1999年10月26日火曜日

賀曽利隆『中年ライダーのすすめ』平凡社新書


  • ぼくはバイクに乗り始めてから、もう30年近くになる。最近では、自動車を使うことが多くなってしまったが、気持ちのいいワインディング・ロードに出会うと、「あーバイクで走ってみたい」と思うことが少なくない。暑さや寒さや風の強さを肌で感じる。コーナーでの傾きや後輪のスリップで実感する機械と身体との一体感。同じ登り坂や下り坂もその傾斜は車とはずいぶん違う。そんな感覚を、時々無性に味わってみたくなる。
  • とは言え、快適な時ばかりではないから、歳とともに「しんどさ」や「面倒くささ」が先に立つようにもなってきた。腰痛持ちで数時間も乗ると腰や尻が痛くなる。重たいバイクを引き回すとすぐに息が上がってしまう。だから、荷物を満載しての長距離ツーリングは、もう夢だけの世界で、街中や近くの山道をちょこちょこと走っている。で、今年長く走ったのは京都から東京への高速道路一直線と東京-河口湖一往復だけである。
  • 『中年ライダーのすすめ』を書いた賀曽利隆さんは51歳だから、僕より一つ上である。題名に惹かれて買ったが、読み始めてびっくりしてしまった。バイクで日本一周、世界一周はもちろん、それを50cc でもやったりしている。オーストラリアやアフリカの砂漠、あるいはモンゴルの草原。もちろん、それらを題材にしたフリー・ライターだから、それが仕事だといえばそれまでだが、飽くこともなく次から次へと走っている。そのエネルギーとバイクによる世界体験への好奇心は呆れるほどである。
  • よう身体がもつなと思ったし、費用はどうするんだろうと考えた。子どもが三人で扶養の義務も果たしているようだ。数カ月とか半年とか、家族をほったらかしてよく愛想をつかされないな。怪我や病気は......などと余計な心配ばかりしてしまったが、「ノーテンキ・カソリ」「強運のカソリ」「不死身のカソリ」といたって威勢がいい。
  • 「中年ライダーの愉しみと悩み」とか「中年ライダーの健康問題」の章は、さすがに歳相応の話かと予測したが、とんでもない。ここでも肺に腫瘍ができたとか心臓発作とか物騒な話が続き、それがオーストラリアやモンゴルに行った時期だと書かれている。しかもそれは無謀なことというよりは、自分の体力や気力を回復させるのに役立っている。もうただただ感心して読んでしまった。
  • 僕はとても彼にはついてはいけそうもない。けれども、バイク乗りとして共感できるところはいくつもあった。たとえば、「車というのは日常を引きずって走るもの、バイクは日常を断ち切って非日常の世界を走るもの」といった文章。ただし僕の非日常体験は、むしろ南伸坊がやるような裏道や裏山の探索といった程度で、しかも、だいたいは仕事の行き帰りの寄り道程度のものである。
  • もう一つ「そうだ」と同感したのは、バイクが決して危険な乗り物ではないということ。バイクに乗っていると、車が身体に比べて異様に大きな図体なのに、ドライバーがそれに無自覚であることに気づく。けれどもまた、車に乗っていると、身体をむき出しにしているのに、バイクの危険さを自覚しないライダーが気になる。ヘルメットを規則だからと仕方なく首に巻き付けているような人を見かけると、「死ぬのは勝手だけど、巻き込まれる人の身にもなったら」とつぶやいてしまう。同じ道路を走りながら車とバイクはまったく違う世界にいて、しかも互いを邪魔者に感じている。ぼくは、著者と同様、今まで30年近く、事故とは無関係だった。運もあるのかもしれないが、両方の世界を経験したことが大きかったと思う。
  • この本によれば、最近は若い人のバイク離れが目立つそうである。その代わりに中年ライダーが増えている。バイクが不良の乗り物ではなくおじさんたちのものになり始めている。ワーカホリックやリストラと、あまりいい思いをしていない中年たちが見つけた、自分を取り戻す一つの道具。それは、若者とは違うおじさんたちの文化を創り出す一つの契機になるのかもしれない。
  • 1999年10月20日水曜日

