2004年7月13日火曜日

Erick Satie "Gymnopedies"

 

satie1.jpeg・エリック・サティの音楽には奇妙な魅力がある。単純で聴き流してしまいそうなのに、メロディがいつまでも頭に残る。そのメロディを追いながら心地よさに浸っていると、いつの間にか眠気を催してくる。ちょっと前にわが家に来た友人は、ボリューム一杯にして聴いていたにもかかわらず、昼寝をしてしまった。で、気持ちよさそうに目を覚ました。
・曲の名前も奇妙だ。サティの曲で一番有名なのは「ジムノペディ」だが、それは「1.ゆっくりと悩めるごとく」「2.ゆっくりと悲しげに」「3.ゆっくりと荘重に」の三つから構成されている。僕が好きなのは何より「1」だがそれで一緒に悩めるわけではない。もっとも、高速道路で聴いていると、「ゆっくりと」はしてくる。運転をしているとさすがに眠くはならないが、同乗者はやっぱりうとうとしてしまう。だから、これは不眠症の人にはお勧めの CDなのではないかと思う。
・手許にあるCDに入っている曲には、そのほかに「でぶっちょ木製人形へのスケッチとからかい」「ひからびた胎児」「最後から2番目の思想」「犬のためのぶよぶよした前奏曲」「梨の形をした3つの小品」「風変わりな美女」といったタイトルがついている。題名ほど奇怪なメロディではない。それどころか美しい。しかしやっぱり、どれも何となく奇妙だ。
・「ジムノペディ」とはスパルタの祭典の名前で、サティはギリシャの壺に描かれた祭典からヒントを得て作ったと言われている。しかし、そう言われても、曲からはギリシャも祭典もイメージしにくい。CDの説明によれば、この曲のユニークさは弱強格のリズムと滑るように流れる7度の和音にあって、それが伝統を無視した大胆な進行になっているということだ。その手の知識にはまったく疎いからよくわからないが、おそらくこれが奇妙さの理由なのだろう。
・サティは19世紀から20世紀にかけての作曲家で、重厚長大な交響曲や集中的な聴取のスタイルが当たり前の時代に、意図的に軽薄短小な曲を作って軽やかな聴取を提示した人である。コンサートホールでではなく家で居ながらにして聞く音楽。彼はそれを自ら「家具の音楽」と呼んだ。短いモチーフの単純なくりかえし。渡辺裕は『聴衆の誕生』(春秋社)の中で、「サティは音楽から表現性を奪い取ることによって、音楽との新しいつきあい方の可能性をわれわれに示して見せた」という。だから、サティの曲には「県知事の執務室の音楽」とか「音のタイル張り舗道」「スポーツと気晴らし」といったタイトルもある。ミニマル、アンビエントといった音楽の先駆けだと言われる所以だろう。

satie2.jpeg・サティの作品をそれ風にアレンジした作品もある。たとえばMItsuto Suzukiの"Gymnopedie '99 Electric Satie"。それなりに面白いが、やっぱりシンプルなピアノの方がいい。せっかくサティが消し去った表現性がにぎやかに復活してしまっているからだ。無用な音を足さずにどうやって新しい世界を作り出すか。サティの作品には、作りかえや解釈のし直しなどを拒否する姿勢が感じられる。
・アンヌ・レエの『サティ』(白水uブックス)は「真の友もなく、子もなく、ただ有名であったサティ」という言葉ではじまる。サティにとってはそれが望みの境遇であったにもかかわらず、彼は「ちょっとさびしすぎるな」と書いた。サティが晩年を過ごした自宅には、27年間、誰一人として訪れなかったという。ただし彼はパリに出かけてはカフェでビールを浴びるほど飲んだ。死因は肝硬変だった。

satie3.jpeg 裸で歩く音楽、「それに合わせて人が歩く」音楽、通りすぎる音楽、そのシルエットがかすかに何かを思わせる音楽。サティの作品には年齢がなく、どんな作曲家のどんな作品にも論理的に結びつくということがない。一度は忘れられ、いまや再発見されたが、ことによると、また忘れ去られるかもしれない。だが、ナイーヴさが若さの代わりになるとすれば、たったいま生まれたばかりのような顔をして、サティの作品はまた甦るだろう。それはまさに単独者の作品なのである。(アンヌ・レエ『サティ』)


・孤高の人であることを目指しながら、また、それを人に誇示したがった人。流行から一歩引く姿勢を示しながら、まったく無関係ではいられなかった人。孤独を望みながら、人混みで酔いつぶれた人。サティは一筋縄ではいかない人物だが、その旋律はまた、シンプルで心地よい。この矛盾や不調和がサティの音楽とタイトルの魅力なのだろうか。

2004年7月6日火曜日

Ah, Nomo !

