2013年4月15日月曜日

薪割りと山歩き

 

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・寒かった冬も3月になると急に暖かくなって、片栗の花や蕗のとうが例年よりも早く芽を出した。桜もすでに満開で、これも半月も早い。次の冬のための薪割りも、半分済んだところで雪が降って道が凍結してしまったから、原木の購入がヴェトナムから帰った後になってしまった。その4立米をチェーンソーで玉切りして、せっせと薪割りをしている。始めるとすぐに汗びっしょりになって、Tシャツでも暑いくらいだ。forest107-2.jpg
・玄関のベランダの木が腐ってきたので張り替えることにした。オームセンターに2m弱の板を買いに行ったが、必要な枚数が無くて、途中までしかできていない。このベランダは2005年に張り替えたものだから7年ほどしか持たなかったことになる。ついでに手すりも作りかえようと思うのだが、これは来月になるか再来月になるか。バルコニーも床下の土台から直さなければならないから、今年は大工仕事に精出さなければならない。forest107-3.jpg
・パートナーが乗っていたインプレッサが13年以上も経ってそろそろ買い換えの時期になっていた。まだまだ元気に走っていたから急いでいたわけではないのだが、オレンジのXVが気に入っていて、アウトバックを買ったディーラーの営業マンに話したら、さっそく新古車の出物があるという連絡が入った。自動でブレーキがかかるし、アイドリング・ストップもして燃費がいい。forest107-4.jpg
・暖かくなって再開したのは他にもある。自転車と山歩きだ。今年最初は伊豆の金冠山と達磨山で、3時間ほどの軽いコースのはずだったのだが、階段の直登で駿河湾から吹き上がる強い西風に煽られての行程は、久しぶりの山歩きとしてはきつかった。山桜も散りかけていて、先週来れば満開の景色が眺められただろう。 forest107-5.jpg

2013年4月8日月曜日

suzumoku"キュビズム"他

・suzumokuなんていうミュージシャンは全く知らなかった。だいたい日本のメジャーの音楽状況はここ数年、嵐やAKBやらSKE、NMBなんていう訳のわからないグーループに席巻されていて、およそ音楽とは関係ないビジネスと化している。興味がないと言うよりは嫌悪感で、聴くのはもちろん、話題にもしたくないほどだった。もちろん、3.11以降にさまざまな問題を批判する歌が生まれていることも事実である。ただし、その多くが地方に住んで、小さなライブハウスなどで活動するミュージシャンたちだから、メジャーとマイナーの断絶がますます大きくなってしまっている。

・suzumokuのビデオ・クリップをYouTubeで見たのはFacebookで紹介されていたからだった。それほど興味を持ったわけではなかったが、一つ見ると、続けて見たくなって、YouTubeにあるビデオを全部見てしまった。で、さっそくAmazonでCDを買うことにした。日本人のミュージシャンにこんなに興味を覚えたのは尾崎豊以来かもしれない。とにかくひどい音楽状況だけに、とても新鮮に感じられた。

suzumoku1.jpg ・''キュビズム"には12曲が収められている。どの曲を聴いても感じるのは、どこでも見かける街の風景、駅や駐車場、そして自分が住む部屋の様子やテレビ、あるいはそこで出会う人や見かける出来事の描写が、まるでスケッチブックを見るようにイメージできたことだった。で、もちろん、それにはsuzumokuというフィルターが通されていて、その感性や姿勢には共感したり感心したりするものが多かった。それはたとえば、次のようなフレーズだ。


最低まで転げ落ちたら 有名になるの?
犯罪者のモンタージュが 街中に張られている
「モンタージュ」

空回る換気扇のガラガラ 余りにもうるさいものだから
溜息を一つ置き去りにして 冷た過ぎるドアノブを掴む
「ノイズ」

またも虐待のニュースです なんと痛ましいことでしょう
信じ難い事件ですが 次はスポーツの話題です
「どうした日本」


suzumoku2.jpg ・'キュビズム"は昨年出たばかりの最新作で、その他に"素晴らしい世界"と"コンセント"の2作を買った。サウンドはギターだけのデビュー作から徐々に多様なものに変わってきているが、歌詞の特徴にはほとんど変わりがない。「都会を飾る真夜中の明かり 『あれは残業の景色なんどよ』と君は眠そうに目を擦りながら 独り言のように呟いている」(「素晴らしい世界」)。あるいは並んで歩いている恋人同士の会話を歌った「街灯」には印象に残る映画のワンシーンを見るような趣がある。

