2006年5月29日月曜日

大欧州と世界共和国

 

脇阪紀行『大欧州の時代』(岩波新書),柄谷行人『世界共和国へ』(岩波新書)

・EUという枠組みは日本ではあまりぴんとこない。しかし、実際に出かけてみると、肌身で実感することが少なくない。たとえば、アイルランドでは首都のダブリンも南部のコークも高速道路や新しいビルの建設が目立った。観光客を集める地域を設け、レストランやパブや店を並べる工夫が施されていて、実際に大勢の人で賑わっていた。ギネスとアイリッシュ音楽以外にめぼしいもののないアイルランドでは、観光が一番の売り物なのである。その資金はもちろん、EUから出されているが、ダブリンで泊まったホテルのカウンターにいたのは、大学に通いながら働いているポーランド人の女性だった。彼女によれば、工事関係の出稼ぎ者も多いのだという。

journal1-102-1.jpg・脇阪紀行『大欧州の時代』によれば、現在加盟している国は25ヶ国で、イギリスやフランス、ドイツといった大国のほかに、アイルランドや共産圏に属していた東欧が含まれている。人口は約4億6000万人。当然、政治体制の基盤や経済力も異なるのだが、EU内の格差をなくしつつ、結束してアメリカや日本に対抗できる競争力をつけることを目標にしている。その歩みはけっして早くないし、簡単でもないが、見えてきているものはなかなか興味深い。
・EUは2002年から単一通貨を流通させている。新しく加盟した東欧諸国とイギリス、それにスウエーデンは独自の通貨だが、鉄道網や道路の整備などとともに、一面では一つの国という形を目指している。経済力のない国は、それによってインフレを余儀なくされたようだ。スペインにいる友人は、ペソにくらべて円の使い出がなくなったと話していたから、日常の生活物資の価格もかなり上昇したのだと思う。しかし、同時に、EUの支援によって雇用の促進もはかられている。
・支援には「経済発展の遅れた地域の社会資本整備や雇用促進のための『構造基金』や環境改善、欧州を横断する鉄道や道路整備のための『結束基金』と共通農業政策からの農業補助金」がある。スペインを旅行したときに驚いたのはアンダルシア地方に延々と続くオリーブ畑だったが、それにも「農業補助金」が使われているということだった。
・このようにEUは、単一や共通を目指す一方で、地域の独自性を尊重する方向も強調する。たとえば、EUで使われる公用語は20あり、会議の通訳や公文書の翻訳にかかる費用は莫大なものになっているという。しかし、それぞれの文化の尊重という姿勢は、国の枠ではおさまらない。それは、出発点に国よりさらに小さい地域をおく動きを促進させてもいる。スペインにおけるバスクやカタルーニャ、フランスにおけるブルゴーニュ、そしてイギリスにおけるスコットランドやウェールズなど、自治権や独立を志向する地域は少なくないし、これから加盟を希望する国には旧ユーゴスラビヤの解体によってできた国々がある。
・多様さの問題はそれだけではない。旧植民地から移住してきた人たちがフランスで大きなデモ騒ぎを引き起こしたといった事態もある。実際ヨーロッパの大きな都市を歩くと、その肌の色や身につける衣装の多様さに驚かされる。彼や彼女たちの職業、福祉、あるいは言語や生活習慣をどうするのかといったことが、多くの国で切迫した問題となっている。
・EUは基本的には一体化することで、アメリカに対抗する強国を目指すものである。だから、うまくいけば世界を動かす二大勢力になる。しかし、それはどこまで広げるのか境界線が問題だし、周辺の国には新たな脅威ともなりかねない。EUにはトルコも加盟を希望している。トルコはイスラム教の国だが、欧州という境界線を理由に排除すれば、他のイスラム諸国との軋轢は一層強まるかもしれない。けれども、トルコを取りこめば、その範囲はトルコだけではすまなくなる。

