2015年6月8日月曜日

130年余前の日本

 

イザベラ・バード『日本奥地紀行』平凡社ライブラリー

isabella.jpg・もうすぐ刊行される『レジャー・スタディーズ』(世界思想社)の索引作りをしていて、何冊か気になった本があった。その一冊、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読んで、日本人やその生活の、現在との余りの違いに驚かされた。

・イザベラ・バードはスコットランド出身で、生涯の大半を旅に過ごし、何冊もの旅行記を書いた人である。アメリカ、カナダ、ハワイ、オーストラリア、中国、朝鮮、チベット、マレーと、その行き先は世界中に及ぶが、日本には明治11年に訪れ、東北から北海道まで出かけている。新橋と横浜間に鉄道が敷かれたばかりの時代だから、東北や北海道への交通手段はほとんどない。徒歩と馬によったのだが、道自体も未整備なところが多く、梅雨時だったせいもあって、難行苦行の旅だった。

・読んでまず驚くのは、農村に住む人たちの暮らしぶりについての描写である。男はふんどし、女は腰巻きぐらいしか身につけず、小柄で痩せていて、皮膚病などに冒されている。衣食住の貧しさはごく一部の地方都市を除いて当たり前のことで、それは彼女が宿泊した旅館で出される食事の貧しさ、部屋のお粗末さ、そして蚤や蚊に悩まされる描写にも表されている。

・悩まされるのはそれだけでない。ヨーロッパ人の感覚では当たり前のプライバシーがまったく保たれず、同宿者から部屋を覗かれるし、部屋まで入ってこられたりする。そもそも宿の部屋は襖や障子でしきられているだけで、しかも穴だらけなのである。覗かれるのはそれだけではない。外国人がやってきたことが伝わると、村や町中の人がやってきて、一目見ようと塀越しに鈴なりになる。これが毎晩のように繰り返されるのである。

・彼女は簡易のベッドや蚊帳を持ち歩き、また携帯食や薬も携行した。それがまた、人々には珍しく、ひどい皮膚病の人に薬をつけて治したりしたから、すぐに噂になって、多くの人が雲霞のごとく寄ってくる理由にもなった。このような描写を読んでいると、時代劇などからおおよそ連想していた江戸時代や明治時代の日本の状況とはまるで違うことに、目から鱗という思いになった。

・もっとも、彼女が感心することもいくつもあった。親だけでなく大人達が子どもをかわいがっていること、その子どもたちが大人に対して従順であること、何か助けてもらうことがあって御礼をしても、受け取らない謙虚な人が多いこと、荷物の運搬を手伝った報酬についても、多すぎると言って返す人がいたたこと等である。欺されたり、追いはぎに遭ったりすることもなく、数ヶ月かけて東北から北海道まで旅できたことは、彼女にとっては奇跡にも近いことのように感じられたのである。

・北海道で彼女が特に興味を持って滞在したのはアイヌの部落だった。そして、その身体的な違いについて、頑健さや顔の彫りの深さ、目の大きさ、毛深さなどを日本人と比較して美しいと表現している。彼女は日本人よりも興味を持ったようだが、しかしそのアイヌ人は、明治以降の国策で人口を急激に減らされてしまった。

・バードはこの旅行の後もたびたび日本を訪れている。その20年ほどの間に、日本は近代国家として大変貌を遂げた。しかし、その間も東北などの農村の状況にほとんど変化はなかったようだ。と言うよりも、農村部が豊かになるのは第二次大戦後の経済成長によるのだから、都市と農村の貧富の差はますます大きなものになっていったのである。

・この本を読んで、日本と日本人がわずかの間に大きく変貌したことを、今さらながらに実感した。そして、近代化によってもほとんど変わらない、日本人の気質についても改めて、確認した。

2015年6月1日月曜日

新しい自転車

 

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masistrada.jpg・5月になってから週に2〜3回、自転車に乗っている。薪割りも終わったし、しばらくは山歩きにも行けないから、もっぱら自転車を漕いで、河口湖や西湖を走っている。実は4月に新しい自転車を注文して、それが5月の半ば過ぎにやってきたのである。イタリアのMasiが作っているstradaという名の自転車で、70年代のモデルをリバイバルさせたものである。最近のロード・バイクはアルミや炭素繊維が主流だが、これはクロモリという鉄合金でできている。軽くはないが、細身のフレームが気に入って、買うことにした。

