2018年10月8日月曜日

沖縄と原発

 

・沖縄知事選でデニー玉城氏が勝った。久しぶりの朗報で、8万票という大差がついたのは驚きだった。それにしても自公の選挙の仕方は猛烈で、しかもえげつないほど汚いものだった。建設などの業界を締めつけて投票を強制させる。根拠のないデマを流す。最大の争点である辺野古は隠しておいて、知事には権限のない携帯料金の値下げを訴える。官房長官や人気者の小泉進次郎をはじめとして、自公の国会議員を大勢送り込む等々………。にもかかわらずの大差の負けだから、政権や与党のショックはさぞかし大きかっただろうと思う。

・前回の知事選も含めて沖縄県民は二度続いて辺野古基地の建設に「ノー」を突きつけた。その意思表示はきわめて重いものだと思う。安部首相は「残念だ」とか「真摯に受け止める」とは言ったけれども、辺野古については何も話さなかった。民意を無視する不遜な態度だが、ニューヨーク・タイムズは、民意に応えて沖縄の米軍基地を縮小すべきだと主張した。日本の新聞には、これほど明確に意見を出したところはなかったようだ。

・安部が三期目の首相になった。あと3年続くのかと思うと暗澹たる思いだが、沖縄での敗北や、自民党総裁選挙での党員票の少なさなどから、終わりの始まりだという声も聞こえてきた。改造内閣も全員が日本会議の会員で、主要ポストは変えずに、大臣待機組を抜擢というお粗末なものだった。女は片山さつき一人で、甘利や下村といった汚職問題で逃げ回っていた連中が党の要職に就いた。世論なんか気にしないといった態度があからさまで、その驕りようは救いがないほどである。改造内閣の支持率が下がるのも当たり前のことである。

・四国の伊方原発の再稼働について、広島高裁が去年の12月に出した仮処分決定を取り消して、再稼働を認めた。仮処分の理由だった阿蘇カルデラの破局的噴火は社会通念上想定する必要がないという理由だった。いつ起こるかわからない噴火などは気にする必要はないとする判断で、地震や噴火がいつでも、いつどこで起こるかわからないものであることを無視したひどい判決だった。熊本の地震も、今年あった大阪や北海道の地震も、予知情報では、ほとんど起こらないはずのものだったのにである。

・その北海道では、地震によって全道が一時停電した。電源の中心を担っていた巨大な発電所が地震によって壊れたためだったが、原発が稼働していれば全電源喪失にはならなかっただろうという意見が多く出た。しかし、動いていなかったからこそ、原発に支障が出なかったと言えるわけだし、もし震源が原発にもっと近い所だったら福島の再現になりかねなかったかもしれないのである。太陽光や風力を使った分散型の電源システムに舵を切っていれば、という反省にしなければならない事故だったはずである。

・山梨県では来年1月に知事選挙が行われる。現職の後藤知事は前回自公と民主の推薦を受けて当選したが、次の選挙では自公は推薦しない方向で動いている。何をやったのか、やらなかったのかわからない地味な知事だから、違う人が出てもいいとは思うのだが、現知事は続けたいようだし、自民はもっと自民色の強い候補を立てたいと考えているようだ。ただし、山梨県連は長いこと分裂状態が続いていて、今回もまたもめている。

・ただその中で、選挙公約として富士山にケーブルカーを作ることを目玉にして立候補を狙っている人がいる。この計画はずい分昔から出されているもので、目新しくはないが、反対運動も強くて実現してこなかったものだ。そもそも活火山である富士山にケーブルカーを作るなどという発想は3.11や御嶽山の噴火、そして最近の地震や東南海地震の危険性が叫ばれる状況の中で、その事を無視したひどいものである。

