1998年3月25日水曜日
『アミスタッド』(1997) 監督:S.スピルバーグ、荒このみ『黒人のアメリカ』(ちくま新書)
1998年3月10日火曜日
Fiona Apple "Tidal" Meredith Brooks"blurring the edges"
・フィオナ・アップルは今年度のMTVビデオの新人賞を取った。場違いなところにいるという気持ちをあからさまにした授賞式でのツッパリの態度が気に入った。そんなことを考えながら、そういえば去年はアラニス・モリセットで、ちょっと前にはシェリル・クロウと、同じようなシンガーが注目されつづけていることに気づいた。今年は他にもメレディス・ブルックスもいるし、グラミー賞の授賞式を見ていたら、知らない女性シンガーが何人も出てきていた。見分け、というよりは聞き分けができないほど似ている。とは言え、僕はその多くには好感を持っている。何よりいいのは、元気の良さ。それにのびのびしていて、言いたいことをはっきり言う。勝ち気な女性はぼくのタイプだが、それは今のアメリカでも求められているものなのだろうか。
・フィオナ・アップルの "Tidal"
はマッキントッシュでビデオ・クリップを見ることもできる。MTVの授賞式では「こんなところにいる場合じゃないのよ」といったことをしゃべって社会派のシンガーのような印象をもったが、レコード会社の周到な宣伝戦略のもとに売り出された新人であることに変わりはない。歌詞は恋人や父親との関係を歌ったものが多い。私小説風な世界を作り出すのは、アラニス・モリセットとも共通している。似ているのは声や歌い方や曲の感じばかりではない。メレディス・ブルックスのアルバム
"blurring the edges" には歌詞がついてないが、こちらもシェリル・クロウによく似ている。
こんな時代だから
私は何をしたらいいのかわからない
毎日、毎晩
私は建物の壁づたいにうろついて
小声で自問する
私には、飛び立つための燃料がいるってFiona Apple "Sullen Girl"
・グラミーのベスト・アルバム賞をボブ・ディランが取った。たぶん、20世紀後半のポピュラー音楽の方向を作ったミュージシャンに対する評価という意味あいだろうと思う。他にジェームズ・テイラーやジョン・リー・フッカーとヴァン・モリソンも賞を与えられた。
・ロックはずっと白人の男たちの作る音楽で、黒人たちはR&Bとして区別され、女性たちは添え物のようにして扱われてきた。ところが、ここ数年はラップを中心としたアフリカン・アメリカンたちの勢いと女性シンガー・ソング・ライターの元気さばかりが目立っている。白人の男たちでがんばっているのはクラシック・ロックというジャンルに入れられている大御所ばかりだ。去年のグラミーだって確かエリック・クラプトンだった。
・ラップはすでに一風変わった一時的な音楽とはみなされなくなってきている。それに比べると、新しい女性シンガー・ソング・ライターの続出という現象は、まだまだ一つのジャンルとして定着してはいない。シェリル・クロウの2枚目のアルバムは1枚目ほどよくはないし、アラニス・モリセットの2枚目はまだ出ていない。新人に自分の世界を先取りされた感じだが、だからこそよけいに、フィオナもメレディスも次のアルバム作りはなかなか大変だろうと思う。しかし、カーリー・サイモンやジョニ・ミッチェルが作り出したのとはちょっと違う、女たちのロックの世界が生まれはじめていることは間違いないし、ぼくはそのことに大いに関心がある。
1998年3月4日水曜日
上野千鶴子『発情装置』(筑摩書房)
・おもしろい本だ。『発情装置』というキワモノ的なタイトルだが、内容は「性」について、「ジェンダー」について、そして男と女の関係についての先端論である。何より、思考の新しい回路を発見させてくれる。何となくそう感じていたことに、明確なことばが与えられているのがいい。
・僕は毎月数十冊の本を買う。しかし、最後まで読むのは、たぶんその2割ぐらいだろう。そしておもしろいと思うのは、1冊あるかないかといったところだ。さらに、知らなかった大事なことを教えられたとか、気づかなかった視点や新しい考え方にふれられるのは年に数冊だが、この本は間違いなく、その一つになるはずだ。
・「ブルセラ」や「援助交際」で少女の性が話題になってきた。宮台真司の挑発的な著作は、世の親たちに不安を与えるのに十分なインパクトを持ったと思うが、僕は、ちょっと胡散臭さを感じてきた。つまり実際にそのような現象があるのかもしれないが、いったいどの程度の広がりをもっているのだろうか、といった疑いだった。上野千鶴子の回答は痛快だ。
「少女達にブルセラ・ショップの存在を教え、彼女たちの使用済みパンツに市場価値があることを『発見』させたのは、マスコミでした。メディアにおける『ブルセラ・ブーム』の仕掛人、藤井良樹くんや宮台真司くんは、それを十分に自覚しています。彼らの証言によれば、メディアの中で『ブルセラ・ブーム』がおきた後に、事実、ブルセラ・ショップの数は増えたということです。これらのルポライターや社会学者たちは、取材と称して女子高生たちに『ブルセラ・ショップ』の存在を教え、彼女たちのアクセスを容易にすることに貢献しました。」
