2011年3月13日日曜日

ボッツマン&ロジャース『シェア』

 

・「シェア」ということばは新しいものではない。「フリー」とともに、60年代の対抗文化の中でよく使われた。さまざまな慣習や規制に囚われずに、やりたいことを自由(フリー)にやる。そこで出来上がったものはまた、自由に作りかえられたり、ただ(フリー)で手に入れることができる。つまりシェア(共有)されることが前提になる。おおよそこんな考え方で、その典型は、この時代に登場したロック音楽やファッションに見られたが、それらはまた、新しい文化的な商品として、消費経済を活性化させることになった。

・しかし、「フリー」と「シェア」の考え方は70年代になっても、自前のコンピュータ作りに夢中になった人たちの中に引き継がれて、「ハッカー倫理」の中核になる。つまり、発明された技術や発案され、プログラミングされたソフトは、誰もが自由にただで使えるように提供され、その改良への参加もまた自由であることが原則とされたのである。このような伝統は、パソコンが商品化され、巨大な産業に成長した後も残りつづけてきたが、インターネットの中では、その利用の仕方や、ソフトの開発という点で、むしろ発想の中心に置かれてきたといってもいい。

share1.jpg・R.ボッツマン&R.ロジャースの『シェア』はネットの情報交換の場の発達が、消費社会をリードした「所有」という考えを改めさせ、「シェア(共有)」という方向を、さまざまな面に広げはじめているという。たとえば自動車は、足の拡張という道具である以上に「ステイタス・シンボル」としての役割を担って消費されてきたが、都会で生活するかぎりでは、実際にそれほど頻繁に利用する道具ではなかった。だから使わないときは誰かに安価に提供する。そんな仕組みがネットによって簡単に作られ、あっという間に広まっているようだ。同様のことは、家やさまざまな道具などにも広がっているし、使わなくなったモノや着なくなった服の売買や交換などにも広がっているという。次々と消費して捨てるのではなく、有効に無駄なく使い、利用する。そこには当然、便利さや経済性だけでなく、環境や資源の問題を考えるという大きな視点も含まれている。

・さまざまなものの共有、交換、そして贈与が成り立つためには、相互の間に信頼関係が必要だ。ただしそれは、全人格的な形で関わるほどの強い絆である必要はない。「その昔、ユートピア的なコミュニティを目指した人たちは、古いコミュニティを捨てて、いちから全部やり直すことばかりに固執していたの‥‥‥だから結局失敗してしまった。私たちがやろうとしているのは、シェアをカルチャーのコアにすることなの。カウンターカルチャーではなくてね。」

・「所有」ではなくて「共有」が当たり前になれば、当然消費は減少する。それは資源や環境にとってはもちろん、消費のためにあくせく働いてお金を稼ぐ生活スタイルからの解放を実現させてくれるかもしれない。しかしまた、モノが売れなくなった企業の多くは倒産し、失業者が増えることも意味している。しかし、この本では「<共有≫からビジネスを生み出す新戦略」と副題をつけたように、「シェア」はビジネスや産業の構造に及ぶ、大きな変革の要素なのだという。

・たとえば、テレビや新聞、そして雑誌を使った広告に陰りが見え、代わって企業が使う広告費の多くがネットに向けられるようになった。 FacebookやTwitterといったソーシャル・ネットワーク・サービスでは、広告は何であれ、それに関心を持つ人たちが寄ってくるコミュニティに載せられる。筆者たちが希望を持って見るのは、商品やサービスに対する欲望をかき立てる一方的な誘惑ではなく、人びとのニーズや欲求との間に生まれるコラボ消費という方向性である。

・確かに、ネットの動向には、そんな方向性が見て取れる。ただし、「シェア」の習慣に慣れていない日本人が、このような生活スタイルに魅力を感じ、実践するまでには、いくつものハードルがあるようにも思う。

2011年3月7日月曜日

キース・ジャレットのピアノ

 


