2015年5月18日月曜日

「ダブル・スピーク」乱発と無関心

・今国会でとんでもない法案が次々と可決されようとしています。とんでもないのに、メディアも国民も大騒ぎをしない。その原因の一つは、とんでもないものであることを隠した法案の名前にあります。たとえば、安倍首相がアメリカで約束した「国際平和支援法案」はアメリカがやる戦争を自衛隊が支援することを合法化するもので、「戦争法案」という批判が浴びせられました。国会の審議で出たことばで、実態を正確に表しているのに、首相のレッテル貼りという批判に同調して委員長が撤回の要求という、とんでも発言をした経緯があります。

abe.jpg・国連の決議にしたがってというのならまだわかります。しかし「国際平和支援」というのはあくまでアメリカ一国に対してのものですから、アメリカがする戦争を支援する法案であることははっきりしているのです。アメリカがこれまでやってきた戦争が「国際平和」のためだったのかどうか。それはヴェトナム、アフガニスタン、イラクなどをみれば一目瞭然でしょう。安倍首相はアメリカの議会での演説で、それを「希望の同盟」と呼んで拍手喝采されました。(右図はNYタイムズから)

・「支援」というと戦争には参加しないように聞こえます。しかし、戦争をするアメリカ軍のために兵器や物資を補給する役割を担うのですから、戦争に参加することに他ならないのです。軍事評論家の田岡俊次は、戦争で一番の攻撃目標は前線ではなく後方の補給部隊で、それは直接戦闘に参加するよりもっと危険だと指摘しています。そんな危険な法案が、国会での審議以前にアメリカとの間で合意され、国会でも自公の賛成によって可決されようとしているのです。

・戦争をするための法案を「平和」と名づけるのは、まさにオーウェルの「戦争は平和「(War is peace.)そのもので「ダブル・スピーク」です。そしてこのような使い方を安倍政権は「積極的平和主義」でもしてきました。日本は憲法によって軍備は持てないことが明記されています。しかし自衛隊を作って、他国の侵略に対して自衛する軍備は持てるということにしてきましたが、それでも自衛隊は憲法上は軍隊ではないのです。その自衛隊がアメリカの戦争に参加できるようにするというのですから、もう憲法はあってなきがごとしになってしまうのです。

・国会で可決されることが確実なものにもう一つ、「残業代ゼロ法案」があります。もっともこれは批判として名づけられたもので、正式名称は「ホワイトカラー・エグゼンプション」と言います。エグゼンプションは「免除」という意味ですが、免除の対象は雇用者が被雇用者に払うべき残業代にあるのです。つまり残業代を払わずに残業させることを合法化しようというのです。

・この法を提案した厚労省は、報酬なしに残業させるのではなく、残業しないで済むよう促すもので、年収も1000万円以上に限定していることを力説しています。かつてこの法案は「家庭団らん法」などと名づけられたこともありました。しかし施行されれば、この法を盾にただで残業させることが出来るわけですし、派遣法と同様、徐々に制限を緩和していくことは目に見えているのです。

・その派遣法に課されていた3年という契約期限も撤廃されようとしています。3年以上続けて働いたら正規の雇用にしなければならない。その規制を取り払って、何年でも派遣のままで働かせようというわけです。「残業ゼロ法案」もいずれ同様の道を辿るでしょう。

・安倍政権が掲げてきた政策や彼がこれまで公言してきたことばはすべて「ダブルスピーク」だと言っていいでしょう。「戦後レジームからの脱却」に、アメリカへの従属は含まれていませんし、「自虐史観」は侵略の事実をないことにする姿勢に他なりません。強者におもねり、弱者をくじく。「ダブル・スピーク」は、その事実を隠し正当化するためのレトリックで、そんなインチキをもっと声高に批判する必要があると思います。

