2016年6月6日月曜日

逢坂巌『日本政治とメディア』中公新書

 

ohsaka.jpg・安倍首相がサミットで今の世界状況をリーマンショック前夜と似ていると発言して、海外から批判を浴びている。消費税率を10%にあげるのを再延期する口実に利用したからだ。その再延期の会見は夕方のテレビで長々と中継された。もちろん本人の口からアベノミクス失敗によりという説明はなかった。理由はあくまで外因によるというものだった。

・そのサミットやオバマ大統領の広島訪問もまた、テレビでは大きく報じられた。いったいサミットで何が決まったのかよくわからないし、広島での演説はオバマの格調の高さに比べて安倍のお粗末さが目立つばかりだったが、政権の支持率は急上昇した。消費税率引き上げ再延期の発表にはもっともいい機会で、最初からこの機会を狙っていたのは明らかだろう。で、いつものように、メディアから強い批判の声が起こることもなかった。このまま参議院選挙運動に突入して、与党の勝利という筋書き通りに進むよう、メディアは協力を惜しまないのかもしれない。

・逢坂巌の『日本政治とメディア』は第二次大戦後の日本の政治とメディアの関係を,詳細に追った好著である。この本を読むと、日本のメディアと政治の関係がなぜ,現在のような形になったのかがよくわかる。とりわけ重要なのは,戦後に始まったテレビを政治がどう扱い、利用してきたかという点だろう。

・日本のテレビは1953年から始まった。そのテレビと同時期に開局した民放ラジオに注目して積極的に利用したのは、吉田茂に変わって政権の座に着いた鳩山一郎からである。ただし、彼が重視したのは普及率の低いテレビよりはラジオだった。電波メディアが政治にとって重要であることは、アメリカにおけるメディアの役割から学んだものだった。その利用はテレビの普及と共に、その後に首相になった石橋湛山、岸信介によって強化されていった。

・自らの言動が記者によって記事になる新聞よりは、直接画像と音声で伝えることができるテレビの方が、自分の意図を国民に理解してもらえる。もっと言えば、思うとおりに世論を誘導することができる。記者を排除してテレビの前で退陣会見をした佐藤栄作はその好例だが、今太閤と言われて人気者になった田中角栄は,その気取らない言動が,きわめてテレビ受けする初めての政治家でもあった。また、その時期にはテレビタレントが多く議員に転出した。政治家として適任かどうかではなく、有名性や人気が投票行動を左右するようになったのである。

・テレビやラジオは国の認可によって放送が認められている。最初はGHQの指導によって、内閣から独立した電波管理委員会によって設置が検討されたが、GHQから独立するとすぐに、吉田政権下で郵政省の管轄下に置かれた。新聞社とテレビ・ラジオの経営体が同じだという「クロス・オーナーシップ」は既得権になって、UHF局開設時にも,地方新聞が経営体になることで拡大され、BS放送にも援用された。テレビやラジオはもちろん,新聞社と政権の間には、このような根本的な癒着関係があるのである。

・テレビは報道よりは娯楽に適したメディアである。と言うよりはすべてを娯楽化するメディアだと言った方がいい。報道を娯楽化した番組、娯楽番組に政治家を登場させる番組。そんな傾向が政治家によりイメージ管理の重要性を認識させ、イメージのいい政治家を出現させることになる。もちろん、ここにはテレビが何よりCMのメディアだという特徴も付け加えておかなければならない。だから、イメージを損なうような報道には,免許権の剥奪を脅し文句に使ったりもするようになった。本書を読むと、最近に至るメディア統制の道筋が,改めてよく見えてくる。

・安倍政治はすでに破綻している。アベノミクスの失敗はもちろん、それを誤魔化す嘘や失言も日常化している。しかしそのことを正面から批判する声はマスメディアからは,まだ聞こえてこない。それは現政権のメディア統制の結果だが、それ以上に、現状をあまり変えたくないというメディア自体の保守性にある。本書を読んで思うのは政権によるメディアの抑圧よりは、メディア自体の露骨な保身術の方である。

2016年5月30日月曜日

まだやるぞ

 

ボブ・ディラン"Fallen Angels"
エリック・クラプトン" I Still Do"
トラビス"Everything At Once"
マーク・ノップラー"Altamira"