journal1-102-2.jpg・柄谷行人の『世界共和国へ』はカントの「神の国」をあげ、「諸国家がその主権を譲渡することによって成立する世界共和国」という発想が重要だという。具体的には「各国で軍事的主権を徐々に国際連合に譲渡するように働きかけ、それによって国際連合を強化・再編成するということ」だ。実際日本は憲法によって戦争を放棄しているが、それは軍事的主権を国連に譲渡しているのである。
・このような発想は日本の憲法がそうであるように、理想主義的だと簡単に片づけられそうである。しかし、政治や経済や文化のグローバル化が、現実には国を超えた一層の緊密な関係やつながりを必要としていることを考えれば、夢ではなく現実に作るべき道筋として理解すべきものだと思う。世界各地でくりかえされるテロや紛争、そして戦争をなくすために、資源の利用や環境破壊について全地球的に対処するために、先進国と最貧国との間にあるはなはだしい経済格差を是正するために障害となっているのは、なにより国家という枠組みと資本制の経済なのである。
・国家はその外部との関係で存在する。だから、その内部から棄てることはできないが、内(下)と外(上)の力を合わせることによってなくすことができる。柄谷はEUをあまり評価しないが、2冊をあわせて読んで、今、EUで起こりつつあることはEU内に限定すれば、彼の展望に近いことなのではないかという印象を持った。だから、国家を超える大きな枠組みが世界中にいくつかできて、それらがさらに大きな地球全体を覆う枠組みに参加できたらどうだろうか。
・もちろん、それがきわめてむずかしい、やっかいなプロセスであることはいうまでもない。しかし、世界の現状を見たときに、人間が生きのびる道はそれしかない。絶望せずに希望を持って。そんな読後感をもった2冊である。

2006年5月22日月曜日

コーヒーとシガレット

・テレビを見ていたらジム・ジャームッシュの映画の宣伝をやっていてびっくりした。『ブロークン・フラワーズ』という題名で、現在ロードショー公開中らしい。彼の映画は地味でミニシアターでしかやらないようなものばかりだから、またどうしてと思ったら、去年のカンヌ・グランプリ作品だという。中年男(ビル・マーレイ)がまだ見ぬ息子とその母親を捜して回るロード・ムービーだというから、見てみようかという気になった。
journal3-79-2.jpg・こういう情報に最近まったく疎くなった。映画はもっぱらBSで、それもほとんど行き当たりばったり。おそらく、『ブロークン・フラワーズ』も、「見たいな」で忘れてしまったかもしれないのだが、Wowowでたまたま『コーヒーとシガレット』に遭遇した。それも途中からで、アメリカによくある古びたあか抜けないコーヒー・ショップのテーブルにイギー・ポップが一人でいてタバコを吸ってコーヒーを飲んでいた。モノクロ画面で直感的にジム・ジャームッシュと思ったが、そこにトム・ウェイツがやってきておしゃべりをはじめたからさらに確信した。
・時間は朝の8時半。ぼくは起きたばかりで、コーヒーを飲みながらネットをやって、新聞を読んで、タバコを数本。それで、ぼけた頭がはたらきはじめるのを待つという日課の途中だったのだが、そのままソファーに寝転がって見始めてしまった。これではトイレに行きそびれてしまう、などと気になることがいくつかあるけれども、動くわけにはいかなくなってしまった。
・イギーがトムにタバコを勧める。トムは「タバコはやめた」といって断る。しかし「やめたんなら吸ってもいいじゃないか」と言われると「そうだな」といって吸い始める。タバコをやめたからもう吸わない、ではなく、やめたんだから吸ってもいい。変な理屈だけど一理ある。買わないけれどたまにはもらいタバコを楽しむ人は、まわりにもいる。
・トム・ウェイツは酔いどれ天使などと言われてタバコと酒がトレードマークになっていたが、最近では田舎にこもって奥さんのキャスリン・ブレナンとつくったアルバムをだしている。イメージはずいぶん変わったけれど、映画には昔のままで登場している。この二人の会話はまったくかみ合わない。そこが何ともおもしろい。イギーがトムに店のジュークボックスに「君のレコードがない」というと、トムは「この店、気にいらないか?」と聞き返す。いいドラマーがいるけどどうか聞くと、「俺のバンドのドラムは駄目か?」と聞き返す。そのたびにイギーは、そんなつもりでいったわけじゃない、と弁解する。
・いつ壊れてもおかしくないやりとり。そこをかろうじて、タバコとコーヒーが取り持っている。もちろん、イギーの我慢強さということもある。イギーは待ち合わせがあるといって席を立つ。トムは一人残って、もう一杯。最後にジュークボックスを確かめて「何だ、イギーのもねーじゃねーか」。コーヒーショップのジュークボックスに自分のレコードがないのは、ミュージシャンのこけんにかかわる、ということか。
・もう一つおもしろかったのはケイト・ブランシェットが二役で演じたシーンだ。大女優とそのいとこの売れないロックミュージシャンがホテルのカフェで話をしている。携帯が鳴ったりして忙しい大女優に最初は同情的ないとこも、自分の売れない境遇と比較して、愚痴を言い始めたりする。大女優がいとこに高級ブランドの化粧品のプレゼントする。ありがとうといいながら、「もらいものでしょ?」と聞き返すのも忘れない。さらに「金持ちはただでもらって、貧乏人が金を出して買う。それっておかしいくない?」などとからんでくる。大女優はスケジュールがあるからと退席するがロックミュージシャンはしばらく居座ろうとする。で、タバコをくわえて火をつけようとすると「禁煙です」の声。