・最初はネットでの購入を考えていて、Amazonでも見つけたが、ロードバイクはギアやブレーキなどの調整が難しい。いろいろ調べていると、最近富士吉田にできた、モンベルの専門店でも扱っているのを見つけた。さっそく注文したのだが、部品に不具合があり、また連休をはさんでしまったので、手に入るまでにはずいぶん時間がかかってしまった。しかし、調整は店で係の店員がやってくれたので、いろいろ細かな説明をしてもらった。タイヤの外し方や空気の入れ方、あるいはギアの仕組み等々、Amazonで買っていたら、わかりにくくて困っただろうと思った。

・その新しい自転車に乗って驚いたのは、スピードの違いである。これまで乗っていたクロスバイクより10キロも早い。だからついついがんばって平地で40キロも出してしまった。当然、翌日は筋肉痛で、立ったり座ったりするたびに「痛!」ということになった。しかし、今までどうしても越えられなかった我が家から河口湖1周50分の壁をあっさり破ってしまったし、高低差が80mある西湖1周の平均時速も20キロを越えて23キロで走破した。とは言え、もっと早くなどとがんばらないこと!のんびり行きましょう!!といいながらペダルを踏んでいる。

forest125-2.jpg・モンベルの店に僕が持っているのと同じ折りたたみ(フォールディング)カヤックが展示してあったので、修理を頼むことにした。組み立て式のカヤックは骨組みがアルミでできている。組み立てやすくするために数本をゴムで繋げているのだが、長年使っていて、そのゴムが切れてしまっていたのである。ばらばらになったアルミ棒を正しくつなげるにはかなりの時間がかかる。で、客でも来たとき以外には滅多に乗ることもなかったのだ。

・そのカヤックで久しぶりに西湖に漕ぎ出した。パートナーもやったのだが、二人とも後で、太ももの内転筋に張りを感じた。リハビリ病院でも内転筋の強化は難しいと言われていたようで、思わぬ発見になった。カヤックはオールを漕いで進むのだが、腕や手だけでなく足と腹筋で踏ん張る必要がある。もっともこれも、浮かんでいるのが楽しいのだから、筋肉痛になるほど一生懸命漕ぐことはないのである。

2015年5月25日月曜日

空恐ろしい「アベ」の時代


phil.jpg・ジョージ・ソーンダースの『短くて恐ろしいフィルの時代』は「内ホーナー国」とその外側にある「外ホーナー国」の物語である。「内ホーナー国」の住民は6名だが、小さすぎて一度に一人しか入れない。だから残りは「外ホーナー国」の国境沿いにはみ出して立っているしかなかった。「外ホーナー国」には十分広い土地があったが、国境の侵犯を苦々しく思っている者が少なくなかった。

・「外ホーナー国」の住人のフィルは「内ホーナー国」のキャロルに恋してふられたのを根に持って、「内ホーナー国」に嫌がらせをし始める。大統領に取り入って国境警備隊を組織して、国境侵犯を理由に、「内ホーナー国」にある一本のリンゴの木と小川を税として取ってしまう。あるいは住民の持っていた有り金や着ている服まで奪ってしまう。調子に乗ったフィルはやがて大統領を追放して、自ら大統領を宣言することになる。「内ホーナー人」を閉じ込める監獄を作ったが、それを「平和促進用隔離区域」と名づけた。

・この騒動は「外ホーナー国」の外側にある「大ケラー国」にも伝わった。コーヒーを飲みながらおしゃべりをすることが好きな7人の国民が住んでいた。しかし、フィルの横暴に危機感を持って、「外ホーナー国」に軍隊を派遣し、フィルの「親友隊」を滅ぼすことになる。「平和促進用隔離区域」(監獄)から解放された「内ホーナー人」が逆襲をし始めると、空から大きな手が降りてきて、両国の住民を眠らせてばらばらに分解をした。実は両国の住民は機械の部品や植物で合成されていたのである。大きな手(創造主)はそれらをまた組み立て直して、15人の住民を作り、国境線をなくして「新ホーナー国」とした。ただし、フィルの脳みそは小川に捨てられて魚の餌になり、胴体は「モンスター」として彫像にされた。