    Sting "Brand New Day",Steave Howe "Portraits of Bob Dylan"


    sting1.jpeg・スティングは好きなミュージシャンの一人だった。大阪城ホールで 5、6年前に見たコンサートは3人だけのシンプルな編成で、ぼくはじっくり聞かせる歌い方を堪能した。"Ten Summer's Tale"が出た後だったと思う。いい曲がたくさん入ったアルバムで、車の中でくりかえし聞いた。
    ・しかしその後、彼が登場したテレビCMを見てから、すっかり興ざめしてしまった。確か宮崎県の海岸に建つホテルだったと思う。彼はご丁寧に、そのホテルでコンサートを開いて客集めに一役買ったりもした。僕はたまらなく違和感をもった。
    ・もちろん、ロック・ミュージシャンはCMに出てはいけないという決まりはない。彼らにとっては自分でつくった音やことばはもちろん、姿形や生きざまだって商品として売られるものなのである。けれども、だからこそ、自らの商品化には意識的になってほしいとも感じてしまう。彼はずっと、アマゾンの熱帯雨林破壊の反対運動に賛同して、そのためのコンサートなどに積極的に出演していた。第一、スティングの音楽の良さは、その抑制された歌い方にあったはずである。「もう十分お金は手に入れたんじゃないの?」というのが、テレビに出たスティングに向けたぼくのことばだった。
    ・1996年に出た"Mercury Falling"は一般的な評価がどうだったのか知らないが、僕にとっては悪くはなかったが、印象の薄いアルバムだった。だから、くりかえし聴くことはなく、やがて、スティング自体も聴かなくなってしまっていた。シルベスター・スタローンの『デモリッシュマン』の音楽なども担当して、話題にはなっていたが、僕には、彼についてのイメージをますます違うものにする意味合いしか感じられなかった。
    ・で、今回のニュー・アルバムだが、たまたま見つけて久しぶりに聴いてみようかという気になった。"Brand New Day"。その最後の同名の曲には次のような一節があった。何やらこっちの気持ちをくすぐるような文句である。


    なぜ時計をゼロにできないのだろう
    有り金はたいて買ったモノを売ってしまおう
    真新しい日をスタートさせる
    時計を完全に元に戻して
    彼女が戻ってくるかどうかわからないが
    僕はまっさらのブランドで考える

    howe1.jpeg・もう一枚一緒に買ったのはスティーブ・ハウの"Portraits of Bob Dylan"。ハウはYES のギタリストでそのテクニックのすごさで知られるが、彼がディランに心酔していることをこのアルバムで始めて知った。中身は全てディランの曲。それらをハウ自身はもちろん、何人もの人たちが歌っている。ハウらしい静かなトーンでつくられていて、それなりにいいと思ったが、しかし聴いているうちにディランのオリジナルが無性に聴きたくなった。
    ・あのエネルギー、あの鋭さ、あの節回しがなければ、どれもこれもただのフォークやロックのスタンダードになってしまう。ディランのカバーで今まで、あのザ・バンドを除いて、ディラン自身よりいいというものに出会ったことがない。彼の作った歌はその存在抜きには考えられないのかもしれないが、それは、思い入れの強い僕個人の感覚だけなのかもしれない。