「もしもさ、明日全てが滅びるならどうしようか?」夕日と歩きながらふと君が問い掛ける 「いきなりどうしたの?」とおどけて笑ってみても 真面目な横顔に僕は少し立ち止まる 認め合いその時まで二人生き残れるのなら 迫り来る最後がどれほど暗くとも 街灯が一つ一つ灯される日常を願うだけ

・歌はことばをメロディに載せて伝える表現手段だ。だから歌を聴くときには、その歌詞が何を伝えようとしているのかに注意を向ける。当たり前の聴き方だと思うが、最近の日本人の作る歌にはほとんどメッセージがないのが普通だった。だから一層、suzumokuの歌には新鮮さを覚えた。彼が描くのは今の若者たちが抱く「心の歌」のように聞こえてくる。ちょっと声が優しすぎるところがもの足りない気もするが、それもまた最近の若者らしさを表象しているのかもしれない。

2013年4月1日月曜日

京都と成明さん

 

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・竹内成明さんが亡くなった。大震災と原発事故からちょうど2年目の3月11日だった。癌で余命6ヶ月ということを聞いてから2ヶ月しか経っていなかった。彼のブログには3月1日付けの文章と闘病略歴が載っている。


 2012年11月初め、腰痛がひどく近所のバプテスト病院へ。レントゲン検査で肺下部に小さな瘤が見つかり、わたしが50年来のヘヴィスモーカーであったことを知ると、ただちに京大呼吸器内科へ紹介される。
 12月6日夕刻、ビリビリビリッと、突然の激痛が、全身を走る。痛いなんてものじゃない。焼きごてを背中一面に当てられたよう。
 叫びました。絶叫です。病院でもらっていた薬を全部飲んで、一時休眠、明け方から痛みが再び走り出し、絶叫。((「ぐしゃだより」から引用」

・ 成明さんは僕にとって雲の上の存在だった。同志社大学の修士課程に在籍していた時に彼は同じ専攻の教員だったが、大学院を担当していなかったから、筑摩書房から出ていた『展望』に連載したエッセイを通してしか知らなかった。当時『展望』は文系の院生にとっては必読の雑誌だった。彼と親しくなったのは、大学院に進学をしたゼミ生を介してで、つきあいは大学ではなく、もっぱら銀閣寺近辺の飲み屋になった。あまり飲めない僕には、大酒飲みとのつきあいはしんどかったが、そこで得て、血となり肉となったものは少なくない。

・『展望』に連載されていたエッセイは『濶達な愚者』(れんが書房新社)という題名の本になった。ドン・キホーテではなくサンチョ・パンサの存在とその役割を「濶達な愚者」と名づけてその重要性に注目をした。崇高な騎士ではなく闊達な愚者。成明さんはその両面を強く併せ持った人だった。成明さんたちとのつきあいは僕が東経大に移籍するまで20年以上続いた。振り返れば、一番元気で勉強もした時期で、それだけに、思い出すことは多い。

・たまたまK's工房の個展が京都であって、本当は成明さんに会うつもりでいたのだが、仲間たちと会うことになった。最初は数人のつもりだったのだが、20名を越える人が集まって、ミニ偲ぶ会のようになった。10数年、20年、あるいはそれ以上会っていなかった人もいて、思い出話に花が咲いた。

・親しい人が死ぬというのは、縁のある人たちが再会するきっかけになる。そういえば、京都に来るのは知人が亡くなって偲ぶ会に参加ということが多くなった。師と呼べる人が残りわずかになった。そういう歳になったのだとつくづく思う。

2013年3月25日月曜日

ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』 他

・ポール・オースターの作品はほとんど読んできた。ただし、ここ数年は新作が出てもすぐ読もうという気にならなかった。初期の頃の作品に比べて、夢中になって読み進むほどおもしろくないと感じたからだった。ところが、アマゾンで何の気なしに検索したら、読んでいない本が何冊もあって、久しぶりに読んでみようかという気になった。

auster1.jpg・『ブルックリン・フォリーズ』は退職し、妻と離婚した60代の男が主人公である。その彼が一人暮らしをしながら、研究者を目指して挫折した甥っ子と再会し、奇妙な事件に巻き込まれ、一緒に旅をする物語である。偶然をうまく使って話を繰り広げる手法は健在で、久しぶりにおもしろいと思った。しかし、もっと共感したのは、自分の病気、離婚、娘との関係などについての語りが、同世代としてきわめてよくわかることばかりだったからだ。