・最初はイメージしにくい奇妙な話だと思ったが、日本と沖縄、そしてアメリカの関係にダブるように感じられてからおもしろくなった。あるいはフィルの言動が、安倍によく似ていることも気になった。もちろん、この物語を書いたソーンダースは日本や沖縄を意識していたわけではない。書かれたのは2005年だから、2001年9月11日に起きたニューヨークでのテロ事件との関連で批評されたりもしているようだ。

・9.11とその後のブッシュの行動が、イラクやシリアの混沌とした無秩序状態もたらしたことは間違いない。だから、イスラム国を生む元凶となったブッシュもフィル同様に「モンスター」として彫像にされてもおかしくないのだが、残念ながら現実の世界には「創造主」が現れることはない。もちろん、世界中の紛争の解決をお願いすることも出来ない。けれども現状は、神頼みでもしなければならない泥沼状態になってしまっている。

・日本のフィルであるアベもまた9.11後のブッシュにそっくりである。この「恐ろしいアベの時代」をどうしたら終わらせることが出来るのだろうか。先週の大学の講義で、僕は「嘘と秘密」をテーマにしてアベの言動を例に「ダブルスピーク」の話をした。しかし学生達のほとんどは「国際平和支援法案」も「ホワイトカラー・エグゼンプション」も、その名前すら知らなかった。「秘密保護法」も「マイナンバー制度」も自分に関係する危険な法案なのに、なぜこれほど無関心でいられるのか。話をしながらあきれて、途方もない無力感に襲われた。

・彼や彼女たちが「内ホーナー国」の住民になって「平和促進用隔離区域」に閉じ込められなければ気づかないとしたら、フィルであるアベは、いけいけで自分の野望の実現に向けて暴走するだけだろう。「空恐ろしいアベの時代」は、すでに短いといえないほど長く続いているのである。

2015年5月18日月曜日

「ダブル・スピーク」乱発と無関心

・今国会でとんでもない法案が次々と可決されようとしています。とんでもないのに、メディアも国民も大騒ぎをしない。その原因の一つは、とんでもないものであることを隠した法案の名前にあります。たとえば、安倍首相がアメリカで約束した「国際平和支援法案」はアメリカがやる戦争を自衛隊が支援することを合法化するもので、「戦争法案」という批判が浴びせられました。国会の審議で出たことばで、実態を正確に表しているのに、首相のレッテル貼りという批判に同調して委員長が撤回の要求という、とんでも発言をした経緯があります。

abe.jpg・国連の決議にしたがってというのならまだわかります。しかし「国際平和支援」というのはあくまでアメリカ一国に対してのものですから、アメリカがする戦争を支援する法案であることははっきりしているのです。アメリカがこれまでやってきた戦争が「国際平和」のためだったのかどうか。それはヴェトナム、アフガニスタン、イラクなどをみれば一目瞭然でしょう。安倍首相はアメリカの議会での演説で、それを「希望の同盟」と呼んで拍手喝采されました。(右図はNYタイムズから)

・「支援」というと戦争には参加しないように聞こえます。しかし、戦争をするアメリカ軍のために兵器や物資を補給する役割を担うのですから、戦争に参加することに他ならないのです。軍事評論家の田岡俊次は、戦争で一番の攻撃目標は前線ではなく後方の補給部隊で、それは直接戦闘に参加するよりもっと危険だと指摘しています。そんな危険な法案が、国会での審議以前にアメリカとの間で合意され、国会でも自公の賛成によって可決されようとしているのです。