Dylan.jpg・ディランは1ヶ月に及んだ日本公演を無事済ませて帰国したようだ。その元気さにただただ敬服したが、75歳の誕生日に新しいアルバムが発売された。といっても新曲ではなく、前回同様ジャズのスタンダード・ナンバーを集めて歌ったものである。タイトルの「フォーレン・エンジェル」はカード・ゲームの名前で、ジャケットにもトランプ4枚持った手が使われている。ただし同名の曲はない。スタンダードと言っても、知っている曲はひとつもなかった。前作の『シャドウ・イン・ザ・ナイト』を聴いた時とは違って、ライブでもおなじみの歌い方や演奏だから、もうすっかりなじんでしまった感じだった。原曲通りに、わかりやすく歌うのを聴いていると、オーチャード・ホールで見た姿が浮かんでくる。

clapton5.jpg ・エリック・クラプトンは引退宣言をしては復活する。だからもうアルバムが出ても買うのはよそうと思っていた。しかし、ジャケットの絵とタイトルの「アイ・スティル・ドゥ」が気になって買ってしまった。直訳すれば「まだやる」だし、描かれたクラプトンは髪を刈り込んだ爺さんだったからだ。ネットで調べると「アイ・スティル・ドゥ」は好きなおばさんの口癖で、昔はかわいがってもらったと言った時に出たことばだとあった。だからその文脈では「今でもそうよ」といったニュアンスになるのだろうが、アルバム名としては「まだやるぞ」といった宣言に近いのかもしれない。"We shall overcome"にそっくりの"I'll be Alright"が気になった。調べてみると本歌のようだ。

travis6.jpg ・トラビスの『エブリシング・アット・ワンス』は2年ぶりの新作である。その前が5年ぶりだったから、今度は「もう出たの」という感じだった。聴いた感じは前作の『ホエアー・ユウ・スタンド』について書いたのと同じで「相変わらずのトラヴィス節で、以前のアルバムと続けて聴いたら、どれがどれやらわからないほどだ」となるだろう。バンド名の由来はヴィム・ヴェンダース監督の『パリ・テキサス』の主人公名だったと記憶している。妻子を捨てて失踪した男がテキサスのパリという街で再開する話だ。あるいはマーチン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』で主演したロバート・デ・ニーロが演じた男の名もトラヴィスだった。しかし、このバンドが作る音楽はどちらとも無縁で優しく暖かだ。

altamira.jpg ・最後はマーク・ノップラーの『アルタミラ』。映画のサントラ盤で、アルタミラ洞窟を発見した人物の物語のようだ。学校の教科書でもおなじみの壁画だが、僕は一昨年に出かけて見た。実物は損傷がひどくて閉鎖されていて、今はそのレプリカが展示されている。発見者はマルセリーノ・デ・サウトゥオラ侯爵の娘で、アマチュアの考古学者だった侯爵が1880年に旧石器時代のものだと発表したが、相手にされなかったようだ。肝心の音楽だが、スペインにケルトが混ざったような感じに、アルタミラよりはガリシアを思い浮かべた。できれば映画も見てみたいものである。

2016年5月23日月曜日

日々のあれこれ

 

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fuki1.jpg・大きなケヤキや赤松が生える庭には木漏れ日しかささないが、下草や花で一面緑になっている。その中をよく見ると、一番早く咲いた片栗の花が実をつけている。はじけた実はアリが運び、甘い実を取ってタネをどこかに捨てる。そのタネが発芽をして花を咲かせるまでには7〜8年かかるそうだ。毎年10ほどの花が増えて,今年は80になった。今年つけた実が発芽して花をつけるのはまだだいぶ先だが,いったいどこで根づくのだろうか。庭一面の片栗の花となるまで、ここに住み続けることができるのだろうか。などと少し感傷的になった。

fuki2.jpg・今の庭の主役は蕗だ。毎年、その茎を僕が取ってパートナーが佃煮にする。冷蔵庫で保存しながら1年中食べている。母親が元気な時には毎年実家にも運んでいた。老人ホーム住まいになってからやめたが、たくさん摘んで車で運んだことを思い出した。最近は部屋に飾る花と,好きなナッツや煎餅を持って訪ねている。脳溢血の後遺症で直近の記憶が怪しくなっているが、昔の記憶は話せば思い出す。今度行ったら蕗の話をしようかと思う。

