・安倍政権は「共謀罪」を無理矢理成立させ、森友、加計と続いたスキャンダルへの追求から逃げるために、国会を閉幕させた。その最後の会見も、自らを貶める「印象操作」に振り回されて、オリンピックには欠かせない「テロ等準備罪」について、十分な議論ができなかったことについて謝罪するといったものだった。相変わらず、自分勝手でめちゃくちゃな話だと感じたし、「印象操作」といったことばについて、きちんと整理してみようかと思った。
・安倍首相がしきりに使う「印象操作」とは、どんな意味のことばなのだろうか。ネットで探すと「あることについて断定的な口調で自己の判断を提示し、それがあたかも『一般的』であるかのような印象を読み手に与える、という文章表現上の一技術。」といった説明があった。しかし、この種の「操作」はこれまで「大衆操作」とか「情報操作」といったことばで指摘されてきたもので、決して新しいものではない。それと「印象操作」はどう違うのだろうか。
・「印象」にあたる英語は「インプレッション(impression)」で、それに対応することばは「エクスプレッション(expression)」、つまり「表現」である。つまり「印象」とは、誰か(どこか)、あるいは相手が「表現」したものを、受けとめる側が、自分の判断によって取り込むことを意味している。だから、どういう「印象」を持ったかはあくまで受け手にあるのだが、「印象操作」とは、それを送り手側で決めてしまおうとする試みだということになる。そこから、自分の意図するとおりに受けとめさせる〔解釈させる)ためには、事実や真実を歪めもするということになるのである。
・しかし、そもそも「印象操作」とは誰が使い始めたことばなのだろうか。僕が知る限りでは、これはアーヴィング・ゴフマンが『日常生活における自己提示』(翻訳題名は『行為と演技』誠信書房)と題された本の中で使った概念である。私たちがする言動には常に、自分が相手にどう思われるかを意識して行うという側面がある。自分が意図するように、相手も理解して欲しい。その意味で「表現」と「印象」には強い繋がりがある、というのがゴフマンの指摘だった。ちなみに、広辞苑では「他者に与える自分の印象を、言葉や服装などによって操作すること」となっていて、ゴフマンの概念を念頭に置いていることがわかる。
・もっとも「印象操作」と訳されたことばは「マニピュレーション(manipulation」ではなく「マネージメント(management」であって、語義通りに訳すなら「印象管理」が正しかったのである。間違った使われ方をしないように見守るという意味の「管理」とは違って「操作」には、より積極的にごまかしてでも操るという意味合いがある。ゴフマンが注目したのはあくまで「印象」の「管理」であって「操作」ではなかったのである。誤訳が一人歩きをして、権力者の方便に使われている。ゴフマンが生きていて、これを知ったら激怒したことだろう。
・安倍首相が使う「印象操作」はあくまで、事実を歪曲して謝った理解をさせようとする「表現行為」に向けられている。彼はそのことに被害妄想に近いほど敏感である。しかし、彼が首相として発言し、行動してきたことのほとんどが嘘や欺瞞に満ちた「印象操作」で合ったことを考えると、それは「自業自得」であるし、「天に唾する」ということわざそのものだと言わざる得ない。
・彼はまるで息を吐くように嘘を言ってきた。それで高支持率が維持できたことで、自信を高め、国民を侮る気持ちが生まれた。けれども彼が「印象操作」だといって非難する「表現」の多くは事実であって、決して操作されたものではない。だから慌てて国会を閉じて、だんまりを決め込んでいる。メディアはアメリカがやっているように、安部のついた嘘を列挙して、一つひとつ検証すべきだろう。三権分立が空洞化している現状では第四の権力であるメディアが頑張るしかないのである。