2016年10月17日月曜日

ディランとノーベル賞

 ・ボブ・ディランがノーベル文学賞を取った。村上春樹同様、何年も前から候補者に上がっていたから、それほど驚きもしなかった。そもそも、ノーベル賞自体に対して、「物理」や「化学」、そして「生理学・医学」は別にして、「文学」はもちろん、「平和」や「経済」については、いろいろ疑問があった。たとえば「平和賞」は佐藤栄作がとった時から信用しなくなったし、「経済学」があってなぜ、「哲学」や「政治学」、あるいは「社会学」がないのか、「文学」があってなぜ、「美術」や「音楽」がないのかといった疑問もあった。何より、取った、取らないで大騒ぎのメディアには,もう何年も前からうんざりしてきた。

・ノーベル賞はノーベルがダイナマイトなどで得た財産の使い道を遺言に残して生まれたものである。「人文科学」や「芸術」の分野が「文学」一つというのは、ノーベルの意思であるし、20世紀初頭の状況を表していたのかもしれない。その意味ではきわめて限定された個人的な賞に過ぎないと言える。しかしそれは今、科学(自然・社会・人文)の領域で最高の栄誉であるかのように扱われている。

・ディランの「文学賞」はそのちぐはぐさを如実に示したように思われる。その是正を意図して、「文学賞」が「文学」を超えて「思想」や「哲学」、あるいは「政治」や「社会」に広げはじめた結果だと言えるかもしれない。そう言えば,昨年の受賞者はチェルノブイリ原発事故を取り上げたジャーナリストだった。同様の傾向は「自然科学」の分野にも現れているという。平和賞などはとっくに迷走状態だが、であれば、「経済学賞」の狭さばかりが目立つということになる。いっそ「社会科学賞」に変えたらどうかと思う。

・ところでディランだが、ディランの作品に「文学性」はあるのかといった批判があるようだ。そう考える人にとって「文学」は活字になって本として発表されたものに限られているのかもしれない。しかし、「文字の文化」の前には「声の文化」があって、「文学性」は声(口承)から文字へという形で「文学」に凝縮されたという歴史がある。ところが20世紀になってレコードやラジオ、そしてテレビといった新しいメディアが相次いで登場して、「声の文化」が再生したのである。現在では「文字の文化」が隅に追いやられつつある。良し悪しは別にして、そういう流れは否定できないことなのである。

・ディランはフォーク・シンガーとしてスタートした。その先人はウディ・ガスリーでアメリカ中を放浪し、大恐慌の際に労働者や農民、あるいは浮浪者の中に入って、蒐集したり作った歌を歌って人々を慰め、鼓舞をした。その手法がピート・シーガーなどに受け継がれ、1960年代に新しいフォーク・ソングとして開花した。その先端にいたディランはやがてギターをエレキに変え、ロックというジャンルが生まれるきっかけを作った。そのうえで、労働者の音楽と差別されたフォーク・ソングやガキの音楽と馬鹿にされたロックが「文学性」「や「音楽性」、「政治」や「思想」、「哲学」を表現できるものであることが認知されたという経緯があった。ディランがその過程の中心に位置づけられた存在だったことは間違いない。

・ディランはこれまでに「芸術文化勲章」(仏1990年)「ピューリッツァー賞」(米2008年)や「大統領自由勲章」(米2012年)、「レジオンドヌール勲章」(仏2013年)を受賞している。グラミー賞は10回を超え、アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞の受賞歴もある。「ノーベル賞」を取って,取れるものは全て取ったという感じだが、本人はいつでも冷めている。おそらくノーベル賞も、サルトルのように辞退することはないだろう。「辞退」や「拒絶」はまたそれなりに強い意思表示だが、自分のあずかり知らないところで決まったことには謝意もしないし無視もしない。おそらくそんな態度だろうと思う。

・僕は高校生の時以来もう50年もディランを聴き続けている。彼は75歳になってなお精力的なコンサート活動をしていて、僕も4月に彼のライブに出かけた。ほとんど何も喋らないパフォーマンスで、昔懐かしい曲はほとんどやらなかった。ちょっとがっかりといった気持ちがなかったわけではないが、今のディランの姿には十分に満足をした。彼は今でも数年おきにアルバムを出していて、その都度、意外性に驚かされてきた。そこには何より、昔の俺など追い求めるなといったメッセージが込められてきたと言えるからだった。

・僕の人生はディランに出会わなければ今とは違っていただろうと確信できる。「文字の文化」を職業にし、始末に困るほどの書籍に囲まれているが、それほどの影響力を「文学」や「哲学」「思想」、そして「社会学」や「政治学」から受けた人はいない。そんな人であるだけに、僕にとってはボブ・ディランはアカデミーの「文学賞」に価するかどうかなどという判断をはるかに超えた存在なのである。