・研究室の本を毎週段ボールで5つほど家に運んでいる。院生や卒業生も持って帰っている。だから部屋の本棚が少しずつ空になっている。しかしまだやっと3割といったところだろう。夏休み前には5割にして、部屋の模様替えもしたいと思っている。

・2月に次男のところに男の子が生まれた。孫は3人目だが、東京だから時折出かけている。会うたびに,こんなこと、あんなことをするようになったと言われる。可愛いけど見ていて育児は大変だな,とつくづく思う。僕がやったのは、もう30年以上も前だった。二人ともパートタイムの仕事だったから子どもは一度も預けなかった。今は話題通りに保育所難で預けられそうもないようだ。

amari.jpg ・パートナーはリハビリでがんばっている。回復は亀の歩みよりものろい。それでも何とか山歩きをと,最近湖畔にできた羽根子山の遊歩道をせっせと登り下りしている。できるだけ山に登った雰囲気を味わいたいと、頂上近くまで車で行けるところに出かけてもいる。甘利山の頂上はツツジの群生で有名だが、まだつぼみが堅かった、しかし好天で富士山が間近に見えた。翌週に出かけた帯那山同様、頂上近くまでの道は狭く曲がりくねって、車ではかなりハードで、運転者は登る前に疲れてしまう。

・頻尿の症状は少しましになった。薬(ノコギリヤシ)が効いたのかもしれない。しかし原因が自転車にあるかもと思って、サドルを交換した。身体に合った位置にセットするのはなかなか難しい。乗り終わったたびに修正しているが、まだしっくりしない気もする。それにしても、週末の湖畔は自転車がいっぱいだ。ロードバイクも多いが、レンタル自転車に乗った外国人が目立つ。隘路やカーブもあって,自動車が不用意な追い越しをするから、危ないと思うことが多い。パートナーもエアロバイクを漕いでいる。パソコンの画面にYoutubeのサイクリング場面を映して、世界中の道を走っている。ただ漕ぐ時とは違って,やる気が出たようだ。最近体重計を買って、何グラム減ったと競争している。

2016年5月16日月曜日

おかしな世の中ですね

・機密だったパナマ文書が漏らされ、「タックス・ヘイブン」(租税回避地)を利用して資産隠しをしていた著名な政治家や大企業等々の名が明らかにされました。合法な行為とは言え、本来ならば収めなければならない税負担を軽減させるためにできている制度ですから、倫理的な意味では非難されて当然だと言えるでしょう。何しろ今の世界は、わずか67人の大富豪が所有する資産が、世界人口の下半分の36億人分と同じだというのですから

・だからこそ、アメリカの大統領選挙で無名だったサンダースが多くの支持を得ているのですし、トランプ人気も不満の憂さ晴らしが理由だといわれています。EUでも不公正を非難して大規模なデモが繰り返されています。このような富の偏在といった状況は日本でも同様で、「一億総中流」と言われた社会は,もうとっくに崩れています。斜陽の国なのに富める者がますます金持ちになる。日本にもサンダースが現れてほしいのですが、出るのはトンデモ政治家の不祥事ばかりです。

・斜陽の国日本の中で東京だけが財政的には豊かなようです。知事の公私混同は目に余りますし,そのせこさはうんざりするばかりですが、マスコミの桝添たたきにも違和感を覚えます。石原元知事はもっとひどかったのに,なぜ騒がなかったのでしょうか?甘利はどうしたの?安倍首相の外遊を無駄遣いとして問題にしないのはなぜ?そもそも自民党議員の相次いだ不祥事はどうなってしまったの?自民党を叩くと「中立公正」を欠くと批判されると自粛をしているとしか思えないのですが、どうでしょうか。

・伊勢志摩サミットの際にオバマ米大統領が広島を訪れることが決定しました。ただし原爆投下について謝罪はしないし、被爆者とも会わないようです。核廃絶のメッセージもしないでしょう。アメリカが主張しているのは核の不拡散であって廃絶ではないからです。アメリカの大統領が広島に来る。意味はそこにしかないのですが、安倍首相は「歴史的な出来事」として大騒ぎをして、参議院選挙で圧勝するシナリオを作ろうとしています。ついでに衆議院選挙もと思っているのかもしれません。そうなると改憲が現実味を帯びてきます。

