2004年7月27日火曜日

河口湖も暑い!

 

forest35-3.jpeg・今年の夏は本当に暑い。東京が39.5度になり、翌日には甲府が40度を超えた。で、さすがに河口湖も34度。こんな気温は引っ越して以来初めてだ。とはいえ、暑いのは日中の数時間で、夕方には山おろしの涼しい風が吹いてくる。寝る時間には20度前後になっているから寝苦しいと言うこともない。あらためて別天地だと思っているが、それだけに、東京に出稼ぎに出る日はつらい。高低差800m、温度差10度。夏の季節にはこの落差が何ともこたえる。
・そんなしんどさが一ヶ月も続いて、すっかり食欲がなくなった。ここ数日、原因不明のしゃっくりに悩まされている。突然出はじめて、しばらく止まらなくなる。しゃっくりは横隔膜のケイレンが原因だが、やっぱり胃が悪いのかもしれない。しかし、待ちに待った夏休みがはじまるから、体調もすぐに回復するだろうと思う。何より東京に出かけなくてすむのが一番だ。

forest35-1.jpeg・7月に入って河口湖もにぎやかになってきた。隣近所の別荘族も毎週のように訪れている。子供のはしゃぐ声、花火の音など、しばらくは騒がしい。道路も渋滞しているが、湖畔にトンネルが二つできたから、ずいぶん楽になった。東京から来たドライバーは狭い道では真ん中を走る。だから対向車が来ると急ブレーキを踏んで慌ててハンドルを切る。初心者は道の真ん中で止まって動こうとしなくなってしまうから始末が悪い。そういう人にかぎって、対向車など予測せず、よそ見をしたりおしゃべりをしたりしている。危なくて見ていられないし、イライラもしたのだが、それが一部解消された。

forest35-2.jpeg・天気がいいから富士山もよく見える。学校帰りに都留市まで来ると、暗くなってうっすら見える富士山に山小屋の明かりがきれいに浮かんでいる。ちょうど北斗七星のようだ。しかし、もう少しすると、明かりは五合目から頂上まで繋がるようになる。富士山銀座。押し合いへし合いで登る人たちでごった返す季節がもうすぐやってくる。
・にぎやかなのは人間ばかりではない、ここのところ連続して、家の近くで動物を見かけた。キジはしょっちゅうだがタヌキやイタチやウサギははじめてだった。このあたりにはサルやイノシシも頻繁に出る。わが家のムササビも相変わらず夜な夜な出かけていっては明け方もどってくる。赤外線カメラを仕掛けて夜通し写したらどんな世界が現れるのか。そのうちやってみようかという気になってきた。

senndai.jpg・今年は鳴き声もいつになくにぎやかだ。カエルにセミ、あるいは野鳥。センダイムシクイイは「ショチュウ イッパイ グイー」と鳴く。最近鳴くのは特におしゃべりで「イッパイ イッパイ イッパイ グイー グイー グイー」と連呼する。この鳥はおしゃべりの目立ちたがりのくせに姿を見せない。望遠鏡とカメラを用意しているのにいまだにつかまえられないでいる。野鳥のサイトから拝借した写真だとこんな鳥だそうだ。もう一種、追いかけているのはチョウチョ。
・隣の空き地に生えた雑草は、今年はすさまじいほどだが、そのなかに大きなヤマユリがいくつも咲いた。遠くからでも強い匂いがする。先日テレビで「イングリッシュ・ガーデン」をテーマにした番組を見た。植民地から持ち帰った植物が貴族のあいだで人気になり、きそって庭を飾るようにした。「イングリッシュ・ガーデン」にはそんな起源があるようだが、江戸時代の終わりに鎌倉で採取したヤマユリも、当時は熱狂的なブームになったそうである。しかし、高原には似合わない品の悪い花で、ぼくはあまり好きではない。

2004年7月20日火曜日

ドニー・ダーコ

 