・「マッチポンプ」としての宮台というわけだが、上野はさらに、宮台の仕事が女子高生たちにばかり向いていて、それを買う男たちにではないことを突く。少女たちが性を売り物にするのは、それを商品化し、市場を形成させる男たちの「欲望」があるからだが、そのことを問わない宮台の姿勢はどうしようもなく保守的なものだというわけだ。ついでにいえば、例の神戸の事件への最近の宮台のシフトにも、ぼくはやっぱり胡散臭さを感じている。どんなテーマも彼にとっては売名の手段でしかないのではという感じがしてならないからだ。
・それはともかく、この本はけっして男たちを一方的に糾弾するような内容のものでもない。フェミニストによる告発型の指摘は、「売春」「レイプ」「セクハラ」など、すでに様々になされている。どれもが正論で、ごもっともと言う他はないが、おもしろいと思うものに出会ったためしがない。しかも一方には「おもしろくない」とあからさまに言いにくい雰囲気がある。そんなもどかしさもまた、この本は代弁してくれている。たとえばキャスリン・バリーの『性の植民地』について
告発は、ここで終わる。だが男のセクシャリティに対する理解は、ここから始まる。男はなぜ、そんな悪いことをするんだろう?この素朴で根源的な疑問に答えてくれないこれまでの告発型男性研究はどれも退屈だ。
・で、その「なぜ」だが、上野は「裸体のジェンダー非対称」という指摘をしている。女はいつでも男の性的欲望の対象として「身体」の危険にさらされている。「視られる性」と「視る性」、視られることへのナルシシズムと視ることへのフェティシズム。なぜ男は女の身体に欲望するのか?なぜ女はしないのか?それはまさに、「視線」をめぐる「政治学」の問題なのだと上野は言う。いったいそれは対称的になるものなのだろうか?
# 少女マンガにおける「少年愛」について、あるいはニキ・ド・サンファル論、異性愛、ゲイとレズ、そしてフロイト批判など、この本から出発して考えることは、本当にたくさんあると思う。
1998年2月27日金曜日
北山の春
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1998年2月13日金曜日
『フル・モンティ』(1997)
・ぼくは大学の教員だから、わりと好き勝手なことやっていても、とやかく言われることはあまりない。ほとんど自由業のようなつもりでいるのだが、給料をもらって生計を立てているサラリーマンであることに変わりはない。だとすると、失業の危険だって常につきまとうはずである。最近の証券会社や銀行の倒産はもちろんだが、18歳人口の減少で大学が冬の時代を迎えることはずいぶん前から言われてきた。
・ぼくは能天気にも、こんなことをほとんど他人事のように考えてきた。そして、最近になって急に、否応なしに現実味をもって感じさせられるようになった。大学の生き残りのために考えさせられたり働かされたりすることが増えてきたが、それにもかかわらず受験生は確実に減りつづけている。
・で、ときどき、失業したら、ぼくには一体何ができるんだろう?どこが雇ってくれるんだろうなどと考える。もちろん考えはじめてすぐわかるのは、その可能性の少なさである。ぞっとして、二度と考えたくはないと思ってしまう。間違っても、『フル・モンティ』の登場人物たちのような目には遭いたくはない。この映画を見ての第一印象はそれだった。
・"Full Monty"
とは全裸という意味のスラングである。この映画はつまり、男たちがストリップをやる話なのだ。イギリスのシェフィールドはマンチェスターやリバプールに近い鉄鋼の町。登場人物たちはそこの鉄工所に勤めていたのだが、半年前に解雇されてしまっている。金がない、借金はある。時間を持て余す毎日、パートでなら職もないことはないが、今さらそんな仕事をする気にもならない。子供に威厳を示せない父親、そして離婚の危機。当然、パート仕事をする女たちの方が金回りがよくて勢いもある。
・町にやってきた男たちのストリップ・ショーに女たちが嬌声をあげる。男たちはますますいじけるが、主人公のガズはこれで金儲けをと考える。メンバーはインポテンツのデブと気位の高い上司、自殺し損なったマザコンに、巨根だけが自慢のリズム音痴、それに薬中毒の初老の黒人。
・話はしごく単純、それなりに深刻で切実なのだが、思わず笑ってしまう。笑いながら、他人事ではすまされない。火の消えた鉄工所での踊りの練習が見つかって、全員が警察に捕まってしまう。ラジカセで音楽の担当をしていたのはガズの9歳になる息子だった。新聞が鉄鋼野郎のストリップと大きく報じる。新聞の回収にまわったって焼け石に水。彼らは一躍町の話題になる。そして、最初で最後の一回だけの、スッポンポンのストリップ・ショー。これはまさに、中年過ぎの男たちのアイデンティティをかけた戦いの物語なのである。