・富士山周辺は世界遺産になってから観光客が激増している。富士登山客もすでに限界に達するほどになっている。その上ケーブルカーができれば、富士山にはもっと多くの観光客がやってくることになる。自然環境の破壊はもちろん、もし噴火が起これば、その観光客をどうやって避難させるか。そんなことをまったく考えない、利益や選挙ばかりを考えた計画だと思う。何しろ東南海地震が起こる確率は30年以内に70%だというのである。地震が起これば富士山も噴火するというのは、江戸時代に起きた宝永噴火が証明済みである。

・目先のこと、自分のことばかり考えて、将来のこと、社会のことには目をつぶる。都合の悪いことは隠したり、嘘でごまかしたりする。何から何まで、こんな傾向で溢れている。その元凶が現政権であることは言うまでもない。早くつぶれて欲しいとつくづく思う。

2018年10月1日月曜日

大谷君で久しぶりのMLB三昧

 

・NHKが中継した今年のメジャー・リーグは、ほとんどが大谷翔平だった。特に期待をしていたわけではなかったが、開幕早々の活躍にすっかり魅了されて、その後現在まで、中継した試合のほとんどを見てきた。投げて打って走る。そのどれもが一流だから、アメリカでも大きな話題になった。野茂にはじまり、イチローや松井が活躍してきたが、今までメジャー・リーグでプレイした日本人選手のなかで、投げても打っても走っても、最高のプレイヤーであることは間違いないと思った。

・もっとも、6月には右肘の靱帯を損傷して、1ヶ月試合に出られなかったし、3ヶ月ぶりに登板した試合で再度靱帯を損傷するという事態になった。もうすぐトミー・ジョン手術をするそうだから、ピッチャーとしては来シーズンも投げられないから二刀流はしばらくお預けになってしまう。まだ24歳で、これから10年以上プレイすることを考えれば、焦らずにしっかり直して欲しいと思う。何しろこんなに才能のある選手は、日本のプロ野球の歴史で初めてで、もう出ないかも知れないからだ。

・彼の今年の成績は投手としては10試合に先発して51イニングを投げ、4勝2敗、防御率3.31で三振を63取っている。また打者としては、104試合に出場して、打率.285でホームランを22本打ち、61の打点をあげた。盗塁も10個で、俊足を飛ばして2塁打にしたことも何度もあった。日本人離れした体格とは言え、キン肉マンのような選手たちから見ると彼はスリムである。しかし、その打球速度はトップ・クラスで、センター方向に打つホームランが、大きな魅力のひとつになった。

・大谷が所属するエンジェルスは、彼の活躍に牽引されて、アメリカン・リーグの首位争いをしていたが、怪我で欠場してからは失速して、早々とプレイオフ出場の見込みがなくなった。そこには故障した選手が大谷以外に何人もいたという理由もあった。7月末には正捕手や二塁手を放出し、不振の選手を解雇して、若手中心のチームになったから、勝てない試合を見ることが多かった。何よりリリーフ陣はお粗末で、勝っている試合を逆転されることが何度もあった。

・だから見ていてうんざりすることが多かったが、マイナーから抜擢された選手が徐々に力をつけていく様子も目の当たりにした。中には28歳でやっとメジャーに上がれたキャッチャーなどもいて、マイナーに落とされないよう必死にプレイする様子は、これまであまり気にとめることがない光景だった。何しろ後半戦はレギュラーの半数が新人で占められるほどだったのである。

・そんなふうに、久しぶりにメジャー・リーグの試合につきあったが、熾烈な争いをするチームの試合はそっちのけで、エンジェルスばかり中継するNHKの姿勢はどうかとも思った。故障したダルビッシュは別にして、田中投手が投げるヤンキースの試合を中継することはあっても、前田が投げるドジャースの試合はほとんど無視された。日本人選手が出なくても、見たい試合、選手はいくらでもいるのにである。MLBを中継してもう20年以上になるのに、日本人選手ばかり追いかける姿勢は相も変わらずである。