War is peace.jpg・戦前、戦中(戦争)があったから戦後(平和)がある。しかし戦後(平和憲法)の次にまた戦前(憲法無視と改正)が来ようとしています。安倍首相の「日本を取り戻す」というスローガンには「戦前の」ということばが込められているのです。無関心ではいられない状況なのですが、安倍政権の支持率は5割前後で安定しています。まさに「無知は力」(Ignorance is strength)で、恐ろしい世の中になったものだと思います。

2015年5月11日月曜日

野茂から20年のMLB

・野茂がメジャー・リーグのマウンドに立ってから20年が過ぎた。彼は2008年まで現役を続け、メジャーで318試合に先発して123勝(12年間)をあげたが、僕はその多くの試合をテレビで見てきた。彼が投げていた時期ほどに熱中することはなくなったが、その後もずっと、MLBの試合を楽しんでいる。

・野茂は日本人投手がメジャーで通用することを証明したまさにパイオニアで、その後何人もの投手がメジャーで活躍してきた。今年は黒田と松坂が日本に戻ったが、ダルビッシュや岩隈、そして田中など、日本人投手が活躍するだろうと思っていた。しかしダルビッシュがキャンプ中に肘を手術し、岩隈も田中も故障して、日本人の先発投手は誰もいなくなってしまった。現在投げてるいるのはボストンの上原と田沢だけである。

・日本人投手に限らず、肘を故障して手術をする投手が急増しているようだ。肘の靱帯(じんたい)を断裂した投手に施す手術は通称トミージョン手術という。最初に手術をした投手にちなんで名づけられたもので、考案したのはフランク・ジョーブである。すでに1000人近い投手が手術をしていて、日本人投手でも村田兆司以降、多くの選手が手術をしている。

・故障再発の田中がどうするのかが話題になったりしていて、テレビの中継も今ひとつ盛り上がらないようだが、ぼくはかえってよく見るようになった。理由はサンフランシスコに移籍した青木の試合がよく中継されるようになったからだ。代打要員としてマイアミに移籍したイチローもレギュラーの故障で先発するようになった。去年までとは違ってナショナル・リーグの中継が多くなったから、今まで見なかったチームや選手のプレイ、そして球場は新鮮である。

・その青木とイチローがサンフランシスコのAT&Tスタジアムで対戦した。ジャイアンツとマーリンズはともにスタートダッシュに失敗したが、青木は開幕以来絶好調で、チーム一の打率と得点、そして盗塁をし、イチローも先発するようになってムードメーカーとしてチームの連勝を引っ張ってきた。だから楽しみにしていたのだが、青木はちょっと前からスランプ状態でヒットがなく、イチローも先発から外されて出番がなくなってしまった。

・いずれにしても、青木が元気ならば、これからもSFジャイアンツの試合を楽しむことが出来る。メジャーで長く活躍した野手は、イチローしかいないのだから、がんばって欲しいと思う。僕はイチローは好きではないが、一度はワールド・シリーズに出て欲しいと思う。今年は案外チャンスなのかもしれない。ジャイアンツは1年おきのチャンピオンだから、今年は一休みだろうか。彼が活躍しているうちにまた、サンフランシスコで野球が見たいものである。行きたいと思っていながら、野茂の試合を見ることができなかったから。

2015年5月4日月曜日

最近買ったCD

 

  • Bob Dylan "Shadows in the Night"
  • Van Morrison "Duets"
  • Madonna "Rebel Heart"
  • Joni Mitchell "Through Yellow Curtains"