・どこもかしこも禁煙になって、タバコを吸いながら雑談、なんていう状況設定がだんだんとりにくくなった。レストランはもちろん、喫茶店もカフェと名前を変えて禁煙といった具合だから、もうタバコは憩いの道具ではないのかもしれない。第一今は、「憩う」ではなく「癒す」のである。ストレスなどで心身共にまいっているのに、万病の元のニコチンでさらに体を痛めつけるな、ということだろうか。そう言えば、カフェもテイクアウトがおおい。エスプレッソやカプチーノと気取っても、ゆっくり時を過ごすゆとりがないのかもしれない。
・ポール・オースターの『スモーク』と『ブルー・イン・ザ・フェイス』はブルックリンのたばこ屋が舞台だった。その『ブルー・イン・ザ・フェイス』のほうにジム・ジャームッシュが登場して、たばこ屋の雇われ店主のハーベイ・カイテルとタバコ談義をするシーンが印象的だった。それを見たときに書いたレビューには、ジャームッシュはそこに最後のタバコを吸いに来たと言ったと書いてある。
・『コーヒーとシガレット』は何年にも渡って撮りためた短編集のようである。その割にはトーンが一定で、最初から、後でまとめるつもりだったように思われる。タバコが吸えた時代、タバコが人々の間に介在して、間を持たせ、空気を和ませる役割を認められていた時代の記録。そんなことを考えてしまうほど、昨今の禁煙の波は激しい。それも、グローバルな傾向だから、どこに行ってもスモーカーには逃げ場がない。やれやれ……。
・ところで、『ブロークン・フラワーズ』はどうしようか………………。

2006年5月15日月曜日

石油の値段は高い?

 

・石油の値上がりは何とも頭が痛い。ぼくにとってはガソリンも灯油も欠かせないから、値が下がってほしいのだが、ここに来てまた値上がりした。さいわい、暖かくなってストーブをまったくつけない日が多くなったから、灯油の消費量はかなり減った。ただし我が家では給湯は灯油だし、パートナーが使う陶器の窯もあるから、1年を通して消費しなければならない。
・ガソリンも灯油も安かったときの5割増しの値段になっている。それで、冬の暖房は、薪ストーブをメインにした。去年までは薪が贅沢品だったのに、この冬はすっかり逆転した。だから、今は来冬に備えて、薪割りに精を出している。一応必要な木も集められたから、ほっと一安心、といったところだ。