・もっとも今の彼は20世紀のポピュラー音楽を丁寧にふり返って、衛星ラジオで多くの曲を紹介したり、スタンダード・ナンバーを自ら歌い直したり、新曲を集めたアルバムに古いサウンドを取り入れたりしている。そこには何より、商業化されすぎてどうしようもない状況にある音楽や歌の現状に対する批判や抵抗の姿勢が強くある。それを一人のミュージシャンとして今でもステージで訴え続けている。こんなメッセージをどれだけの人が本気で受け止めているのか。少なくとも今の日本では、きわめて少数に過ぎない。だからオリンピックの金メダルのような調子の大騒ぎには,とてもついて行けない。

2016年10月10日月曜日

オリンピック批判の本

 

アンドリュー・ジンバリスト『オリンピック経済幻想論』ブックマン社

小笠原博毅・山本敦久編著『反東京オリンピック宣言』航思社
小川勝『東京オリンピック』集英社新書

olympic2.jpg・リオ五輪が終わって,次はいよいよ東京だという世論誘導が目立ちはじめている。けれどもまた、五輪にまつわる醜聞や不始末が続いている。『反東京オリンピック宣言』はスポーツやメディアをはじめ、都市や社会政策、科学技術、あるいは文芸批評を専門にする人たち16名の、オリンピック反対の声明文を集めたものである。ここには住処を追われたホームレスとして発言する人の文章もある。

・それぞれが注目する点は、タイトルやサブタイトルを列挙しただけでも多様だ。「スポーツはもはやオリンピックを必要としない」「災害資本主義の只中での忘却への圧力」「貧富の戦争が始まる」「メガ・イヴェントはメディアの祝福をうけながら空転する」「『リップ・サービス』としてのナショナリズム」等々。短文の寄せ集めだから読みごたえがあるとは言えないが、書かれている主張には僕も賛同する。

・3.11の復興が進んでいないし,福島原発は「アンダー・コントロール」どころか混迷状態だ。主会場を初めとした競技施設にまつわる不手際や醜聞にはうんざりしているし、安倍マリオには反吐が出る思いだった。最近のオリンピックにはどこでも、かなり強い反対運動が伴っていたから、本書やここに書かれている主張が多くの賛同者を得て,反対運動に盛り上がればいいのにと思う。しかしマス・メディアは例によって、そんな意見をほとんど取り上げない。何しろ読者や視聴者を増やす絶好の機会なのだから。

olympic3.jpg・『オリンピック経済幻想論』には「2020年東京五輪で日本が失うもの」という副題がついている。しかし内容は主に、商業主義に変わったロス五輪以降の各大会についての経済的な結果についての分析である。ロス五輪は、主催都市や支援する国家に多額の借金を残したモントリオールの失敗を是正するために、商業主義を前面に出して準備し開催した最初の大会だった。そこから、開催地として立候補する都市が増え、種目の増加や開・閉会式の派手さが目立つようになった。あるいは都市の再開発や、グローバル化に乗った観光都市を目指す目的が強まり、また国家が前面に出て,国威発揚といった特徴も強くなった。

・しかし、本書が指摘しているように、オリンピックを開催して残ったのは、「経済効果」ではなく、やっぱり借金であったり経済不況であったのである。唯一の例外として取り上げられているバルセロナは、開催後に世界的な観光都市として発展した。ただし、著者はそうなる資源が眠っていた例外的なケースに過ぎないという。同様に資源としては十分にあったアテネは国家の財政が破綻する状況に追い込まれたし、リオは開催前から経済成長が頓挫し、国政問題が噴出した。北京とソチは国威発揚を目的に巨額な費用を使ったが、それに伴う効果がもたらされたわけではなかった。ロンドンは市東部の再開発を目的にして、それなりの成功がもたらされたと言われている。しかし、かかった費用は当初の予算を大幅に超えたし、再開発によって貧民層が追い出されるという結果が起きている。

olympic1.jpg・『東京オリンピック』が問うのは,そもそも「オリンピック憲章」に書かれていることと、大会の現状があまりに乖離しすぎている点にある。オリンピックは都市が開催するものであって,国家が表に出るものではない。だからメダルを国単位で争う最近の風潮は憲章から逸脱しているし、そもそも、栄誉は参加し,勝利した個人に与えられるべきものであって、国の代表としてではない。憲章に従えば、表彰式で国旗を掲げ国歌を演奏することもすべきでないし、オリンピックに経済効果など求めてはいけないのである。