・戦争をするための法案を「平和」と名づけるのは、まさにオーウェルの「戦争は平和「(War is peace.)そのもので「ダブル・スピーク」です。そしてこのような使い方を安倍政権は「積極的平和主義」でもしてきました。日本は憲法によって軍備は持てないことが明記されています。しかし自衛隊を作って、他国の侵略に対して自衛する軍備は持てるということにしてきましたが、それでも自衛隊は憲法上は軍隊ではないのです。その自衛隊がアメリカの戦争に参加できるようにするというのですから、もう憲法はあってなきがごとしになってしまうのです。

・国会で可決されることが確実なものにもう一つ、「残業代ゼロ法案」があります。もっともこれは批判として名づけられたもので、正式名称は「ホワイトカラー・エグゼンプション」と言います。エグゼンプションは「免除」という意味ですが、免除の対象は雇用者が被雇用者に払うべき残業代にあるのです。つまり残業代を払わずに残業させることを合法化しようというのです。

・この法を提案した厚労省は、報酬なしに残業させるのではなく、残業しないで済むよう促すもので、年収も1000万円以上に限定していることを力説しています。かつてこの法案は「家庭団らん法」などと名づけられたこともありました。しかし施行されれば、この法を盾にただで残業させることが出来るわけですし、派遣法と同様、徐々に制限を緩和していくことは目に見えているのです。

・その派遣法に課されていた3年という契約期限も撤廃されようとしています。3年以上続けて働いたら正規の雇用にしなければならない。その規制を取り払って、何年でも派遣のままで働かせようというわけです。「残業ゼロ法案」もいずれ同様の道を辿るでしょう。

・安倍政権が掲げてきた政策や彼がこれまで公言してきたことばはすべて「ダブルスピーク」だと言っていいでしょう。「戦後レジームからの脱却」に、アメリカへの従属は含まれていませんし、「自虐史観」は侵略の事実をないことにする姿勢に他なりません。強者におもねり、弱者をくじく。「ダブル・スピーク」は、その事実を隠し正当化するためのレトリックで、そんなインチキをもっと声高に批判する必要があると思います。

War is peace.jpg・戦前、戦中(戦争)があったから戦後(平和)がある。しかし戦後(平和憲法)の次にまた戦前(憲法無視と改正)が来ようとしています。安倍首相の「日本を取り戻す」というスローガンには「戦前の」ということばが込められているのです。無関心ではいられない状況なのですが、安倍政権の支持率は5割前後で安定しています。まさに「無知は力」(Ignorance is strength)で、恐ろしい世の中になったものだと思います。

2015年5月11日月曜日

野茂から20年のMLB

・野茂がメジャー・リーグのマウンドに立ってから20年が過ぎた。彼は2008年まで現役を続け、メジャーで318試合に先発して123勝(12年間)をあげたが、僕はその多くの試合をテレビで見てきた。彼が投げていた時期ほどに熱中することはなくなったが、その後もずっと、MLBの試合を楽しんでいる。

・野茂は日本人投手がメジャーで通用することを証明したまさにパイオニアで、その後何人もの投手がメジャーで活躍してきた。今年は黒田と松坂が日本に戻ったが、ダルビッシュや岩隈、そして田中など、日本人投手が活躍するだろうと思っていた。しかしダルビッシュがキャンプ中に肘を手術し、岩隈も田中も故障して、日本人の先発投手は誰もいなくなってしまった。現在投げてるいるのはボストンの上原と田沢だけである。

・日本人投手に限らず、肘を故障して手術をする投手が急増しているようだ。肘の靱帯(じんたい)を断裂した投手に施す手術は通称トミージョン手術という。最初に手術をした投手にちなんで名づけられたもので、考案したのはフランク・ジョーブである。すでに1000人近い投手が手術をしていて、日本人投手でも村田兆司以降、多くの選手が手術をしている。

・故障再発の田中がどうするのかが話題になったりしていて、テレビの中継も今ひとつ盛り上がらないようだが、ぼくはかえってよく見るようになった。理由はサンフランシスコに移籍した青木の試合がよく中継されるようになったからだ。代打要員としてマイアミに移籍したイチローもレギュラーの故障で先発するようになった。去年までとは違ってナショナル・リーグの中継が多くなったから、今まで見なかったチームや選手のプレイ、そして球場は新鮮である。