・で、ガソリン対策だが、けちけち運転を心がけることにした。ぼくは以前からあまりブレーキを踏まない。オートマ車だけれど、シフトチェンジをつかうことが多いからだ。しかし、最近は、シフトチェンジも控えて、惰力走行を多くするように意識している。もちろん、加速も控えめにして、2000 回転を超えないようにした。東京で運転すると、ブレーキを踏まないわけにはいかないが、河口湖では、そんな運転でもスムーズに走ることができるし、時間もあまりかわらない。
・けちけち運転はもちろん、高速道路でも実行している。走行車線に乗るときでも、3000回転を超えないようにして、緩やかに加速をする。だから、アクセルは踏みこむというより撫でる感じで軽く触れるようになった。なるべく走行車線を走って、追い越し車線は遅い車を追い越すときだけ。そう自分に言い聞かせて運転をして、スピードも極力控えることにした。以前よりも10分近くよけいにかかるが、今のところ、燃費は1割ほど改善されている。これでも満タンで70キロほどよけいに走るからずいぶん経済的だが、5割増の値段にはとても追いつかない。

・石油の高騰にはいろいろな原因があるようだ。最近の急騰はイランの核開発の問題とそれを当て込んだ投機的な買いが原因で、状況次第では価格はもっと上がるかもしれないが、下がる可能性もある。けれども、もう一つの原因は中国やインドといった経済成長の著しい国での消費の増加にある。そしてこれは、今後の需要が増すことはあっても減ることはないから、その意味では、石油の価格は下がることはないのかもしれない。
・石油はいずれは枯渇する。そう騒がれてからもう30年以上たつが、消費量は増えるばかりだ。そして、一時的な高騰はあっても、あまり値段は上がらなかった。だから、最近の値段はもちろん、もっと上がって2倍、3倍になっても仕方がないのかもしれない。それよりは石油への依存を低くすることの方が肝心で、車のメーカーもハイブリッドや電気、あるいは水素といった新しいエンジンを実用化しはじめている。

・ぼくの車(スバル・ランカスター)はもう15万キロを走った。今年の秋に車検が切れるから、新車に乗り換えてもいい時期だが、もう一回更新して、ハイブリッド・エンジンが搭載される新車を待とうか、と考えている。スバルは独自の水平対向エンジンが特徴で、ハイブリッドも開発していたはずだが、トヨタの資本が入って技術的な提携もするようだ。だから、2年後には水平対向のハイブリッド・エンジンが出るのではないか。そんな期待をしているところである。
・田舎暮らしをするようになって、自分が消費するエネルギーや廃棄するものに自覚的になった。なったというより、自覚する機会が増えたといった方がいいかもしれない。どこに出かけるにも車が不可欠だし、火を燃やせば煙が出る。灯油も買いに行くから、その量と重さが実感できる。「地球に優しい」などというセリフは、どう考えても口には出せない。だからせめて、生ゴミは土に埋めて循環させるとか、使い捨ての商品(ペットボトルの飲み物、冷凍食品、コンビニ弁当等々)は買わないように、などと心がけてはいる。
・けれども、個人でできることにはかぎりがある。石油をつかわないで、土に返すことができる容器や包みが開発されたりしているようだ。石油の高騰は、こういう技術を進化させる機会になるはずで、その意味では、石油の値段はもう下がらない方がいいのかもしれない、などと思ったりしている。

2006年5月8日月曜日

物置をつくった

 

・スチール製の組み立て物置が強風で何度か倒れたので、別のものに代えようと考えていた。できれば、ログハウスにあう木製のもので、組み立て式がいい。そんな気になってネットを探していると、いくつかの店でさまざまな物置を見つけた。日本製もあるが米国、カナダ、あるいは北欧、そしてイタリア製もある。しかし、レッド・シダーを使ったきわめてシンプルなカナダ製のものに一目惚れしてしまった。さっそく、注文すると1週間ほどでトラックに積まれてやってきた。


