2008年3月31日月曜日

ハスキーな声、2人

 

rai1.jpg・NHKのBSで放送しているロックのライブ番組「ワールド・プレミアム・ライブ」を時々見る。知らないミュージシャンが多いから、つまらないことも多いが、気になってすぐCDを買うといったことがたまにある。2月に見た時にギター一本で歌う髭面が気になった。外見に似合わないハスキーな声で、ただコードを押さえて弾くだけのギターだったが、訴えかけてくるものがあった。
・レイ・ラモンターニュ。フランス人のような名前だが、ニューハンプシャー出身のアメリカ人で、放送したライブは、ビートルズで有名なロンドンのアビーロード・スタジオ。インタビューの形で語られたデビューのいきさつやレコーディングにまつわる話がおもしろかった。彼はすでに30歳を過ぎている。遅いデビューだが、音楽とはほとんど無縁の靴職人だった。きっかけはスティーブン・スティルスを聴いたことだという。

rai2.jpg・さっそくアマゾンに注文して2枚のCDを聴いてみた。ライブに比べると、音がずいぶんにぎやかできれいだ。ちょっと違うなと思いながら、彼がインタビューでした話を思いだした。じぶんの作った歌なのにCDではまるで違うようになった。だから、一度も聴いていない。そんな不満をつぶやくように話したが、なるほどな、という感じだった。
・家出した父、職を探して点々として暮らす母と子どもたち。転校先でのいじめと、ファンタジー小説を読んで過ごした時間。歌詞には、こんな子供時代のことが随所に感じ取れる。たとえば、他の男と一緒になって子供を捨てる母に「行かないで」と乞う歌がある。


あいつと母さんが一緒にいるところなんて見たら
僕は気が狂っちゃう
だから出来るもんならもう一度、キスしてみろよ
僕はここに残って、裸で燃えてやる  "Burn"

jm1.jpg・一ヶ月後の同じ番組でもう一人、気になるミュージシャンを見つけた。やっぱりアビーロード・スタジオでの録音で、まずびっくりしたのは、ちょっと聴いたらどっちの声かわからないほど、ラモンターニュとよく似たハスキー声だったことだ。ただしこちらはバックをつけたロックだから、曲風もサウンドもかなり違う。
・もう一点気になったのは、アングルによって若い頃のディランによく似た顔に見えるところだ。それにモリソンという名前からジム・モリソンやヴァン・モリソンも連想した。で、これもさっそくアマゾンに注文した。聴いてみると、これはテレビで聞いたのとほとんど同じだった。

・モリソンはインタビューで、コマーシャリズムがじぶんをダメにするという批判を話題にして、じぶんの思うとおりに作品を作り演奏していることを力説した。ギター一本がじぶんの音楽であるラモンターニュとの違いが見えて興味深かった。その意味ではたしかに、ロック音楽は、そのサウンドからして本質的にコマーシャライズされているのだということもできるかもしれない。MTVがかつて企画した「アンプラグド」(電気楽器を使わない)などが意味したのは、まさにそういうことだったはずだし、逆にディランがエレキ・ギターをもったときには、堕落としてずいぶん非難された。

・二人の共通点は声だけでなく、その生い立ちにもある。モリソンの父もやっぱり家を出て、母親が子供3人を育てている。多額の借金と逃げるようにしてくりかえした引っ越し。ただし、モリソンは早くから音楽に興味をもち、高校を出た後職を転々としながらも、ストリートで歌うようになる。


僕はどん底まで落ちぶれていて、それはだれにもすぐわかる
そんなところにいるのはおかしいよって、人はいう
窓越しに眺め、輪の外にいれば、彼らがどんなに幸せかわかる
僕もそうなりたいけど、またどうせ、へまをやらかすんだ
"Wonderful World"

・二人ともいい声をして、いい感覚をしていると思う。それだけに、ビジネスやコマーシャリズムの世界で自分を見失わないようにしてほしい。ジムではなくヴァン・モリソンのように、と思う。

2008年3月24日月曜日

わかりやすい季節変化

 