    1999年10月13日水曜日

    「社会学」のレポートを読んでの感想

  • 今年担当している「社会学」には受講生が200人以上いる。ほとんどが1年生だ。僕は去年も追手門学院大学で1年生の「入門社会学」を担当していたが、東経大のコミュニケーション学部には社会学のプロパーが少ないから、自分の得意な領域だけを講義するというわけにいかなくなった。で、「近代化」を中心テーマに基本的な話をしている。ちょっと大変だと思ったが、文献にもふれてもらおうと夏休みのレポートも出した。
  • 4000字のレポート200人分というと本で5-6冊はある。回収して積み上げたらうんざりするばかりだったが、連休の週末に久しぶりに河口湖に行ったから、がんばって全部を読んでしまうことにした。おかげで、暖かくて天気も良かったのに、ほとんど出歩くこともなく、4日間をレポートの束を抱えて過ごした。読後感はというと、まじめに書いている学生がほとんどだったが、いつもながらおもしろいものは少ないというものである。
  • 本を読むこと、それについて書くことは、基本的にはどちらも「考える」ことである。しかし、考えている学生が少ない。何が書いてあるのか、作者は何が言いたいのか、それについて自分はどう思うか、何を考えたか、それをどのように書いたらいいか。他人の書いた文章を読むおもしろさは、ひとつはそんな書き手の思考の後をたどることだが、学生の書いたものには、そんな姿がほとんど見えないものが多い。
  • 理由はいくつかあると思う。第一はこの種の本をはじめて読んだということ。どう読めばいいのか、どうまとめたらいいのか、どう書けばいいのかわからないこと。第二は、そんなとまどいをレポートに書いてはいけないと判断したこと。何しろこれはグレードがつくレポートである。多少は知ったかぶりもしなければいけない。第三は、作者、あるいは内容と、読んでいる自分との間にもつはずの距離感。これは、共感するにせよ、違和感を感じるにせよ、読むという行為に欠かせないものだが、そんな意識が不在なのである。
  • 大学生が本を読まない、ということに、今さら驚きもしないが、大学に入ってくるまでに、この種の本を一冊も読んだことがない学生がほとんどだということには、ちょっと不安な感じがする。大学に入るためには当然、「現代国語」や「英語」の試験がある。どちらにしても、社会や文化、政治や経済をテーマにした長文が出されて、結構難しい設問が設けられている。それをクリアして合格するのだから、文章を読んで理解する力はあるはずだ。しかし、それは一冊の本というのではなく、高校の教科書と、何より入試の問題集や参考書で培われる。それは、ちょっと前から一般的になった小論文でも同様だ。
  • 受験の弊害といえばそれまでだろう。しかし、日本語はもちろん英語にしても、読むおもしろさ、書くことの意味をまるで経験しない、というよりは、つまらないもの、しかし、やらねばいけないものと思いこませてしまう現状は問題である。学生は本は高くてつまらないものと考えている。しかし、専門書だって、最近では文庫や新書で豊富に出されている。それになじんで自分の関心がはっきりしてくれば、高くて難しい専門書にだって、取り組んでやろうという気が起こるはずである。
  • 今は大学生にそこから動機づけをしなければならない。200人の学生にそのことを理解させるのは至難の業で、僕もそんなことを自分の使命にするつもりはない。けれども、本を読むこと、それによって考えることをおもしろいと感じる学生が、何人かでもあらわれればという期待を込めて、学生に本を読むことを勧めてみようと思う。レポートには、この課題をきっかけに、これからはもっと本を読みたいといったことを書いた学生がかなりいた。社交辞令か、いい子ブリッコかもしれないが、僕はこのことばを信じようと思う。
  • 1999年10月6日水曜日

    最近のテレビはおかしくありませんか

     

    ・大学に長くいてつくづく思うのは、最近、政治はもちろん、文化の新しい流れが大学からはまったく生まれなくなったということだ。今、社会の流れを敏感にキャッチして、新しい方向づけをする役割は、大学生ではなく、高校生や中学生の女の子である。
    ・白髪模様の頭に厚底サンダルで肌はこんがり小麦色。今年の夏はどこにいてもこんな高校生の女の子ばかりだった気がする。で、大学でも今頃になって見かけるようになった。何も高校生のまねをしなくてもと思う。茶髪頭の数と偏差値は反比例するといった説を何年か前に耳にして、経験的に確かにそうだなと納得したことがあったが、今は厚底サンダルでそんなことが測れるのかもしれない。
    ・こんな傾向を見ていると、今の流行の発信源には「アホで幼稚」な感覚が必要なのだとつくづく感じてしまう。たとえば、テレビにはものを知らない女の子たちを笑う番組がたくさんあって、よってたかって馬鹿にしたりしているが、彼女たちも知らないことを恥じたりはしない。とんちんかんな受け答えをしても、あっけらかんとしている。彼女たちは何より、テレビに映されただけで満足なのだ。トレンドはそんな女の子たちとテレビが共謀してつくりだす。