forest51-2.jpg・屋根、床、側壁、後壁、それに前の窓と扉がばらばらになっていて、それを組み立てるだけなのだが、一つ、一つが結構重くて、場所まで運ぶだけで大汗をかいてしまった。土台にコンクリート製のブロックを六つ置き、床が水平になるように調節する。とはいえ、おおざっぱな目検討で、さっそく床板をのせて、また水平かどうかを確かめ、土台に固定した。次は側壁と後壁を順番に床に固定してゆくのだが、釘を打つだけの簡単なものだから、壊れないのかちょっと不安になる。最後に前の窓の部分をつけて、次は屋根をのせる。これが何とも重くて、また大汗。


forest51-1.jpg・ここまで数時間、こうなると、もうりっぱな物置になっている。後は、吊り式のドアをつけてできあがり。外壁と屋根にペンキを塗ると、また見た目ががらっと変わる。ささくれだった薄い杉板製で、最初は昔のリンゴ箱のような感じだったのだが、ログと同じ色にしたから、まるで最初から付属していたかのようで、違和感がない。ペンキ塗り役のパートナーのアイデアで窓枠だけ青色にし、ついでにドアの取っ手を枝を輪切りにしてつけ、それも青で塗った。
・午後からはじめた作業で夕方には何とかできあがって、とりあえず一日目は終了。カタログには組み立ては2時間と書いてあったが、なかなかそうはいかない。以前に買った組み立て式のゴシップチェアに付属していたネジと同様に、頭がーや+ではなく■になっていたが、今回は電気ドリル用のアダプターがついていたから、残しておいたネジも利用できた。


forest51-3.jpg・二日目は、内部の棚づくりだ。ホームセンターで買っておいた木のほかに、物置の運搬用に使われていた木をつかう。おおよその目検討で4段にし、奥は鍵型にした。壁には大工道具をつるしておく棒を打ちつけた。これは以前から憧れていたもので、さっそく、斧、のこぎり、金槌、かんな、はけなどをつり下げた。ビスケットの缶にごちゃごちゃに入れておいた釘やネジは、残しておいたガムのパッケージをつかって分別していれた。灯油缶やペンキ缶、チェーンソーとそれ用のオイル缶などをいれても、まだだいぶ余裕がある。押し入れふさぎだったスチールの書架をいれて、さらに棚を増やしたから、これまでの物置では収用しきれなかったものまでかなりはいった。予想以上のできと、収容力にすっかりご満悦になったところで二日目が終わり。物置の完成である。


forest51-4.jpg・河口湖も最高気温が20度を越えるようになった。薪ストーブもあまり使わなくなったので、煙突掃除もすることにした。この冬は例年の五割増しの使い方だったから、煙突に付着した煤やタールもかなりの量で、スーパーの袋いっぱいになった。ストーブがきれいになると、ログにたまったほこりも気になってくる。冬は締め切ったままだったから、丸太の上の部分にはかなりの量がたまっている。
・こんな作業をしていると、一日はすぐに終わる。で、読もうと思っていた本はほとんど進んでいない。これではいかん、と思いながら。窓の外を眺めると、窓や網戸にもほこりがいっぱい。で、ぞうきん片手に、一つ、また一つと拭いていく。そういえば、ログを磨く艶だし液も買ったままだった。


forest51-5.jpg・机の前にいられない誘惑はまだまだ他にもある。日一日と濃くなっていく緑、何年ぶりかでチューリップが赤い花を咲かせたし、野草もきれいだ。タラの芽も食べ頃だから、時々、森を見回って収穫したいし、蕗の芽が出てきているから、それも天ぷらのごちそうになる。野蒜にワラビと今の季節は、歩き回れば必ず収穫がある。
・もっとも、連休中はほとんど湖畔には出なかった。人でいっぱいだし、道路は大渋滞。連休が終わって、陽気がよければ、カヤックを漕いでもみようか。今年の富士山は雪が多いから、まだ当分は白い富士が見える。農鳥が出るのはいつの頃になるのか。今年はまだ一度もその形をあらわしていない。

2006年5月1日月曜日

新しいものにも耳を傾けてみた

 