・メディアの報道の自由度ランキングで、日本はさらに落ちて72位になりました。また国連による「表現の自由」についても訪日調査が行われました。政府によるメディアへの圧力が,海外から危惧されているのは明らかですが、そのことをメディア自体が問題にしないのはどうしてでしょうか。聞き取り調査をしたデビッド・ケイ(カリフォルニア大学教授)は、停波発言をした高市総務相が聞き取りに応じなかったことを遺憾としましたが、日本のメディアの問題として,閉鎖的な記者クラブの存在や放送法自体を問題視しました。

・政府の圧力に逆らえないのは大手新聞社やテレビ局が持つ既得権を手放したくないからだという指摘は新しいものではないですが、「外国特派員協会」主催で行われたケイの会見は,新聞もテレビもほとんど無視を決めこみました。メディアの危機はまさに自業自得というほかありません。

・もっとおかしいのはオリンピックです。「おもてなし」ではなく「表なしの裏ばかり」。アンダーコントロールの大嘘からはじまって、国立競技場の設計やり直し、エンブレムの選び直し、そして今度は賄賂です。電通が関与しているというニュースは、海外からは聞こえてきても,日本のマスコミはまったく触れません。予算も増えるばかりで、開催しても,その後には大不況が待っていると指摘する人もいます。ここまでけちがついたら返上した方がいいと思います。

・おかしな世の中になったものだとつくづく思います。しかも、おかしいことをおかしいと言うのがはばかられるような風潮が蔓延しています。安保法制を国会で違憲と断罪した小林節が「国民の怒りの声」という政治団体を作って参院選に立候補すると宣言しました。参議院選の野党共闘が進まないことに業を煮やしての行動のようです。さて、日本のサンダースになりうるのかどうか。

2016年5月9日月曜日

「ブラタモリ」と熊本地震

・「ブラタモリ」はタモリが古地図を手に東京周辺を散歩する番組だった。中沢新一の『アースダイバー』(講談社)を読んで,縄文時代と現在の東京の地層や地図の比較に興味を持っていたから、「ブラタモリ」も時々見ていた。ただしNHKの深夜の番組だったから,見たのはほとんど再放送で、たまたまと言うことが多かった。ところがタモリの「笑っていいとも」が終了したことによって、「ブラタモリ」が全国各地を歩く番組として,土曜日の7時半から放映されることになった。

・毎週欠かさず見ていたわけではないが、いつでもどこでもポイントになるのは地殻変動で,その痕跡を探すことと、その土地の特徴がその地殻変動と大きな関係のあることが,専門家とタモリの会話で明らかにされることがおもしろかった。特に興味を持ったのは熊本を歩いた番組だった。熊本県は「火の国」と呼ばれている。しかし番組のテーマは水で,熊本は「水の国」でもあることを、涌き水の場所や池、そして近くの特徴が見えるところを訪ね歩いて確認する内容だった。

・熊本市内には水が湧き出しているところがたくさんある。水前寺公園の池も湧き水だし、熊本市の水道も、地下水によってまかなわれている。なぜ、そのように水が豊富なのかというと,阿蘇に降った雨が地下を通って流れ下ってくるからで、そうなったのは阿蘇山の噴火によって流出した溶岩や火山灰が熊本市内までの地層を形作っているからだということだった。

・その時はおもしろいなと思っただけだったが、熊本地震があって、阿蘇山の噴火との関係の深さや中央構造線の上にあることなどから,起こるべくして起きた地震だったことを改めて実感した。阿蘇山は広大なカルデラを持つ巨大な火山だが、それができた時にはどんなことが起こっていたのか考えると、今回の地震とは比較にならない大きな地殻変動だったことは容易に想像できることである。

・富士山の麓に住んでいて,富士山にも何度も出かけているから、富士山を訪ねた放送も興味深かった。富士山は江戸時代に噴火をしていて,その宝永火口は今でも巨大な穴ぼことなっている。3.11以降、富士山の噴火の危険性が話題になることがあるが、今の形は地球の長い歴史から見れば,ほんの一瞬の姿に過ぎないのだということを実感するようになった。その意味で3回に分けて、麓(富士宮),宝永火口、そして山頂を訪ねた放送もおもしろかった。

