2017年5月22日月曜日

大工仕事と自転車、カヤック、山歩き

 

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・家のメンテナンスは着実に進んでいる。テラスに置いたゴシップ・チェアがすっかり朽ちてしまったので、まだ使えるところだけ残して、補修をした。湾曲部分をカットするのに手こずったが、ほぼ元通りになった。雨ざらしになるから緑のペンキを塗って完成。曲線切りのできる電動ノコが欲しくなった。

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・残ったペンキで工房の補修をした。雨が当たるところは部分的には腐り始めているし、色あせてきているところもあった。ついでに屋根に上がって、スレートにこびりついた苔を取った。高いところは苦手だが、そこから家のテラスを見下ろすと、チョコレート色のテラスと緑のチェアがまぶしかった。〔↑)
・続いて物置。棚に使っていたスチールの書架を捨てて、木で作った。工具を吊して、使いやすいように。後は、これも腐りが目立つ木製の屋根の補修がある。ログの周りに野ざらしにしていた薪を積んだ。

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・庭の木や紅葉も若葉が生えそろった。テラスのチェアに座って見上げると、新緑と青い空。いい季節になった。自転車も軽装で乗れるようになった。時折カヤックにも乗り、近隣のプチ山歩きもしている。
・大工仕事はすぐに結果が出る。だから、次々仕事を見つけたくなる。しかし、自転車は体力の維持が難しい。腰痛のせいか、昨年の記録通りに走ることがなかなかできない。少し休むとすぐ衰える。パートナーの足の訓練も同様だ。プチ山歩きを1kmから2キロ、3キロと少しずつ伸ばしている。

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2017年5月15日月曜日

安部デンデンに

 

・もういい加減にしてくれないか、という思いです。首相ではなく安部デンデンが似合いでしょう。自分の地位を悪用して、私利私欲に走る政治家はごまんといましたが、これほどひどいのは古今未曾有(「みぞうゆう」ではありません)です。息を吐くように嘘をつき、痛いところを突かれれば、話をそらして答えない。具合が悪ければ、仲間でも平気で裏切って切り捨てる。逆に利用できるものならば、自分の都合の良いように取りあげる。憲法はもちろん、天皇だって怖くない。何だって自分の思いのままにならないものはない。あたかも全能の王のよう。そんな感じさえするのです。

・森友問題の陰の主役は彼の夫人です。籠池氏との親密な関係は明白で、そのやりとりに秘書になった官僚を使いました。彼女は他にも、選挙の年に自民党の候補者の応援にも、官僚を連れて行ったようです。公私混同も甚だしいですが、安部デンデンは、彼女があくまで私人であることを、わざわざ閣議決定しました。他方で、秘書になった官僚の行動に使用した旅費などの費用は、記録として残されていないようです。これは国家公務員旅行法に違反しているのです。

・彼は憲法記念日に唐突に、改憲の宣言をしました。9条に自衛隊の根拠規定を加えるというのです。そのことを国会で問われると、彼は読売新聞で詳細に話したので、それを読めと答えました。憲法の改正を発議するのは立法府の権限です。行政府の長である首相には、改憲を言い出す権限はありません。自民党総裁として発言したと言い逃れをしましたが、読売新聞では首相の肩書きが使われていました。しかし、そんなことは彼にはどうでもいいのでしょう.何しろ「私は立法府の長だ」と国会で答弁したことがあるのですから。

・そもそも、改憲を言う彼には「立憲主義」の意味がわからなかったのです。憲法は国民ではなく権力者を縛るものなのに、彼はそれをフランス革命以前の王政の時代のことだと誤解していたのです。ところが彼は、日本の憲法学者の大多数が憲法違反だといって反対した安保法制(戦争法案)を強行採決したのです。そして今度は、学者の多くが自衛隊を違憲だと言っていることを理由に挙げました。露骨なご都合主義で、彼が考えているのは、憲法を権力者の意のままに変え、国民を縛るものにしたいだけなのです。

・そのことは「共謀罪」を性急に法律化しようとしていることからも明らかです。この法律は犯罪を、それが現実に起きる前の段階で取りしまること、もっと言えば、考えた段階でも取り締まれるものにする、体制批判の思想を弾圧できる恐ろしいものなのです。安部デンデンはこの法律の必要性をオリンピックのせいにしています。それは全く根拠のないものですが、それらしく「テロ等防止法」という名をつけました。この法律には最初、テロということばさえ入っていないものでしたが、世論は「共謀罪」には反対だが、「テロ防止法」なら賛成だとする人が多数になるということです。