 

・野茂の調子が悪い。それもかなり深刻だ。7月2日現在で3 勝10敗、4月の末から9連敗中で、2度目の故障者リスト(DL)入りになった。防御率が8点台で5回ともたずに降板することが続いてきた。監督もエースの不調だから、ずっと野茂を擁護し続けてきたのだが、ここまで来ると、他の球団へのトレードや解雇といった事態も起こりかねない状況である。正直言って今年のゲームは、怖くて見ていられない。いつホームランを打たれるか、連打を浴びて大量失点をするか。そんな心配ばかりが先に立ってしまっていた。

・原因は去年の10月にした肩の手術だろう。簡単な手術で来シーズンに影響はないということだった。しかし、春のキャンプからなかなか調子が上がらずに、とうとうシーズンも半分が過ぎてしまった。ストレートのスピードが出ない。フォークボールのコントロールがままならない。そこから、腕のふりを強くとか、トルネードをやめてセット・ポジションからの投球をとか、いろいろ言われてきたが、どこが悪いのか本人にもピッチング・コーチにもよくわからないのが現状のようだ。

・5月には試合中に爪を割って数試合欠場した。本当はその間にマイナーでじっくり調整したらよかったのだが、メジャーでは故障が治れば、それ以外の理由で長期間にわたるエースのマイナー落ちはありえない。何しろ野茂はドジャースで2年続けて16勝をあげた、一番の投手なのである。彼の今年の年俸はおよそ9億円。お金に見合う数字を残さなければ、トレードか解雇。つらい状況に追いこまれている野茂の心中を察すると、「ガンバレ」などと気軽に言うのは無責任だという気になってしまう。それでも、試合があるたびに、今度こそは何とか勝ってくれ、と願わずにいられなかった。

・今年のメジャー・リーグは松井稼頭夫がメッツに入って、W松井で春先からにぎやかだった。高津や大塚もリリーフ投手として活躍している。同僚の石井も調子がいい。そんな中にあってパイオニアの野茂が苦戦している。移り気なスポーツ紙は苦闘する野茂には冷ややかで、もうすでに過去の人といった扱いをしたりする。毎度のことだから腹も立てたくないのだが、野茂の調子があがってこないから、八つ当たりもしたくなってしまう。

・二度目のDL入りの理由は肩の炎症ということだが、痛みがあるわけではないようだ。おそらく、マイナーに行ってじっくり調整させるという首脳陣の判断なのだろう。ドジャースはまだ優勝の可能性を残している。後半の大事な時期に間に合えば、経験と実績のある投手だから頼りにされる存在になる。野茂にとっても納得のいく判断だったと思う。

・野茂がメジャーに行って調子を落としたのは2回目だ。前回は1998年で、ドジャースは野茂をメッツにトレードした。その年は結局思うような成績はあげられず、翌年春のキャンプで解雇。野茂は数球団のテストを受けて、5月になってからブリューワーズと契約したが、活躍をしてすぐにエース的存在になった。ドジャースも当然、この時の判断の失敗を承知しているから、今回は放出せずに、調子の回復をじっくり待とうというのだと思う。

・一応はホッとしたが、気になることがいくつもある。まず年齢。野茂は今年36才になる。引退してもおかしくない歳だ。前回の故障は30歳で、回復すればまだまだやれることはわかりきっていた。しかし、今回はどうか。もう一つは球速はすでに回復していて、昨年までと同じような球を投げているのに打たれるという点だ。微妙なコントロールがないということなのかもしれないが、これはどうしたら修正できるのだろうか。肩や肘にメスを入れると、身体の回復だけではなくて感覚の回復も必要になるそうだ。そしてその感覚がもどるのは身体の回復よりははるかに遅い。そのあたりになると、素人の想像を超えた世界だが、時間をかけた手探りの調整が必要なことはよくわかる。