dylan14.jpg・ディランがフランク・シナトラを歌う。ちょっと耳を疑うようなニューアルバムだが、クリスマス・ソングも歌って、それがなかなか良かったから、期待して買うことにした。シナトラの歌には詳しくないから、知っている曲は多くはなかった。しかし、ディランの歌い方はいつもと違ってメロディに合わせていたが、バックはいつものメンバーで管も弦もない。そんなサウンドはきわめて新鮮な印象だった。カバーであってカバーでない。批評には、スタンダード・ナンバーにかぶせられたパターン化したカバーを剥がす試みと書いたものもあった。手垢にまみれてお蔵入りになった歌が新しい歌として蘇ってきた。そんな感じで聴いて、心地いい気持ちになった。
van2.jpg・ヴァン・モリソンのニュー・アルバムはタイトル通り全作デュエットである。新曲はなく、しかもヒットしたものではない地味な曲ばかりを16曲集めている。デュエットの相手も有名なのはマーク・ノップラーとスティーブ・ウィンウッド、ジョージ・ベンソン、あるいはナタリー・コールぐらいだ。しかし、すべてが新たに録音されたもので、オリジナルの歌とはかなり違っている。
・たとえば、「アイリッシュ・ハートビート」は1988年にチーフタンズと出したものだが、マーク・ノップラーとのデュエットはまったく新しい歌のように聞こえてくる。懐メロを懐メロとして歌うのではなく、新しい歌として蘇らせる。そこにはディランと同じ試みが感じられた。
madonna5.jpg ・マドンナのニュー・アルバムのタイトルは「反抗心」だ。このアルバムには何種類もあり、ブックレットにはSM風の過激な写真が載っているし、グラミー賞の授賞式では尻丸出しのコスチュームで出席したようだ。もうすぐ還暦だが心も身体も若い、というよりは懸命にがんばって、若いままでいることに懸命だ。ブックレットを見ながら聴いて、改めてそんな印象を持った。老成したディランやモリソンとは違って、マドンナはあくまで突っ張り続けている。しかも、ナイーブな一面も同時にさらけ出している。ビジネスとしても大成功のようだから、やっぱりすごい人だなと思った。
joni5.jpg ・ジョニ・ミッチェルのアルバムはデビュー前に録音されたもので、2枚のCDに30曲以上が入っている。1966年から67年にかけてフィラデルフィアのライヴ・ハウス、セカンド・フレット・クラブで演奏した時のライヴを収録したもののようだ。70歳を過ぎてなぜ、20代前半のデビュー以前のライブを発表したのかよくわからない。しかし、歌の多くはデビュー後に発表されたいくつものアルバムに入っているから、早くから持ち歌をたくさん作って歌っていたことはよくわかった。 ところが彼女は、モルジェロンズ病という奇病にとりつかれて闘病中のようだ。意識不明で病院に搬送されたといったニュースもある。

2015年4月27日月曜日

奥村隆著『反コミュニケーション』弘文堂

 

okumura1.jpg・コミュニケーションを研究する専門家は、誰よりコミュニケーション力がある。そんなふうに思われていると感じることがよくある。しかし、関心を持った動機は、人と会って表面的なつきあいをすることが苦手とか、集団行動が嫌いという自覚にあって、他の人はなぜ、それができるのかといった疑問だったりした。この本の作者もその点は一緒で、「反コミュニケーション」という刺激的な題名の本を書いたきっかけについて、まず、次のように書き始めている。


・私はコミュニケーションが嫌いだ。できれば人と会いたくない。ひとりでいたい。電話もメールもしたくない。

・コミュニケーションはやればやるほどいい。良いコミュニケーションとはお互いに100%理解し合えることだ。こんな考え方が常識としてまかり通っているが、本当にそうだろうか。この本が提示する疑問と考察は、まずそこから出発する。もちろん、コミュニケーションについての研究も、多種多様にある。そこで考えたのが、主要な研究者の理論を分析することで、世界中の哲学者や社会学者、心理学者、そして文化人類学者などを訪ね、実際にコミュニケーションをしながら解き明かしていくという筋書きだった。当然、もう生きてはいない人が多く含まれている。

・筆者が訪ねたのは順に、J.J.ルソー、G.ジンメル、J.ハバーマス、鶴見俊輔、R.D.レイン、J.P.サルトル、G.ベイトソン、R.ジラール、E.ゴフマン、N.ルーマン、そしてA.ギデンズである。どの人も、僕が関心を持って追いかけてきた人で、架空の会話を、まるで一緒に参加しているように読んだ。