・実際のところはうやむやにして、印象(イメージ)操作で国民をはぐらかす。おそらく背後に、そんな大衆操作に長けたブレーンがいるのでしょう。あるいは広告会社かもしれません。もちろんそこには、メディアに対する圧力と、それによる自粛や萎縮、あるいは忖度をさせているといった一面もあります。NHKは共謀罪についての国会を中継していません。森友問題でにぎやかだったテレビも、今は忘れてしまったかのように無視しています。この王様が裸であることは、誰もがわかっているはずなのにです。

・僕はこの春で大学を辞めました。もうやってられないという気持ちで、最後の数年間を過ごしました。国の方針は、大学への予算を削減し.言うことを聞くなら補助金を上げるというもので、大学は文科省の言うがままに、制度の変更をしてきています。それが今度は教育費の無償化を憲法に盛り込むというのです。教育のことを考えてではなく、これがまた、改憲をやりやすくするための印象操作の手口であることは明らかです。自分の思いが実現するなら、日本はつぶれてもいい。彼がやっているのは、そういうことに他ならないのです。

2017年5月8日月曜日

忖度と印象操作

 

・森友問題が話題になってすぐに、「忖度」ということばが注目されるようになった。「相手の心をおしはかる」といった意味で、森友学園や篭池氏に対する安倍首相や夫人の気持ちを、担当所管の官僚が「おしはかった」のではとして使われている。似たことばに「斟酌」があって、こちらの意味は「相手の心をくみ取って手心する」だから、行動まで起こしたら、「忖度」ではなく「斟酌」の方が正しいのかもしれないと思った。もっとも、「忖度」を行動を伴うものとして使うこともあって、それは新しい最近の傾向らしい。

・いずれにしても、この種のことばは日本人のコミュニケーションには欠かせないもので、似たことばとしては「阿吽の呼吸」や「以心伝心」、あるいは「空気を読む」といったものがある。京都には「ほんまのことは言うもんやない。わかるもんや」という格言がある。わからない人には「ぶぶ漬けでもどうです」と言わなければならないことになる。どれも日本人独特の関係やコミュニケーションの仕方だから、英語には訳しにくいことばだとも言われている。

・しかし英語にも、たとえば "tact"(察し)といったことばがあって、気づいても知らないふりをするとか、ジェスチャーや表情から相手の気持ちをおしはかるといったコミュニケーションが行われている。この語から派生した "tactics"は戦略だから、相手が隠した秘密や嘘を見破ったり、相手の裏をかいたりといった意味にもなる。いずれにしても、ここには互いの間に上下関係があるわけではない。

・今話題になっている「忖度」には、上の者が暗黙のうちに下の者に理解させるといった意味合いが強い。それは暗黙のうちに伝える「命令」に等しいものだ。しかも、「忖度」して行った結果の責任は、あくまで下の者にある。森友問題における安倍首相の態度を見れば、よくわかることである。彼はここまで、「知らぬ存ぜぬ」で押し通している。もっとも首相夫人の立ち回りは「忖度」ではなく、自分の立場を利用した強要に近いお願いで、籠池氏はそれを「神風が吹いた」と表現している。

・首相夫人の国会での証人喚問要求に対して、首相は「妻をおとしめる印象操作だ」と感情的に反論した。しかしマスコミを使った「印象操作」はまた、安倍首相が日常的に行ってきたことでもある。「アベノミクス」は停滞した日本の経済を改善させるための良策であるかのように宣伝され、現実に好転したかのような発言をくり返しているが、現実は全く違っている。

・何度も廃案になった「共謀罪」を「テロ等準備罪」と言い換えて、今度は可決させようとしている。世論は「共謀罪」には反対でも、「テロ等準備罪」と言われると賛成多数に変わる。反対しにくくさせるように、オリンピックのためだと説明するが、名称とは違って、この法案には最初、「テロ」についての項目がなかったのである。こんなひどい法案は成立させてはいけない。そんな声が高まらないのは、マスコミが首相の意思を忖度しているせいだと言わざるを得ない。

・北朝鮮が韓国や日本を攻撃して、戦争になる危険性がある。それに関連したニュースが連日、テレビを賑わすのも、「印象操作」のいい例だろう。北朝鮮の振る舞いは、けっして無謀で勝手なものではなく、アメリカの「威嚇」に対する抵抗にすぎないのだ。戦争は北朝鮮にとっては自殺行為だから、やるはずはないのだが、日本ではミサイルの発射実験に、東京の地下鉄を止める対応をして、危機を煽った。止めるのがなぜ原発ではなく地下鉄なのか。

