2007年2月19日月曜日

ターシャの庭

 

tasha.jpg・ターシャ・チューダーはアメリカ人の絵本作家で、日本では彼女がつくった庭が有名である。北東部のヴァーモント州に20万坪もある広大な敷地を持ち、90歳を過ぎた今もひとりで暮らしている。その孤高の暮らしをNHKが1年以上をかけて取材をした。BSで二回に分けて放送されたターシャの生活の徹底ぶりは見事で、驚くほかはなかった。
・彼女の絵本のテーマと内容は、彼女の暮らしや身近な人間関係から生みだされている。アメリカ人にとっては開拓の頃の暮らしを思いださせるような内容で、根強い人気があるようだ。もちろん、現在のアメリカ人の大半には、ほとんど無縁な生活で、したくてもできないし、本当のところはしたいとも思わないものだろう。しかし、憧れる。だからこそ、ターシャがそれを一貫して守り続けていることに、また大きな称賛の声が上がるのである。
・ターシャはひとり暮らしだが、近くに息子夫婦や孫夫婦が住んでいる。庭の手入れや家の維持管理をしてくれているが、身の回りのことはほとんどじぶんでやっている。毎日の日課は決まっていて、一日の最大の楽しみは、夕方のお茶の時間だという。愛犬のコーギーと一緒に庭を歩き、雑草を抜いたり、枯れた花を摘み取ったりする。気が向けば、花や犬や風景をスケッチして、次の絵本の材料にする。57歳で移り住んでから、もう30年以上も変わらぬ生活を続けている。
・電気が通っていないわけではないが、家の照明はロウソクですませている。そのロウソクは飼っているミツバチの巣箱からとった蜜蝋でつくったものだ。毎年一回、家族総出で、一年分のロウソクをつくる。溶かしたろうの中に芯を入れ、乾かしては入れる作業をくりかえして、直径が2cm弱のロウソクにする。その作業ののんびりさに思わず見とれてしまったが、開拓期はもちろん、つい100年ほど前までは、見慣れた光景だったはずである。
・12月になると、そのロウソクをクリスマス・ツリーに何本もつけて、それぞれに火をともした。もちろん家の中だから、老人のひとり住まいで火事の心配はないのかと余計なことを考えてしまったが、人工のライトとはちがって、いい感じに灯っていた。リンゴを収穫したときもまた、家族総出で、ジュースにしたりジャムにしたりする。で、もちろんそれが、ターシャの1年分の食料になる。絵に書いたような田舎暮らしで、それを絵本にすれば、売れるのはまちがいないことをつくづく感じたが、彼女は別に、本を売るためにそんな暮らしをしているわけではない。
・そもそも彼女が絵を描いたり、物語をつくったりしたきっかけは、子どもたちに見せたり、読んで聞かせたりするためだったという。ついでに操り人形も作って、子どもたちと一緒に人形劇をしたりもしたようだ。何でも自分でつくる。その徹底ぶりと器用さは、並外れた才能ではないように思う。けれども、程度の違いはあれ、ほんの数十年前までは、家で手作りしたり、自分で工夫したりするのは珍しいことではなかったはずである。その意味でいえば、ターシャを有名にしたのは、この半世紀ばかりの生活スタイルの大変容だったということができるかもしれない。
・彼女の息子は寡黙でほとんど目立たない。大工さんのようで、ターシャが住んでいる家も、彼がひとりでつくったようだ。もちろん母親の注文をかなえ、新築でも何十年もたった感じに仕上げられた。20万坪の土地と家は、もちろん、絵本の印税によって実現したものである。すでに50代も半ばを過ぎて、やっと自分の住みかをみつけ、やりたかった生活を百パーセント実現させている。
・気ままな暮らしだが、それを実現させるために彼女が歩いてきた道は、またかなりきびしいものだった。それをやり通せたのは、彼女に人一倍強い意志と信念があったからで、年老いて柔和になったとはいえ、その性格は表情からも十分に読み取れる。実は、気ままな暮らしをすることほど、しんどいことはない。ぼくもすこしだけ、そのことには共感できそうだ。
・ターシャはもちろん、自分の人生の終着点が近いことを自覚している。だから、思い通りにつくってきた庭をすこしずつ、自然にもどしはじめてもいるのだという。自分が死んだら、また、自分が手を加える前のまま。放っておけば、自然は自ら自然にもどろうとする。自分の生きた証は、そこからはいつの間にか消えてなくなってしまう。それを望む気持ちはまた、ぼくにもすこしわかる気がする。
・だから、生きていたときのままにのこして、「ターシャの庭」などという名所にはしないでほしいと思った。