Green day "Amrican Idiot", Snow Patrol "Final Straw", The Stil "Logic Will Break Your Heart", The Strokes "First Impressions Of Earth"

greenday1.jpg・Green dayはただうるさいだけのパンクと思っていたのだが、Amrican Idiotでその認識を改めた。なかでも“Boulevard of broken dreams”はいい。「壊れた夢の並木道」なんて訳すと昔の歌謡曲のようなニュアンスになっておもしろい。

誰もいない道を歩いている
ぼくが知っているたった一つの道
どこへ行くのかわからない
でも、それがぼくのホームだから、ひとりで歩いている

・ネットで見つけた“Boulevard of broken songs”というのをダウンロードしたら、GreendayのほかにTravisやOasis、それにEminemやAerosmithまでが一緒に歌っていた。途中からそれぞれの持ち歌に変わったりしていて、題名(broken songs)どおり、何の歌だったかわからなくなる感じがした。どこかでやったライブなのだろうけれども、GreendayとTravisの組み合わせは不思議と違和感がなかった。

snowpatrol1.jpg・そんな曲を聴いて、そういえばTravisの新しいアルバムが出ても良さそうな時期だなと思っていたら、Amazonから「Travis を以前お買い上げのお客にお勧めがあります」というメールが来た。Snow Patrolという変なバンド名でスコットランドのグラスゴー出身のようだ。で、ものは試しと"Final Straw"を注文した。「ホーム」がキーワードに使われている一節があった。

これはとても些細なことだが
ぼくには生きている自覚がある
ここの場所のすべてがホームのように感じられる
けっして選ばないような名前と一緒に
最初の一歩を踏み出そう、25の子どものように "Chocolate"

stills1.jpg・ついでに似たようなバンドで評判もいいので"The Still"の"Logic Will Break Your Heart"も一緒に買ってみた。こちらはカナダのモントリオール出身のようだ。確かに、両方とも、静かでメロディ重視だから聴きやすい。ただし、歌詞にはかなりラディカルなものがある。何しろアルバム・タイトルが「論理が君の心を傷つける」なのだから。

僕らはみんな中流階級だから、安心を感じる必要がある
でも、来週化学工場が爆発、なんてことも待ってもいる
不安も哀しみも感じるな
M-16(拳銃)一丁で
アメリカの過去という動揺を感じてしまうのだから "Lola Stars and Stripes"

・アマゾンが勧めるように、確かに、どちらも静かで、シンプルで、メロディアスで、ぼくには聴きやすい。歌詞などにも工夫があるし、主張もある。けれども、誰かに、何かに似ているという感じがあって、新鮮な感じはしない。しかも、聴いただけではどこの国から出てきたバンドなのかということもわからない。
strokes1.jpg・似たような印象は、去年買った"The Strokes"にも感じた。ニューヨーク出身でポスト・パンクなどというレッテルがついているようだ。また新しいイギリスのバンドかと思ったから、ニューヨークとは意外な感じがした。しかし、そういわれれば、ギターの刻み方はルー・リードを思い起こさせるし、サウンドの感じはREMにも似かよっている。ネットで、レビューを探すと、ビートルズを彷彿させるとか、ボブ・ディランの影響などという記事にも出くわした。だったら、新しいものなどわざわざ聴かなくてもいいかという気にもなる。しかし、そういってはお終いかなとも思ってしまう。
・ネットでディランがRadioheadの"Creep"を歌っているファイルを見つけた。何をやってもディランはディランだが、曲は間違いなく"Creep"だから、何ともおもしろい。そのRadioheadがU2やPinkfloydをやっているファイルなどもあって、それを聴いていても、やっぱり奇妙な混じり合いに新鮮さを覚える。
・誰かに、何かに似ている。でも、ちょっとちがうところもある。その微妙な差異を楽しめれば、最近の若いバンドも捨てたものではない。なにより、ぼくにとっては耳障りなやかましさがないのがいいし、ことばに興味が持てるのがいい。