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forest66-2.jpg・この冬は久しぶりに、冬らしい冬だった。雪が何度も降り、最低気温が-10度になる日が数日続いた2月中旬にイギリス・フランスに出かけた。その時の河口湖は結氷して、家のまわりは一面まっ白だった。
・家の近くにワイン用のブドウ畑がある。まだ収穫の出来ない苗木ばかりだが、雪の積もった畑に毎日、フランス人が通ってきた。苗木を横に張った針金に一本ずつくくりつけている。フランスのボジョレーから来ているという。これから出かける国だから親近感を持ったが、僕が行くのはブドウが出来ないブルターニュ地方。彼は結局、旅から帰ってもまだつづけていて、一ヶ月以上毎日通って同じ作業をくりかえしていた。

forest66-3.jpg・旅行に出る朝、バッテリーが上がって車のエンジンがかからない。もう一台から充電して何とか動けるようにしたが、何とも不安なスタートになった。4,5日動かさなかったし、寒い日が続いた。バッテリーもぼちぼち交換時期だった。
・ロンドンに着くと、そこは温暖の地で、翌朝は深い霧が立ちこめていた。「霧のロンドン」を散歩して、テムズ川沿いにある巨大な観覧車「ロンドン・アイ」に乗った。眼下のビッグベンも霧にかすんでいる。いかにもロンドンらしい風景だった。前回は夏だったのに服装はほとんど同じ。日本と違って気候の変化が少ないことを改めて実感した。

forest66-4.jpg・天気はずっと曇り。それはフランスに移動しても変わらなかった。で、やっぱりそれほど寒くはなく、湿気がある。冬になると悩まされる乾燥肌の症状も消えて、体はすこぶる快調で、ロンドン同様、パリの街も歩きに歩いた。パリは人口が200万人ちょっとで、地理的にも大きな街ではない。東京なら山手線の内側程度で京都と同じぐらいかもしれない。だから数日歩いて、大体、地理感覚がわかった。
・サティは郊外のアルクイユからモンマルトルまで毎日歩いて通ったと言うが、その距離は片道12キロ。大変だが、自転車だったらどうということはない。ロンドンもそうだが、もう少し長く滞在して、自転車で走りまわりたくなる街だ。

forest66-5.jpg・帰ってきたら、日本も春になっていた。あたりの雪はとけ、朝には霧が立ちこめるようになった。最高気温も10度を超え、零下にならない日も出はじめた。そうすると、空の青さが薄まり、景色がぼやけてくる。黄砂がやってくると、天気がいいのに目の前にあるはずの富士山が隠れてしまったりもする。
・半月留守にしている間に、季節ががらっと変わった。旅行に出たせいもあるが、今年の季節変化ははっきりしてわかりやすい。とは言え、また突然寒くなって雪、なんてことが必ずある。テレビのニュースを見ていたら、世界の天気予報でロンドンは雪と言っていた。僕がいたときがたまたま暖かかったのかもしれない。
・ネットで調べると、ロンドンもパリも最低気温は零下になって、最高でも10度を越えないようだ。日本人が季節変化に敏感なわけだと、改めて納得した。


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2008年3月17日月曜日

謝罪と感謝

 

journal4-109-1.jpg・外国に行くと、いつでも、文化の違いに驚いたり、とまどったり、おもしろがったりすることがある。その一番わかりやすい例はマナーだろう。

・電車の切符を買うために列に並ぶ。ところがちっとも進まない。一人の客が何やら駅員と話していて、駅員は電話で問いあわせたりしている。窓口は一つで、列は僕の後ろにどんどん伸びていく。僕はすぐイライラしはじめるが、だれもが不思議と辛抱強く、文句も言わずに待っている。当の客は迷惑をかけて申し訳ないといった顔などしないし、駅員も、列が長くなっていることを気にする様子もない。おそらく急いでいる人もあるはずで、東京ではめったにお目にかからないパリの地下鉄にありふれた光景だ。

journal4-109-6.jpg・もっとも、パリの人たちがいつでも、こんな風に気長でのんびりしているというわけではない。道を歩く人は足早だし、信号が赤でも車の流れが途切れれば、堂々と横断する。それはロンドンでは一層目立つ。忙しくはするけれど、他人にとって必要な要件で待たされるなら我慢をする。そんなルールが了解されていることを感じた。

・はじめてイギリスに行ったとき、長距離鉄道の駅に改札口がないことに驚いた。だから切符がなくてもホームにはいることが出来るし、見送るのに車内に入ってハグしたり、キスしたりする。それはフランスでも一緒で、乗客は切符を買って所持していることが当たり前だとされている。車掌が検札に来て切符がなければ、高額な罰金を払わされる。そんな光景を、今度の旅行で目撃した。フランスの鉄道は、改札がない代わりに、じぶんで日時を刻印する機械がある。(→)切符をもっていてもこの刻印がないと、やっぱり罰則がある。だから、こういう習慣になれないうちは、ひどく気をつかうし、慌ててうっかり押し損なうなんてこともやってしまう。