・他方で、ゴールデンウィーク前後には、首相を初めとして大臣たちはこぞって外遊に出かけていたし、首相は桜見物やゴルフにも興じていたようだ。危機を煽っておいて、当人たちは平時のままの振る舞いをする。そこには一体どんな「印象操作」があるのか。「森友問題」など自分にとっては大したことではない。そんな余裕の演出のようにも思える。「首相はもちろん議員も辞める」。彼は息を吐くように嘘をつき続けているが、この発言を現実にしなければ、日本は彼の妄想にどこまでもつきあわされることになってしまう。「忖度」や「印相操作」に惑わされてはいけないのである。

2017年5月1日月曜日

木こり、大工、ペンキ屋仕事

 

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・木こり仕事は三月で終わり。ストーブで燃やす薪を家の周りに積む前に、ログのペンキ塗りをすることにした。ログは積んだ薪でだいぶ痛んでいる。色も黒ずんできた。最初は赤い色合いにしようと思ったが、気に入ったものがなかったのでチーク色にした。水性で防虫防腐、油性と違って臭くない。最近のペンキは本当にに良くできている。脚立に乗っての作業だから慎重に。ログの外壁を全て塗るのに1週間ほどかかった。

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・玄関にあがるバルコニーの手すりが腐り、床板も痛んできたので修理し、ログ同様にペンキ塗りをした。こちらはワインブラックで、手すりには横棒をつけてみた。うっかり物置の扉を開けっ放しにしておいたら、狸が中にあったゴミ袋を咥えて散らかした。追い払っても逃げないから、カメラを持ってきてパチリ。油断も隙もない。このバルコニーの補修と塗装にさらに1週間。

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・最後はLDKに面したテラスの補修とペンキ塗り。これが一番やっかいで、床板を支える下の板が何本も腐っている。下に潜り込んで、仰向けになっての作業で、手も足も腰も痛くなった。実は2月初めにやったぎっくり腰以来、腰痛が続いている。ひどくならないように気をつけながらだから、余計に時間がかかった。ここのところで、さらに1週間。

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・ここまでほぼ1ヶ月。退職して週一回の非常勤勤務になったからと、今までできなかったことをやってきた。やり始めたら気づくことが次々出てきて、まだまだ終わりそうもない。失敗してはやり直しの連続だが、あーしよう、こうしようと考えながらの作業はなかなか面白い。しかし同時に、いつまでできるかな、とも思った。老けこまずに、身体を鍛えておかねば。

2017年4月24日月曜日

『海は燃えている』

 

theatrecentral.jpg・甲府駅前の小さな映画館でやっているというので、『海は燃えている』を見に出かけた。甲府駅に近い繁華街にあったのだが、人通りがほとんどない。シャッターが閉まった店もあって、寂れた様子だった。映画館も上映の15分前にならないと鍵がかかったままで、観客は僕とパートナーの他に2人だけだった。割と新しいビルに二つのスクリーンがある映画館で、マイナーな作品も頑張って上映しているようだ。それだけに、いつまで持つのかと心配になった。

FUOCOAMMARE2.jpg ・『海は燃えている』はアフリカ大陸から船でイタリアに渡ろうとした難民たちをドキュメントした映画である。場所はイタリアといっても、むしろチュニジアに近いランベドゥーザという離島である。映画は松の枝を切ってパチンコを作る少年のシーンから始まる。それで鳥を狙うのだが、もちろん、それは難民とは何の関係もない。父親は漁師で、獲ってきたイカで母親(祖母?)がパスタを作る。それを3人で食べながら、いろいろ話をする。少年はまるでそばを食べるように、パスタをすすって食べている。

FUOCOAMMARE1.jpg ・そんな離島に住む家族の日常が映されながら、時折、小さな船に乗った大勢の難民たちのシーンが挿入される。救助艇が向かい、脱水症状などで気を失っている者や死んだ人の数を確認し、救助艇で難民たちを島まで移送する。この島にとって難民たちが船でやってくるのは、すでに日常化しているが、島民たちはそのことをほとんど知らないかのようだ。