・その青木とイチローがサンフランシスコのAT&Tスタジアムで対戦した。ジャイアンツとマーリンズはともにスタートダッシュに失敗したが、青木は開幕以来絶好調で、チーム一の打率と得点、そして盗塁をし、イチローも先発するようになってムードメーカーとしてチームの連勝を引っ張ってきた。だから楽しみにしていたのだが、青木はちょっと前からスランプ状態でヒットがなく、イチローも先発から外されて出番がなくなってしまった。

・いずれにしても、青木が元気ならば、これからもSFジャイアンツの試合を楽しむことが出来る。メジャーで長く活躍した野手は、イチローしかいないのだから、がんばって欲しいと思う。僕はイチローは好きではないが、一度はワールド・シリーズに出て欲しいと思う。今年は案外チャンスなのかもしれない。ジャイアンツは1年おきのチャンピオンだから、今年は一休みだろうか。彼が活躍しているうちにまた、サンフランシスコで野球が見たいものである。行きたいと思っていながら、野茂の試合を見ることができなかったから。

2015年5月4日月曜日

最近買ったCD

 

  • Bob Dylan "Shadows in the Night"
  • Van Morrison "Duets"
  • Madonna "Rebel Heart"
  • Joni Mitchell "Through Yellow Curtains"

dylan14.jpg・ディランがフランク・シナトラを歌う。ちょっと耳を疑うようなニューアルバムだが、クリスマス・ソングも歌って、それがなかなか良かったから、期待して買うことにした。シナトラの歌には詳しくないから、知っている曲は多くはなかった。しかし、ディランの歌い方はいつもと違ってメロディに合わせていたが、バックはいつものメンバーで管も弦もない。そんなサウンドはきわめて新鮮な印象だった。カバーであってカバーでない。批評には、スタンダード・ナンバーにかぶせられたパターン化したカバーを剥がす試みと書いたものもあった。手垢にまみれてお蔵入りになった歌が新しい歌として蘇ってきた。そんな感じで聴いて、心地いい気持ちになった。
van2.jpg・ヴァン・モリソンのニュー・アルバムはタイトル通り全作デュエットである。新曲はなく、しかもヒットしたものではない地味な曲ばかりを16曲集めている。デュエットの相手も有名なのはマーク・ノップラーとスティーブ・ウィンウッド、ジョージ・ベンソン、あるいはナタリー・コールぐらいだ。しかし、すべてが新たに録音されたもので、オリジナルの歌とはかなり違っている。
・たとえば、「アイリッシュ・ハートビート」は1988年にチーフタンズと出したものだが、マーク・ノップラーとのデュエットはまったく新しい歌のように聞こえてくる。懐メロを懐メロとして歌うのではなく、新しい歌として蘇らせる。そこにはディランと同じ試みが感じられた。
madonna5.jpg ・マドンナのニュー・アルバムのタイトルは「反抗心」だ。このアルバムには何種類もあり、ブックレットにはSM風の過激な写真が載っているし、グラミー賞の授賞式では尻丸出しのコスチュームで出席したようだ。もうすぐ還暦だが心も身体も若い、というよりは懸命にがんばって、若いままでいることに懸命だ。ブックレットを見ながら聴いて、改めてそんな印象を持った。老成したディランやモリソンとは違って、マドンナはあくまで突っ張り続けている。しかも、ナイーブな一面も同時にさらけ出している。ビジネスとしても大成功のようだから、やっぱりすごい人だなと思った。
joni5.jpg ・ジョニ・ミッチェルのアルバムはデビュー前に録音されたもので、2枚のCDに30曲以上が入っている。1966年から67年にかけてフィラデルフィアのライヴ・ハウス、セカンド・フレット・クラブで演奏した時のライヴを収録したもののようだ。70歳を過ぎてなぜ、20代前半のデビュー以前のライブを発表したのかよくわからない。しかし、歌の多くはデビュー後に発表されたいくつものアルバムに入っているから、早くから持ち歌をたくさん作って歌っていたことはよくわかった。 ところが彼女は、モルジェロンズ病という奇病にとりつかれて闘病中のようだ。意識不明で病院に搬送されたといったニュースもある。