・日本では、入る時にも出るときにも改札があって、しかも車内検札がある。それでも、無賃乗車やキセルがある。そのちがいを考えていて、不祥事を起こすと頭を下げてお詫びする光景を思いだした。「すみません、うっかりしてまちがえました。」とか「途中で気が変わって乗り越すことにしました。」とか「落としました」と言えば許してもらえる。しかし、イギリスやフランスでは、そんな「ごめんなさい」は通用しないようだ。

・毒入り餃子事件で、中国はその原因がじぶんのところにあると認めない。そのことを不快に感じる日本人は少なくないはずだ。そんな話をパリでたまたま出会って親しくなった人と話すと、フランス人だって一緒だと言った。「コップを落として割っても、謝らないし、コップが勝手に落ちたなんて平気で言う。」ちょっと驚くような話だが、逆に言えば、日本人がやたら謝りすぎるのかもしれない。どんな不祥事も経営者ががん首揃えて謝れば、それでひとまず許される。だから、似たような事件が続発して、いつまでたっても改まらない。謝ることを良しとする文化は、ひょっとすると日本人にしか通用しないのではないか。そんなことを改めて実感した。

journal4-109-2.jpg・反対に挨拶や感謝のことばはいたるところで聞いた。バスに乗ると運転手が「ボンジュール」という。だからこちらも慌てて「ボンジュール」と小声で応える。それは乗客一人一人にする行為で、降りるときには客の方から「メルシー」とか「オボア」と言う。運転手はバスも電車も普段着で制服はない。それがパーソナルな関係を象徴しているように感じた。日本だったら、規律のゆるみだと非難されるだろう。
・街ですれ違う人も目が合えば微笑んでくる。それになれない僕は、どぎまぎしたり、不審に感じたりした。知らない者同士だからこそ、ほんの少しの親近感をしめす。慣れると、そんな行為をごく自然に振る舞えることがうらやましくなった。都会に住む日本人には見られないコミュニケーションの仕方だ。忘れたのか、初めからなかったのか。

・外国旅行をしていて日本人を見かけることは少なくない。特にロンドンやパリの有名な場所に行くと、極端に言えば、日本人ばかりだったりする。しかも、その日本人たちは、日本にいるとき以上に、互いを無視しあう。そのことが気になったパートナーが、ある時から、見かけたら大きな声で「こんにちは」と言うことにした。そうすると、笑顔で「こんにちは」と応えてくる人もあるが、一層無視しようとする人もある。そんな反応の違いに「なぜ?」と好奇心が湧いた。理由を突きとめれば、立派なコミュニケーション論になるだろう。


・P.S.2月にイギリスに留学した院生がブログをはじめた。ロンドンであったときにカルチャーショックの話をいろいろするから、ブログをはじめて記録するようアドバイスした。ついでに勉強のために英語で書くよう勧めたのは僕のパートナーだ。(→Life in Britain)

2008年3月10日月曜日

ロンドン、パリ、そしてブルターニュ

 

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・イギリスとフランスの大地は、地表はわずかで、すぐ下が厚い石灰岩で被われている。そのことは英仏海峡に面したイギリス南部やフランス北部の海岸線をみるとよくわかる。白亜紀に貝などが堆積してできたもので、柔らかくて崩れやすい。だから海岸線は少しずつ崩壊しているようだ。
・当然、この石は住居などに使われていて、イギリスだけでなくフランスにも共通した建築法を作りだしている。黒い木組みと白壁のチューダー朝様式と言われる建物である。僕はこの建物が好きだが、前回のイギリス旅行ではあまりお目にかからなかった。ところが、英仏海峡の両岸を旅した今回は両方の国で、ほとんど同じ作りの建物をいくつも見た。古いものは500年も経っているから、かしいだり歪んだりして、今にも崩壊しそうなものもあった。イギリス南東部の小さな村ライで泊まったホテルもそうで、屋根裏の部屋は最高だった。

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・この石は、そのまま積みあげても使われる。パリにはそんな建物がたくさんあった。時間が経って少しすすけた感じがなかなかいいと思ったが、ベンヤミンのパッサージュ論を読むと、けっしてそうではなかったようだ。


・パリがその上に位置している新しい石灰岩層は、たちどころに埃と化す。そしてこの埃は、石灰の埃がすべてそうであるように、目と肺に強い痛みを与える。………それに加えて、パリの近郊で切り出されたもろい石灰岩で作られている家々が見た目にもわびしい陰鬱な灰色をなしている。