・オースターの小説のテーマは「消失」である。僕が興味を持って「オースター論」を書いたのは15年ほど前のことで、素材にした小説はすべて若者が主人公だった。だからそこでテーマになった「消失感」は若者のアイデンティティに関わるものだったのだが、『ブルックリン・フォリーズ』の主人公が抱いているのは長い人生を生きてきて、さまざまな経験をした老人が感じるものである。

・若い人たちが味わう「消失感」は自分が何者かになろうとするときに捨てるものや、何者かになろうとしてなれなかったものに対して向けられる。けれども老人になったときに経験する「消失感」は、いったん手に入ったもの、実現したものを失うときに襲ってくる。その消失感とどうつきあうか、そんな主人公の心の持ち方が、奇想天外な物語の中でつぶやかれる。

auster2.jpg・『幻影の書』は中年の男が主人公だが、物語は妻と二人のこどもが乗った飛行機が墜落して、突然家族を失うところから始まる。大学に勤める研究者で、教員としての仕事も研究も放り出してただ呆然として時を過ごすが、たまたまテレビで見たサイレント映画が気になって、その監督が作ったその他の作品が見たくなる。で、世界中に散在したフィルムを追いかけ、資料を調べ、それを一冊の本にまとめて出版したのだが、とっくに死んでいると思っていた、当の監督が会いたがっていると書いた手紙が舞い込んでくる。

・この映画監督は、数本の作品を作った後に忽然と姿を消した人だ。その理由は謎に包まれていたが、今でも生きていて、未発表の作品を何本か作っているという。主人公は会いに出かけるが、対面した翌日に監督は死んでしまう。遺言には、つくった作品も資料もすべて焼いてしまうようにとある。出会いを仲介した女との激しい争いと恋愛と別れ。「消失感」がテーマであるのは、この小説も変わらない。

auster3.jpg・『オラクル・ナイト』の主人公もまた病み上がりで、出版社の仕事を辞めて小説を青いノートに書いている。オースターの初期の作品にはしばしば赤いノートが出てきて、それが重要な役割を果たしていたが、今度は青に変わった。物語はこの青いノートに小説を書くことで進むが、小説内小説、その中の小説と入り組んでいて、人物説明が注として挟み込まれているから、スムーズに読み進むことができない。まるでオースターに意地悪されているかのようである。

・と言うわけで、まだ読み終えていない。

2013年3月18日月曜日

ヴェトナムで考えたこと

 

vietnam10.jpg・ヴェトナムに着いて最初に出たことばは「カオス」だった。信号のない道路を車やバイク、自転車が乱れるように走り、信号も横断歩道もない交差点を人びとが渡っている光景に唖然としたからだった。町を歩いていると靴を磨け、シクロに乗れ、バイクを貸すと寄ってくる。「ノー」と言っても諦めない。店を覗いたりすれば、もうしつこくつきまとわれて閉口するばかりだった。ルールも礼儀もない混沌とした社会。そんな悪い印象ばかりが残って、もう二度と行きたくないと思ってしまったが、帰ってきて、なぜそうなのかということを考えてみた。

・町中や短距離の移動はマイクロバスだった。その窓から見ていて怖かったのは、対向車線を走る車が追い越しをしかけて、頻繁にこちらの車線に入って向かってくることだった。時には追い越しきれずにこちらの車線にいたまますれ違うこともあって、乗っている車は脇によけることになるが、そこにはバイクや自転車が走っていて、今にもぶつかりそうになることが何度もあった。もちろん、乗っているマイクロバスも何度も追い越しをしていたから、とんでもなく危ない運転だと思ったが、ガイドはヴェトナムではこれが当たり前の運転だと言った。

・最初は怖い思いに襲われ、いい加減にしろと言いたくもなったが、次第に、こんな状況でもほとんど事故現場に出会うことがないことに感心したり、感覚的に慣れて来て関心も薄れていった。で、改めて考えた時に連想したのは、鳥や小魚が群れて飛んだり泳いだりする様子だった。これは「ボイド」と呼ばれる「群れ知能」の理論として説明されていて、「引き離し」(近くの鳥に近づき過ぎた場合、ぶつからないように離れる)、「整列」(近くの鳥と速度と方向を合わせる)、「結合」(より多くの鳥のいる方向<群れの中心方向>へ向かって飛ぶ)という3つの原則からなっている。