・去年のメジャー・リーグでは青木宣親選手が気になった。ヒューストン・アストロズに所属して.280前後の打率を残していたのに、トロント・ブルージェイズにトレードされ、すぐにまた解雇されて、最後はニューヨーク・メッツに拾われた。彼の出る試合の中継はほとんどなかったから、ぼくはもっぱらネットで彼の出る試合を追いかけた。今年彼はヤクルト・スワローズに復帰して、.330に近い打率を残している。.280と.330。これがメジャーと日本の差なのかと改めて認識した。

・とは言えメジャー・リーグはフライ・ボール全盛で、ヒットよりはホームランを打つ選手がもてはやされていて、三割打者は減っている。イチローの出現によってスモール・ベースボールが見直された時期があったが、ボンズやマクガイヤーやソーサが打ちまくった時代に逆戻りしたようだ。ぼくはもちろん、そんな傾向は大味な気がして好きではない。

2018年9月24日月曜日

言葉づかいが気になります

 

・日常生活でもですが、特にテレビを見ていて、言葉づかいが気になることが多くなりました。要するに、バカ丁寧と思われる話し方が、当たり前化しているのです。たとえば、テレビ番組に始めて出たタレントが「出させていただきました」というのは理解できるが、誰もがそんな言い方をします。それに影響されたのか、ゼミで学生が発表する前に、「発表させていただきます」と言ったりして、「いただきますはいらない、発表しますでいい」と言ったことも何度かありました。

・日本人の人間関係は上下を基本にすると言われてきました。言いたいことを言おうと思ったら、下手に出て相手の気分を害さないようにする。そんな態度は今に始まったことではありません。しかし、最近では、対等な立場の中にも、丁寧であることが望まれるかのような空気が漂っています。へりくだらなければ上から目線と思われるのではないかと恐れているのかも知れません。しかし、こんな言葉づかいをしているかぎりは、関係は少しも深まらないのではないかと思います。

・ぼくは、必要以上に丁寧な言葉づかいで話す人は信用しないことにしています。何か下心があるのではと疑りたくなるからです。こちらが客で、何とか買わせようとする店員やセールスマンはその好例でしょう。電話での売り込みには辟易としていますから、最近ではベルが鳴ると、ボタンを押して電話に「迷惑電話防止のため、お名前を名乗って下さい」と言わせることにしています。それで切る場合がほとんどですが、逆に、知人からの場合は、説明をして納得してもらうことも少なくありません。

・他方で、ネットでの見ず知らずの人に対する誹謗中傷や、ひどい言葉づかいも気になります。ヘイトな書きこみを躊躇せずにやったりする人も、現実の人間関係の中では、やっぱりバカ丁寧な言葉づかいをしているのではないでしょうか。その使い分けこそが、最近の言葉づかいに関わる最大の問題なのではないでしょうか。あるいは、店員や駅員に暴言を吐き暴力まで振るう人が増えたといった話も良く耳にします。自分が上であることがはっきりしている、とたんにそんな態度に出るというのも、同じことだと思います。

・気に入らないと言えば、政治家の発言の仕方です。「国民の皆様にご理解していただけるよう、丁寧にご説明申し上げます」などと言いながら、何の説明もしないのです。丁寧な言葉づかいさえすれば、中身の説明は丁寧でなくてもいい。都合の悪いことはすべて隠し通して、白を切る。国の政治を司る人たちがこんな態度ですから、国民全体に広まるのは仕方がないのかも知れません。

・ぼくはどんな人に対しても、対等であることを基本にしてきました。それは、高校や大学で習った先生などに、そんな態度で接してくれた人が何人もいたせいだと思います。目上であっても「〜さん」と名字ではなく名前で呼ぶ。そんな言い方を若い人からされるのは、距離が縮まった証拠と思ったものでした。しかし世の中の風潮は、それとは真逆に進行しているようです。