・地図をたよりに、いくつかのパッサージュを巡った。ベンヤミンの描写とはまた違って、今風にしゃれた通りになっているもの、レトロな雰囲気で観光客を集めるもの、古びてシャッター通りとなったもの、あるいはインド人街になって、どういうわけか床屋が軒を連ねる所などがあった。通り一本過ぎると街の様子も歩いている人たちもまるで違う。それがパッサージュの現在の姿に関係していて、驚き、がっかりし、また不安にもさせられた。



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・ブルターニュ地方は英仏海峡に面したフランス北西部にある。この名前はもちろん、ブリテン、つまりイギリスと関係する。フランスで一番美しい村と呼ばれるロクロナンで入ったミュージアムでは、受付の人が「リトル・ブリテン」とか「ブリタニア」ということばを口にした。しかし、文化的にはもっと古く、ケルトの影響が強い。その宿を取ったカンペールの街には、残念ながら音楽が流れることはなかったが、名物のそば粉のクレープを食べた。甘いのではなく、サーモンやアンチョビやチーズが入って、しょっぱいけどなかなかの味だった。どういうわけか今パリはクレープブームで、何軒も見かけたが、僕はここまで我慢をして食べなかった。

・もう桜も桃も咲いている温暖の地だが、天気が悪い。どんより曇って時々ぱらぱらと雨が降る。極めて少ない路線バスに乗って、大西洋を見に行き、またカンペールに引き返して、ロクロナンに行った。たしかに、どことなくイギリスやアイルランドの雰囲気がある。英語を話せる人も少しだけ他よりも多かった。




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2008年3月3日月曜日

飛行機の映画、ホテルのテレビ

 

virgin1.jpg・日本を出てから2週間、今回の旅も終盤で、残りわずかになってきた。くたびれているけど、何となく心残りという気持ちにもなっている。インターネットがずいぶん使いやすくなって、今度の旅行では、ホテルの部屋からネットにつながるところがずいぶんあった。ただ、ブロードバンドではないから、ずいぶん遅い。それでも、メールのチェックをして、普段見ているサイトを覗くぐらいは、何も問題ない。来るたびにネットが便利に、あたりまえになっている。そんなことを今回も実感した。だから、日本の情報はニュースはもちろん、家のあたりの天気までわかる。

・ホテルに泊まれば、必ずテレビがある。それもずいぶんチャンネルが増えて、いろいろな番組が見えるようになった。もちろん、国や都市によるのだろうが、パリではNHKの国際チャンネルがあって、一日中日本でおなじみの番組をやっていた。日本でもBSにはCNNやBBCがあったし、NHKの BSではフランスやスペインのニュース番組があって、旅行前は耳慣らしによく見ていたから、パリで日本語の放送を見たからといって驚くほどではないのかもしれない。けれども、リモコンを押していて、突然、日本語が聞こえてきたときには、やっぱりびっくりした。
・とは言え、ホテルの部屋でテレビを見ている時間は極めて少ない。朝起きたときと、夜寝る前のひととき、それに昼間歩き疲れてひと休みに帰った時ぐらいだから、イギリスやフランスのテレビ番組の特徴などはよくわからない。ニュースがあって、ドラマがあって、クイズ番組がある。素人が出て現実に近い、あるいは即興の生番組をリアリティ・テレビという。その番組を見たいと思っているのだが、わざわざ番組表でチェックして、その時間にホテルの部屋で待機などというほどでもない。

・リアリティ・テレビを見たいのは、今翻訳している本にその話題が出てくるからだ。古くは「ドッキリ・カメラ」のような番組で、似たものは日本でも少なくない。だから大体わかるのだが、しかし、実際に見ておけば、それこそリアリティは増すはずである。残りの数日はちょっとまめに見ようかと思っている。たとえば「ビッグ・ブラザーズ」とか「アイム・ア・セレブリティ〜」といった番組だ。
・翻訳本との関係で、もう一つチェックしたかったのは、ヴァージン航空のサービスぶりだった。60年代の対抗文化の中から生まれて成功したビジネスを総称して「ニート資本主義」と呼ぶ。ニートは日本でつかわれているものとは違って「洒落た」とか「かっこいい」という意味だ。その代表格がパソコンのアップルであり、ヴァージンなのだが、僕はヴァージンの飛行機を使ったことはなかった。だから旧国営のブリティッシュ・エア(BA)とどうサービスが違うのか、比べてみようと思った。
・ヴァージンは食事がおいしいという評判だった。それは確かで、映画や音楽の種類もBAよりは豊富だ。ただし映画も音楽も有名なものばかりで、音楽はやっぱり携帯した自分のiPodで聴いたが、バッテリーが気になったから、半分の時間は映画で過ごした。何しろ飛行時間は12時間、しかも時差ボケを避けようと思ったら、なるべく寝ない方がいい。で、「ダイハード」と「パイレーツ・オブ・カリビアン」それにもう一本を見た。字幕はないが日本語吹き替えが何本もある。おかげで退屈はしなかった。