2007年2月12日月曜日

確定申告の書類がこない

 

・例年なら、税務署から確定申告用の書類が送られてくるはずなのに、今年はこない。もう2月になって確定申告の時期も近づいているからおかしいな、と思っていた。用事で出かけたパートナーが役場によって確認すると、すでに発送済みのはずだといって、そのリストを見せてくれたそうだ。そうすると、リストに名前がない。理由は、去年還付請求をしているからだという。パートナーは、一瞬耳を疑ったといって帰ってきた。もちろん、それをしたのは役場ではない。税務署の判断で、役場には、そういったリストが届いていただけである。
・還付請求をしたら翌年は申告書を送らないという判断は、何を意図しているのだろうか。素直に考えれば、とれる人にはすこしはサービスするけれども、とれない、あるいは返す人には、そんなことやる必要がない。必要なら、じぶんで勝手にやれということだろう。まさしく役所的発想で、それは年金などでもよくとりざたされることだ。未払いがあって、いざもらう時になって額が少ないことに気づくといったケースで、なぜ、事前に知らせることができないのか、不思議に思っていた。
・役人は公僕で、国民や住民に公的なサービスをすることを職業にしている人のことだ。しかし、こういった発想は相変わらず皆無なのが現状だろう。だいたい税金は納めるものだとされている。神社に奉納などと一緒で、これは礼を尽くして差し上げるという意味で、税金の趣旨とは相容れないことばのはずである。税金は納めるものではなく、預けるもので、行政はそれを国民の生活のために代行してつかうことを仕事にしているのである。その自覚がないから、無駄づかいをしたり、利権や汚職がまかり通る。

・去年、還付請求をしたのは、思わぬ副収入があったからだ。ぼくの書いた文章は、時々大学の入試問題につかわれることがある。それは連絡があってだいたい承知していたのだが、その問題が、受験参考書や問題集、あるいは予備校の教科書などにもつかわれていて、出版社によっては版を重ねて何年も発行しつづけたものもあったようだ。文化庁の指導で、それに使用料を払わなければならないことになって、あちこちの出版社や予備校から、無断で使用してきたことのお詫びと、使用料を支払うという連絡がやってきた。
・馬鹿にならない額の思わぬ副収入で、ちょっとうれしくなったが、しかし、著作権などお構いなしで無断借用が慣例化していたことには、釈然としないものを感じた。で、必要経費をできるだけ申告して、源泉徴収された分を取りかえそうと思ったのである。必要経費は普通2割程度とされているが、実際に収入以上につかったのなら、全額計上したってかまわない。そう認められていることを、以前に同僚からアドバイスされたのだが、そんなことも、申告書には書いてない。
・一昨年はたまたま、海外旅行にもっていこうとPowerBookを買った。本やCDも研究費では落としきれない額を毎年つかっている。しかも国内研修の年で、例年以上に領収書がたまっていた。それを副収入に見あう金額分に必要経費として計上して添付して、ほぼ全額還付するよう申告した。そのことが税務署にはお気に召さなかったのだろう。お返しに申告書の送付はしてやらないとなったわけである。しかし、やることが何ともせこい。

・今年から定率減税がなくなって、税負担はかなり増える。景気が上向いても、税負担を軽減されるのは企業ばかりだ。銀行などはないに等しい利子で金を集め、融資して結構な収益をあげているのに、税を免除されていたりもする。国や自治体の財政は、税以上の支出をつづけて、どこも膨大な借金を抱えている。国民から納めさせるのではなく、お預かりして、大事につかう。そういう気持ちがないからこういうことになる。一事が万事。確定申告の書類を送ってやらないという発想からみえてくるものは、けっして些細なことではないのである。

