどに危機的だが、そこを自覚し、生物の多様性の保存に本悪的に取り組む姿勢は、人間には持ちようがない気がしてしまう。

2010年11月8日月曜日

ミラクル! SFジャイアンツ!!

 

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・SFジャイアンツが今年のワールド・シリーズの勝者になった。まさにミラクルで、地区シリーズから見ることのできる試合はすべて見て応援した。以前からファンだったわけではないが、8月にAT&Tパークで見た試合があまりにおもしろくて、それ以来気になって、追いかけるようになったからだ。残念ながらシーズン中の試合はNHKではまったく中継されなかったから、ポストシーズンの試合は特に待ち遠しかった。

journal4-132-2.jpg・8月に見た試合では、中盤で満塁ホームランが出て逆転し、再逆転された後の9回にサヨナラ勝ちをして、球場は歓喜の渦に包まれた。ほとんどの選手は名前さえ知らないチームだったが、ポストシーズンが始まる頃には、めぼしい選手の名前はわかるようになっていた。しかし、試合が始まり、目立たなかった選手が活躍して勝ち進むと、チームのほとんどを熟知するようになった。

・優勝の原動力になった選手の多くは、ここ数年ジャイアンツにやってきた。フィリーズのハラディから初戦で二本のホームランを打ったロス外野手は、今シーズン中にマーリンズを解雇されて拾われているし、ここ一番で強みをみせたウリーベはホワイトソックスを解雇されて昨年からチームの一員になっている。四番を打ったバレルは一昨年までフィリーズにいて、昨年レイズにトレードされ、今年は調子が悪くて、やはり解雇されて移籍してきた選手だ。僕が見た試合で満塁ホームランを打ったから期待をしたのだが、シリーズでは三振ばかりで一人蚊帳の外という状態だった。

journal4-132-3.jpg ・ジャイアンツ生え抜きという選手は野手ではキャッチャーのポージーと代打で出たイシカワぐらいだが、ピッチャーは先発の4人のほかに中継ぎ、そして抑えとそろっている。最近のドラフトで一巡目に指名した選手が大成したようで、どのピッチャーも20代の前半から半ばと若い。そんな若手が、フィリーズやレンジャーズといった強打線を押さえ込んだのだから、相当の自信をつけたことだろうと思う。ネットで読んだ記事には、ジャイアンツの黄金時代の始まりと書いたものや、チーム作りのうまさを賞賛するものがあった。

・確かにそうかもしれないが、一方で高額のお金を出して獲得したのにポストシーズンには出場しなかった選手もいる。バリー・ジトは2006 年に7年1億2600万ドルでアスレチックスから移籍したが、毎年期待を裏切る成績しか残せていない。また、野手にもシリーズではほとんど出場機会がなかった外野手のロウワンド(12億円)がいる。あるいはロイヤルズから今シーズン途中にトレードで加入したホセ・ギーエンは禁止薬物の購入という嫌疑をかけられている。選手の当たり外れをこれほど顕著に見せたチームもめずらしいのである。

・ちなみにジャイアンツの今年の総年俸は約9800万ドルで第10位で、相手のレンジャーズは約5500万ドルで27位だった。無名や若手、そして再生した選手が多い割にジャイアンツの年俸が高いのは、高額で活躍できなかった選手がほかにもいるということだろうか。強打者をそろえたレンジャーズは全球団の下から4番目だし、ジャイアンツとペナントを最後まで争ったパドレスは下から2番目である。ヤンキースの1位はいうまでもなく、リーグ 3連覇を狙ったフィリーズが4位と高いのは当然だが、その他にポストシーズンに進んだチームは、ブレーブスの15位、ツインズの11位、レイズの21位とけっして高くはない。戦力になる選手は買うものではなく育てるものだ。ジャイアンツの投手や捕手の活躍を見ていて感じたことである。

2010年11月1日月曜日

ユーラシア大陸をバイクで横断

 

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toy2.jpg・戸井十月がユーラシア大陸をバイクで横断した記録をNHKのBSで見た。4回に渡る放送だったが、おもしろかった。30年間バイクに乗ってきた者としては、夢のようなツーリングだが、彼はすでに南北アメリカ、アフリカ、そしてオーストラリアを走っていて、今回が五大陸を走破する、締めくくりの走りだった。はじめたのが1997年で、彼はその時49歳、走破した去年の秋には61歳になっていたようだ。

・僕は彼と同年齢で、白髪頭や走行中に見せた疲れた顔には親近感を持ったが、僕はバイクを、すでに50歳を過ぎた頃にやめている。寒さや暑さが応えるし、肩もこる。バランス感覚や一瞬の判断力にも自信がなくなったのが、やめた理由だった。だから、50歳近くになって5大陸の走破を目指したことに、驚き、憧れ、そしてあきれもしたのだが、還暦を過ぎて走破したことには、もう、ただただ敬服するしかない思いがした。