Keith Jarrett "The Koln Concert"
"The Melody At Night, With You"
"Staircase" "Facing You"
"My Song" "Standards Live"

keith1.jpg・キース・ジャレットはジャズに限らず、クラシックにも幅を広げて活動しているピアニストだ。そしてアルバムには、ピアノ・ソロのものがかなりある。「ケルン・コンサート」は彼のアルバムの中では一番ポピュラーなもののようだ。1974年にドイツのケルンでおこなわれ、75年にアルバムとして発売された。曲目はなく一曲目からPart1、PartIIA、ParetIIB、PartIICと名づけられている。要するに全曲がこのコンサートの中で生まれた即興音楽(インプロヴィゼーション)だということなのである。

keith2.jpg・即興音楽とはあらかじめ決められた主題をもたずに、その場で演奏をする音楽だ。聴いている人はもちろん、演奏者自身にも、どんな音楽が展開されるのかはわからない。しかし、「ケルン・コンサート」でジャレットが弾くメロディはあまりに美しいから、それが即興だとは信じられない気がしてしまう。ジャズにはどんな曲にも、途中で即興になる部分がある。トリオにしろカルテットにしろ、演奏者たちが即興で奏でる音でやりとりをする部分は、多くの場合、その曲の一番の聴きどころになる。けれどもジャレットの即興は曲全体におよび、そしてたった一人でおこなわれる。そもそも、このアルバムで奏でられる音楽はジャズというよりはクラシックのようでもあり、また、ジャンルなどは越えた独自の音楽のようにも聞こえてくる。

keith4.jpg・ネットで検索してみると、ジャレットの興味深い発言を見つけることができた。たとえば、演奏の前には、演目の練習をするのではなく、準備を調えないための時間が必要なのだと言う。つまり、あらかじめ主題をイメージして、その練習をするのではなく、逆に何のイメージも持たずにステージに立てるように準備をするというのである。しかし、それは無から有を創造するためではない。彼にとって、その時生まれた音楽は「私という媒体を通して神から届けられたもの」だからである。こんなことばを読むと、彼の音楽には宗教性が強いのかもしれないと感じてしまうが、けっして教会音楽に近いわけではない。

keith3.jpg・ジャレットのピアノを聴いたのはもうずいぶん前で、ずっと忘れていたのだが、何となくYouTubeで検索をして、その魅力にとりつかれてしまった。彼の演奏を見ると、ジャレットは時に腰を浮かし、立ち上がり、うめき声を上げ、足踏みをし、あるいは奇声を発しながらピアノを弾く。それは神と聴衆をつなげる媒体=メディウム=巫女が一種のトランス状態になっておこなう祭礼のようでもある。そして一曲ごとに立ち上がり、客席に向かって頭を下げる。クラシック音楽のコンサートでは当たり前の所作だが、その対照もまたおもしろいと思った。

・というわけで、「ケルン・コンサート」をはじめとして、何枚ものCDを次々購入した。トリオでの演奏、バッハなどのクラシック音楽を扱ったものなど、彼のアルバムはまだまだたくさんあって、買い始めたらきりがないほどだが、5月の末に日本でコンサートをやるという。今度こそは泊まりがけで行こうと、迷わないうちにチケットを買ってしまった。

2011年2月28日月曜日

1968と2011

・チュニジア、エジプト、そしてリビアと中東で政変が続いている。その主体はふつうの人びとで、手段はデモによる意思表示だが、情報の伝達ややりとりにインターネットが使われているところが新しい。数千、数万、数十万の人びとが一緒になって、政権を批判し、変革を望めば、どんなに強権的な国家も、その基盤から揺さぶられて転覆してしまう。そんな様子が、手に取るようにわかる時代になった。この流れがどこまで続くか、予測もつかない状況にある。

1968-1.jpg・こんなニュースが飛び込んできたときに、たまたま、マーク・カーランスキーの『1968(上下)』(ヴィレッジブックス)を読んでいた。 1968年は世界中が大きく揺れた年として語られている。泥沼状態のヴェトナム戦争がアメリカの劣勢という事態になり、国内での反対運動が激化してジョンソン大統領が再選を諦めた。公民権運動の指導者だったマーチン・ルーサー・キングと大統領候補のロバート・ケネディが相次いで暗殺された。ソ連を中心にした東欧圏(ワルシャワ条約機構)に緩みが生まれ、チェコスロバキア(プラハの春)やポーランドで体勢を批判する動きが活発になった。中国の文化大革命とそれに呼応するキューバのカストロ。そしてフランスでは学生による街頭占拠や労働者のストライキが1ヶ月も続いた(五月革命)。