・40歳を過ぎてがんばっている投手はメジャー・リーグには何人もいる。ランディ・ジョンソン、ジミー・モイヤー、カート・シリングやケビン・ブラウンも野茂よりは年上だ。誰もが故障を乗り越えて現役で投げ続けている。野茂の信条は不屈さだから、今の不振を乗り越えてきっと立ち直るだろう、と期待している。メジャーに一番似合うのは野茂で、彼の前にも後にも、彼に匹敵する選手は誰もいないのだから。(2004.07.06)

2004年6月29日火曜日

佐藤直樹『世間の目』光文社

 

seken1.jpeg・イラクの人質事件で「自己責任」ということばが頻繁につかわれた。危険を承知で出かけた行為は国家にとっては迷惑だという考え方で、ずいぶん議論がたたかわされた。政府関係者の発言が引き金になったものだが、世論の体勢は、この意見に同調していたように思う。おもしろかったのは海外からの反応で、おおかたは、捕まったボランティアやジャーナリストの人たちに同情的で、敬意を表すべきだとするものも多かった。
・なぜ、このような違いが出てきたのか。その理由を考える基本は、個人と社会、あるいは国家の関係についての日本人のとらえ方にあるのだと思う。簡単に言えば、日本人にとって「個人」よりは「国家」が優先するということ、「社会」と考えられる集団の枠組みが「世間」という独特の構造をもったものだという点にある。
・佐藤直樹著『世間の目』は、そんな「世間」と「個人」の関係を考えるために、タイミングよくだされた好著である。彼によれば「世間」とは「私たち日本人が集団になったときに発生する力学」で、日常的な人間関係から「世論」といった大きなものにまで作用するものである。「世間」は人間関係のなかの些細な行動や発言を律するものであり、また、場合によっては「きわめて強力に人間を拘束するような」力となって個人の抵抗を難しくする。
・私たちが日頃の人間関係で気をつけるのは、何によらず出すぎてはいけないこと、協調の精神と謙遜の気持を態度で表明すること、他人に世話をかけないこと、かけたらそれなりの返礼をし、侘びたり感謝の念を表すこと等々である。人間関係を円滑に行うためには欠かせない処世術だが、この点が強調されすぎると、個人の言動は抑えられてしまうことになる。
・この本では、そんな「世間」という枠組みがもたらす弊害について、医療、学校、職場、事件、マスコミ、ネット社会という章を設けて具体的な事例をもとに分析している。「世間」というキーワードを通して見直すと、確かに腑に落ちることは少なくない。
・医者が患者を子どものように扱うこと、学校などでのイジメの発生のメカニズム、過労死や過労自殺、あるいは理由のわかりにくい凶悪な犯罪や、少年少女が起こす事件の数々。さらにはそのような事件や出来事についてのマスコミの報道の仕方、被疑者や問題の当事者に浴びせられる匿名の批判や誹謗中傷の電話やメール。このような事例を見ていくと、「世間」という古くて、なおかつ現在でも強力な枠組みのもつ問題は、けっして小さくないことがよくわかる。
・「世間」は「個人」と相いれないものであるし、国際的には通用しにくい日常感覚である。だから、一方で、個性を大事にしたり、国際感覚を身につける必要性を説いても、同時に、「世間」を気にしていたのでは、その芽も摘まれてしまうことになる。イラクでの人質事件に対する政府や世論やメディアの姿勢が明らかにしたのは、何よりその点だったのではないかと思う。

(この書評は『賃金実務』6月号に掲載したものです)

2004年6月22日火曜日

庭作りを少しずつ

 

・今年の梅雨ははっきりしている。雨は多いがたいがい夜で、昼は天気がよい。雨上がりには空気も澄むから、富士山も周辺の山もきれいに見えるし、空も青い。カヤックには絶好の条件だ。久しぶりに河口湖にカヤックを浮かべた。気持ちが良かったが、水の濁りや魚臭さが気になった。ここはキャッチ&リリースが原則だったが、最近では放さずに持ちかえるようになりはじめている。弱った魚は結局は早く死んで、腐敗する。水深の浅い河口湖の水は、ただでさえ、西湖や本栖湖の澄むことはないのだ。

