・「シェア」ということばは新しいものではない。「フリー」とともに、60年代の対抗文化の中でよく使われた。さまざまな慣習や規制に囚われずに、やりたいことを自由(フリー)にやる。そこで出来上がったものはまた、自由に作りかえられたり、ただ(フリー)で手に入れることができる。つまりシェア(共有)されることが前提になる。おおよそこんな考え方で、その典型は、この時代に登場したロック音楽やファッションに見られたが、それらはまた、新しい文化的な商品として、消費経済を活性化させることになった。
・しかし、「フリー」と「シェア」の考え方は70年代になっても、自前のコンピュータ作りに夢中になった人たちの中に引き継がれて、「ハッカー倫理」の中核になる。つまり、発明された技術や発案され、プログラミングされたソフトは、誰もが自由にただで使えるように提供され、その改良への参加もまた自由であることが原則とされたのである。このような伝統は、パソコンが商品化され、巨大な産業に成長した後も残りつづけてきたが、インターネットの中では、その利用の仕方や、ソフトの開発という点で、むしろ発想の中心に置かれてきたといってもいい。
・R.ボッツマン&R.ロジャースの『シェア』はネットの情報交換の場の発達が、消費社会をリードした「所有」という考えを改めさせ、「シェア(共有)」という方向を、さまざまな面に広げはじめているという。たとえば自動車は、足の拡張という道具である以上に「ステイタス・シンボル」としての役割を担って消費されてきたが、都会で生活するかぎりでは、実際にそれほど頻繁に利用する道具ではなかった。だから使わないときは誰かに安価に提供する。そんな仕組みがネットによって簡単に作られ、あっという間に広まっているようだ。同様のことは、家やさまざまな道具などにも広がっているし、使わなくなったモノや着なくなった服の売買や交換などにも広がっているという。次々と消費して捨てるのではなく、有効に無駄なく使い、利用する。そこには当然、便利さや経済性だけでなく、環境や資源の問題を考えるという大きな視点も含まれている。
・さまざまなものの共有、交換、そして贈与が成り立つためには、相互の間に信頼関係が必要だ。ただしそれは、全人格的な形で関わるほどの強い絆である必要はない。「その昔、ユートピア的なコミュニティを目指した人たちは、古いコミュニティを捨てて、いちから全部やり直すことばかりに固執していたの‥‥‥だから結局失敗してしまった。私たちがやろうとしているのは、シェアをカルチャーのコアにすることなの。カウンターカルチャーではなくてね。」
・「所有」ではなくて「共有」が当たり前になれば、当然消費は減少する。それは資源や環境にとってはもちろん、消費のためにあくせく働いてお金を稼ぐ生活スタイルからの解放を実現させてくれるかもしれない。しかしまた、モノが売れなくなった企業の多くは倒産し、失業者が増えることも意味している。しかし、この本では「<共有≫からビジネスを生み出す新戦略」と副題をつけたように、「シェア」はビジネスや産業の構造に及ぶ、大きな変革の要素なのだという。
・たとえば、テレビや新聞、そして雑誌を使った広告に陰りが見え、代わって企業が使う広告費の多くがネットに向けられるようになった。 FacebookやTwitterといったソーシャル・ネットワーク・サービスでは、広告は何であれ、それに関心を持つ人たちが寄ってくるコミュニティに載せられる。筆者たちが希望を持って見るのは、商品やサービスに対する欲望をかき立てる一方的な誘惑ではなく、人びとのニーズや欲求との間に生まれるコラボ消費という方向性である。
・確かに、ネットの動向には、そんな方向性が見て取れる。ただし、「シェア」の習慣に慣れていない日本人が、このような生活スタイルに魅力を感じ、実践するまでには、いくつものハードルがあるようにも思う。