1968-2.jpg・もちろん、この年は日本でも大きな動きがあった。そのことについてもまた、すでに何冊もの本が出されている。たとえば小熊英二『1968 若者たちの叛乱とその背景(上下)』(新曜社 )、四方田 犬彦 , 平沢 剛 『1968年文化論』(毎日新聞社)、スガ 秀実『1968年』 (ちくま新書) などだ。こちらの方はどれも、大学生を中心にした政治運動や文化的な活動や現象に注目した内容になっている。日本国内における出来事とは言え、当然、それらの多くは欧米の動きと連動したものだ。

・カーランスキーの『1968』には、さまざまな出来事にメディアの力が大きく影響したことが指摘されている。マス・メディアとしてのテレビの影響力の強さが確立し、衛星放送による情報の流れのスピード・アップがはじまった。そしてイデオロギーの壁を越えたラジオ放送。だから、チェコやポーランドで発生したデモにはアメリカのやり方が取り入れられ、プラハのデモ隊の中にはヒッピーのような長髪でひげ面の若者が大勢出現した。茶の間に送られた映像が、ヴェトナム戦争の残忍さや惨さをリアルに伝えた。

・中東各国で起こったデモのきっかけは「Facebook」や「Twitter」を使った呼びかけややりとりだったと言われている。あるいは、「Youtube」へのビデオ投稿やインターネット・ラジオなどもある。これらによって、ネットに接続すれば、誰もがマスメデイア経由でなく、自分で知りたい情報や触れたい現実を目や耳にすることができる。強権的な指導者がどんなに規制をしても、その網の目をくぐって、情報のやりとりがおこなわれる。今回の出来事が明らかにした、新しいメディアの力である。

・「1968」で話題になったヴェトナム戦争は4年後にアメリカの敗北で終結し、欧米や日本の学生運動も数年のうちに沈静化した。しかし、東欧の共産圏諸国に自由が実現したのは20年も経った80年代の後半だし、アメリカの白人たちに肌の色に対する差別意識が薄まりはじめるにも、同じぐらいの時間が必要だった。ベルリンの壁崩壊に象徴される共産圏諸国の転覆には衛星放送が果たした役割が大きいとされているし、アメリカにおける肌の色という壁の崩壊には音楽やスポーツの力が強かった。そして、2008年に初の黒人大統領になったオバマはネットを駆使して流星のごとく現れ、あっという間に若者たちを虜にした。

・この半世紀近い間に起こったこと、変化したことは個人的にも社会的にも、そして世界的にもさまざまなことがある。しかし、2011年が、 1968年同様に、これから何十年経っても話題になることは間違いない。まだ2ヶ月ばかりしか経っていないのに、そう確信できるほどのことが今年はすでに起きている。

2011年2月21日月曜日

降れば大雪

 

forest90-2.jpg・今年の冬は寒い日が続いた。ほとんど雪も降らなかったから、からからに乾燥して、庭を歩くと落ち葉がかさかさと音を立てて崩れた。薪の消費量も多くて、十分だったはずが、少し心細くなってきた。
・隣の土地の所有者が木を伐採したせいで、見通しがよくなったが、家の中も明るくなった。それが辺り一面の雪景色になると、雪に反射した明かりも家に差し込むようになって、今までにない明るい部屋になった。これはこれで悪くはないが、パカーッと開けた景色は、雪が降ってもやっぱり間延びした感じだ。

forest90-1.jpg・2月の10日から11日にかけて降った最初の雪のために、入試の業務があった大学へ行くことができなかった。その旨、連絡して久しぶりの雪かきに精を出した。たまにだと楽しいが、後になると腕の筋肉や腰が痛くなった。予測されたほどの量ではなかったとは言え、あたりの様子はまったく一変した。
・ところが、14日にまた大雪で、これは風混じりで15日の朝まで降ったから、長靴が沈み込むほどの積雪になった。まだ痛みが残る体にむち打って、朝から2度目の雪かきをした。歩き回れるほどの幅で、家や工房の周囲と、道路までの道をかいたが、今度の雪は少しべたついていて、その重さが腕や腰に響いた。
・最後に車の雪を落とした頃には、もうくたびれ果てていたのだが、パートナーが「かまくら」作ろうかと言い出した。確かに雪はたっぷりとある。ベランダの雪を下に落とした所には、すでに小山ができていた。一休みするとその気になって、かまくら作りに取りかかることにした。