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forest34-5.jpeg・漫談家の綾小路きみまろの家が近くにある。去年からのブレイクでテレビでもよく紹介される。おかげで、見慣れた景色をテレビで見るのだが、富士河口湖町は彼を名誉市民にした。他には富士桜高原に別荘を持って、アウトドアの施設を経営しはじめた清水国明がいる。住民票を移しているのかどうか、などと言いたくなるが、町の活性化には役立つのだから、硬いこと言わずに、まあ、いいか、と思うことにした。
・河口湖にはホテルや旅館がたくさんあって、どこも結構にぎわっている。大橋の東に集中していて、奥河口湖まで足を伸ばす人は少ないのだが、トンネルを二つ作って道路を拡げる工事をしているから、開通したら人や車の流れはがらっと変わるかもしれない。大石峠の下にもトンネルを掘って芦川村とつなぐ道も工事中だ。それができると甲府からのルートが一本増えて、観光客は一層増加するだろう。静かなところが気に入って引っ越してきたのだが、だんだんそうではなくなってきそうだ。
forest34-6.jpeg・もっとも、近くでペンションをやっている人たちにとっては、トンネルや道路は、客の増加を期待させる希望の星でもある。地元の農家が共同で経営しているブルーベリー園にはサクランボの木が大量に植林された。苺園も作られて、一大果実園になりつつある。どうせそうなるなら、全体の景観を計算してセンス良く計画して欲しいと思うのだが、何か今ひとつちぐはぐなところが気がかりだ。


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・わが家の周囲の森は雑草が生え放題になっている。一面の緑で、それはそれで気持ちがいいのだが、少しずつ木を植え、花壇を作りはじめている。チューリップ、ラベンダー、。カリンの木に三椏(みつまた)、去年から植え始めた朝顔は、大量に取れた種を家の周りにぐるっと蒔いた。日当たりのいいところから芽が出はじめて、早いものは蔓が巻きはじめている。夏には家をぐるっと朝顔の花が飾ってくれるのでは、と期待している。

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・桑の木が実をいっぱいつけている(上左)。去年はほとんどなかったのだが、今年はサラダにふんだんに入れて食べている。他に野いちごも豊富だ。ミョウガも例年になく元気よく育っていて、もう少ししたら食べられそうだ(上右)。食べ残したウドが育ちすぎて、僕の背の高さを超えるほどになっている。ウドの大木になるのかもしれない(下左)。庭の木に名札をつけた。下の画像は黒文字で、これは4年ほど前に山から取ってきて植えたものだ(下右)。これもずいぶん大きくなった。香木で爪楊枝に使われるから、そのうち枝を切って作って試してみようと思っている。
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2004年6月15日火曜日

ハリー、見知らぬ友人

 