・もっとも、テレビですっかり定着してしまった感がある、知らない人に向かってタレントがする「おとうさん」「おかあさん」という呼びかけには、相変わらず抵抗があります。「おじさん」「おばさん」「おじいさん」「おばあさん」ではなく、なぜ「おとうさん」「おかあさん」なのでしょうか。結婚しているのかどうか、子どもがいるのかどうかわからない見ず知らずの人に、よく使えるなと思うのですが、そんなことをどこまで意識しているのか、と思います。

・妙に丁寧だったり、気安かったりすることに強い違和感を持つのはぼくだけなのかもしれません。しかし人間関係の親密さに応じた距離の取り方、それに伴う言葉づかいが壊れかけている。そんな印象を強く感じる今日この頃です。

2018年9月17日月曜日

フレッド・ピアス『外来種は本当に悪者か?』(草思社)

 

thenewwild.jpg・外来種は動物にしても植物にしても、在来種を駆逐して生態系を壊してしまう。だから、外来種は何であれ、駆除することが望ましい。そんな考えが一般的だろう。日本では、人間に害のある蜘蛛や蚊などが見つかった時に大騒ぎをする程度だが、きわめて厳密に入国を阻止したり、駆除を行っている国もある。たとえばニュージーランドでは、空港で靴の底を洗わされた経験があって、驚いたけれども違和感も持った。牛や馬、それに羊を持ち込んで、農業国として成り立っているんだし、何より最大の侵略者は人間ではないのか。あまりの厳格さに、そんな疑問を感じたからだ。

・フレッド・ピアスの『外来種は本当に悪者か?』は、そんな疑問に明快な答えを与える好著である。世界中の生態系に大きくて急速な変化が生まれるようになったのは、コロンブス以降の話である。それでアメリカやアフリカ、オーストラリアなどの大陸に大きな変化がもたらされた。都市が出来、道路や鉄道で繋がれ、鉱物資源が掘られ、農地が開墾されて、大地は大きく変容し、大気や気候までが変わってしまった。温暖化の影響が如実に表れているから、地球環境をこれ以上悪化させないために努力することが、喫緊の課題であることは間違いない。

・けれどもこの本を読むと、外来種を悪者扱いすることが、事実とは異なるイデオロギーであることがよくわかる。ナポレオンが流されたセントヘレナ島近くにあるアサシン島は緑に溢れた島である。しかし、この島はもともと植物の生えていない島で、緑で覆われるようになったのは、人間がさまざまな植物を持ち込んで植林をしたからだという。あるいはアマゾン川流域のジャングルは手つかずの原生林だと言われるが、そこには人間が作った畑などの遺跡が多数あって、それがなくなったのは、スペインやポルトガルが侵略した後だというのである。つまり、現在のジャングルには数百年の歴史しかないのである。

・あるいはアフリカのジャングルもまた、ヨーロッパ列強が争って植民地化する前には、多様な部族が住んで、家畜を飼い農業を営む土地が多くあったようだ。そして、アメリカ大陸同様アフリカでも、ヨーロッパ人が持ち込んだ雑菌によって、多くの人や家畜が病死してしまったという。中でもひどかったのはヨーロッパから持ち込まれた牛が持っていた牛疫ウィルスによって、アフリカ在来の牛が全滅したことだった。牛や人がいなくなった牧草地がジャングル化するのにそれほどの時間は必要ではなかった。そして植民地にしたヨーロッパの国々は、再生したジャングルを動植物の保護を理由に国立公園化し、人々が住むことや家畜を放つことを禁じた。だから、ライオンや象が生きるアフリカの地は残された自然などではないのである。

・アマゾンやアフリカがそうであるように、現在の地球には手つかずの自然などはどこにもない。この本が主張しているのはこの点である。生態系と言っても、それは決して安定したものではなく、常に変化し続けている。人間が介在して変えてきたことは間違いないが、それはまた、人類の長い歴史の中で絶えず行われてきたことでもある。人類はアフリカで生まれて、数万年の時間を経て世界中に広がった。その過程で変容した環境や生態系は決して小さくはない。近代化の過程で意に反して繁茂し、人間には役に立たないと思われている外来種が悪玉化され、そのすべてが駆除されるべきであるかのように主張されてきた。それは「優生思想」に通じるし、最近の移民や難民を排斥する動きにも繋がっている。