・最近、イギリス映画がおもしろい。例えば『トレイン・スポッティング』や『イングリッシュ・ペイシャント』。『トレイン・スポッティング』はやっぱり、職がなくてぶらぶらしている男たちの話だった。ロバート・カーライルは両方に出演しているが、登場人物は全体にもう一世代若かった。いわば、アイデンティティを持てない状況に置かれた若者たちの生態といったところ。そして『フル・モンティ』はアイデンティティの再構築を迫られた男たちの生き様である。
・一人前の人間であるためには、誰もが他人から認められ、信頼される何者かにならなければならない。そのための機会や選択の幅は増えたが、競争は激しいし、確立したと思っても、実際、その基盤は恐ろしく頼りない。だからいつだって、やり直す状況に置かれる危険性はある。そんな時代がやってきたことは、たぶん間違いない。『フル・モンティ』はそんな時代に遭遇した男たちのやけっぱちの抵抗なのである。
1998年2月6日金曜日
Bob Dylan "Time Out of Mind" グラミー賞「最優秀アルバム賞」
- 夏の夜を歩いている
ジュークボックスが低く鳴る
昨日は、すべてがあまりに速く過ぎて
今日は、すべてがあまりに遅く動いている
1998年2月1日日曜日
D.ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』上下(新潮社)
・50
年代というのは若い世代の主張が激しかった60年代に比べて、話題になることが少ない。けれども、考えてみれば60年代の若者たちを育てたのは、50年代なのである。だから、60年代がなぜあのような時代だったのか知りたければ、むしろ、50年代を調べる方が近道なのかもしれない。
・D.ハルバースタムの『ザ・フィフティーズ』を読んで、再認識させられたことがいくつかある。戦後育ちのぼくにとってアメリカは最初から豊かな国だった。最初からということは、ぼくにとってはずっと昔からということを意味していた。自動車、カラー・テレビ、大型冷蔵庫、ハンバーガー、コーラ、高速道路に大きなスーパー・マーケット、あるいはホリデイ・イン..........。
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ところが、この本を読むと、そういった現在でもアメリカのイメージを代表するもののほとんどが、50年代に生まれたことがよくわかる。例えば、マクドナルドのハンバーガーはロサンジェルスに近いサンバナディーノに1940年に開店した店が出発点になっている。店は繁盛したが、これを全国チェーンにしたのは、マクドナルド兄弟から1954年にフランチャイズ・エージェントを引き受けたレイ・クロックだった。そしてケンタッキー・フライド・チキンやさまざまなファミリー・レストランのチェーン店が生まれる。
・アメリカは40年代に全国の高速道路網を整備した。そこにいち早く着目して、全国チェーンのモーテル「ホリデイ・イン」を作ったのはケモンズ・ウィルソンである。あるいは、郊外に新興住宅(レヴィット・タウン)を量産したビル・レヴィット、ディスカウント・ショップ「コーヴェッツ」をニューヨークではじめたユージン・ファーコフ。そのアイデアを借りて作られたオモチャのチェーン店「トイザラス」。
・50年代を象徴するのは他にもたくさんある。テレビの普及と映画の変容、あるいは、LPやドーナツ盤によって生まれた新しい音楽市場。マーロン・ブランド、ジェームズ・ディーン、マリリン・モンロー、エルビス・プレスリー、そして「アイ・ラブ・ルーシー」のルシル・ポール.............。もちろんタレントやスターの出現は芸能界に限らず、政治、経済、社会のあらゆる分野から出現する。というよりは、注目される人、されたい人はタレント的な才能をもたなければならなくなった。
・ハルバースタムはアメリカの豊かさを大衆化した時代が50年代であることを詳細に展開する。それは、一方で水爆や冷戦といった緊張をはらみつつも、個々の人にさまざまな欲望を自覚させ、それが実現可能だと思わせはじめた時代だった。郊外にもったマイ・ホームとテレビ、買い物はスーパー、自動車をつかった高速道路の旅。宿泊はどこでも安心なモーテル。大事に育てられる子供、魅力的な妻や懸命な母になろうとする女性たち。キンゼー・レポートとピル、『プレイ・ボーイ』の創刊。
・けれども、その豊かさの大衆化が、また、さまざまな不満や批判を自覚させる原因になる。60年代の若者の反乱の出発点がすでに、ディーンの映画やプレスリーのロックンロールに見つけられるように、フェミニズムや黒人(アフリカ系アメリカ人)による公民権運動の出発点も50年代にある。もちろん、ヴェトナム戦争が米ソの対立する冷戦構造から生まれたものであったことはいうまでもない。
・このように見ると、もうすぐ20世紀が終わろうとしている現在について考えようとするときにまず見つめなければいけないのは、50年代という時代であるような気がする。
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