・「ドニー・ダーコ」は2001年の作品で、脚本・監督は 20代の若いリチャード・ケリー。サンダンス映画祭で話題になり、熱烈なファンを生み出したそうだ。BSジャパンで見たが確かに面白かった。いったいどんな物語なのかということが最後までわからない。興味はその一点に尽きて、見終わってしまえば、「何ーんだ、そういうことか」で終わってしまう話だが、映画のおもしろさが、そもそもそこにあったことをあらためて自覚させられた。
・主人公のドニー・ダーコは高校生で、ある晩、銀色の兎が部屋に現れて、世界の終わりを告げる。この冒頭のシーンから、僕はもう村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と『羊の冒険』をダブらせてしまった。兎に連れだされたドニーはゴルフ場で目を覚ます。家に帰ると、自分の部屋に旅客機のエンジンが落ちていた。兎に連れだされなければ、死んでいたところだった。
・その後も兎はしばしばあらわれて、いろいろと命令する。それにしたがって、ドニーは、学校の水道管を破裂させ、シンボルの犬のブロンズ像の頭に斧を打ちこむ。あるいは、いかさま伝道師の家に火をつける。ドニーにとって学校は、本当のことではなく、あるべきことばかりを教えるうさんくさい先生の支配する世界だったし、伝道師の二面性もまた、彼には見え見えだった。燃えた家からは「児童ポルノ」の部屋が見つかった。世の性の乱れを説く者のもう一つの顔。そして兎はドニーのもう一つの顔のようだ。
・転校してきたグレッチェンという女子学生にドニーは夢中になる。あるいは物理の先生から「タイム・トラベルの哲学」という本を渡される。その本を書いたのは「死に神オババ」と呼ばれるホームレスで、かつては高校の科学の教師であったらしい。名前はロバータ・スパロウ。
・ハロウィンの日にグレッチェンの母親がいなくなる。二人は、タイムトラベルの入り口であるはずの、ロバータの家の「地下室の扉」をめざす。そこで暴漢があらわれ、また赤い車が猛スピードで突進してくる。グレッチェンがひかれて死んでしまう。車を運転していたのは兎だった。ドニーは扉を開ける。そして冒頭のシーン。彼は空から落ちてきた飛行機のエンジンで死んでいる。家の前を通りすぎるグレッチェンには誰が死んだかもわからない。
・ちょっとたわいない話だが、うまくできている。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』も『羊の冒険』も、その意味では作り方を工夫すれば、充分の面白い映画になる。見終わってそんなことを考えた。村上春樹の作品はほとんど映画化されていない。なったものもまったくつまらない。小説と映画、文字と映像。その変換を工夫するリチャード・ケリーのようなアイデアをもつ才能が日本には育っていない。そんな感じがした。
・もう一つ、映画の挿入された歌の良さ。デュラン・デュラン、エコー&ザ・バニーメン、ティアーズ・フォー・フィアーズ、ザ・チャーチ、ジョイ・ディヴィジョン。80年代にイギリスで活躍したミュージシャンたちだそうだが、僕はエンディングの歌が一番気になった。どう聴いても間違いなく REMだと思ったからだ。しかし、もちろん初めて聴く曲。「Mad World」。見終わってすぐアマゾンにアクセスしてサントラ盤を探した。歌っているのはGary Jules。知らない名だった。

まわりはなじみの顔 疲れた場所 疲れた顔
日々の競争に朝早くからいそいそと
行く先はない あてどない
涙が眼鏡からあふれ出る
表情もなく 表情もなく

・曲や声はもちろん、歌詞もREMの感じそのままで、何度聴いても僕にはマイケル・スタイプスに思えてしまう。Gary Julesのアルバムを買って他の曲も聴いてみようと思うが、そういえばREMの活動は、最近ほとんど聞かない。

2004年7月13日火曜日

Erick Satie "Gymnopedies"