2006年4月24日月曜日

かわいいとクール

 

四方田犬彦『「かわいい」論』(ちくま文庫),D.パウンテン、D.ロビンズ『クール・ルールズ』(研究社)

・はやりことばはその都度気になる。けれども消えていくスピードが速いから、なぜと考える機会を逃すことも少なくない。そんな中で「かわいい」は、例外的に長生きしていることばである。ただし、ぼくは「かわいい」におもしろさは感じなかった。使われ方に「なぜ」と疑問を持つものがない気がしたし、ことば以前に「かわいいもの」自体が氾濫していて、ことば以上にうんざりしていたからだ。
・四方田犬彦の『かわいい論』には大学生にしたアンケートの分析がある。「かわいいの反対語は何ですか?」という質問に対する回答には、1)同義反復(かわいくない)、2)肯定的形容詞(美しい、など)、3)否定的形容詞(醜い、など)、4)希薄さの形容詞(ふつう、など)があって、「かわいい」もなかなか含蓄のある使い方をされているのだ、ということに気づかされた。
・この結果によれば、「かわいい」は単に不細工なものや醜いものの反対というだけでなく、「美しい」や「きれい」、あるいは「賢い」といった肯定的な意味をもつはずのことばとも対照される。さらには、それは良くも悪くもない「普通」の状態とも区別されている。このような傾向をまとめて四方田は「かわいい」の輪郭を次のようにまとめている。
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それは神聖さや完全さ、永遠と対立し、どこまでも表層的ではかなげに移ろいやすく、世俗的で不完全、未成熟な何物かである。だがそうした一見欠点と思われる要素を逆方向から眺めてみると、親しげでわかりやすく、容易に手に取ることのできる心理的近さが構造化されている。P.76

・「かわいい」と感じる対象は「保護を必要とする、無防備で無力な存在」であり、そこには「対象を自分より下の劣等な存在と見なして支配したい欲求」が認められる。さらには、支配できないものを無力化させることで「かわいい」ものに変形させてしまうといった工夫もある。それは、著者によれば、「ノスタルジア」と「ミニュアチュール」で、それを仲立ちするのは「スーヴニール」だということになる。

われわれの消費社会を形成しているのは、ノスタルジア、スーヴニール、ミニアチュールという三位一体である。「かわいさ」とは、こうした三点を連結させ、その地政学に入りきれない美学的雑音を排除するために、社会が戦略的に用いることになる美学である。p.120

・「かわいい」は「ノスタルジア」として「歴史」を隠蔽し、「ミニュアチュール」として「実物」を歪曲させる。それは現代の消費文化のエネルギー源であり、また日本人の感覚に古くから根づいてきたものでもある。それはきわめて日本的なものでありながら、同時に「文化的無臭性」を特徴とする新しい文化商品としてグローバルに輸出されている。こんな指摘に納得したら、欧米で盛んに使われている「クール」が気になりはじめた。

・「クール」も「かわいい」同様、例外的に長続きしている流行語だ。『クール・ルール』によれば、それは、表紙になっているジェームズ・ディーンがヒーローになった50年代から目立って使われるようになったが、その源流はアフリカ系アメリカ人が身につけた処世術としての態度や心持ちにあるということだ。
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<クール>は、奴隷や囚人や政治的反体制派など、反抗心を露わにすると罰せられる反逆者や敗北者によって培われた態度だった。そのため<クール>はその大胆な反抗を、皮肉な無関心という壁の裏に隠し、権力の中枢に真正面から立ち向かうのではなく、むしろそこから距離を置いた。50年代以降、この態度が芸術家や知識人に広く取り入れられ、それによって<クール>が大衆文化に浸透していった。p.31