・この本の原題は"The New Wild"である。「自然」や「野生」という概念を新しく定義し直すべきという意味でこのタイトルがつけられている。在来種の保護と外来種の駆除に躍起になるのではなく、その混在をできるだけ自然に任せる。その意味で、現在の地球環境では、都市こそが適しているという。あるいは農業放棄地、工場跡地、そしてチェルノブイリやビキニ環礁といった放射能に汚染された所でも、動植物の生態はにぎやかだという。生態系は壊れやすいかも知れないが、すぐに形を変えて復活する。自然の力はたくましい。ただしそれが人間にとって、好ましいかどうかはまったく別の問題である。

・現代の人間が地球環境に与えてきた影響は、人類を始めとしてさまざまな生物の生存を脅かすかもしれない。しかし、自然は必ず生き延びる。環境の変化に対応できるように進化したり、新しい生命が誕生したりするからだ。たとえ人類が滅びても、地球上にはまた、多様な生物が繁栄する。それならそれでいいのかも知れない。そんな読後感を持った。

2018年9月10日月曜日

夏の終わりに

 

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forest152-2.jpg・猛暑に台風、今年の夏は河口湖でも暑かったし、台風では大雨が降り、風も強かった。風が吹けば、家の周囲の木は大揺れになる。枝が屋根にドスンと落ちるが、今度の台風では、大木が幹ごと折れるのではと心配になった。幸い、そういうことはなかったが、積んである薪が、二度の台風で二度とも崩れた。雨を吸って滑りやすくなったのと風で見事に崩れたが、放ってはおけないので、すぐに積み直した。濡れた薪は重いし、台風一過でやたらに蒸し暑い。蚊にも襲われながらの汗だくの作業だった。やれやれ。しかし、台風シーズンはこれからだから、こんなことがまだあるのかも知れない。

・我が家にはエアコンはない。必要なほど暑くはならなかったからだが、今年は欲しいと思う日が何日もあった。町では役場にも学校にもエアコンはない。しかし、今年の夏は例年に比べて平均気温が二度以上も上昇したから、学校からエアコンをつけるようにするそうだ。我が家はどうするか。来年も同じように暑かったら、つけることにしようか。そんなふうに思っている。

forest152-3.jpg・こんなふうだったから、我が家でもいつもと違うことがいろいろあった。毎年夏に収穫する楽しみだったミョウガは、葉っぱが見事に成長したから、さぞかしたくさん収穫できるだろうと楽しみにしていたのだが、まったくの不作だった。いつもなら葉が茶色くなるまで取れるのに、今年はまだ青々しているうちから、ミョウガが出なくなった。
・かご脱け取りの蛾眉鳥が朝夕うるさいほどに鳴くのは数年前からだが、今年は今まで聞いたことがないミンミンゼミの鳴き声が聞こえるようになった。温暖化の影響で生き物の生態にも確実に変化が出始めている。そんなことを如実に感じた。

forest152-4.jpg・観光客の多さも例年以上で、湖畔でキャンプする人たちもごった返すほどだった。車はもちろん自転車も多いから、のんびり走るというわけにはいかなかったし、暑いのと雨が多いのとで、7月は自転車を自重する日が多かった。カヤックもなるべく早い時間にと何度か出かけたが、早朝からかなりの人手だった。
・そんな喧噪も、9月になったらだいぶおさまった。終末や連休を除けば、誰もいない湖畔をサイクリングすることができる。ただし、紅葉が始まれば、また平日でも団体客で賑わうだろう。