    ・ダスティン・ホフマンとジョン・トラボルタの『マッド・シティ』を見た。恐竜博物館にライフルを持って立てこもった男と、そこに潜入して独占中継を試みるキャスターの話. 犯人に同情したキャスターは、世論を喚起するためにシナリオを作成して、犯人に演技をさせる。失業、路頭に迷う家族、思いあまっての犯行.....。うまく行きかけるが、ライバルのキャスターの横やりがあって、犯人は自爆する。定番のメディアものだが、おもしろかった。
    ・世論も流行もメディアがつくりだす。今さら断る必要もないことだ。ただ、メディアは、かつてはそれを悟られないようにやってきたはずだが、今ではあからさまにやる。「サッチー」の話題はもう半年以上もつづいているが、僕にはいったい何が問題なのかいまだにわからない。長島巨人の「メイク・ミラクル」を読売系以外のテレビがあんなに煽った理由もわからない。コマーシャルやドラマの主題歌にしてヒット曲を出す、というのは昔の話で、今は番組の中で出演者に歌わせて、それを実際にヒットさせる、といったことをやっている。ヒッチハイクでの冒険旅行の中継が、すでに何人もの人気タレントをつくりだしたことは今さら言うまでもないだろう。台風の最中に岸壁に立たせ、台湾の地震では阪神大震災の反省もなくヘリを飛ばし、災害現場でわがもの顔に振る舞っていた。神奈川県警の腐敗ぶりを叱り、東海村の核の事故を批判する口調は激しいが、NHKも民放も、局内でのセクハラやトイレの覗きといった下品な話題にあふれているし、アイドル化した女子アナはまたスキャンダルの餌食でもある。

    ・テレビ俗悪論は放送の開始時点からあって、僕はそのような議論にはほとんど与しなかったが、最近は本当に俗悪、というよりは醜悪になったなと思ってしまう。かつて、テレビの制作者はテレビ番組が俗悪なのは視聴者がそれを望んでいるからだ、と居直っていた。しかし、今はそうではなく、テレビ自体が俗悪さをふりまいている。何より「アホで幼稚」なのは視聴者や登場して喜ぶ素人ではなく、テレビ番組をつくる側なのである。しかも、同じ顔が次の瞬間には社会の良心といった表情に豹変するから、よけいに始末が悪い。警察や核施設のいい加減さがルールやマナーの軽視、たかをくくった慢心にあるとすれば、同じことはメディアにだって言えるはずである。テレビは何でもできる。テレビといえば誰もがにじり寄ってくる。そんな意識にスポイルされている。
    ・そんなふうに考えると、あまり邪心もなく、自分の外見をさまざまに変えては面白がっている少女たちの行動には、かえってほほえましい感じすら覚えてくる。自分たちが面白いことをやれば、メディアが追いかけてきて、それを話題にしてくれる。だから、馬鹿にされたってかまわない。彼女たちからのこんな自己主張にはけっして「アホで幼稚」と片づけてしまうことができないものがふくまれている気がする。とは言え、ちょっと遅れてまねする「フォロワー」の女子大生には、目につくせいもあってか、やっぱり、何とかしてよと言いたくなってしまうのも正直なところである。