・「クール」は50年代のビート族やジャズ・ミュージシャンからはじまって、60年代のヒッピー・フェスティバルでも、70年代のパンク・パーティでも、あたかもはじめてうまれたことばのようにして使われてきた。そして、80年代以降になると広告産業のコピーとして派手に利用されるようになる。著者はその理由を、「クール」ということばにある「社会のしきたりに対する反抗的な態度」と「強い仲間意識」、さらには自己満足的な「個人主義」という意味合いにみつけている。
・彼らによれば、「クール」を支えるのは「ナルシシズム」「皮肉な無関心」、そして「快楽主義」の三本の柱である。それは、時に時代に反抗する精神の表象になり、また時には、消費文化を個性的にリードする鍵になってきた。対抗文化が反社会的で反物質的な主張と態度を取ったにもかかわらず、それが70年代以降の消費社会を生みだす源泉や原動力になった理由が「クール」ということばにこめられているといわけである。
・この意味では「かわいい」と「クール」は。現代の消費文化を扇動する二本の柱ということになる。日本的なものとアメリカ的なもの、女的なものと男的なもの、無力なものと、力をちらつかせるもの………………。このように違いのあるものが、二頭立ての馬車になっている。改めて、現代の文化状況にそんな図をかぶせると、なるほどと思い当たる部分がたくさん見えてくる。

2006年4月17日月曜日

遅い春は一気にやってくる

 
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河口湖から御坂トンネルを越えて甲府に行く137号線は、季節ごとに風景が変わって見応えがある。冬は、甲府の街の先に雪を被った南アルプスがみえたが、今は一面の花模様だ。桃の花が絨毯を敷き詰めたようにひろがる景色は壮観だし、なにより色っぽい。まさに桃源郷である。
そんな景色を見ようと出かけたが、途中の黒駒では桜が満開で、小高い山の上の寺が気になって立ち寄ることにした。廣徳禅寺という名だが、入り口にりっぱな石像があった。「珍棒大明神」。なるほどとしばし眺めたが、その周辺には桜の大木が並んでいて今まさに満開。どれもこれも見事である。訪ねる人は少なくて、もったいないほどだが、寺にはそのほかにもスモモや桃の林があり、境内にはツツジや椿、あるいは梅の木があって、どれにも花がいっぱい咲いていた。まさに百花繚乱である。 

 

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天気はあいにく曇り空。しかし、今にも咲きそうな桃の花の向こうにみえる御坂山系はなかなかいい。甲府盆地は今、桃の花の満開で、これから少しずつ上に上がっていく。この寺のあたりは、今はスモモが満開で、あとは茶色が目立つが、あと1週間もしたら桃色になり、1ヶ月もしたら緑一色になる。夏には桃、スモモ、秋にはブドウと果物が豊富にみのる一帯である。雨が多すぎたり、温度が低かったりといった年にならないように。
   

137号線は河口湖から御殿場に向けては138号線になる。山中湖から篭坂峠を越えると静岡県に入る。自衛隊の大きな駐屯地のある須走から富士山を周遊するスカイラインを通り、有料の南富士エバー・グリーン・ラインを下ると、広大な演習場に隣接した「富士サファリ・パーク」がある。
 
photo35-11.jpgそれほど行きたかったわけではないが、ものは試しと出かけてみることにした。雪を被る富士山を背景に象やライオンの放し飼いというのは、何とも奇妙な風景だ。しかし、富士をキリマンジェロと思えば、そうでもないか、という気にもなった。

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photo35-13.jpg 園内は車に乗ったまま周遊できる。ドアや窓は絶対に開けないこと。当たり前の話だが、猛獣たちがあまりにものんびりしているから、ついつい近づいてさわってみたいなどと思う人がいるのかもしれない。ここは昨秋、飼育員がライオンに殺される事件があったばかりだ。だからというわけはないのだろうが、ジープに乗った監視員があちこちにたくさんいて、維持管理、運営するのは大変だと感じた。のんびりした動物ばかりだったせいだろうか。猛獣に驚きや興奮といったことは少なくて、ほかにもよけいなことばかり考えてしまった。冬のあいだは動物たちは閉じこめられたままなのか、とか、経営が行き詰まって動物の行き場がない、などといったことがないようにとか、ゴールデン・ウィークの混雑はものすごいことになるのだろうなどなど………。