・今年の夏は、日本列島も散々だった。北大阪の地震、四国、中国地方の集中豪雨、猛烈な風と豪雨を伴う台風の連発、そして北海道の地震だ。しかし今年の夏だけが特別だとは思えない。地震はいつどこで起きても不思議はないし、天候の変化は異常ではなく、常態化してもいる。大きな被害はなかった我が家でも、気温の上昇などは毎年のことになっている。

2018年9月3日月曜日

何より駄目な日本

 

・テレビは相変わらず、日本のここがすごいといった話題を取りあげているが、ニュースと言えば、ここも駄目、あそこも駄目といったものばかりだ。政治や経済、そしてスポーツや芸能といった文化の面でも、この国のひどさ加減が露呈している。中でもひどいと思ったのは、官公庁や自治体の障害者雇用水増し問題だ。

・日本では「身体障害者雇用促進法」として1960年に制定されたから、すでに60年近い歴史がある。この法律は87年には知的障害者も適用対象になり、2006年には精神障害者も対象になった。事業主に一定の割合で障害者を雇用する義務を課したもので、違反すれば罰金を払わなければならず、民間企業には厳しく適用されてきた経緯がある。ところが今回発覚したのは、国の行政機関や自治体で、決められた割合を障害者ではない人で埋め合わせてごまかしてきたというものだった。しかも、ごまかしは最近始めたものではなく、長期間にわたるものだったようだ。

・障害者を雇うためには働く環境をバリアフリーなどにしなければならない。どんな仕事なら働いてもらえるか、時間はどうか、補助はどの程度必要かなど、受け入れる事業所は対応しなければならない。行政は民間企業などに対して、かなり厳密に監督をしてきたのに、自分のところは適当にごまかしてきたのであるからその罪は重いと言わざるをえない。

・森友加計問題に際して各省庁は、証拠となる記録を隠したり、改竄したりして、そのひどさが明らかになっている。しかもセクハラ、パワハラ、賄賂、裏口入学などと言った不祥事も続発していて、そのひどさ加減は驚くばかりだが、責任を取ってやめた大臣が一人もいないというのもおかしな話である。首相を始め閣僚達には、責任を取る気はまったくないのだが、それを批判したり、抗議する声も強くならない。

・隠蔽や改竄は経済界でも頻発している。これまで問題になった企業名も、いちいち覚えていられないほどだ。ぼくはスバルの車を愛用するスバリストだから、検査態勢の不備やデータ改竄のニュースにはがっかりした。しかし、同じようなことはほかの自動車メーカーでもやっていて、慣行になっていたようだ。技術や品質管理の良さは日本が何より自慢にすることだったはずだが、もうメイド・イン・ジャパンだから信頼できるとは言えなくなってしまった感がある。

・スポーツ界の不祥事についてはすでにこのコラムでも取りあげた。アメフトや相撲、あるいはサッカーの日本代表にまつわるものだったが、その後でもレスリングやボクシング、そして体操などと続出している。各団体の体質の古くささや閉鎖性、あるいはワンマンさといったことが指摘されているが、犠牲になるのはいつでも若い現役の選手である。しかもその若い選手が沈黙するのではなく、公の場できちんというべきことを主張しているから、権力を握って好き勝手をやってきた年寄りの醜さが目立つばかりである。

・自民党の総裁選挙に立候補をした石破茂が、その公約に「正直と公正」をあげた。安倍政権が不正直で不公正であることは自明の理だから、あまりに素直すぎて笑ってしまったが、それを個人攻撃だからやめろと言った議員がいたようだ。安倍本人も石破との論争を避けて逃げ回っているが、これまでやってきたことにやましさを感じてというのではないだろう。自覚があればとっくに辞めているはずだからである。嘘を平気でくり返す性格は、もうサイコパスと診断してもいいほどなのだから。