 

satie1.jpeg・エリック・サティの音楽には奇妙な魅力がある。単純で聴き流してしまいそうなのに、メロディがいつまでも頭に残る。そのメロディを追いながら心地よさに浸っていると、いつの間にか眠気を催してくる。ちょっと前にわが家に来た友人は、ボリューム一杯にして聴いていたにもかかわらず、昼寝をしてしまった。で、気持ちよさそうに目を覚ました。
・曲の名前も奇妙だ。サティの曲で一番有名なのは「ジムノペディ」だが、それは「1.ゆっくりと悩めるごとく」「2.ゆっくりと悲しげに」「3.ゆっくりと荘重に」の三つから構成されている。僕が好きなのは何より「1」だがそれで一緒に悩めるわけではない。もっとも、高速道路で聴いていると、「ゆっくりと」はしてくる。運転をしているとさすがに眠くはならないが、同乗者はやっぱりうとうとしてしまう。だから、これは不眠症の人にはお勧めの CDなのではないかと思う。
・手許にあるCDに入っている曲には、そのほかに「でぶっちょ木製人形へのスケッチとからかい」「ひからびた胎児」「最後から2番目の思想」「犬のためのぶよぶよした前奏曲」「梨の形をした3つの小品」「風変わりな美女」といったタイトルがついている。題名ほど奇怪なメロディではない。それどころか美しい。しかしやっぱり、どれも何となく奇妙だ。
・「ジムノペディ」とはスパルタの祭典の名前で、サティはギリシャの壺に描かれた祭典からヒントを得て作ったと言われている。しかし、そう言われても、曲からはギリシャも祭典もイメージしにくい。CDの説明によれば、この曲のユニークさは弱強格のリズムと滑るように流れる7度の和音にあって、それが伝統を無視した大胆な進行になっているということだ。その手の知識にはまったく疎いからよくわからないが、おそらくこれが奇妙さの理由なのだろう。
・サティは19世紀から20世紀にかけての作曲家で、重厚長大な交響曲や集中的な聴取のスタイルが当たり前の時代に、意図的に軽薄短小な曲を作って軽やかな聴取を提示した人である。コンサートホールでではなく家で居ながらにして聞く音楽。彼はそれを自ら「家具の音楽」と呼んだ。短いモチーフの単純なくりかえし。渡辺裕は『聴衆の誕生』(春秋社)の中で、「サティは音楽から表現性を奪い取ることによって、音楽との新しいつきあい方の可能性をわれわれに示して見せた」という。だから、サティの曲には「県知事の執務室の音楽」とか「音のタイル張り舗道」「スポーツと気晴らし」といったタイトルもある。ミニマル、アンビエントといった音楽の先駆けだと言われる所以だろう。

satie2.jpeg・サティの作品をそれ風にアレンジした作品もある。たとえばMItsuto Suzukiの"Gymnopedie '99 Electric Satie"。それなりに面白いが、やっぱりシンプルなピアノの方がいい。せっかくサティが消し去った表現性がにぎやかに復活してしまっているからだ。無用な音を足さずにどうやって新しい世界を作り出すか。サティの作品には、作りかえや解釈のし直しなどを拒否する姿勢が感じられる。
・アンヌ・レエの『サティ』(白水uブックス)は「真の友もなく、子もなく、ただ有名であったサティ」という言葉ではじまる。サティにとってはそれが望みの境遇であったにもかかわらず、彼は「ちょっとさびしすぎるな」と書いた。サティが晩年を過ごした自宅には、27年間、誰一人として訪れなかったという。ただし彼はパリに出かけてはカフェでビールを浴びるほど飲んだ。死因は肝硬変だった。

satie3.jpeg 裸で歩く音楽、「それに合わせて人が歩く」音楽、通りすぎる音楽、そのシルエットがかすかに何かを思わせる音楽。サティの作品には年齢がなく、どんな作曲家のどんな作品にも論理的に結びつくということがない。一度は忘れられ、いまや再発見されたが、ことによると、また忘れ去られるかもしれない。だが、ナイーヴさが若さの代わりになるとすれば、たったいま生まれたばかりのような顔をして、サティの作品はまた甦るだろう。それはまさに単独者の作品なのである。(アンヌ・レエ『サティ』)