    1999年9月28日火曜日

    ロボット検索について


  • ぼくのHPにはいったいどんな人が訪ねてきているのか。どのページをよく見ているのか。これは前から気になっていることだが、実際にはよくわからない。それがチェックできる装置があるようだが、そんなものをつかってまで知りたいとも思わない。だから手がかりになるのはメールだけなのだが、もちろん、訪れた人が皆メールをくれるわけではない。たぶん、メールをくれる人は訪問者の1%ほどにすぎないのだ。
  • それでも、その100分の1の割合でしかないメールによって気づくことはいくつかある。見ず知らずの人から来るメールには、主に二つの種類があるが、そのちがいが検索エンジンによるものであることに最近気がついた。
  • 検索エンジンにはたとえばYahooのような登録制のものとロボット検索よるものの2種類がある。ぼくはYahooにしか登録していないが、その社会学の項目が最近、細分化されて、ぼくのHPはメディア論の欄に入った。一番上に眼鏡(注目)マークで載っているから、そこから来る人がかなりいるようだ。当然、Tシャツ入りの表紙(玄関)からの訪問ということになって、やってくるメールにも自己紹介があったり、僕のHPの感想があったりとパーソナルな感じがする場合が多い。
  • もう一つのロボット検索は、知らないうちにページの隅々までチェックをしてリストアップするものである。だから、そこから入った人はいきなり中のページの細かな字句、たとえば人名や映画や音楽や本の題名にやってくることになる。さがしものや調べものなどをしているせいか、メールも具体的な用件が中心になって、返事をせかしたりするのだが、このようなものに限って、どこの誰かも書いてない場合が少なくない。
  • これは前回も書いたのだが、大学が試験の時期(入試ではない)になると、名前はもちろん、どこの大学の学生なのかも名乗らずに来るメールがかなりあって、そのあまりに初歩的な質問と、依存的な文面にうんざりすることがかなりある。またこの手のメールは、返事を出してもそのままなしのつぶてで、僕の返答が役に立ったのかどうかわからないままになってしまうのがほとんどだから、最近ではほとんど無視することにした。礼儀知らずもいい加減にしろとメールに向かって何度怒鳴ったことか。
  • もっともマナーの悪さは、インターネットの仕組みに原因があるのかもしれないという気もしている。検索エンジンはインターネット上の無料のサービスとして誰もが使うことのできるものである。だからそこから見つけたHPにもまた、それなりのサービスを要求して当然だという感覚を持つのはわからないことではない。現実にはHPは誰もがボランティアとして参加しているのだが、それは、自分でHPを公開してみなければわからないことなのかもしれない。
  • そんなふうに考えると、ロボット検索はありがた迷惑なことのように思えてくる。実際何でも検索項目にリスト・アップされてしまうのだから、うかつに名前などは載せられないと自己規制をしてしまうこともある。消去し忘れた何年も前の講義予定についての質問が突然来たこともあって、HPのフォルダの中はいつでも整理して、用のないものは残しておかないようにしなくては、などといったプレッシャーも感じてしまったりする。
  • このようにロボット検索による訪問は、家の中に他人が断りなしに入ってきたような感覚がして僕は好きではないのだが、これがなければできなかったようなつながりも同時に認めなければいけないことがある。
  • 以前に僕のディスコグラフィーのページに載っているシンニード・オコーナーのCDを買いたいと書いたメールがフィンランドから来たことを紹介したが、最近でも別のミュージシャンのCDを売ってくれというメールがアメリカからやってきた。売る気はないから断ったが、こんなふうにしてできるつながりにはおもしろさを感じてしまう。シェリル・クロウの横浜でのコンサート・チケットが余っているから買ってもらえないかというメールもあって、買いはしなかったが、それはそれでおもしろいと思った。
  • HPとメールを公と私の関係の中で見るのはなかなか難しい問題だが、断りなしの検索ロボットの侵入や匿名のメールは、規則というよりはマナーとして自粛してほしいと思う。
  • 1999年9月21日火曜日

    『スポーツ文化を学ぶ人のために』の紹介

     井上俊・亀山佳明編著、世界思想社 

    ワールドカップやオリンピック、それにメジャーリーグやセリエAなど、関心をもたれるスポーツの多様さは驚くほどですが、そういう状況についての分析は多くはありません。しかし、スポーツについて考えることがおもしろい時代になっていることはまちがいないでしょう。この本は、そんな時代に応えた、スポーツと文化と社会について考えるための入門書です。

  • ぼくはここでも「スポーツとメディア」という題目を与えられて、MLBを中心に、新聞やラジオ、そしてテレビの関係を調べてみました。で、アメリカのプロスポーツの発展や変容がラジオとテレビ抜きには考えられないことを再確認したわけです。
  • もちろん、この本によってあらためて知ることや考えることはほかにもたくさんあるはずです。しかし、詳しく説明するスペースはありませんから、目次を載せておきます。書き手は体育学と社会学を専門にする人たちですが、難しい学術書ではありませんから、おもしろく読めるのではないでしょうか。
    序論:文化としてのスポーツ(井上俊)
    I:スポーツ文化のとらえ方
     現代スポーツの社会性(内田隆三) /ナショナリズムとスポーツ(吉見俊哉)
     スポーツとメディア(渡辺潤) /スポーツと暴力(池井望)
     スポーツする身体とドーピング(亀山佳明)
    II:現代のスポーツ文化
     スポーツとジェンダー(伊藤公雄) /スポーツ・ヒロイン(河原和枝)
     スポーツファンの文化(杉本厚夫) /スポーツと賭(小椋博)
     体育とスポーツ(松田恵示)
    III:スポーツと現代社会
     スポーツのグローバリゼーション(平井肇) /文化のなかのスポーツ(黄順姫)
     ポストモダンのスポーツ(L.トンプソン) /スポーツと開発・環境問題
     スポーツと福祉社会(藤田紀昭)
    IV:スポーツ文化研究の方法と成果  理論的アプローチ(菊幸一)
     実証的アプローチ(清水諭)
  • なお、もっと詳しい紹介や質問、あるいは感想については、直接出版者にお訪ねください。
  • 1999年9月15日水曜日

    田家秀樹『読むJ-POP』徳間書店

     

    ・僕は日本のポピュラー音楽はほとんど聴かない。特に最近はそうだ。だから、Grayが20万人集めたとか、誰それがドームをいっぱいにしたとかいわれても、何のことやらさっぱりという感じでいる。もちろん何人かの気になるミュージシャンはいて、その人たちのCDは買ったりしているが、はっきり言って、聴くにたえるものがほとんどないと思っている。それが、最近「J-POP」なることばをがよく使われ、佐藤良明の本が話題になりはじめた。いったい「J-POP」とは何か?