forest90-4.jpg・2mほどの高さに積んだところで、穴を開け始めた。外の大きさと中の広さを確認しながらの作業だから、出たり入ったりの繰りかえしで、もう体は限界に近かったのだが、パートナーが練炭コンロにストーブの炭を入れて、餅を焼きはじめた。チーズを載せてのりで巻いた磯辺巻きを3つ食べると、また少し元気が出てきた。そう言えば、もう昼に近い時間で、3時間以上も雪と戯れてきたことになる。もう少し大きくしたいという気持ちもあったが、体と相談して、一応完成ということにした。

・「かまくら」は新潟県の魚沼地方では「ほんやら洞」と言う。豪雪地帯で昔からおこなわれてきた豊作祈願の伝統行事で、水神様を祭ったりするのだという。中に入って過ごすほどの空間はないが、それなりに雰囲気はできている。早起きのパートナーは翌朝、日の出前に、蝋燭を灯しに外に出て、かまくらに入ったようだ。ブログに載せる写真のため。というわけで、僕も拝借して載せてみた。

forest90-3.jpgforest90-5.jpg

2011年2月14日月曜日

光がやってきた

・ブロードバンドが当たり前になって、もうずいぶん時間が過ぎたが、我が家では相変わらずISDNのナローバンドだった。それが昨年の秋に、突然、光ケーブルがやってくるという連絡が入った。何よりの朗報で、それから指折り数えて、工事の日を待っていたのだが‥‥‥。

・光ケーブルの敷設工事の様子は、きわめてわかりやすいものだった。湖畔の周遊道路にNTTの工事用車両が止まり、ケーブルを電柱に敷設していくのだが、車で通るたびに、我が家に近づいてくることがよくわかった。我が家に届くのは2月1日と決まっていたのだが、「早く来い」という気持ちで、工事の進む様子を眺めてきたのである。

・光の予約は、この地区では我が家が一番早かったようだ。だから、工事の始まる初日になったのだが、工事を始めてすぐに、敷設できないことがわかった。電話線は道路から我が家までは、地中に埋めたパイプを通っている。その古い線に光ケーブルをつないで引っ張って取りかえるのだが、古い線が動かないのである。今年は例年以上に寒く、特にここ数日は零下10度以下の日が続いた。だから、パイプの中で電話線が凍りついてしまったのである。

・「電話線を引っ張ってみて、動くようになったら連絡してください。」工事にきた人はそう言って帰って行った。暖かくなる春先まで待たなければならない。そんな事態に、こちらの熱も一気に冷めて、零下の気持ちになってしまったのだが、翌日から急に春めいて、最高気温が10度に近くなる日が数日続いた。そこで、ものは試しと電話線を引っ張って見ると、最初は堅かった線が動きはじめたのである。これはいい、と思ってさっそく連絡を電話でしたのだが、肝心の電話が繋がらない。どうやら、強く引っ張ったせいで電話線が切れてしまったらしい。

・電話もネットも繋がらないのではどうしようもないから、パートナーがNTTにケータイで電話をかけ、僕は縁の下に入り込んで、電話線を確認して、押したり引いたりしながら、回復しないか試みた。NTTの対応は早くて、すぐに工事担当者が来て、とりあえず電話線を新しくすることになったのだが、そうしている間に光ケーブルの担当者も来て、一緒に引いてしまうことになった。こういうのを「怪我の功名」と言うのだろう。

・もちろん、それですぐ開通というわけではなく、ルーターを設置して、晴れて使えるようになったのは、それから1週間後だった。残念ながら、開通した日は仕事があって、僕はその場に立ち会えなかった。しかし、当然だが、パソコンは立ちあげれば、プロバイダーに接続することなく、WiFiでネットに入ることができる。いつも見ているサイトに出かけても、ほとんど待つこともなく画面に現れる。研究室では当たり前の環境だったが、家でも同じ感覚で使えるのは、やはり快適だ。