・「ハリー、見知らぬ友人」は奇妙な映画だ。主人公のミシェルは、ある日突然、見知らぬ男から、高校時代の友人だと言われる。家族で別荘に行く途中で寄った高速道路のトイレ。見覚えがないから、簡単に挨拶だけして別れようと思うのだが、その友人ハリーはしつこくつきまとってくる。で結局、友人とそのガール・フレンドは、家に泊まりこんでしまうことになる。
・ミシェルにはハリーについての確かな記憶がない。しかしハリーの方は、主人公について恐ろしく詳しい。ミシェルが高校時代に書いた詩を今でも覚えていて、暗唱してしまう。ハリーはミシェルが小説を書いた話もして、君には才能があるのになぜ作家にならなかったのかと問いつめる。ミシェルは、あれは少年時代の気まぐれに過ぎないと言って取り合わない。
・ハリーは親の財産を受け継いで悠々自適の暮らしのようだ。ミシェルには家族がいて、仕事も忙しい。やっと買った別荘は古くて手直しが必要で、別荘に来たらほとんど大工や庭仕事に時間を費やさなければならない。それはそれで楽しいのだが、ハリーは、そんなことに時間とエネルギーを使わずに、小説を書けと言う。別荘の修理代は出してやると言うし、クーラーのないオンボロ自動車が故障すると、三菱パジェロを買ってきてしまう。
・ミシェルには過干渉の両親がいる。父は歯医者で、家を訪ねると頼みもしないのに歯の治療を強制する。ミシェルは断るが固辞はしない。別荘に二人を連れてくると、その世話焼きぶりにハリーが腹を立てる。君の才能が発揮できないのは親のせいだとミシェルに話し、親との距離をもっと作れと進言する。確かにうるさいが、いい親だと、ミシェルは、これも取り合わない。ハリーの顔に恐ろしい影が現れはじめる。
・ハリーはミシェルの両親を殺す。高校時代に書いた詩をけなしたミシェルの弟も殺す。そしてセクシーだがバカだとミシェルにけなされたガール・フレンドも殺す。ミシェルは周辺で起こる事故や殺人がすべてハリーのせいだとも気づきはじめるのだが、いつのまにかトイレで小説の構想を考えてもいる。ハリーは創作活動をし始めたミシェルに満足し、君の才能をのばすためには妻も子どもも邪魔だといいはじめる。
・話はミシェルが家族を守ってハリーを殺すところで終わる。両親は交通事故死で処理され、ハリーとそのガール・フレンドはミシェルとその家族だけに存在した人間だから、殺されても事件にはならない。そして、ミシェルの中から一つの小説が生まれる。作家として生まれ変わったミシェルの新しい生活………。奇妙な映画としてヨーロッパでは話題になったようだ。
・見終わってあれこれ考えているうちに、ぼくは、フロイトをあてはめるとよくわかる映画だと気づいた。ミシェルには自分の夢、希望、欲望があったのだが、それは干渉過剰な両親に抑えつけられてしまう。仕事、結婚、そして子どものいる家庭生活。ミシェルの夢は心の奥深くに潜在意識として沈潜する。ところがその潜在意識がハリーという人格を持ってミシェルに取り憑きはじめる。自分の欲望(リビドー)を実現するためには父親(超自我)の存在が邪魔で、それを取り除かねばならないことに気づく。「エディップス・コンプレクス」という「父殺し」神話である。
・仕事につき家族を得て、それなりに落ち着いた生活を手にした者も、時にふと、自分にはもっと違う人生があったのではと思ったりする。誰にでも起こる心の動きだろう。そして今とは違う自分を空想する。空想は夢と同じで、束の間あらわれては消える。それを自分の意識のうちではなく関係とし、現実の場に置きかえて実現に向かう話に仕立てたら、どんな物語と配役が必要か。ドミニク・モルの発想はそんなところにあったのではないだろうか。そう考えると、この映画は奇妙ではないし、きわめてわかりやすい。とはいえ、自分のリビドーが他人の顔をして自分に近づいてくるなんてことは、やっぱり薄気味悪いし、恐ろしい。

2004年6月8日火曜日

知人から届いた2冊の本

 

喜多村百合『インドの発展とジェンダー』(新曜社)
インスー・キム・バーグ他『子ども虐待の解決』(金剛出版)

 

喜多村百合『インドの発展とジェンダー』(新曜社)