2015年4月27日月曜日

奥村隆著『反コミュニケーション』弘文堂

 

okumura1.jpg・コミュニケーションを研究する専門家は、誰よりコミュニケーション力がある。そんなふうに思われていると感じることがよくある。しかし、関心を持った動機は、人と会って表面的なつきあいをすることが苦手とか、集団行動が嫌いという自覚にあって、他の人はなぜ、それができるのかといった疑問だったりした。この本の作者もその点は一緒で、「反コミュニケーション」という刺激的な題名の本を書いたきっかけについて、まず、次のように書き始めている。


・私はコミュニケーションが嫌いだ。できれば人と会いたくない。ひとりでいたい。電話もメールもしたくない。

・コミュニケーションはやればやるほどいい。良いコミュニケーションとはお互いに100%理解し合えることだ。こんな考え方が常識としてまかり通っているが、本当にそうだろうか。この本が提示する疑問と考察は、まずそこから出発する。もちろん、コミュニケーションについての研究も、多種多様にある。そこで考えたのが、主要な研究者の理論を分析することで、世界中の哲学者や社会学者、心理学者、そして文化人類学者などを訪ね、実際にコミュニケーションをしながら解き明かしていくという筋書きだった。当然、もう生きてはいない人が多く含まれている。

・筆者が訪ねたのは順に、J.J.ルソー、G.ジンメル、J.ハバーマス、鶴見俊輔、R.D.レイン、J.P.サルトル、G.ベイトソン、R.ジラール、E.ゴフマン、N.ルーマン、そしてA.ギデンズである。どの人も、僕が関心を持って追いかけてきた人で、架空の会話を、まるで一緒に参加しているように読んだ。

・パリで会ったルソーが話したのは「浸透」しあい、「透明に交通」しあうコミュニケーションで、そこには「真の社交=社会」という理想があった。しかし、次にベルリンで会ったジンメルは、「結合」だけではなく「分離」の重要性を説き、都市生活では「全体的」ではなく「部分的」な関係こそが基本で、「社交」は「結合」を装って「分離」するための距離を保つ手段なのだと言った。

・ベルリンで次に会ったハバーマスは、小さな講演会で「理性的な対話」を説き、合意のために必要な要素として「真理性」「正当性」「誠実性」をあげて、それこそが「コミュニケーション行為」なのだと力説した。しかし、たまたまそこに同席していた鶴見俊輔は、「コミュニケーション」を「ディスコミュニケーション」との関係で捉えることの重要性を指摘して、ハバーマスの「コミュニケーション行為」が一つのユートピアニズムにすぎないと批判した。

・この後、場所はロンドンに移り、レイン、サルトル、ベイトソンの鼎談に同席する。話題になったのは「アイデンティティ」の「存在論的不安定」と「にせ自己」、「遊び」と「ダブルバインド」等である。コミュニケーションは自己を不安定にし、閉じ込めもするが、また関わることの楽しさを実感させもする。その両義性を巡って議論は盛り上がった。

・筆者は次にアメリカに行き、ゴフマンに会う。話題は当然、日常的なコミュニケーションにおける「行為」と「演技」の問題だ。人間関係には必ず、表と裏がある。その二重性はコミュニケーションを「空虚」にするけれども、また「演技」には遊びの要素が含まれるし、たがいの人格を尊重しあう「儀式」という側面もある。

・ハバーマスの論敵であるルーマンとはメールでのやりとりをした。ここで交わされたのは、「合意」ではなく、「誤解」や「雑音」、そして送り手ではなく受け手への注目である。よくわかり合うことではなく、接続しあうことこそが大事というわけである。

・僕はほとんど同じ人たちを取り上げながら『コミュニケーション・スタディーズ』を編集したことがある。だから読みながら、問題意識を大きく共有していることに意を強くした。古今東西のコミュニケーション論者との架空の対話という発想もきわめて興味深いものである。「コミュニケーション力」などということばが一人歩きをして、それを脅迫的に身につけねばと思い込まされている若者が多い現状について、もっともっと批判をしなければと思わされた一冊である。