・最新の放送は京都の嵐山を訪ねたものだった。ここも長年京都に住んで、何度も出かけたところだから、なるほどと思うところが多かった。しかし、嵐山の絶景が断層を利用して人工的に作られたものだという指摘には驚かされた。低いが急峻な山は断層によるもので、地表にはチャートの岩が剥き出しになっている。チャートは海中でプランクトンが堆積してできた地層である。プレートの動きで太平洋からはるばるやってきて、プレートの衝突でせり上がったという説明だった。

・日本列島は巨大なプレートがぶつかり合うところに位置している。だから火山があり,山脈があって、それこそ美しい風景を作り出しているし,温泉や水が豊富に湧き出している。しかしだからこそ,耐えず大きな地殻変動に見舞われる危険性を抱えてもいる。熊本の地震が阿蘇山の大噴火や中央構造線沿いの地震、あるいは南海トラフや東海地震の前兆ではないのか、といった不安は大げさな心配ではないだろうと思う。

・「ブラタモリ」はNHKの番組だから、富士山や嵐山はなぜ美しいかといった話に焦点を合わせていて、それが地殻変動ゆえであることを明らかにしても、現実的な危険性については何も話題にしなかった。だからこそ、タモリは,熊本の地震についてどんなふうに思ったのだろう、という疑問を感じた。何しろNHKは熊本の地震の直後から川内原発は通常運転を続けているとアナウンスをくり返し、地震の震源や震度を伝えるための地図から鹿児島県をカットし続けていたのだから。

p.s.今朝(5月9日)の朝日新聞で、本震後に涸れた水源が詳しく報じられていた。南阿蘇村の塩井神社、白川水源(名水百選)、内牧温泉、水前寺成趣園、嘉島町湧水で水や温泉が涸れたそうだ。一方で水量が増えた井戸もあるという。地下水や温泉の流れが大きく変化している。地震はまだまだ続いているから,これはあくまで途中経過に過ぎないのだろうと思う。

2016年5月2日月曜日

斜陽の国と認めなければ

・大戦の敗戦国だった日本は、奇跡的といわれるほどの経済成長を果たしてアメリカに次ぐ経済大国になった。その成長を支えたのは第一に家電メーカーであり、自動車産業だった。経済成長が鈍り始めてすでに20年を超えているが、ここに来て、家電や自動車企業の中に,存続が危ぶまれるものが続出している。シャープは台湾の企業に買収され,東芝も家電部門を中国の企業に売却した。ソニーにはかつての面影はなく、パナソニックも再建に懸命だ。そしてまだ元気だといわれている自動車にも斜陽の波が及びはじめている。エアーバッグのタカタに続いて,今度は三菱自動車である。

・どう考えたって,その家電が勢いを盛り返す可能性はないし、自動車だって,電気が主流になれば、現状を維持することも難しいだろう。そして何か新しい産業が起こる気配もない。大企業が抱え込んだ内部留保はこの10年に100兆円増えて300兆円を越えたと言われている。逆に正規から契約や派遣といった雇用形態の変化も著しい。サラリーマンの平均年収はアベノミクスにもかかわらず減少傾向は止まらない。日本の企業が成長や攻めではなく、守り一辺倒であることは明らかである。

・ところが当の安倍首相は今年の年頭所感で、「一億総活躍社会」というスローガンを掲げ、「GDP600兆円」、「希望出生率1.8」 、「介護離職ゼロ」に向けて三本の矢を放つとぶち上げた。この現状との落差はまさにブラック・ジョークで、GDPをあげる材料がどこにあるのかわからない。「武器輸出三原則」を「防衛装備移転三原則」と改悪して進めたオーストラリアへの潜水艦12隻の輸出が失敗したし、インドネシアへの新幹線の輸出も中国に取られている。原発の輸出などというのは狂気の沙汰だろう。

・出生率を上げるといった先から保育所不足が露呈して、政府は慌てて定員増や給与増で急場しのぎをしはじめた。「保育所落ちた日本死ね」のブログに同感する人たちが大勢いて国会でも取りざたされたが、安倍首相の「匿名だから確認できない」といった発言が、怒りを買って大問題になった。現実を知らない上でのスローガンであることは「介護離職ゼロ」でも変わらない。老人ホーム不足はいよいよ深刻化しているし、保育士同様介護士の給与の低さも相変わらずだ。