・孤高の人であることを目指しながら、また、それを人に誇示したがった人。流行から一歩引く姿勢を示しながら、まったく無関係ではいられなかった人。孤独を望みながら、人混みで酔いつぶれた人。サティは一筋縄ではいかない人物だが、その旋律はまた、シンプルで心地よい。この矛盾や不調和がサティの音楽とタイトルの魅力なのだろうか。

2004年7月6日火曜日

Ah, Nomo !

 

・野茂の調子が悪い。それもかなり深刻だ。7月2日現在で3 勝10敗、4月の末から9連敗中で、2度目の故障者リスト(DL)入りになった。防御率が8点台で5回ともたずに降板することが続いてきた。監督もエースの不調だから、ずっと野茂を擁護し続けてきたのだが、ここまで来ると、他の球団へのトレードや解雇といった事態も起こりかねない状況である。正直言って今年のゲームは、怖くて見ていられない。いつホームランを打たれるか、連打を浴びて大量失点をするか。そんな心配ばかりが先に立ってしまっていた。

・原因は去年の10月にした肩の手術だろう。簡単な手術で来シーズンに影響はないということだった。しかし、春のキャンプからなかなか調子が上がらずに、とうとうシーズンも半分が過ぎてしまった。ストレートのスピードが出ない。フォークボールのコントロールがままならない。そこから、腕のふりを強くとか、トルネードをやめてセット・ポジションからの投球をとか、いろいろ言われてきたが、どこが悪いのか本人にもピッチング・コーチにもよくわからないのが現状のようだ。

・5月には試合中に爪を割って数試合欠場した。本当はその間にマイナーでじっくり調整したらよかったのだが、メジャーでは故障が治れば、それ以外の理由で長期間にわたるエースのマイナー落ちはありえない。何しろ野茂はドジャースで2年続けて16勝をあげた、一番の投手なのである。彼の今年の年俸はおよそ9億円。お金に見合う数字を残さなければ、トレードか解雇。つらい状況に追いこまれている野茂の心中を察すると、「ガンバレ」などと気軽に言うのは無責任だという気になってしまう。それでも、試合があるたびに、今度こそは何とか勝ってくれ、と願わずにいられなかった。

・今年のメジャー・リーグは松井稼頭夫がメッツに入って、W松井で春先からにぎやかだった。高津や大塚もリリーフ投手として活躍している。同僚の石井も調子がいい。そんな中にあってパイオニアの野茂が苦戦している。移り気なスポーツ紙は苦闘する野茂には冷ややかで、もうすでに過去の人といった扱いをしたりする。毎度のことだから腹も立てたくないのだが、野茂の調子があがってこないから、八つ当たりもしたくなってしまう。

・二度目のDL入りの理由は肩の炎症ということだが、痛みがあるわけではないようだ。おそらく、マイナーに行ってじっくり調整させるという首脳陣の判断なのだろう。ドジャースはまだ優勝の可能性を残している。後半の大事な時期に間に合えば、経験と実績のある投手だから頼りにされる存在になる。野茂にとっても納得のいく判断だったと思う。

・野茂がメジャーに行って調子を落としたのは2回目だ。前回は1998年で、ドジャースは野茂をメッツにトレードした。その年は結局思うような成績はあげられず、翌年春のキャンプで解雇。野茂は数球団のテストを受けて、5月になってからブリューワーズと契約したが、活躍をしてすぐにエース的存在になった。ドジャースも当然、この時の判断の失敗を承知しているから、今回は放出せずに、調子の回復をじっくり待とうというのだと思う。