    ・国産のポピュラー音楽はずっと、洋楽と区別して「和製ポップス」と呼ばれてきた。「ポップス」は「ポップ」の複数形だが、これは和製英語で、日本以外では使われない。なぜ日本人が複数形にして使ったのか。いきさつはわからないが、POPが意味するものとはちょっと違うという気持ちがあったのかもしれない。実際、ビートルズから派生したGS(グループ・サウンド)にしても、フォークやロックから転じた「ニュー・ミュージック」にしても、基本的には何かのコピーで、よく言えば日本風のアレンジをしたものだが、要するにほとんどは模造品にすぎなかった。どんなサウンドが流行しても、はやる音楽をつくるのはその都度数人の売れっ子作曲家や作詞家、あるいはアレンジャーで、生まれるというよりはつくられる音楽と印象が強かった。

    ・ポップスからSをとってJをつける。それはもう一つの亜流品という自己卑下的な位置づけからオリジナリティのある日本のポップになったという自信の表明なのかもしれない。何しろ、日本の音楽産業の規模はアメリカに次いで世界第二位であり、人気ミュージシャンがコンサートをやれば、ドームを何日も満員にするほどなのだから、そんな意識の変化も理解できないことではない。しかし、その中身はどうなのだろうか.....。

    ・田家秀樹の『読むJ-POP』は戦後から現在までの日本の流行歌を丁寧におった内容の本である。読んでいて気づいたことは、ある年代まではほとんど意識的に聴いたことはなくてもその歌を知っているということ。もう一つは、ほとんど著者と僕が同世代であること、住んでいた場所もおなじ、というよりは、同じ中学の2年先輩だったことだ。当然、10代の心像風景は大きく重なりあっているし、その後の時代についても共有できる経験は少なくない。にもかかわらずそれから後、つまり20代の後半あたりからは、二人の関心は大きくずれはじめる。著者の関心は日本の音楽に向き、僕は洋楽ばかりになるのだが、そのちがいは何で、どこから来たのだろうか?

    ・ひとつは著者が東京にいつづけて雑誌の編集やラジオの放送作家、あるいは音楽評論家といった仕事をしてきたことにあるのだろう。仕事柄、否応なしに新しいミュージシャンやタレントに関心を向けざるを得なかったはずだ。僕は京都に移って大学院に進み、研究者になった。音楽には興味を持ち続けたが、その対象は流行や売れ筋というよりは自分の気持ちや意識にしたがって選ばれたものだった。

    ・誰でも、30歳に近くなればテレビやラジオに出るタレントやアイドルには関心がなくなる。若者の意識とはずれてくる。80年代以降の日本の音楽に僕が疎いのはそこが原因かもしれない。けれども、僕は同時に洋楽の新しい音楽的な流れにはずっと興味を持ってきた。新しく生まれてくるものには、それなりの社会的は意見が感じられたからだ。そこから見ると、アイドル・ブームやバンド・ブームなどには、レコード会社や芸能プロダクション、そして何よりテレビの仕掛けを嗅ぎ取らざるを得なかったし、CMやドラマの主題歌がヒットするといった構造と、誰もがそれに乗ってしまうといった腰の弱さも気に入らなかった。ちょうど政治が永田町の町内ゲームであるように、日本の音楽の流れも結局のところ、東京のメディアの周辺でつくられている。関西に住んでいると、そんな構図がよく見えるような気がした。

    ・とはいえ、やっぱり歌は世につれ、世は歌につれといった一面も、もちろんある。『読むJ-POP』はそれを個人の私的生活歴、たとえば離婚と主夫生活などといった話を織り込みながら書き進んでいる。単なる戦後の歌謡曲史ではなく読めたのは、そんな著者のスタンスのせいなのかもしれない。おかげで、後追いにはなるが、J-POPなる音楽を聴き直してみようかという気も、ちょっぴりわきあがってきた。