・ユーラシア大陸をポルトガルから出発して、ロシアのウラジオストックまで、その距離は3万キロで旅程はおよそ4ヶ月だ。飛行機で飛べば 12時間ほどで、それでも長いと感じる時間だが、3万キロというのは実際走ってみなければ、その距離の長さはわからない。しかも、いくつもの国を走るのだから、国境を越える手続きや、ことばや食べ物の違いなど、苦労することはいくつもある。

・ 横断した国はポルトガル、スペイン、フランス、イタリア、スロベニア、クロアチア、モンテネグロ、アルバニア、ギリシャ、マケドニア、トルコ、イラン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、中国、モンゴル、そしてロシアの19カ国で、緊張状態の地域ははずすとはいえ危険なところは少なくないから、ルート選びは大変だったろうと思う。バイクと伴走車はホンダ、ウエアはヘンリー・ビギンズの提供で、全行程をサポートするスタッフが3人で、その他に各地で同行者が何人もいた。当然だが、相当の費用がかかったはずだ。

・放送は4回で計6時間にもなったが、通過した土地それぞれにさく時間は多くはない。大きな都市でも一瞬だったりするし、通ったのにまったくふれないところもあった。その代わりに、国境の通過、宿探しと値段の交渉、通りすがりの人に道をたずねることやガソリンスタンドで出会ったツーリング・グループとのおしゃべりなどに時間を割き、これまでに走った他の大陸でのさまざまな経験や出会いを挟み込んだりした。だから、番組は、戸井十月がユーラシア大陸をバイクで駆け抜けるロード・ムービーで、これはこれで焦点をはっきりさせたものに仕上がっていたと感じた。

・番組を見た後ネットで検索して、戸井十月のサイト越境者通信を見つけた。ここには出発前から走破後までの毎日の日記や計画概要やルート、装備などに渡る細かな記事が載っている。もちろん、過去にした4つの大陸走破についても、同様の記録が残されている。テレビ番組には登場しなかった出来事や人物についての記述も多くて、これはこれでいくつもの頁を次から次へと読んでしまった。彼のような大胆で大がかりな旅はとてもできそうにないし、する気もないが、ほんのちょっとでも、似たような経験をしてみたい。そんな気持ちをかき立てる番組とサイトである。

2010年10月25日月曜日

最近買ったCD


Bob Dylan"Witmark Demos"
"How Many Roads: Black America Sings Bob Dylan"
Brian Wilson"Reimagines Gershwin"
Bobby Charles"Timeless"
Mose Allison "The Way Of The World"

dylan-series9.jpg・特に欲しいと思ったわけではないがディランのブートレグ・シリーズ9の"Witmark Demos"が出た。1962年から64年にかけてのデモ版でお馴染みの曲ばかりだが、このシリーズはすべて買っているからと、アマゾンに予約をした。二枚組で47曲も入っていて、値段はわずか1548円だ。聞き慣れた曲ばかりだから、今さらどうということもないが、ジャケットの若い顔を見ながら聴くと、最近のディランとの違いと比べて、やっぱり「若いなー」とつぶやきたくなった。もっとも最近では、今の声の方がずっといいと思うようになっている。

dylan-black.jpg・"Witmark Demos"を予約した時に"How Many Roads: Black America Sings Bob Dylan"というアルバムが気になって、これも一緒に注文することにした。黒人のミュージシャンが歌ったディランの歌を集めたものだが、ディランの雰囲気はきれいさっぱり消えていて、R&Bやジャズ、それにラップになっている。やはりディランの歌はディランでなければぴんとこないと思ったが、何度か聴いているうちに、馴染んできた。それにしても、このアルバムに収められている20曲を歌うミュージシャンで名前を知っているのがニーナ・シモンとブッカー・T.ジョーンズの二人だけで、改めて、黒人ミュージシャンに疎いことに気づかされた。

brian-gershwin.jpg ・ブライアン・ウィルソンの"Reimagines Gershwin"は20世紀前半のアメリカのポピュラー音楽を代表するガーシュインの歌を歌ったものだ。ガーシュインには「サマー・タイム」や「アイ・ガット・リズム」など、多くの人が歌い続けてスタンダードになった歌がいくつもあるが、このアルバムでは、そんな有名な歌がほとんど網羅されている。それでも、聴いているかぎりはブライアン・ウィルソンそのもので、自分の歌にしたところはさすがだと思った。ただし、ディランやライ・クーダーが積極的にやっている、20世紀前半に歌われた埋もれた歌やミュージシャンの掘り起こしではなく、最もポピュラーなガーシュインであるところに、ブライアンの政治感覚があらわれている気がした。