・ヴァージンの精神は、第一に非形式性にある。つまり従来の形にこだわらずに、新しいことをやって違いをつける、客にとってよいと思われることをやるといった発想だ。そのためには心をしなやかにして、みずから楽しんで仕事をする。ヴァージンは、ロンドンの小さなレコード店から始まった。大きくなるきっかけは、みずからのレーベルからデビューしたセックス・ピストルズの大ヒットだった。それこそ伝統も形式もぶち壊せと叫んだイギリス・パンクの代表だが、そこで儲けたお金が、現在、イギリスを代表する飛行機会社をつくり、鉄道や金融、そして電話サービスにまで手がける大企業の出発点になっている。
・このような発想や、事業の展開は、もちろん、アップルを初めとするコンピュータやネット産業にもめずらしくない。そこで働く人たちは、本当にみずから楽しんで仕事をしているのだろうか。ヴァージンに乗った感想で言えば、BAと大差はないという印象だった。ヴァージンの進出でおそらくBAはかなり変わったのだと思う。違いはすぐにまねされて同じになる。それだけに、「違いをつける」ためのヴァージンの戦略は、これからはなかなか難しいのでは、という気もした。

2008年2月25日月曜日

パリからの手紙

 

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(サティの生家)


08travel9.jpg・成田を飛び立ってから1週間、今日はパリに着きました。ロンドンに数日滞在し、その後はイギリス南東部を回って、ドーバー海峡をフェリーで渡り、フランスに入る。それから、海外沿いに西に行き、セーヌ川河口の街に立ち寄って、パリにという順路です。ずっと霧や曇りの天気だったのですが、今日はじめて、太陽が見え、真っ青な空になって、周囲の景色も違って見えるようになりました。実はフランスは初めてで、ドーバー海峡フェリーから始まってまごつくことが多かったし、フランスらしい風景が少しも見えてこなかったのですが、今日はいい一日でした。

08travel8.jpg・ルアーブルという街は、印象派の名前のきっかけになったモネの「印象・日の出」が描かれたところとして有名です。期待してその場所に行ったのですが、看板の立つところから見る景色は(→)ご覧の通りで、何とも殺風景な港の様子でした。で翌日、タクシー代60ユーロ(1万円)を奮発して、セーヌ河口の対岸にあるオンフルールという街まで行くことにしました。ここはサティが生まれたところでもあります。結果はというと、(↑)上の写真のように景色はどこをとってもまさに「印象派」そのものでした。日曜日で15世紀に作られた木造の教会で賛美歌も聞いて、すっかり気分をよくしてパリにやってきたというわけです。

08travel11.jpg・実は、フランス初日の宿に着いたとき、ホテルが閉まっていて、誰もいる気配がなかったのです。つぶれたのかと思っていると、中から客らしき人が出てきて、オーナーは急用ができて出かけたらしいというのです。とりあえず入ると置き手紙と部屋のカギがあって一安心。ホテルが閉まっているというのは初めての経験で驚きましたが、何と2日目のホテルもカギがかかって暗い。これって、フランスの小さなホテルではあたりまえのことなのかもしれないと思うと、昨日の腹立ちも収まった気がしました。というより、これは案外合理的なのではとも考えました。

08travel6.jpg・無駄なことはしない。それは十分に納得がいきます。それに比べると日本人は、形式的なところや、相手を配慮した無駄が多い。そんなことを些細なことにも感じます。もっともイギリス人もフランス人もとにかく食べ過ぎです。ムール貝のクリーム煮を注文すると、右のようなバケツみたいな鍋に山盛りにして持ってきました。もちろん一人前です。おいしかったけど、これだけでおなかが一杯。だんだん面倒にもなってうんざりしてしまいました。大食いはけっして合理的とは言えない習慣で、小食の方が環境に優しいと思うのですが、いかがなものでしょうかと言いたくなります。
・とにかく今回も、日本人との発想や習慣の違いに驚き、とまどうい、むかつき、笑うの連続で、楽しいけれど、くたびれることが多いです。