・喜多村百合さんは僕のパートナーの友人で、九州の大学で「文化人類学」を教えている。知りあったのは、もう25年ほど前のことで、数年、親しくつきあったが、人工心臓を研究する彼女のパートナーが九州の大学に就職して、引っ越していった。彼女が大学院で勉強しはじめたと聞いたのは、それから何年も経ってからのことだ。
・そんな彼女から一冊の本が届いた。『インドの発展とジェンダー』という題名で、博士論文を書き直したものだ。彼女が歩いてきた道のりを考えると、インドという遠い地をテーマにしていることもあわせて、感慨深い印象を受ける。自分の人生を変えるのはいくつになっても遅すぎることはない。そんな見本のような人である。
・この本は、インドの人びとの状況を、女性の仕事や家庭生活に焦点をあてて分析している。博士論文だから前半は難しくて硬い文体の理論的考察だが、後半は自営で働く女性たちの組織(SEWA)に所属する人たちのフィールドワークで、なかなかおもしろい。インドの現状がよくわかる話を聞き書きして、うまく整理している。 ・たとえば、インドの都市は「その日暮らし」の雑業層で溢れているという。朝金貸しから小金を借りて商品を仕入れる。それを一日かけて売り、元金と金利を返して残るわずかの金を糧にする露天商。安い手間賃で働く家内職、あるいは日雇いの土木作業員。彼や彼女たちの多くは現在でも、読み書きができず、みずからを「労働者」として自覚することもない。
・「SEWA」はそんな人たちを組織化し、政府を相手に不正業者や警官の賄賂の要求などを取り締まる活動をしている。あるいは加入者から金を預かり構成員に融資する銀行の働きもしている。この組織には、リーダー的なインテリ層もいるが、組織の活動を支えるのは、教育を受けた経験がない、読み書きのできない女たちである。「SEWA」からお金を借りることをきっかけにして、今では貯蓄・融資部門の仕事をする人、そもそも貯蓄・融資部門のアイデアを考え出した人、組織の活動をビデオ撮影するスタッフ………。この本にも登場する古着を扱う女性のライフストーリーを記録した映画は、カンヌの「労働者のための映画祭」でグランプリを受賞したそうだ。 ・「SEWA」はもちろん、農村部にも進出している。「ミルク協同組合」を組織化し現金収入をえる道を開いたが、酪農の仕事をする女たちの話も興味深い。彼女たちにとって組合への参加は、収入の増加だけでなく、村の女たちと親しく接触する機会も増やした。学歴やカーストや宗教の違いをこえて、悩みや問題を話しあう。組合が生活の改善ばかりでなく、自己発見や自己実現の場にもなっているのである。
・このようにして女たちが生活や仕事や家庭、あるいは近隣の関係の改善に目覚めていくと、当然、男たちと衝突する。それで離婚した人もいるが、インビューに応えた女たちの話の中に共通するのは、子どもたちの強力な支援である。
・インドでは子どもたちもまた、その多くが学校に行かずに、家族を養うために路上で働いている。そんな現状を考えると、自分たちの将来はもちろん、国の未来像についても、それを決めるのは、こういう人たちなのだと、つくづく思う。

インスー・キム・バーグ他『子ども虐待の解決』(金剛出版)
・もう一冊は桐田弘江さんから送られたものだ。彼女は3年前に急死した友人の桐田克利さんのパートナーだった。あまりに突然の死で、しばらくは途方に暮れる毎日だったようだが、自分の仕事の世界でしっかり立ち直っている。そんな安心をもたらす一冊である。
・弘江さんは以前から香川県でカウンセラーの仕事をしてきた。僕は四国を車で旅行したときに桐田夫妻を訪ねたが、若いのにずいぶんしっかりしていて、彼女よりは彼の方がずっと子どものように感じてしまった。
・そんな彼女から届いた本は『子ども虐待の解決』で、彼女と数人の仲間で翻訳したものである。家庭内暴力、とりわけ子どもへの親の虐待が、毎日のように新聞やテレビのニュースを賑わしている。ずいぶんひどい仕打ちをするケースが多く、最近の親子関係はどうなってしまったのか、と暗澹たる思いにさせられることが少なくない。だから、そのようなケースに関わって仕事をするカウンセラーは大変だし、いったいどんなノウハウをもって関わるのだろうか、という疑問も感じていた。 ・『子ども虐待の解決』の著者はアメリカの「子ども保護機関」(CPS)に関わって実際に問題解決に当たるセラピストや児童福祉施設で働く人たちである。で、この本は、実際にカウンセリングやセラピーをする人、福祉の仕事をする人が、現実に問題の当事者に関わるときに役立てるための、詳細なアドバイスで構成されている。しかし、読んでみると、そういった特殊なケースばかりでなく、人間関係をスムーズに、信頼しながらするコミュニケーションの方法を書いた本であることがわかる。
・問題の家庭を訪問した時にどんな質問の仕方をすべきか。アドバイスはしごくあたりまえだが、また自覚して配慮することは難しい。「お子さんの頭を叩いたのですか?」ではなく、「お子さんのことでいらいらさせられることがあると思います。そんな時、どのように対処するのですか?」と聞くこと。何をどんなふうに話題にするか。その仕方が、親と相談員の関係を形成するのだから、自分を非難しに、あるいは裁きに来た人だと思われてはダメというわけだ。まさに「印象操作」の技法である。 ・問題の家庭はしばしば危険で汚い地区にある。相談員はそこに出かけた後で、いつもより長い時間シャワーを使い、汚れた感じを洗い流そうとする。しかも、そうすることにある種の罪悪感ももってしまう。さらにこういう自覚は隠されるから、問題として表面に出ることもない。相手を理解しに来たと言いつつ、感情は相手を拒絶してしまう。これは、人間関係を妨げる一番の心の姿勢である。
・相手の話を聞くこと、指示や指導ではなく、問題解決のための協力に来たこと、質問は「なぜ」ではなく「どうやって」を使ってすること、「はい」「いいえ」で応えられる質問は避けること………。なるほど、と思うことばかりである。そんな意味で、この本はまさに、人間関係におけるレトリックの事例集だと言える。ささいな諍いはちょっとした工夫でほとんど回避できるのである。