・ところで、光ケーブルに変えるのにかかった費用は、工事費が6090円で、月額の費用は6510円だった。後は前回書いた地デジだが、光テレビが山梨県でも使えるようになれば解決される。ネットと電話とテレビ。三位一体での提供はCATVとの競争だが、地デジの電波や衛星放送と合わせていくつもあるテレビの受信方法は、どう考えても無駄という他はない。

2011年2月7日月曜日

地デジ対策への脅迫的お願い

・テレビのアナログ放送の停止まで半年を切った。アナログ放送の上下に廃止のお知らせが常時映るようになったのは去年の9月だが、最近では、アナログ対応のままだとこうなりますよといって画面を砂嵐状態にする警告が、時折登場するようになった。テレビを買い換えたり、チューナーやアンテナを買ったりしなければ、テレビを見ることができなくなるぞ!、という脅しがいよいよ始まったのである。

・この欄ではすでに2度、地デジ化が政策的な大失敗であることを指摘してきた。しかし、テレビはもちろん新聞も、この問題にはほとんど触れることもない。その理由が既得権の確保や自己保身の姿勢にあることは明らかだが、これほど徹底されると、何度でも繰りかえして指摘し、批判しなければという気になってくる。見ているテレビが突然砂嵐状態になって、人気の女子アナが笑顔で対応を促したりすれば、余計に腹も立ってくるというものである。ちなみに我が家のテレビはデジタル対応だがブラウン管のままで、壊れるまでは液晶などに買い換えるつもりはない。

・テレビ放送のデジタル化は世界の趨勢で、これ自体は問題とされることではない。問われるべきは地上波だけを使ってやるという点にある。この地デジ化に政府は国策として10年以上の歳月と1兆円を超える金を費やしてきた。しかし、デジタル放送は他方で、CATVやBS、CSなどの衛星放送で地デジ以前から実用化されてきた。これらを有効に使えば、全国くまなく地デジで視聴できなくても、デジタル放送への移行はもっと簡単で費用もかからずに実現できたはずなのである。

・ちなみにアメリカではテレビの視聴はCATVが主で、その普及率は70%を越えている。衛星放送やインターネットを使うことも可能だから、地デジ化の方策は、ごく限られた地域だけで済んでいるようである。あるいはEUでは、それぞれの国によって事情が異なるが、衛星放送を主にデジタル化したところが多いようだ。いずれにしても、日本のように全国規模で一律にやっているところは少ないのが実情だと言えるだろう。

・なぜ、そうなのかについては、日本特有の理由がある。まず、前述した既得権を最優先にした政策があげられて、それはCATVや衛星放送から続く電波行政の姿勢である。新しい技術が実用化された時に、アメリカでは新しい市場、新しいコミュニケーションの手段という観点から、多くの参加者と多様な使い方を自由に工夫する余地が考慮されてきた。ところが日本では厳しい規制によってそれへの参加や使用法が制限されてきた。CATVや衛星放送に独自な局や番組が登場して、それらを視聴する人びとが増えたアメリカと、内容の貧困さゆえに普及が遅れた日本との違いは、何より、国の政策の違いにあったのである。ちなみに、日本でのCATVの普及率は15%程度でしかない。

・インターネットの急速な発展と普及によって、放送と通信の境界線がほとんどなくなってきている。電波の利用を有線と無線に分けて、前者を電話、後者をラジオやテレビの放送に使い分けるようにした主な理由は、そのコストや利益の回収方法に合ったといわれている。つまり利用者や使用料を特定する必要があった電話は有線、聴取者や視聴者ではなくスポンサーから収入を得るシステムを作りだしたラジオやテレビは無線にという棲み分けになったのである。その有線と無線の棲み分けがほとんど無意味化した現在では、放送と通信を一体化して取り扱う必要があるのだが、国の政策には、そんな発想が強く見られるとは思えない。