・このように原点に立ち返ってオリンピックの現状を見れば,その矛盾点の多さや大きさは明らかである。しかももたらされると期待されてきた経済効果が幻想に過ぎなかったこともはっきりしてしまっている。東京オリンピックは沈滞している経済の活性化や東京の再開発を目的にして実施されようとしている。しかし、そのプロセスはここまでお粗末なものだし、経済も活性化どころか大不況を招くとさえ予測されている。その点は2年後の平昌(韓国)でも同様のようだ。

・オリンピックは今、明らかに大きな曲がり角に来ている。一度は開催地に立候補をしても,反対にあって辞退する都市が続出しているし、テロに伴う警護費用の拡大や、安全性に対する不安などで,開催地が見つからない状況が現実化している。実際、2022年の冬季五輪では立候補した都市が次々辞退をして、わずか2都市が残り、北京に決定したといういきさつがある。僕は今からでも遅くないから、東京オリンピックは辞退すべきだと思う。オリンピックのあり方は今、根本から見直す必要がある。この3冊を読んで,そんな気持ちをさらに強くした。

2016年10月3日月曜日

雨、雨、雨

 

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・今年は空梅雨で河口湖の水量が減ったと話題になっていたのに,8月になると雨が降る日が多くなった。台風も連続してきて、過ぎた後も一過とはならずに秋雨前線が停滞した。家の中はかび臭いし、薪にはカビやキノコができてしまっている。バルコニーの椅子もすっかり腐ってしまった。こんな天気が10月になっても続いている。お陰で自転車に乗る日も飛び飛びで,遠出も一度もできなかった。

・パートナーのリハビリにと毎週プチ山歩きをしてきたが、せっかくの夏休みなのに8月は裏山の黒岳,9月も篭坂峠を歩いただけだった。リハビリの帰りに一人で登っていた羽根子山にもあまり行けない日が続いたようだ。8月の末に義兄の別荘がある那須に出かけたが,天気はやっぱり雨で、せっかくだからと「平成の森」を歩いた。歩くのも自転車に乗るのも、精一杯とはとても言えない,不満足な夏だった。

・他には隔週で両親が住む老人ホームと孫の顔を見に都内に出かけた程度だった。孫は寝返りを打つようになり,お座りやハイハイするようになった。人見知りをして、近づくとじっと見つめて泣かれてしまうようになって,気軽にだっことはいかなくなった。会うたびに成長している様子には,改めてびっくりしてしまう。

・他方で、母親の物忘れがひどくなっていることや,父親がことばを話せなくなってきていることなど、衰えもまた確実に進んでいることも実感した。父は一週間ほど入院して,また老人ホームに戻ってきたが,食事をほとんどしていないようで、ちょっと心配な日が続いてる。先日はたまたま帰りの車で運転しながら食べようと買ったホットドッグを食べたがった。ホームの食事よりはそんなものを食べたがるのなら,何でも食べたいものを調達したらいいのだが、毎日行くわけにはいかない。

forest136-3.jpg・今年は訪ねてきたのも甥一家の一組だけだった。ただしもうすぐ3歳になるY君は活発で、一緒に遊んですっかりくたびれてしまった。電車や自動車が好きで、おもちゃをいっぱい持ってきたし,我が家にある積み木やスバルのチョロQ、それに沖縄ですっかり気に入った歌をまねて、ギタレレをもって熱演をした。普段は二人だけの静かな暮らしの中に、超弩級の嵐が吹き荒れた数日だった。

・大学の仕事が始まって,いよいよあと半年ということになった。最後でもやっぱり、新学期が近づくと登校拒否症状が現れた。ゼミの4年生は夏休みが終わっても卒論の途中経過を持ってこないし,3年生が書いてきた夏休みの宿題も、一生懸命やったのものはほとんどない。天気の悪いのと蒸し暑いのが重なって、いらいらが募ってしまう。

・『レジャー・スタディーズ』(世界思想社)のメンバーを中心に企画した「特別講義」が始まった、トップバッターは薗田碩哉さん。板書を交えた話に200名弱の学生が熱心に耳を傾けた。「はじめに暇ありき」をことばの語源から解き明かしたお話は,学生にとって目から鱗の話だったようだ。

forest136-2.jpg・冬に向けて風呂場の洗い場を床暖にする工事をした。タイルの上から床暖のパイプを張り、モルタルで埋めて、御影石を貼りつけた。大工さんをはじめ、床暖、水道、タイル、そしてコーキングと,それぞれ専門の人が代わる代わる来て,手際よく1週間ほどで仕上げてくれた。仕事から帰ると毎日現場が変わっていて,見るのが楽しみだった。ただし、その間は風呂は使用不能で、ゆっくり身体を温めることができなかった。寒くなってもひんやりすることもなく、服を脱いで風呂に入ることができる。もちろん、パートナーの身体を考えての修復工事だが、僕ももう若くはない。

2016年9月26日月曜日

●最近買ったCD

 

Damien Rice "Live From The Union Chapel"