・少年は左目が弱視だという。だから回復させるために、右目をふさいで左目だけを使うよう勧められる。そのような診断をした地元の医者は、難民の診療をしたり、検死ををしたりもする。難民が押し寄せていることを知る数少ない地元民だ。難民たちは収容施設にいて、島を出歩くことはない。その次にどこに行くのか.イタリア本島なのか、あるいはチュニジアに送り返されるのか。難民たちはアフリカや中東のさまざまな国から来ていて、今更送還されても、戻る場所はない。そのことは映画では何も語られない。

・この映画には役者は登場していない。少年をはじめとして島民と難民、そして救助隊員も実在の人たちだ。だからドキュメントなのだが、少年の家族の様子には日常を再現するようなフィクションが入り込む。難民と島民、その二つの世界を淡々と描き出すこの映画には、今まで見たことのない、リアルさを感じた。

・監督はジャンフランコ・ロージで、この映画は2016年度のベルリン国際映画祭で金熊賞〈最グランプリ高賞〉を獲得している。彼は前作の『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』でも2013年度ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞している。日本ではほとんど話題にならない映画だけに、これを甲府で見られたのは驚きだった。それだけに、観客が4人だけというのは、日本人にとって難民の問題が遠い世界であることを改めて実感した。

2017年4月17日月曜日

Bob Dylan "Triplicate" "Real Royal Albert Hall"

 

2017dylan1.jpg ・ディランの話題は相変わらずノーベル賞ばかりだが、彼はせっせとアルバム作りをしている。と言ってもオリジナル曲ではない。かつてフランク・シナトラなどが歌ったスタンダード曲ばかりである。2015年に『シャドウ・イン・ザ・ナイト』、16年の『フォールン・エンジェル』に続いて今度は3枚組の『トリプリケート』だ。タイトル名は3枚組という意味なのか3作目ということなのか。これで一応の区切りなのか、まだまだ出てくるのか。長いつきあいだから買ったし、悪くはないけれども、やっぱり、そろそろオリジナル曲が聴きたいなと思う。ノーベル賞にまつわる歌など作らないのだろうか。

2017dylan2.jpg ・最近買ったディランのもう一つのアルバムは『リアル・ロイヤル・アルバート・ホール』である。1966年に行われたライブで、演奏中に「ユダ」というヤジに「そんなこと信じるか、おまえは嘘つきだ」と応えて「ライク・ア・ローリング・ストーン」を歌ったのが伝説として語られてきた。それはすでに『ブートレグ・シリーズ4』として出されていたが、実際に、このやりとりがあったのはロンドンのロイヤル・アルバート・ホールではなく、マンチェスターの公演だったというのである。だから「リアル〜」なのだが、なぜこんな間違いが今頃になってわかったのか、信じられない気がした。僕はもうずっと、この有名なライブがアルバート・ホールだったと思っていたのである。

・実は同時期に『ライブ1966』という36枚組のボックスセットが発売された。その年の4月から5月にかけて行われたライブを、観客が録音したものも含めて全てまとめたものだ。ほとんど同じセットリストのCD36枚で25000円もしたからとても買う気にはならなかったが、そこから一枚、ロイヤルアルバート・ホールだけが別売りされたのである。このボックスセットを作って初めて、間違いに気づいたということなのだろうか。だとしても、おかしな話だ。

・ディランにとって確かに、1966年は大きな転機になる年だった。生ギターで一人で歌うプロテスト・ソングの旗手がバックバンドを従えて、エレキギターでロックをやり始めたからだ。ここから「フォークロック」というジャンルができ、いわゆる「ロック音楽」が本格的に生まれ始めた。ビートルズやローリングストーンズも大きな影響を受け、アメリカのウエストコーストから、多くのミュージシャンが登場した。

・それから半世紀たって、ディランはロック以前のアメリカのスタンダード曲を自ら歌い始めた。それはまた、彼の音楽にとって大きな転機になるものだったと言える。そして今度は、ディラン・ファンの多くの賛同を得た。アメリカのポピュラー音楽を長いスパンで見直した時に、ロック以前と以後で、当時考えられたほどには大きな断絶はなかった。いい歌はいい。それがディランのメッセージだが、そこにはまた、現在のポピュラー音楽に対する強い批判が込められている。

2017年4月10日月曜日

村上春樹とポール・オースター

 上春樹『騎士団長殺し』第一部、二部(新潮社)
ポール・オースター『冬の日誌』『内部からの報告書』(新潮社)

haruki2017-1.jpg・村上春樹の『騎士団長殺し』はおもしろかった。そんなふうに感じたのは『1Q84』以来だ。その間にもたくさんの本を出版していて、『職業としての小説家』では、小説家としてのプロ意識に感心もしたが、『騎士団長殺し』を読みながら、あらためてうまいなと思った。2冊で1000頁を越える大作だが、読み始めたら止められない。僕の読書量は最近ではめっきり減ったが、ベッドで読んで、眠れなくなったのは、本当に久しぶりのことだった。