・パリで会ったルソーが話したのは「浸透」しあい、「透明に交通」しあうコミュニケーションで、そこには「真の社交=社会」という理想があった。しかし、次にベルリンで会ったジンメルは、「結合」だけではなく「分離」の重要性を説き、都市生活では「全体的」ではなく「部分的」な関係こそが基本で、「社交」は「結合」を装って「分離」するための距離を保つ手段なのだと言った。

・ベルリンで次に会ったハバーマスは、小さな講演会で「理性的な対話」を説き、合意のために必要な要素として「真理性」「正当性」「誠実性」をあげて、それこそが「コミュニケーション行為」なのだと力説した。しかし、たまたまそこに同席していた鶴見俊輔は、「コミュニケーション」を「ディスコミュニケーション」との関係で捉えることの重要性を指摘して、ハバーマスの「コミュニケーション行為」が一つのユートピアニズムにすぎないと批判した。

・この後、場所はロンドンに移り、レイン、サルトル、ベイトソンの鼎談に同席する。話題になったのは「アイデンティティ」の「存在論的不安定」と「にせ自己」、「遊び」と「ダブルバインド」等である。コミュニケーションは自己を不安定にし、閉じ込めもするが、また関わることの楽しさを実感させもする。その両義性を巡って議論は盛り上がった。

・筆者は次にアメリカに行き、ゴフマンに会う。話題は当然、日常的なコミュニケーションにおける「行為」と「演技」の問題だ。人間関係には必ず、表と裏がある。その二重性はコミュニケーションを「空虚」にするけれども、また「演技」には遊びの要素が含まれるし、たがいの人格を尊重しあう「儀式」という側面もある。

・ハバーマスの論敵であるルーマンとはメールでのやりとりをした。ここで交わされたのは、「合意」ではなく、「誤解」や「雑音」、そして送り手ではなく受け手への注目である。よくわかり合うことではなく、接続しあうことこそが大事というわけである。

・僕はほとんど同じ人たちを取り上げながら『コミュニケーション・スタディーズ』を編集したことがある。だから読みながら、問題意識を大きく共有していることに意を強くした。古今東西のコミュニケーション論者との架空の対話という発想もきわめて興味深いものである。「コミュニケーション力」などということばが一人歩きをして、それを脅迫的に身につけねばと思い込まされている若者が多い現状について、もっともっと批判をしなければと思わされた一冊である。

2015年4月20日月曜日

「粛々」という傲慢な態度

・「粛々」ということばは「鞭声粛々夜河を渡る」という詩吟で知られている。頼山陽作で信玄と謙信の川中島の戦いを詠ったもので、「馬を叩く鞭の音も立てず」という意味のようだ。山梨県に住んでいると、たまに聞くフレーズではあった。広辞苑には、(1)つつしむさま、(2)静かにひっそりしたさま、(3)ひきしまったさま、(4)おごそかなさま、とあり、「葬儀は粛々とおこなわれた」などと使われる。あるいは「粛」一つを使ったことばとしては「自粛」「粛正」「粛清」「静粛」「厳粛」などがある。どのことばも冷たいし、息苦しく恐ろしい。

・「粛々」は多くの政治家に多用されてきたようだ。そして安倍首相や菅官房長官はこのことばが特に好きらしい。そこからは「周囲の雑音に惑わされず、決められたことを不動の姿勢で貫く」といった意味が読み取れるが、このことばが飛び出す状況を考えると、たとえば普天間と辺野古基地については、民意などは無視して、決まったことを断行する、という姿勢であることがよくわかる。選挙結果でも、反対運動の盛り上がりからも、沖縄県民の民意が普天間基地の即時廃止と辺野古基地建設反対であることは、すでに明らかである。

・だからこそ翁長知事はそのことを伝えるために何度も上京したのに、政府は無視して会わずに、そのたびに工事を「粛々」として進めるという発言を繰り返してきた。知事が、やっと会えた席で「粛々という言葉には問答無用という姿勢が感じられる。上から目線の粛々という言葉を使えば使うほど、県民の心は離れて怒りは増幅される。絶対に建設することができないという確信を持っている」と強い批判を浴びせたのは当然の姿勢なのである。