2007年2月10日土曜日

2006年度 卒論集『十人十色』

 

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今年の4年生は10名、男女比は4:6でした。去年の女子ばかり14名とはかなりちがいましたが、相変わらず元気のいいのは女子学生の方でした。というよりは、去年のやかましいほどの活発さとはちがって、おとなしい学生ばかりのゼミになりました。
題名をどうするか、最後まで決まりませんでしたが、半ば強制的に意見を出してもらって、「十人十色」にすることにしました。題名のとおり、内容はバラエティがあります。まじめな学生が多かったですから、内容も充実しているといえるでしょう。副題は「まじめからバンギャルまで」です。
大学院では、今年度は修論と博論が一本ずつ。現在審査中です。ほかにもう一本、博論の副査があって、たっぷりと学生の論文につきあわされた一年でした。修論は、不十分なところを反省して、博士課程に進んでがんばるようです。博論はどちらもがんばって、なかなかの力作だと思います。しかし、正直言って、早く片づけて、解放されたいです!

1.「バンギャルの生態学」 …………………………………………………………水木 希
2.「日本人はなぜ英語が下手なのか」 …………………………………………小林 由和
3.「現代人のストレスと癒し」 …………………………………………………桝 有香利
4.「わたしに“まじめ”と言わないで」 …………………………………………武藤 佑
5.「競馬はスポーツかギャンブルか」 …………………………………………矢寺 佑至
6.「ストリートファッションが映し出すもの」 ………………………………白戸 圭衣
7.「スポーツビジネス〜スポーツブランドが果たす役割」 …………………下條 信之
8.「女性たちの身体表現」 ………………………………………………………小俣 法子
9.「ポータブル・ミュージック・スタディーズ」…………………………… 永山 優香
  ウォークマンとiPodのメーカー戦略から考える未来構想
10.「煙草の行方」 ……………………………………………………………… 斉藤 まり

 

2007年1月29日月曜日

笠雲と犬と牛

 

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・去年と同様、今年も雪は少ない。というより、まともには一度も降っていなかった。ところが、センター試験や学年末試験の監督で3日ほど東京にいる間に、やっと降った。東京泊まりで正解と思ったが、降っているところが見られなかったのはちょっと残念。くたびれ果てて帰ってくると、家のまわりは白銀の世界。「癒される〜」などと言いたくはないが、深呼吸を大きくして、白い息を吐き出すと、ぼーっとしていた頭がすっきりした。
・今年は雪が少ないだけでなく、寒くない。原油の値上がりで心配していたが、消費量は去年の半分程度ですんでいる。灯油がだぶついているせいか、だいぶやすくなってきた。1L63円。それでも数年前にくらべたら5割増し以上の値段だ。ガソリンも値下がりしてハイオクで1L130円。用事がなくてもドライブでもしようかという気になってきた。

forest57-2.jpg・天気予報は良くなかったが、空は真っ青で、朝霧高原から富士宮まで出かけた。目的は新しくできた盲導犬の訓練センター富士ハーネスで、オウム真理教の富士山本部の跡地にできたばかりのところだ。見学の時間までしばらくあったので、付近を富士山に向かって歩いた。牧場や養鶏場があって、養鶏場の入り口には車のタイヤを洗浄する大きな水たまりがつくられている。鳥インフルエンザのニュースがあったばかりで、リアリティがあった。檜の森を抜けると大きな富士山。大沢崩れがすごい。これを見ると、富士山が崩壊していることがよくわかる。頂上には笠雲がかかり、見る間に姿を変えていく。もうすぐ天気は下り坂、という知らせだ。