・一応はホッとしたが、気になることがいくつもある。まず年齢。野茂は今年36才になる。引退してもおかしくない歳だ。前回の故障は30歳で、回復すればまだまだやれることはわかりきっていた。しかし、今回はどうか。もう一つは球速はすでに回復していて、昨年までと同じような球を投げているのに打たれるという点だ。微妙なコントロールがないということなのかもしれないが、これはどうしたら修正できるのだろうか。肩や肘にメスを入れると、身体の回復だけではなくて感覚の回復も必要になるそうだ。そしてその感覚がもどるのは身体の回復よりははるかに遅い。そのあたりになると、素人の想像を超えた世界だが、時間をかけた手探りの調整が必要なことはよくわかる。

・40歳を過ぎてがんばっている投手はメジャー・リーグには何人もいる。ランディ・ジョンソン、ジミー・モイヤー、カート・シリングやケビン・ブラウンも野茂よりは年上だ。誰もが故障を乗り越えて現役で投げ続けている。野茂の信条は不屈さだから、今の不振を乗り越えてきっと立ち直るだろう、と期待している。メジャーに一番似合うのは野茂で、彼の前にも後にも、彼に匹敵する選手は誰もいないのだから。(2004.07.06)

2004年6月29日火曜日

佐藤直樹『世間の目』光文社

 

seken1.jpeg・イラクの人質事件で「自己責任」ということばが頻繁につかわれた。危険を承知で出かけた行為は国家にとっては迷惑だという考え方で、ずいぶん議論がたたかわされた。政府関係者の発言が引き金になったものだが、世論の体勢は、この意見に同調していたように思う。おもしろかったのは海外からの反応で、おおかたは、捕まったボランティアやジャーナリストの人たちに同情的で、敬意を表すべきだとするものも多かった。
・なぜ、このような違いが出てきたのか。その理由を考える基本は、個人と社会、あるいは国家の関係についての日本人のとらえ方にあるのだと思う。簡単に言えば、日本人にとって「個人」よりは「国家」が優先するということ、「社会」と考えられる集団の枠組みが「世間」という独特の構造をもったものだという点にある。
・佐藤直樹著『世間の目』は、そんな「世間」と「個人」の関係を考えるために、タイミングよくだされた好著である。彼によれば「世間」とは「私たち日本人が集団になったときに発生する力学」で、日常的な人間関係から「世論」といった大きなものにまで作用するものである。「世間」は人間関係のなかの些細な行動や発言を律するものであり、また、場合によっては「きわめて強力に人間を拘束するような」力となって個人の抵抗を難しくする。
・私たちが日頃の人間関係で気をつけるのは、何によらず出すぎてはいけないこと、協調の精神と謙遜の気持を態度で表明すること、他人に世話をかけないこと、かけたらそれなりの返礼をし、侘びたり感謝の念を表すこと等々である。人間関係を円滑に行うためには欠かせない処世術だが、この点が強調されすぎると、個人の言動は抑えられてしまうことになる。
・この本では、そんな「世間」という枠組みがもたらす弊害について、医療、学校、職場、事件、マスコミ、ネット社会という章を設けて具体的な事例をもとに分析している。「世間」というキーワードを通して見直すと、確かに腑に落ちることは少なくない。
・医者が患者を子どものように扱うこと、学校などでのイジメの発生のメカニズム、過労死や過労自殺、あるいは理由のわかりにくい凶悪な犯罪や、少年少女が起こす事件の数々。さらにはそのような事件や出来事についてのマスコミの報道の仕方、被疑者や問題の当事者に浴びせられる匿名の批判や誹謗中傷の電話やメール。このような事例を見ていくと、「世間」という古くて、なおかつ現在でも強力な枠組みのもつ問題は、けっして小さくないことがよくわかる。
・「世間」は「個人」と相いれないものであるし、国際的には通用しにくい日常感覚である。だから、一方で、個性を大事にしたり、国際感覚を身につける必要性を説いても、同時に、「世間」を気にしていたのでは、その芽も摘まれてしまうことになる。イラクでの人質事件に対する政府や世論やメディアの姿勢が明らかにしたのは、何よりその点だったのではないかと思う。