・菅官房長官はそれに応えて「粛々」を使わないと言ったのだが、福井地裁で出た「高浜原発再稼働を禁じた仮処分」に対して、封印したはずの「粛々」をまた使って「世界で最も厳しいと言われる規制の結果、大丈夫だと判断された。(再稼働は)粛々と進めていきたい」と発言した。ほかにことばを知らないのだろうかと疑うが、しかし、この発言は法の裁きも無視して再稼働の準備を進めると言っているわけで、三権分立を無視した暴言だと言わざるを得ない。

・民意も法の裁きも無視してやりたいことをやる。「粛々」にはこんな姿勢が露骨に表現されている。これはもう「暴君」の発言と行動だと言わざるを得ない。実際、この政権がやろうとしてることは「集団的自衛権」にしても「秘密保護法」にしても「原発再稼働」にしても、世論は反対意見の方が多いし、売り物のはずの「アベノミクス」だって、収入増を実感できない人が大半なのである。そしてメディアがそれを批判すると、「公正中立」に報道しろと恫喝し、「放送法」を盾に、免許の取り消しをちらつかせる。

・訪米を控えた安倍首相が翁長知事とやっと会った。首相にすれば、会ったという事実だけが目的だったのかもしれないが、知事は、沖縄県民の意思が辺野古反対であることをオバマ大統領に伝えるよう釘を刺した。さて、安倍は何と説明するのだろうか。地元は反対だが政府は工事を「粛々」と進めると言うのだろうか。この場合は上から目線ではなく、「アメポチ」の上目遣いである。

・他方で、高浜原発の再稼働は関西電力が上告したから、その判決が出るまでは「粛々」と準備をすることはできなくなった。原子力規制委員会の基準自体が不十分であるという判決なのだから、高裁だって、逆の判決を出すのは難しいだろう。そもそも、普通に考えれば再稼働などできる状態ではないことは明らかなのである。行政の横暴を司法が断罪する。三権分立がまだ機能していることが証明された出来事で、これこそ、権力に屈せず「粛々」と裁判をおこない判決を下したと言うべきものだろう。

2015年4月13日月曜日

手摺りをつけた

 

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forest124-2.jpg・冬が終わって、やっと春らしくなってきた。富士山には「農鳥」らしきものが早々出たし、庭には片栗の花が咲いた。数えたら65で、去年は50だったから、毎年少しずつ増えている。楽しみだが庭一面になるのはいつのことか。と思ったら、今年度初出校日はまさかの雪。片栗もすっかり戸惑っている。
・パートナーがリハビリ病院から帰って、慌ただしい日が続いている。車の運転ができなかったから、病院やリハビリの送り迎えをしなければならなかったし、京都での個展もつきあった。家事は少しずつ任せるようにしているし、車の運転も練習しはじめている。大学が始まったので、リハビリ通いも食事の支度も自分でやってもらわなければならなくなった。

forest124-3.jpg ・退院前にもやっておくべきことがいろいろあった。リハビリ病院の療法士に階段と風呂場に手摺りをつけた方がいいとアドバイスされた。玄関とバルコニーの階段は傷んで僕が作り直したものだから、そこにつける手摺りも自分で工夫しなければならなかった。おおよその形をイメージして、ホームセンターで材木と留め金やボルトを購入した。ついでにバルコニーの柵も新しくしたから、結構な時間がかかった。
・屋内の階段と風呂場の手摺りはアマゾンで見つけたものをつけた。ネジで取りつけるだけの簡単なものだったが、丸太にキリで穴開けしてからでないとネジが入らなかったから、相当の力仕事だった。
・ついでにウォシュレットやドアフォンも新しくした。これもアマゾンで買って自分でやった。ドアフォンは電話と連動だからメーカーに電話をして適合機種と設置の仕方を問い合わせた。ウォシュレットは新しいパイプでは水漏れしたから、設置した後に古いものにつけなおした。面倒だったがネットを駆使すれば、おおかたのことは自分でできる。そんなことを改めて実感した。