forest57-3.jpg・行ってみようと思ったのは映画の「クィール」を見たからだが、それ以前から、ラブラドールが気になっていた。従順なのか、まさお君のようにやんちゃなのか。ポートランドのアトム君のように賢いのか。センターのガイドをしてくれた「クッキー」は少しやんちゃで盲導犬にはなれなかったそうだ。生まれたばかりの子犬がいたが、盲導犬になれるのは2割ぐらい、10歳を過ぎると引退をして余生を過ごす。大きな施設だが、ここから育つ盲導犬の数は将来的にも、それほど多いわけではない。訓練した犬は無償で貸し出される。ボランティアに支えられているが、一頭に使われるお金は相当になるはずだ。そんなことを考えながら、寄付の箱に1000円だけ入れた。

forest57-4.jpg・帰りに朝霧高原の牧場で、放牧されている乳牛を見つけた。近づくと、牛たちが一斉に走り寄ってきた。後ろには笠雲をかぶった富士山。ここはオウムのサティアンがあったところの近くだ。跡地は上九一色村が買い上げて「ガリバー村」という遊園地にしたが、客足が伸びずに閉鎖された。町村合併で「上九一色」の名が消え、ここまでが富士河口湖町。人口の割に面積の広い町になった。
・富士山が世界遺産の候補に残っている。ただし自然の部門ではなく文化だという。自然遺産で手を挙げたときに、ゴミの問題で落選したからだ。推薦理由は、昔から日本人にとってはなじみのある象徴的な風景で、信仰の対象であり、歌などにも歌われ続けているということである。
・世界遺産の指定は保護が目的だが、同時に観光の呼び物にするという矛盾した面をあわせもっている。富士河口湖町の町長は世界遺産指定地域から富士五湖をはずせという要求をしている。合併して、これから観光地として整備したい計画ができなくなるからだ。地元でもっと議論を重ねないと、決まってから問題が起こる可能性大だ。客は集めたいが、来れば環境は悪化する。何しろ観光客のマナーの悪さにはあきれることが多い。

2007年1月22日月曜日

Madonna "Confessions on a dance floor","I'm going to tell you a secret"

 

madonna1.jpg・Wowowでマドンナのツアー・ライブを見た。新しいアルバム "Confessions On A Dance Floor"のライブ版と"I'm going to tell you a secret"というドキュメントだ。どちらもCD+DVDで発売されている。マドンナのライブのおもしろさは定評があるが、ドキュメントを見ると、その準備の仕方の入念さや彼女の自己管理の仕方の厳しさが垣間見られる。舞台はセクシーだが、歌にはメッセージもあり、生き方には強いポリシーがある。エロカワなどと称してもてはやされる日本の歌手とはまったく違うアーティストであることがつくづくわかる内容だった。
・ツアーを企画するとまず、ダンサーなどのオーディションからはじめる。そこで選び出された人たちに、マドンナは「グラス(マリファナ)はやる?」といった質問をする。病人やけが人が出ることを心配しているのだが、彼女はツアー中はアルコールもほとんど口にしない。ステージでは踊りっぱなしで、歌いっぱなしだから、息など切らしていてはとても勤まらない。ジョギングとストレッチを欠かさない日課から、20代のダンサーたちに負けない体力と気力が維持される。48歳になっても衰えない魅力がきびしい鍛錬と禁欲の精神によって保たれていることがよくわかる。

・このドキュメントは前作の"American Life"発売直後のツアーだったようだ。ブッシュが再選された大統領選挙の期間だったこともあって、イラク派兵に対する批判をこめた歌もあり、軍服姿で登場する舞台もあった。「ボウリング・フォー・コロンバイン」を監督したマイケル・ムーアが9.11以降のブッシュの政策を批判した「華氏911」を発表した直後で、マドンナは、その主張を強く指示し、コンサートに招待して、ステージからも訴えた。客の中にはそのメッセージに反感を持つ人もいたようで、楽屋に戻るとさっそくそのことが話題になり、また、ムーアへのインタビューも挿入された。"Rock Against Bush"といったアルバムも出て、ロック・ミュージシャンがこぞって反ブッシュという姿勢を鮮明に出した時期だった。
・ドキュメンタリーにはパートナーのガイ・リッチーや息子や娘たちも登場する。子どもの前では母親になり、パートナーの前では妻になる。あたりまえだが、こんな光景も、マドンナだと意外な一面として新鮮に映ってしまう。ガイ・リッチーはアイルランド系なのか、イギリスやアイルランドのツアーでは同行してもパブに入り浸りで、逆にマドンナが迎えに行ったりする。そして、まるで妻のような愚痴………。他にはマドンナの父親も出てきて、子どものころの話などをして、題名通り彼女の「秘密」を教えてもらった気がした。