(この書評は『賃金実務』6月号に掲載したものです)

2004年6月22日火曜日

庭作りを少しずつ

 

・今年の梅雨ははっきりしている。雨は多いがたいがい夜で、昼は天気がよい。雨上がりには空気も澄むから、富士山も周辺の山もきれいに見えるし、空も青い。カヤックには絶好の条件だ。久しぶりに河口湖にカヤックを浮かべた。気持ちが良かったが、水の濁りや魚臭さが気になった。ここはキャッチ&リリースが原則だったが、最近では放さずに持ちかえるようになりはじめている。弱った魚は結局は早く死んで、腐敗する。水深の浅い河口湖の水は、ただでさえ、西湖や本栖湖の澄むことはないのだ。

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forest34-5.jpeg・漫談家の綾小路きみまろの家が近くにある。去年からのブレイクでテレビでもよく紹介される。おかげで、見慣れた景色をテレビで見るのだが、富士河口湖町は彼を名誉市民にした。他には富士桜高原に別荘を持って、アウトドアの施設を経営しはじめた清水国明がいる。住民票を移しているのかどうか、などと言いたくなるが、町の活性化には役立つのだから、硬いこと言わずに、まあ、いいか、と思うことにした。
・河口湖にはホテルや旅館がたくさんあって、どこも結構にぎわっている。大橋の東に集中していて、奥河口湖まで足を伸ばす人は少ないのだが、トンネルを二つ作って道路を拡げる工事をしているから、開通したら人や車の流れはがらっと変わるかもしれない。大石峠の下にもトンネルを掘って芦川村とつなぐ道も工事中だ。それができると甲府からのルートが一本増えて、観光客は一層増加するだろう。静かなところが気に入って引っ越してきたのだが、だんだんそうではなくなってきそうだ。
forest34-6.jpeg・もっとも、近くでペンションをやっている人たちにとっては、トンネルや道路は、客の増加を期待させる希望の星でもある。地元の農家が共同で経営しているブルーベリー園にはサクランボの木が大量に植林された。苺園も作られて、一大果実園になりつつある。どうせそうなるなら、全体の景観を計算してセンス良く計画して欲しいと思うのだが、何か今ひとつちぐはぐなところが気がかりだ。


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・わが家の周囲の森は雑草が生え放題になっている。一面の緑で、それはそれで気持ちがいいのだが、少しずつ木を植え、花壇を作りはじめている。チューリップ、ラベンダー、。カリンの木に三椏(みつまた)、去年から植え始めた朝顔は、大量に取れた種を家の周りにぐるっと蒔いた。日当たりのいいところから芽が出はじめて、早いものは蔓が巻きはじめている。夏には家をぐるっと朝顔の花が飾ってくれるのでは、と期待している。

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・桑の木が実をいっぱいつけている(上左)。去年はほとんどなかったのだが、今年はサラダにふんだんに入れて食べている。他に野いちごも豊富だ。ミョウガも例年になく元気よく育っていて、もう少ししたら食べられそうだ(上右)。食べ残したウドが育ちすぎて、僕の背の高さを超えるほどになっている。ウドの大木になるのかもしれない(下左)。庭の木に名札をつけた。下の画像は黒文字で、これは4年ほど前に山から取ってきて植えたものだ(下右)。これもずいぶん大きくなった。香木で爪楊枝に使われるから、そのうち枝を切って作って試してみようと思っている。
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2004年6月15日火曜日

ハリー、見知らぬ友人

 