Bobby-Charles.jpg ・ボビー・チャールズは今年1月に急逝したミュージシャンで、 "Timeless" は遺作だが、僕はこの人の名前を、このアルバムではじめて知った。ザ・バンドやドクター・ジョンと親交のあった人だと言うから、もっと早くに知っていてもよかったのにと思ったが、こういう人がまだいくらでもいるのかもしれないとも思った。。聴いていてまず思ったのはザ・バンドによく似ているということだ。アメリカの南部や西部、そしてメキシコのことが歌われていて、ラブ・ソングが多いが、いかにも男っぽい感じもする。ザ・バンドとはウッドストックに住んでいる頃のつきあいと言うから、ディランとも親交があったのかもしれない。ザ・バンドの引退コンサートを記録した「ラスト・ワルツ」にも出たようだが、まったく気づかなかった。

Mose-Allison.jpg ・最後はモーズ・アリソンの"The Way Of The World"だ。彼も50年代から活躍しているジャズ・ミュージシャンで80歳を過ぎた今でも、現役でコンサート活動をしているというが、僕にとってはこのアルバムが初対面だった。興味を持ったのはヴァン・モリソンやトム・ウェイツが彼の歌を歌っていることを知ったからだが、アルバムを聴いて、その楽しそうに歌い演奏する様子がすっかり気に入ってしまった。最後の「This New Situation」は娘とのデュエットのようで、特に楽しげだ。ネットで調べると、彼の影響を受けたロック・ミュージシャンは60年代から数多くいるようだ。予定されていた日本公演は体調不良で中止されたようだが、オフィシャルサイトを見ると、ロンドンのクラブでライブをやっている。しかし、何と言っても80歳を過ぎてなお、新しいアルバムを出すところがすごい。戦争を繰りかえす人間に対するシニカルな見方をつぶやく歌もあって、その反骨精神もなかなかだ。今頃になってと思うが、追いかけてみたいミュージシャンがまた一人増えた。

2010年10月18日月曜日

秋が遅い

 

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・富士山がうっすら雪化粧をしたのは9月の末だった。猛暑の割には例年通りの初冠雪で、いよいよ秋かと思ったが、それ以降はまた、暖かい日が続いている。もちろん、富士山の雪もあっという間に溶けて、今は跡形もない。とは言え、最低気温が10度前後まで下がると、朝晩は灯油のストーブが必要になる。木々の紅葉もちらほらと見かけるようにはなった。

・そんな朝、高速道路を走って東京に着くと、すでに気温は20度を越え、生暖かさというよりは、夏の名残のむっとした暑さを感じる。いつもながらのことかもしれないが、今年はいつまでも暑い気がする。だから、教室はもちろん、研究室でも、いまだに冷房をかけている。家では暖房、職場では冷房。移動の自動車では、行きが暖で始まって冷に切りかわり、帰りが冷から暖に切りかわる。そんな違いにからだがうまく対応できない。歳のせいかもしれないが、今年はそんな変化が一層強く身にしみる。

forest79-5.jpg ・自転車での河口湖や西湖一周は、毎週続けている。天気がよければ2度、3度とがんばったから、体力にはかなりの自信がついた。と思ったのだが、10月はじめに十二ヶ岳に登って、足を痛めてしまった。
・新しくできた若彦トンネルを抜けて芦川村まで車で送ってもらい、大石峠に登って、そこから御坂山塊の尾根を歩いて、節刀ヶ岳、金山、十二ヶ岳、毛無山と巡って家まで下って帰る行程だった。10キロで6時間以上かかること、山のガイド本では十二ヶ岳は危険度が3ということもあって、今まで登らずにきたのだが、山男の義兄を誘って登ることにしたのである。

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forest87-5.jpg ・十二ヶ岳は上や右の画像のように、梯子あり、吊り橋ありの難コースで、ロープを頼りに上り下りする崖は、雨上がりで濡れていることもあって、足場に気をつかう行程だった。しかも、十二ヶ岳という名前の通り、十一、十、九と一ヶ岳まで続き、そのたびに下っては登るという面倒くささだった。もちろん、頂上では眼下の西湖から富士山の頂上まで見渡せて、東西の見晴らしも開けた素晴らしい眺めだったから、いつものように、登ってきてよかったと思ったのだが‥‥‥。毛無山から家までのルートは終盤の急な下りの連続で、途中から太ももに張りが出て、最後はもつれて転ばないようにするのに神経を使った。

forest87-6.jpg ・おかげで、その後四,五日は階段の上り下りにも苦労するほどで、しかも、変な歩き方をしたせいか、その後、持病の腰痛がでた。この秋最初の山歩きで、もうちょっと軽いコースを先に歩いておくべきだったと反省したが、すでに後の祭りである。自転車もしばらく休むことにして、ここのところ、去年見つけた秘密の栗の木から収穫した栗の皮むきに精出している。収穫した栗は全部で、右の画像の四倍ほど。あちこちに配り、栗ご飯も炊き、栗のあんこも作ったが、残りは一年間楽しむために冷凍をした。