madonna2.jpg・"Confessions On A Dance Floor"にも「告白」ということばが使われている。ただし、このタイトルの曲はない。いったい踊り場で何を告白するのか。「禁じられた恋」「未来の恋人」といった曲がある。あるいは「ごめんなさい」とはいる「ソリー」。ここには「話は安っぽいから弁解なんてしないで。あなたの話を聞くよりもっと大事なことがあるの」なんてことばがあって、逆に告白や弁解を否定している。いずれにせよ、ソリー、ソリーと連呼されて、「ゴメナサイ」なんて言われると、分けもなく許したい気になってくる。
・彼女はニューヨークが好きなようだ。ロスやパリやロンドンでは、狂ったり、悲しくなったりする。「ニューヨークは叫んじゃうような小さなプッシーの人には向かない」なんてある。なるほどこういう愛し方もあるのかと思う。彼女ならではの告白かもしれない。この歌をパリやロンドンで歌ったときの観客の反応はどうだったのだろうか。きっと返答を考えて、この曲をやるのを待ちかまえていた観客が大勢いたはずだ。日本の都市はでてこないが、ドキュメントでは「日本人のビジネスマンが携帯鳴らしても怒らない?」と話して周囲を笑わせるシーンがある。彼女にとっての日本人のイメージはこれか、と思うと、ぼくも悲しくなった。
・マドンナはアフリカ人の赤ん坊を養子にした。孤児ではなく親がいる子どもで、ずいぶん物議を醸したようだ。そういえば、アメリカ人のスターたちは、アジアやアフリカからたくさん養子を迎えている。マドンナはそれと同時に、300万ドルもの寄付もしたようだ。イギリスの古城も購入したという。そのうちイギリスの貴族の称号がほしいなんて言い出すかもしれない。のし上がって名声と財産を手にした人は偽善といわれようと、それを世界に還元すべきで、実行した人は貴族になったっていい。ぼくはそう思う。そういえば、最近ボノも「ナイト」の称号を与えられた。外国人だから「サー」ではなく「ナイト」だそうで、マドンナがもらってもおかしくはない。もっとも、彼女にはその前に、グラミー賞が与えられるべきで、今までもらっていないのは何ともおかしな話である。

2007年1月15日月曜日

ロバート・D・パットナム『孤独なボウリング』柏書房

 

journal1-107.jpg・本文だけでも500ページを越える大著で読み応えがあったが、おもしろかった。これはもちろん、ボウリングの話ではない。ボウリングは普通だれかと一緒にやるもので、親睦を兼ねた大会などがおなじみの光景としてイメージされる。そのボウリングをたった一人でするというのは、人間関係が希薄化しているアメリカ人の最近の傾向を象徴させたものである。
・アメリカは個人主義の国だが、その建国の時点から、コミュニティを基盤にして成り立ったという歴史ももっている。家族はもちろん、近隣関係を大事にし、社交から大きな問題の解決に至るまで、人びとが協力しあうことを第一に考えてきた。そんな傾向は、もちろん、今でも強くある。けれどもパットナムは、そこに大きな揺らぎがではじめているという。

・この本ではさまざまな統計が集められ、社会関係の希薄化がデータによって示されている。それはたとえば、大統領選挙の投票率の推移、選挙活動への市民参加、街や学校問題の公的集会への出席度、何らかの請願運動への署名、全国規模の組織の会員数、PTAの推移、教会への所属数と出席の傾向、労働組合への所属率、専門職の会員組織への参加率といった公的なものから、友人宅訪問、一緒に食事、スポーツ・イベントへの参加、社交クラブへの参加、トランプその他の余暇活動といった私的なものにまで渡っていて、そのどれもに、参加率の低下が見られることが明らかにされている。中でも一番凋落の激しいのが、リーグボウリングなのである。