・信号もなく、交通法規もあてにせずに、まるで血液の流れのように道路を走ることができるのは、お互いの中にこの「群れ知能」が暗黙知として共有されているからだ。そんな能力が鳥や魚だけでなく、人間の中にもある。こんな解釈が僕には核心を突いた説明のように思えた。ヴェトナム人の中に生きている人間の「群れ知能」を、私たちはをすでに忘れてしまっている。そうだとすれば、ゲリラ戦が中心だった戦争でアメリカが負けたのも当然だという気にもなった。

・ところで押し売りのようにしつこくつきまとったり、気をつけないとスリやひったくりに遭うといったことはどうなのだろうか。近代化された都市に住む人間には、見知らぬ他人同士が不要な接触をしないよう、意識的に無関心を装う行為が暗黙知として身についている。この「儀礼的無関心」はいわば、都市の肥大化によって発達した「群れ知能」とも言えるもので、それを守らずに接触すれば、相手を不快にするし、痴漢行為を働いたとして訴えられかねないことにもなる。

・断っているのにしつこく迫る押し売りは、日本では法律で禁止された犯罪行為である。けれどもヴェトナムではそうではなく、お互いのやりとりで何とかする行為のようである。だとすれば、「いらない」「関心がない」とはっきり言うべきだし、態度として示すべきだが、日本人はそれが苦手で、ついつい話をしてしまうことが多いようだ。で、結局安いからと言い訳をして買ってしまう。そんな光景を今回の旅の中でも何度も見かけた。「ノー」と言えない日本人は、近代人の典型であるアメリカ人だけでなく、これから近代化しようとしているヴェトナム人にも甘く見られてつけ込まれてしまっている。そんな印象を再認識してしまった。

2013年3月11日月曜日

ヴェトナムからの手紙

 

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・ヴェトナムはずっと気になっていた国だった。高校生の時にヴェトナム反戦のフォークソングを歌ったりした頃からだから、もう半世紀近くになる。そのヴェトナムにはじめてやって来た。ホーチミン市の街を歩いても、今はもう、戦争の傷跡などはほとんどない。街はにぎやかで高層ビルができ、道路にはバイクが溢れている。で、旧南ヴェトナム政府の大統領府は観光客や地元の小中学生の見学でいっぱいだった。当時の大統領はアメリカの傀儡だったが、大統領府は豪華で、今でも当時のままで保存されている。豹の剥製や象の足や象牙などが飾られ、絨毯や壁画も贅を尽くしたものだった。屋上には北ヴェトナム軍がやって来たときに逃げ出すためのヘリコプターが今でも置かれたままだった。

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・それにしてもホーチミン市は蒸し暑い。ここのところ日本も暖かくなったとは言え、30度を超える気温は体に堪える。けれども道路のバイクと同様に、市場は人でごった返し、衣料品やら食料品やらニセブランド品が所狭しと積み上げられている。今経済成長をしようとしている国のエネルギーは、街をちょっと歩いただけでも十分に感じられて、高揚した気持ちにならないこともない。ただし、おもしろがって気を取られていると、スリやひったくりに遭いかねないし、買い物や食事の際にはごまかされてしまう。日本人は格好のカモなのだという話を、現地のガイドさんから聞いた。

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・今回の旅行は1週間と短いが、ホーチミンからフエ、ホイアン、ハノイとまわるからかなり慌ただしい。国内の移動もほとんど飛行機で、ほんの少しだけヴェトナムにふれたというだけで終わってしまうのかもしれない。けれども、最近出かけた韓国や台湾とは衣服や食事、街の景観、そして人柄など、あらゆるところで違いが見つけられる。

2013年3月4日月曜日

K's工房個展案内

 

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・K's工房の個展が3月29日(金)から31日(日)まで、京都の「アイディ・ギャラリー」で開かれます。今回のテーマは「寛容の木」、前回は大震災直後で東と西の受け止め方の落差に戸惑いました。2年経った今、震災や原発事故はどう記憶され、どう対応しようとしているのか。忘却ではなく寛容の姿勢で受け止める。放射能はすぐそこに、どこにでもあるのですから。

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