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・もちろん、例年通りの仕事もあった。今年は雪が少なかったから薪割りも順調にこなして、ほぼ終了というところまできた。これで来冬の暖房の備えもできたが、家の中をもっと暖かくするために床の断熱を補強しようと思っている。これは自分ではできないので業者に頼むつもりだ。歳を取ってきたから住みやすくする工夫をもっともっと考えなければならない。大変だけどおもしろい。そんな気持ちのうちは、まだまだここに住める。何より、これからの季節がすばらしいのだから。

2015年4月6日月曜日

メディアの自由度

 


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・国境なき記者団が毎年発表している「世界報道ランキング」では、日本は61位となっている。最近のメディアの状況を見れば、さもありなんという印象だが、2011年は11位だったし、09年は29位、10年は17位、12年は22位だった。つまりランキングが高かったのは、失われた3年などと言われている民主党政権の時期で、自民党が政権を奪回した時からランキングが急降下していることがわかる。ちなみに14年は59位、13年は53位で、民主党政権前の08年は37位、09年は51位である。

・理由ははっきりしている。安倍政権がやってきたことは「特定秘密保護法」の成立であり、戦争をするための「集団的自衛権」、原発の再稼働とそれを批判する声の封殺など枚挙にいとまがないからだ。このコラムでも書いたが、NHKは安倍専用の広報機関(AHK)に成り下がったし、ほかのテレビはもちろん、新聞も自粛や萎縮でびくびくしている。

・僕は山梨県に住んでいてテレビ朝日は受信できないから、「報道ステーション」での古賀茂明の発言はYoutubeで聞いた。官邸からの圧力を明言したもので、これに対して菅官房長官は事実無根としながら「放送法に抵触」と放送免許の更新に影響するかのような発言をした。しかし、民間放送が政府の認可によること自体がメディアや報道の自由度にとって大問題で、それを前提にした報道の中立公正などありえないのである。彼や安倍にとって中立とは、自分の気に入らない放送をしないことなのだろう。

・こんなメディアの状況についてほとんど無自覚なのは、鳩山元首相がロシアとクリミア半島に出かけたことに対する強烈なバッシングだった。「宇宙人」「馬鹿」「国益を損ねる行為」とネットをふくめてメディアの大合唱だったが、今ロシアやクリミアに出かけることが無謀だというのは現政権にとってであり、それを支え先導する外務省の意向であり、ひいてはアメリカの思惑を前提にしたものにすぎないなのである。

・そもそも鳩山元首相は沖縄の普天間基地をできれば国外、最低でも県外へ移設と主張して、沖縄の人たちの目を開かせるきっかけを作った人である。外務省や防衛省の役人にハシゴを外されて、恥をかかされるような結果に終わって、その時にも「宇宙人」とか「馬鹿」と罵倒されたが、今度のロシア訪問は、そんな役人に対するしっぺ返しといった思いがあったのかもしれない。

・思い返せば鳩山だけでなく、菅元首相に対するバッシングもひどかった。扇動したのは読売や産経だったが、安倍と比べたときに、ひどいどころか、ずいぶんまともな政治をやろうとしたことがよくわかる。そして、そんなことを指摘して政権批判をするメディアはほとんどない。もっとも民主党自体が、政権を取った時期をふり返って、良かったこと悪かったことを洗い出す作業をしないから、ダメな政党だというレッテルは当分は剥がせそうもない。

・報道の自由度が国外から見てこれほど落ちているという指摘についても、ほとんど無視されている。一方で日本人ほどメディアを信用する人が多いのは先進国の中では特殊だから、自粛と萎縮が蔓延するメディアの状況などには無自覚で無関心なのかもしれない。