・だから日本における地デジ化は、国民に新しいテレビやチューナー、そしてアンテナの買い換えを負担させて、余計な出費とまだ使えるテレビをゴミにしたばかりでなく、これからますます利用の増えるインターネットやケータイに電波領域の多くを割り当てることができないのだ。これは、近い将来に必ず、大きな問題になるはずである。

2011年1月31日月曜日

井上摩耶子『フェミニスト・カウンセリングの実践』

 

mayako1.jpg・井上摩耶子さんはフェミニスト・カウンセラーで、この欄でもすでに2度、彼女の本の紹介をしてきた。最初は『フェミニスト・カウンセリングへの招待』(1998)で、2回目は『ともにつくる物語』(2000) だから、『フェミニスト・カウンセリング』 は10年ぶりに出された本ということになる。しばらくぶりの出版で、彼女は編者として10人を越える執筆者をまとめている。これを読むと、「フェミニスト・カウンセリング」という仕事がこの十数年間で実体化し、社会的な役割を果たすようになってきたことがよくわかる。

・この本の著者の多くが所属する「ウィメンズ・カウンセリング京都」(WCK)は1995年に立ちあげられた。2006年にはスタッフが 10万円ずつ出資して株式会社として運営されている。カウンセリングを受けに来る人も、対応するカウンセラーも女で、そこで取り組まれるのは「ドメスティック・バイオレンス」(DV)や「セクハラ」、そして「強姦」といった問題が多いようだ。

・この種の問題を抱える女たちの相談に乗り、アドバイスをするためには、カウンセラーはやはり、女である必要がある。その理由は、加害者の大半が男であること、男には話しにくい内容であること、男の立場や固定観念から解釈され、判断されてしまいがちであることなどにある。そして、「フェミニスト」と名のつくカウンセリングである最大の理由は、相談にやってくる人たちに、問題に対する責任が自分にではなく加害者にあり、さらには、その基盤に家父長制度以来の男中心社会を正統なもの、当たり前のものとする考えがあることを理解させることにあるからだ。

・たとえば、セクハラや強姦といった問題に際してよく言われることに、男を刺激する態度や外見が原因になったのではないかとか、男の性欲は生理的なものだから、その気にさせない用心が女にも必要なのだといった主張がある。僕も女子学生たちの服装や無警戒な態度に気づくことがよくある。歳のせいか、その都度、話題にして「気をつける方がいいよ」と言ったりするが、しかし、だからと言ってセクハラや強姦にあう責任の一端が女の方にもあるとは思っているわけではない。男は確かに、性的な興味を目の前にいる女に抱くことはある。しかし、それを自覚することと、そのことをきっかけに行動に移すことの間には、限りなく大きな断絶がある。それは、誰かを殺したいと思うことと、実際に行動することの違いにあるものと同等のもののはずである。

・フェミニスト・カウンセリングはだから、相談に来た人たちに、女が置かれた立場や性や暴力についての社会通念の不当さを理解させるのが必要になる。彼女たちはしばしば、そんな社会通念を内面化し、そこから、自分の責任を痛感して、自責の念に囚われたりしてる場合が多い。そして、経験したことについて、それを自分のことばで表現し、自分で判断する力を持っていない人が大半のようだ。だから、フェミニスト・カウンセリングにとって大事なことは、何より被害者である女たちが、その不当さを自覚し、加害者や社会に向かってそれを訴える力を付与させること(エンパワーメント)にある。

・この本を読んでいて気づくのは、カウンセリングが何よりコミュニケーションであるこということだ。コミュニケーションの理想は、互いが共感しあうことにあるが、それはまた、互いが違う個別の人間であることを前提にしてはじめて意味のあるものになる。よりよいコミュニケーションは分離を前提にした結合を目指すところに生まれ、上下や優劣ではなく、平等な関係を基本にしたところにこそ実現する。コミュニケーション能力の必要性がよく話題にされるが、いつも気になるのは、その中に、このような視点を見つけにくいということだ。その意味で、「フェミニスト・カウンセリング」には特殊な状況に追い込まれた一部の女たちにとってだけではない、もっと一般的な意味で重要なコミュニケーション能力の身につけ方が模索され、実践され、獲得されているように思う。