・数日前に、育児と介護を同時にしている人が25万人いるといったニュースがあった。以前から問題になっている老老介護も,介護する人が65歳以上である割合が5割を超えたようだ。認知症の人が原因の鉄道事故で、その責任を家族に負わせる 裁判があったり、介護に疲れた殺傷事件も繰り返されている。このような状況は,これからますます深刻化するものであることは明らかで、ノーテンキに「介護離職ゼロ」などと言える状況ではないのである。

・日本は経済も人口も減少期に入っている。すでに世界でも類を見ない超高齢社会なのである。他方で地震は活動期になったと言われている。東日本の大震災から5年で,熊本・大分が大地震に襲われた。この先、もっと大きな地震が続発する危険性を指摘する人も多い。このような状況を前提にしたときに出てくる政策は、成長ではなく衰退や減少、大企業優先ではなく,人びとの暮らしの充実に目を向けたものでなければならないはずである。もちろん、今からでも遅くないから東京オリンピックは返上すべきだと思う。

2016年4月25日月曜日

内田隆三『ベースボールの夢』岩波新書

 

野球の始まり

uchida2.jpg・ベースボールはアメリカ発祥のスポーツである。フットボールやバスケットボールに押され気味という傾向にあるが,歴史からいえば、アメリカを一番に代表すると言える。内田隆三の『ベースボールの夢』は、その誕生のいきさつについて、定説に疑問を投げかけると同時に,定説が誰によってなぜ生まれ定着したかを説き明かす内容になっている。

・野球発祥の地はニューヨーク郊外のクーパーズタウンということになっている。だからここには野球博物館が作られ,殿堂入りした選手や、歴史に残るゲームと選手のユニホームやグラブ、バッド、そして写真などが飾られている。野球を考案したのはダブルデーという名の南北戦争に従軍した北軍の兵士で、野球をしたのは1839年とされている。しかしダブルデーがクーパーズタウンで本当に野球らしきものをしたかどうかについては、確証はない。

・そのことを史実として強く主張したのはアルバート・G・スポルディング(スポルディング社の創設者)で、彼は野球がイギリスに起源を持つゲームの発展したものではなく,純粋にアメリカで生まれたスポーツであると考えた。そのために、開拓時代を彷彿させるスモール・タウンや、合衆国を二分した南北戦争をいわば創世神話に取り込もうとしたのである。南北に分かれて戦っていた兵士が,共に野球に興じていたことは、アメリカという国の統一にとって欠かせない物語だったというわけである。

・メジャーリーグが始まった19世紀の末はアメリカが政治的にも経済的にも,そして社会的にも大きく変貌した時期だった。自ら開拓した農地で生きてきた農民たちにかわって農業は企業による大規模な形態に変わりはじめていた。その他の産業も起こり、多くの人びとは自営ではなく,雇用されて給料を受け取る生活に変わった。当然、田舎から都市に移り住む人たちも激増した。かつての中間層が没落し、コミュニティも衰退化した。そんな変容の中で,古き良きアメリカを体験できるスポーツとして、ベースボールが国民的なものになった。プレイするのはもちろんだが,スタンドで応援することによっても実感できた。

・「産業化と進歩の時代を生きる都市の人間が求めた『田園のアメリカ』」という「理想的なイメージ」というわけだが、このように成立したベースボールやメジャーリーグは、黒人を排除した白人だけのものになり、新興のミドルクラスが楽しむものになり、男だけに限られたマッチョなスポーツになった。

・この本はベーブ・ルースが登場するところで終わっていて、そこが、これまで書かれたベースボールやメジャーリーグの本と違うところだ。野球を通して、19世紀から20世紀にかけてのアメリカ社会の変容を描き出す。そんな試みに,新鮮さを覚えながら楽しく読んだ。

・メジャーリーグの本拠地は,全米の大都市に分散されている。カンザスシティのように50万人程度の都市でも,それはけっしてスモールタウンではない。しかし、スタジアムに入って野球を見はじめれば,見ず知らずの人たちが同郷の人間であるかのようにして,ホームチームの応援をする。桁違いの年棒を稼ぎ、頻繁に移籍を繰り返す選手が多くなったとは言え、野球はフィールド(野原)で行われるゲームであり、古き良きアメリカをノスタルジーとして体感できるスポーツとして楽しまれている。