・こんな傾向が始まったのは70年代からのようだ。それは、60年代の大学紛争やヴェトナム反戦、それに公民権運動の沈静化の後にやってきた。もちろん、その後にもフェミニズムの運動や環境問題に関わる大きな運動や新しい団体の出現はあった。実際、全国環境運動組織の成長率は80年代から 90年代にかけて著しい。しかし、ここには少額の寄付程度の人がふくまれていて、社会関係の積極的なかかわりを示すかどうかは怪しいという。この衰退は原因はどこにあるのだろうか。
・パットナムは「社会観系資本の試金石は、一般的互酬性の原則である」という。


 直接なにかがすぐ返ってくることは期待しないし、あるいはあなたが誰であるかすら知らなくとも、いずれあなたか誰か他の人がお返しをしてくれることを信じて、今これをあなたのためにしてあげる、というものである。

・このような規範は19世紀初頭にアメリカを訪れたトクヴィルが、その体験記(『アメリカの民主政治』講談社学術文庫)に驚きをもって書いたことでもある。トクヴィルはそこに「理想主義的な無私無欲の原則」ではなく、「正しく理解された自己利益」の追求を見て、その互酬性のシステムに、ヨーロッパにはないアメリカ的なものの神髄を見つけたのである。
・それでは、社会関係資本、つまり互酬のシステムを衰退させている原因はどこにあるのだろうか。パットナムの推理は慎重で、ここでもさまざまなデータを集めて解きあかしている。もちろん、このような指摘はこの本がはじめてではないし、原因もあれこれと言われてきている。50年代から加速化した都市郊外への移住、女たちの職業従事の増加、出産率の低下、離婚や転職率の高まり、あるいは独身者の増加、自動車への依存、電話、テレビ、そしてインターネットという間接的な人間関係を可能にするメディアや道具………。
・パットナムの結論はまず、自動車への依存とそのためにすごす一人の時間の増加、さらには一人で見てすごすテレビ視聴時間の増加に向き、つぎにベビーブーマー以降に顕著になった、それ以前の世代との意識のずれを問題にする。一日は24時間しかないから、なにかが増えればなにかが減る。これはわかりやいが、世代間の意識のちがいになるとわかりにくくなる。たしかに宗教や国や家族に重きを置かなくなったのは、ベビーブーマー以降の特徴かも知れないが、今度はその原因はなにかと問わなければならなくなる。
・この本はその題名が奇抜であるだけでなく、話の展開も推理小説の犯人捜しの形式になっている。それは、なにが原因なんだ?という関心を読者に持続させることを意図したもので、実際、膨大なページも苦にならないほど、読み続けられる。けれども、読んでいくうちに、また、原因はひとつではないのだから、なにも犯人を特定しなくても、いいのではないかという疑問も生まれてくる。いくつもの原因がさまざまな結果をもたらし、その結果がまた原因になって別の結果を引き起こす。それらが複合した結果としての一人でのボウリング。
・もう一つ、読みながら考えたのは日本のことである。日本における互酬のシステムは「身内」に限られていて、「世間」にひろがることはない。その「身内」も地縁や血縁の関係は形骸化し、結婚率の減少や離婚率の増加が顕著になっている。企業から「身内」の関係が排除される傾向も強まっている。もともと閉鎖的だった互酬のシステムも弱まって、みんながひとりぼっちになるが、「世間」という、あるのかないのかよくわからない規範が監視システムのように自覚されている。そんな状態を想像すると、アメリカにおける互酬システムの復活を模索するパットナムの努力は、日本ではまるで関係のない話のように感じられてしまう。