・現在の日本にはプチ安部がたくさんいる。それが組織を牛耳って好き放題をやっている。下に仕える人たちは、逆らうことなど出来ずに渋々従うのみだ。自分は、自分が所属する組織は「正直で公正か」。そう問いかけて、そうだと応えることが出来る人がどれだけいるのか。出来そうもないから、他人も批判しない。そんな空気が蔓延しているように思う。

2018年8月27日月曜日

ボキャヒン、高音、わざとらしさ


・夜の地上波はバラエティ番組ばかりで見る気もしない。よくもまあ、お粗末な番組を毎日毎日やっているものだとあきれるばかりだ。ちょっとおもしろそうなテーマだと思っても、見始めた時にひな壇にお笑いタレントが並んでいれば、もう駄目だと思ってチャンネルを変えてしまう、最近ではNHKでも似たような構成のものが目立つ。だからどうしても、見るのはBSということになるのだが、バラエティ形式の侵入はBSの番組でも顕著で、見たいものがどんどん減っていってしまっている。

・たとえば田中陽希が、今年は日本三百名山一筆書きをやっている。数ヶ月おきにその行程をたどる番組があるのだが、なぜ途中で、トレッキングなどやりそうもない女の子達が出てきて、わいわいやるのかわからない。以前は田部井淳子などが出ていたのだが、亡くなってから山歩きの専門家を出すこともなくなった。
・ほかにもトレッキング番組はよく見ているのだが、歩くのが若いタレントの場合には、途中でうんざりしてやめてしまうことが少なくない。ガイドに頼りきりで無知丸出しのうえ、発することばと言えば「すごーい」の連発だったりする。草花や動物を見かけても「かわいい」しか出て来ないし、「やばい」なんてことばも使われたりするからだ。「ボキャヒン」はすでに死語かもしれないが、このことばがよく使われた頃より、もっとひどくなっている。

・それは旅番組でも変わらない。いくら仕事とは言え、出かけるのなら、事前に予習をして、ちょっとでも予備知識を持って行けよと言いたくなることが少なくない。知らないから驚く。そこでおきまりのことばが出てくる。しかもテンションが上がって高音になるから、やかましいだけになる。うんざりするのは、そこにわざとらしさが丸見えになったりする場合だ。そうなったらもう、続けてみる気がしなくなる。
・もちろん、出てくるタレントのすべてがそうだというわけではない。自分でもトレッキングをしたり、旅に出かけたりしている人もいて、その落差が激しいから、この種の番組を見る時には、出演者が誰かを調べてからにするようになった。

・テレビを見ていてもうひとつ気になるのは、女子アナに高音で話す人が多いことである。甲高い声でしゃべられるのは聞きづらいものだが、ほかの視聴者は気にならないのかと不思議に感じることが少なくない。もちろん甲高くなるのは、緊張していたりするからということもある。新人アナは同時に表情も硬いから、これは経験不足と聞き流すこともあるが、いつまで経っても高音が直らないと、そのニュース番組はもう見たくないということになる。そんな人は天気予報をする人にも多い。高音はアナや予報士には向かないという基準がないのだろうか。

・NHKBSでやっている「クール・ジャパン」は、日本で生活している外国人が日本や日本人について、自らの経験にもとづきながらクールかクールでないかを議論しあう番組である。その中で、日本人の若い女の子達の声が高いことが話題になった。高い方がかわいらしく聞こえるからだと言って、それは子供っぽさの演技だが、自分の国ではばかにされるだけだという批判をしている人がいた。まったくその通り、とぼくは思わず声を出してしまった。

・かわいらしく振る舞うこと。これは今、テレビに出るタレントや女子アナばかりでなく、若い女達が共通に意識していることなのではないかと思う。だから知っていても知らないふりをする方がいい。予備知識など持っていない方がいい。教養などは必要ない。その方が、見ている人や相手は喜ぶに違いない。それをコミュニケーション力だと思っている人が増えたのだとすれば、とんでもない誤解で、こんな風潮は困ったものでしかない。