・しかし、読みながら、そして読んだ後に思ったのは「空っぽ」といった感想だった。つまり、何かを考えさせるといったメッセージが何もないのである。そんな読後感は『1Q84』でも思ったが、今度はさらに徹底していて、作者の強い狙いがあったのではと考えさせられた。何かを読む時には、そこに作者のメッセージを読みとることが主たる狙いになる。そんな読み方を否定されたような感じがした。

haruki2017-2.jpg・この物語は未完である。作者はそうは言っていないがプロローグで初めに出てくる「顔のない男」が第二部に少しだけ登場しただけで、顔のない男から言われた肖像画がまだ描けていないのである。あるいは、少女の失踪について、主人公がその行方を捜して奔走し、迷走するのがこの物語の核心だが、さんざ苦労をしてわかったのは、少女が実の父親であるかもしれない免色の家に入り込んで、出られないでいたというのも、中途半端な感じがした。

・『1Q84』は1年後に第三部が出版されている。おそらく来年には『騎士団長殺し』でも第三部が出るだろう。そして物語は、あっと驚くような展開になる。そんな予測を感じさせるヒントがあちこちにちりばめられている。「顔のない男」「免色渉」「スバル・フォレスターに乗る男」の3人はいったいどういう人間なのか.ひょっとしたら同一人物?こんな疑問に対する答えが欲しい。そんなふうに思わせる書き方にも、円熟した小説家であることを実感した。


auster2017-1.jpg ・ポール・オースターの『冬の日誌』は題名通り、彼の過去についての日記である。ただし、書き手からみた他者として「君」という主語で書かれている。そこにあるのは、幼い頃から現在に近いところまでにわたる赤裸々とも思えるほどのプライベートな話である。父親の話は『孤独の発明』で書かれていたが、母親や最初の結婚相手のリンダ・デイヴィスや2度目のシリ・ハストヴェットについては初めて読んだ。

・もっとも回想は2歳や3歳の頃にまでさかのぼるから、おそらく日記には残されていない記憶を呼び起こしてというものも少なくないはずだ。それはたとえば顔やその他の身体に刻まれた傷跡から蘇ってくる。「顔の皮膚に彫り込まれたもろもろのギザギザは、君という物語を語る秘密のアルファベットだ。なぜなら傷跡一つひとつが治った怪我の名残であって、怪我一つひとつは世界との思いがけない衝突によって生じたのだから。」確かに、そんな傷跡は僕にもたくさんあって、そこから記憶が蘇ることはある。しかし、『冬の日誌』に書かれた話の多くは、きわめて詳細だから、そこに虚構が含まれないはずはないと思ってしまう。

auster2017-2.jpg ・『内面からの報告書』も過去の自分の物語だ。訳者である柴田元幸が書いたあとがきには「2012年から13年にかけて刊行されたこの2冊は、1947年生まれの、人生の冬が見えてきた人間が、遠い昔に自分の身体(『冬の身体』)と精神(『内面からの報告書』)に何が起きていたかを再発見しようとする、過去の自分を発掘する試みである。」とある。

・そうやって掘り起こされたオースターの人生は、僕のよりはずっと波乱に満ちている。ユダヤ人であることで幼い頃から経験した差別や、さまざまな人種が混在する中で感じた黒人たちの貧しさなどが、子供の目線から語られている。あるいは母の死に遭遇した時の戸惑いは、『孤独の発明』での父に対する距離感とは対照的で、その動転した様子は、僕にとっては信じられないほどだった。

・村上春樹とポール・オースターは、「喪失」をテーマにする共通点の多い作家だった。しかし、オースターがテーマにする喪失感は年齢ともに変わってきて、最近の作品では年老いたゆえに感じるものになっている。その意味では『冬の日誌』と『内面からの報告書』は、けっして幼い頃からつけてきた日記をもとにしたものではなく、老人となった現在から、改めて記憶を呼び起こし、そこにフィクションを重ねたものではないか。読みながらそんな感想を持った。

・『騎士団長殺し』のような世界は、僕には想像(創造)しようもないが、『冬の日誌』なら書けるかもしれない。ちょっと始めてみようか。そんな気持ちにさせられるような内容だった。