2008年2月18日月曜日

ベンヤミンの『パッサージュ論』

 

benjamin.jpg・ベンヤミンの『パッサージュ論』は読書ノートを集めたもので、5巻本として翻訳されている。この本を読むと、彼が書いた多くのエッセイの準備のために、どんなものを読み、どんなことを考え、どのようなイメージを膨らませたかがよくわかる。そういった内容の本なので、これまでところどころつまみ読みしてきたのだが、その題名のパッサージュにはあまり注意が向かなかった。
・『ライフスタイルとアイデンティティ』(世界思想社)を書いて、18〜20世紀のロンドンやパリのことを調べていた時に、パッサージュの存在の重要性に気がついた。ただし、本はロンドンを中心にまとめたので、パリのパッサージュはもちろん、ベンヤミンのパッサージュ論も取りあげていない。それだけに気になっていたのだが、残念ながらパリにはまだ一度も行ったことがない。と言うより、あまり行きたいと思わなかった。で、パッサージュが何だったのか、じっくり読みなおしてみようかという気になった。


パリのパサージュの多くは、1822年以降の15年間に作られた。パサージュが登場するための第一の条件は織物取り引きの隆盛である。

・パッサージュは街路にガラス張りの屋根をつけて、天気にかかわらず街を歩けるようにした一角、つまりアーケードである。石ではなく鉄骨の建築物がつくられるようになり、ガス灯が街の夜を明るくしはじめた。繁華街の街路が交通の手段であると同時に商売の場であるのは、はるか昔からだった。けれども、パッサージュは、そこから交通の手段という役目を排除した。商売の場に限定されたパッサージュは、そこに集まる人を滞留させる。各商店に並べられた商品を眺め、物色し、あるいはカフェでの談笑や議論、レストランでの食事を楽しむ。パッサージュは「商売に対してのみ色目を使い、欲望をかきたてることにしか向いていない」場だったとベンヤミンは言う。
・おもしろいのは、パッサージュが人びとに喫煙を広めたという点だ。「明らかにパサージュではもうすでに煙草がすわれていた。それ以外の街路ではまだ一般化していなかったのにである。」コロンブスが新大陸から煙草を持ち帰ったのが15世紀の末だから、煙草の普及はゆっくりしたものだったと思うが、ここでもパサージュが、その習慣を一気に広めた。パリはつい最近、カフェやレストランなど公共の場での喫煙が全面的に禁止された。と言うことは、喫煙という行為はわずか200年たらずの束の間の習慣になってしまうということになる。

・パッサージュは自転車を流行させた場所でもあるようだ。それも最新のファッションで着飾った若い女たちを虜にした。そしてそのスカートが翻るさまに男たちが欲望をする。「自転車に乗った女性は、絵入りポスターでシャンソン歌手と張り合うようになり、モードの進むべきもっとも大胆な方向を示した。長いスカートが少しばかりまくれたからと言って、どうということはないのが現代的な感覚だが、当時はそうではなかった。「当時のモードの特性。それは完全な裸体を知ることの決してない身体を暗示することだった。」
・そんなパッサージュの賑わいも、百貨店が登場した18世紀の中頃から衰退しはじめたようだ。ベンヤミンがパリでパッサージュを訪れた20 世紀の20年代には、すでに過去の遺物のようだった。とは言え、芸術家たちがたむろする場所でシュルレアリスムが生まれるきっかけもつくった。


 いずれの街区にせよ、それが本当の全盛期を迎えるのは、そこにぎっしりと建物が建てられてしまういくらか以前のことではあるまいか。そして、建物に埋め尽くされてしまうと、その街区という惑星はカーブを描いて商売に接近していく。
 街路がいまだいくらか新しい間は、そこには庶民が住んでおり、モードがほほ笑みかけるようになってはじめて、街路は彼らを厄介払いする。ここに関心を抱く者が、金に糸目をつけずに、ちっぽけな家屋や個々の住居の所有権をたがいに争い合うようになるのだ。

・パッサージュはもちろん、今でもパリの街にある。そのいくつかを歩いてみたい。そんな気になって、出かけたくなった。一時のさびれ果てた街路も、今ではレトロな観光名所になっているところもある。地球の歩き方を片手に、いくつかのパッサージュを歩いてみよう。というわけで、しばらくロンドンとパリに行ってきます。