・もちろん、腰が治ったら、紅葉を見に、山歩きを再開しようと思っている。

2010年10月11日月曜日

イザベル・アジェンデ『精霊たちの家』河出書房新社

 

・今年のノーベル賞にペルーのバルガスリョサが選ばれた。僕はこの人を含めて、南米の作家の小説をほとんど知らなかった。と言うより、どんなジャンルであれ、南米の著者が書いた本を読んだことがないといった方がいいかもしれない。それだけなじみのない世界だが、アメリカに行った折りにシアトルの知人に勧められてイザベル・アジェンデの小説を読んだ。

Allende1.jpg ・イザベル・アジェンデは1942年生まれのチリ人で、1973年にピノチェトのクーデターで倒されたアジェンデ大統領の姪に当たる。アジェンデは1970年に大統領に選ばれ、社会主義政権を実現させ、銅山の国有化や農地改革などを断行したが、アメリカのCIAやチリ国内の資本家や地主勢力が後押しする軍部のクーデターによって殺害された。1973年9月11日のことである。ピノチェトの軍事政権はは、アジェンデを支えた勢力を厳しく弾圧し、数千とも数万とも言われる多くの人びとが投獄され殺されたが、その中にはビクトール・ハラのようなフォーク・シンガーやノーベル賞を受けた詩人のパブロ・ネルーダもいた。

・『精霊たちの家』は1982年にスペインで出版されている。ピノチェト政権を強く批判する内容で、チリでは輸入はもちろん、個人が持ちこむことも禁止された。しかし、ヨーロッパやアメリカでは大きな反響を呼び、1993年に映画化され、メリル・ストリープなどが出演している。日本でもこの本は1989年に翻訳されて出版されている。僕は映画も翻訳も知らなかったが、知人から進められて読んで、その物語としての力に圧倒され、引き込まれてしまった。

・『精霊たちの家』はチリの名家に生まれ育った女たちと、たたき上げで大農場の経営者となり政界にも進出した男の物語である。物語の中で流れる時間は半世紀で、家族の物語はそのままチリの歴史を映しだしてもいる。特権階級と貧しい鉱山や農場の労働者、白人とインディオ、激しく対立しあう右と左の政治運動、そして詩人やミュージシャン、芸術家たち‥‥‥。その関係は当然、家族の中にも持ちこまれる。革命運動に走る息子や、小作人の子として生まれ、反体制のミュージシャンになった青年を恋する孫娘と、彼や彼女たちを許さない父(祖父)。アジェンデの社会主義政権が誕生し、家族の者たちはその支持、不支持を巡って激しく対立するが、それでも家族の関係は切れずに持続する。父は社会主義政権を打倒した軍部による独裁を支持するが、その圧政にも疑問を持つようになる。関係を引き裂いた娘の恋人(ミュージシャン)を国外に逃亡させることに尽力し、投獄されていた孫娘の釈放に懸命になる。

・物語は孫娘に抱かれながら男が死ぬところで終わる。孫娘は投獄されていたときのことを話し、祖父は彼女の恋人が国の外で生きていることを告げる。「祖父は私の話を聞いて、なんとも言えず悲しそうな顔をした。それまで立派なものだと信じきっていた世界が足もとから崩れ去ったのだから、それも無理はなかった。」祖父は家族とチリについて彼女に話し、その物語を書くように孫娘に勧める。孫娘は祖父のことばを頼りに物語を書きはじめる。

・『精霊たちの家』はイザベル・アジェンデの処女作で、彼女は現在に至るまで数多くの作品を書いている。けれども、日本語に翻訳されたのは、この一冊しかないようだ。チリという国が日本からはあまりに遠いせいなのかもしれない。しかし、精霊たちが家の中を徘徊し、奇妙な現象が現実のこととして起こる物語は、インディオの神話のように豊かだし、アメリカに操られてきた南米の政治や経済の歴史を家族の物語として描き出す筆致は鮮やかだ。ほかの作品も英訳版で読んでみたい。読み終わって一番に思った感想である。

・PS.チリで一番の話題は、落盤事故が起きて生き埋めにされた人びとを炭鉱から救出するトンネルが完成したというニュースだろう。2ヶ月あまり地下深く閉じ込められていた人たちが、もうすぐ地上に帰ってくる。しばらくはそのニュースで盛りあがって、日本人にとって遠いチリという国が近く感じられるに違いない。