・「ハリー、見知らぬ友人」は奇妙な映画だ。主人公のミシェルは、ある日突然、見知らぬ男から、高校時代の友人だと言われる。家族で別荘に行く途中で寄った高速道路のトイレ。見覚えがないから、簡単に挨拶だけして別れようと思うのだが、その友人ハリーはしつこくつきまとってくる。で結局、友人とそのガール・フレンドは、家に泊まりこんでしまうことになる。
・ミシェルにはハリーについての確かな記憶がない。しかしハリーの方は、主人公について恐ろしく詳しい。ミシェルが高校時代に書いた詩を今でも覚えていて、暗唱してしまう。ハリーはミシェルが小説を書いた話もして、君には才能があるのになぜ作家にならなかったのかと問いつめる。ミシェルは、あれは少年時代の気まぐれに過ぎないと言って取り合わない。
・ハリーは親の財産を受け継いで悠々自適の暮らしのようだ。ミシェルには家族がいて、仕事も忙しい。やっと買った別荘は古くて手直しが必要で、別荘に来たらほとんど大工や庭仕事に時間を費やさなければならない。それはそれで楽しいのだが、ハリーは、そんなことに時間とエネルギーを使わずに、小説を書けと言う。別荘の修理代は出してやると言うし、クーラーのないオンボロ自動車が故障すると、三菱パジェロを買ってきてしまう。
・ミシェルには過干渉の両親がいる。父は歯医者で、家を訪ねると頼みもしないのに歯の治療を強制する。ミシェルは断るが固辞はしない。別荘に二人を連れてくると、その世話焼きぶりにハリーが腹を立てる。君の才能が発揮できないのは親のせいだとミシェルに話し、親との距離をもっと作れと進言する。確かにうるさいが、いい親だと、ミシェルは、これも取り合わない。ハリーの顔に恐ろしい影が現れはじめる。
・ハリーはミシェルの両親を殺す。高校時代に書いた詩をけなしたミシェルの弟も殺す。そしてセクシーだがバカだとミシェルにけなされたガール・フレンドも殺す。ミシェルは周辺で起こる事故や殺人がすべてハリーのせいだとも気づきはじめるのだが、いつのまにかトイレで小説の構想を考えてもいる。ハリーは創作活動をし始めたミシェルに満足し、君の才能をのばすためには妻も子どもも邪魔だといいはじめる。
・話はミシェルが家族を守ってハリーを殺すところで終わる。両親は交通事故死で処理され、ハリーとそのガール・フレンドはミシェルとその家族だけに存在した人間だから、殺されても事件にはならない。そして、ミシェルの中から一つの小説が生まれる。作家として生まれ変わったミシェルの新しい生活………。奇妙な映画としてヨーロッパでは話題になったようだ。
・見終わってあれこれ考えているうちに、ぼくは、フロイトをあてはめるとよくわかる映画だと気づいた。ミシェルには自分の夢、希望、欲望があったのだが、それは干渉過剰な両親に抑えつけられてしまう。仕事、結婚、そして子どものいる家庭生活。ミシェルの夢は心の奥深くに潜在意識として沈潜する。ところがその潜在意識がハリーという人格を持ってミシェルに取り憑きはじめる。自分の欲望(リビドー)を実現するためには父親(超自我)の存在が邪魔で、それを取り除かねばならないことに気づく。「エディップス・コンプレクス」という「父殺し」神話である。
・仕事につき家族を得て、それなりに落ち着いた生活を手にした者も、時にふと、自分にはもっと違う人生があったのではと思ったりする。誰にでも起こる心の動きだろう。そして今とは違う自分を空想する。空想は夢と同じで、束の間あらわれては消える。それを自分の意識のうちではなく関係とし、現実の場に置きかえて実現に向かう話に仕立てたら、どんな物語と配役が必要か。ドミニク・モルの発想はそんなところにあったのではないだろうか。そう考えると、この映画は奇妙ではないし、きわめてわかりやすい。とはいえ、自分のリビドーが他人の顔をして自分に近づいてくるなんてことは、やっぱり薄気味悪いし、恐ろしい。