2007年1月8日月曜日

まさお君とクィール

 

masao.jpg・毎週楽しみにして見るテレビ番組は多くない。見ておもしろかったから、来週も見ようと思っても、いったい何曜日の何時だったかも忘れてしまうことがほとんどだ。そんな中で、もうずいぶん前から毎週、というよりは地上波と BSで週2回見ていた番組がある。「ポチたま大集合」はペットをテーマにした番組だが、この「まさお君が行く」のコーナーだけが楽しみだった。毎週全国各地に出向いて、何軒かの家を訪問し、そこのペットを紹介する。いつもいつも同じことのくりかえしだが、まさお君の行動や表情がおもしろかった。
・彼はラブラドール・リトリバーという種の犬だ。ラブラドールという犬は、もともとはカナダのニューファンドランドで漁網の回収などに使われていたそうだ。それをイギリスに輸入してリトリバーと掛け合わせたのがラブラドール・リトリバーで、やはり水上に落ちた野鴨の回収など、鳥猟犬として活躍したらしい。何より泳ぎがうまいのがこの種の特徴だが、性格がおとなしく頭もいいから警察犬や盲導犬、麻薬捜査犬などにも使われている。実際、時折見かける盲導犬は、ほとんどこの種類で、電車の中でも、部屋の中でも主人の隣に座って静かにじっとしているのに感心したことがある。
・ところがまさお君は、全然違う。一緒に旅する松本君を引きずるように歩き、なにか興味があるものを見つけると、一目散に突進しようとする。若い女と見るや馬(犬)乗りになろうと飛びかかるし、第一食いしん坊で、何でも食べたがる。要するに訓練されていないやりたい放題の馬鹿犬だが、テレビで見ている分には、そこが何ともおもしろい。もっとも、じぶんの大きさを誇示して小さな犬や猫を威嚇するといった様子がないから、その心優しい一面にほほえましさも感じたりもした。
・そのまさお君は黄色で、黒のラブラドールが大好きだった。出会うとかならず、すぐにプロポーズの実力行使に出たが、その強姦に近い行動が災いして、いつでも拒絶というパターンに終わった。で、やっと受け入れてくれる黒ラブを見つけ、何匹もの子どもが生まれた。その中で一番父親似のだいすけ君がまさお君の引退に代わって去年の秋から番組を続けてきた。鈍くさいところはそっくりだが、父親ほどやんちゃではない。出なくなったまさお君なつかしさを感じていたところに、暮れに突然、まさお君の死というニュースがあった。
quill.jpg・こんなことを書き始めたら、たまたまNHKのBSで盲導犬の映画「クィール」に遭遇した。盲導犬になるためには気性が穏やかで、何事にも動じない性格が第一条件になる。何匹も生まれた子犬の中から一匹だけが、盲導犬候補としてパピーウォーカーの手にゆだねられる。ここで1歳まで愛情を持って育てられ、訓練センターに入所する。映画はやくざまがいの関西弁を使った小林薫との出会いや訓練の様子、そして彼の家族と犬とのやりとりなどで展開する。まさお君とくらべると顔つきからして利口そうで、とても同じ種類の犬とは見えないし、その従順さに驚いてしまった。
・「クィール」は実話をもとにした原作があり、テレビドラマにもなったようだ。舞台は京都で、見たような風景が次々と出てきたから、妙に懐かしくなって、目が離せなくなってしまった。パピーウォーカーの家は、たぶん、京都の西にあるニュータウンで、ぼくが10年ほどすんだ団地の近くにある一戸建てだった。子どものいない夫婦で、生後まもなくから1歳までと、引退した後死ぬまでの期間の面倒を見るボランティア活動だ。ちょうど元気な盛りを中抜けさせて犬とつきあうわけで、奉仕の精神がないと務まらない活動だとつくづく感じた。
・じつはぼくも、何年も前から、このラブラドールを飼いたいと思っている。パートナーに反対されて実現していないが、いつかはきっと実現させたいと考えている。オーム真理教の本部、つまりサティアンのあった跡地に大規模な盲導犬の訓練センターができたようだ。そのうち一度見学に行って見ようか。映画を見ながら改めて、そんな気になった。もっとも、パピーウォーカーなんてつらい役目を申し出る気はまったくない。
・クィールは12歳、まさお君は6歳で死んだ。犬を飼うとまちがいなく、死に目に立ち会わなければならない。かわいい、楽しいの後にに、悲しいがやってくる。それを承知で飼うかどうか。そんなことを改めて考えさせられた。