2004年6月2日水曜日

八杉佳穂『チョコレートの文化誌』世界思想社

 

chocola.jpeg・チョコレートはお菓子の代表だが、日本での消費量は世界第十八位にすぎない。バレンタインデーが普及してチョコレートをもらう男たちが増えたとはいえ、まだまだ、食べているのは子どもと若い女性たちにかぎられているのかもしれない。
・そのチョコレートはいったいどこからやってきて、現在のような味になったのか。『チョコレートの文化誌』はそれを中米の歴史文献から掘りおこしている。著者の八杉佳穂はマヤ文明やマヤ文字の研究者だ。
・チョコレートの原料はカカオで、アマゾンを原産にして中米に広まった植物だ。貴重な豆で、長い期間、貨幣の役割も果たしてきた。カカオの豆粒十個で兎一匹、奴隷なら百粒、売春婦を買うなら八から十粒といった具合だったらしい。カカオの学名はテオプロマで、ギリシャ語で「神の植物」という意味である。
・その神の植物は貨幣の他に薬として用いられ、また飲み物として愛好されてきた。利尿作用があり、筋肉を弛緩させ、疲労の回復や精力の増強にも効き目があるとされてきた。高貴な人や豊かな人だけに使用が許された食物だが、その食し方は現在とはずいぶん異なっていた。
・乾燥した豆は炒って粉にされる。それをトウモロコシの粉と一緒に水に溶いて飲む。中米を侵略したスペイン人たちにはまずくて飲めない代物だったが、マヤでは儀式や儀礼の際には欠かせない飲み物でもあった。子供の誕生、洗礼、結婚、そして葬式。カカオ豆を大量に詰めた実は心臓の形に似ている。水に溶いたカカオは食紅で赤く色づけされたから、血を飲む代わりだったのではないか、と著者は言う。生け贄の儀式に心臓を取り出して神に捧げる。その代用としてのカカオというわけだ。
・中米を征服したスペインはカカオをカリブ海諸島、フィリピン、そしてアフリカのガーナで栽培するようになる。砂糖や香辛料で味つけされ、熱い湯で飲む食し方が、ヨーロッパで大きな需要を生んだからだ。カカオの苗木が金のなる木になった。
・映画の「ショコラ」は諍いの絶えない村を訪れた母娘がチョコレート菓子の店を開き、村人の間にあるわだかまりを解消させる話である。抑圧から解放、禁欲から快楽、諍いから融和。チョコレートはヨーロッパで大きく姿を変えてもてはやされるようになったが、不思議な力を感じさせる要素はずっと残されていたのかもしれない。『チョコレートの文化誌』を読みながら、あらためてそんなことを考えた。
・カカオにかぎらず、中南米原産の食物で、現在では世界中に広まっているものは少なくない。トウモロコシ、ジャガイモ、さまざまな香辛料………。コロンブスが大西洋に船出したのも、もともとはインドの香辛料を求めたためだった。そういう意味で言えば、ヨーロッパの近代とそれにつづく現代の社会の豊かさは、中南米からもたらされたものだということができるかもしれない。
・その象徴としての「チョコレート」。通説とは違って、成分は肥満やコレステロールの原因にはならないというから、カカオの長い歴史と世界に及ぼした影響に思いをはせながら、一粒口にして、この本を読むことをお勧めしたい。

(この書評は『賃金実務』5月号に掲載したものです)