Lisa Hannigan "At Swim"
Van Morrison "It's Too Late To Stop Now"
Radio Head "A Moon Shaped Pool"'
Neil Young "Earth"

rice4.jpg・前回取り上げたダミアン・ライスの3枚のアルバムが気に入って,しょっちゅうかけている。YouTubeで見られるライブの様子も良かったので、CDのライブ盤を買った。"Live From The Union Chapel" 。場所はロンドンの教会で、たくさんの人が入れるわけではない。しかし、ここでのライブ盤を出しているミュージシャンは少なくない。もちろん、教会だからロックなどの大音響ではなく、アコースティック・ギターをメインにしたものだ。
・このライブ盤ではもちろん、ストリングスなどのバックはない。ライスの弾くギターが中心で、リサ・ハニガンとのデュエットが目立つ程度である。しかし、アルバムよりもずっといいと思った。

lisa3.jpg・そのリサ・ハニガンが新しいアルバムを出した。" At Swim" アイルランドの歌姫とか女神などと言われて、今一番注目されている女性シンガーの一人になったようだ。日本でもテレビのCMにも使われるようになって、人気が出始めているのかもしれない。とは言えもう35歳。実力が認められてはじめて人気が出る。ヨーロッパの音楽状況は今でも健全だな,と改めて思った。
・で、この新作だが、前の2枚よりももっといい。「秋」や「雪」などの季節感、海や森などの自然を歌ったもの、あるいは「死にゆく者への祈り」などが静かに歌われている。

morrison5.jpg ・前記二人と同じアイルランド出身の大御所、ヴァン・モリソンが1974年に発表したライブアルバム "It's Too Late To Stop Now"は、持っていないという理由で買った。2枚組みで一箇所ではなく複数のライブから編集されたものだ。このCDは2008年にリマスター盤として売り出されている。一番精力的に活躍していた時期のライブだから、懐かしいというよりは元気はつらつさが心地いい。
・実はもうすぐ新しいアルバムが出る。”Keep me singin'"というタイトルで、70歳を超えても健在だ。一昨年出したアルバムのタイトルは「歌うために生まれた」だった。死ぬまで歌うという宣言にも聞こえてくる。

radiohead1.jpg ・ラジオ・ヘッドのアルバムは5年ぶりになる。"A Moon Shaped Pool"'。初期のアルバムに比べて今ひとつという作品が続いたが,本当に久しぶりにいいな、と思った。タイトルは「月の形の水たまり」でジャケットもそう言われればそれらしく見える。しかし、内容的にはタイトルに関連するものはない。ただし、繰り返し聴いても飽きないが、また,印象に残る曲もほとんどない。車を運転しながら聴くのにちょうどいい。朝ではなく仕事帰りの夕方や夜で、「あー疲れた」などと思うときに聴きたくなる。

young7.jpg ・最後はニール・ヤング。反モンサントのアルバムが出たばかりだが、この"Earth"はライブ盤で、主に2015年のライブから選んだようだ。バックは前作の"The Monsant Years"同様、「プロミス・オブ・ザ・リアル」で、若者たちに負けずにがんばっている。ただし2枚組みで、ライブ音に被せて,カエルや鳥の声、蜂の羽音、犬の遠吠え、鯨の鳴き声、そして風の音などが入っている。タイトルは"Earth"。その名の通り、地球環境をテーマにして,全体が一つの作品になっている。彼もまた70歳を超えているが、メッセージを前面に出したアルバム作りで、その健在ぶりを示している。

2016年9月19日月曜日

さよならdocomo

・iPhoneを使い始めて2年が過ぎました。縛りが解けたところで、長年契約していたdocomoをやめてOCNに移行することにしました。理由は電話もあまり使わないし、ネットはほとんどWiFiで、パソコンやタブレットが主だったのに、そういうコースがなくて、毎月6000円ほども払わされていたからです。OCNのコースなら、おそらく毎月2000円程度で済むはずで、縛りが解けるのをずっと待っていました。

・で、例によって腹の立つことがいくつも起こりました。まず2年縛りですが、iPhoneを買って2年でしたが、そもそもdocomoとの契約が4月に自動更新されていて、そちらの解約料を1万円近く請求されました。その他移行の手数料や何やかやで2万円近く必要だと言うことで、「ぼったくりだね、汚いことするな−」と対応した人に毒づいてしまいました。

・OCNにするとスマホを使ってパソコンをインターネットに繋ぐテザリングができなくなります。SIMロックがかかっているせいで、その解除を最寄りのdocomoに出向いてお願いすると、できるのはiPhoneの6以降で5sはダメだと言われました。もちろん機種そのものが原因ではありません。総務省の指導でSIMロックの解除が行われるようになった時点で発売されていたものはokだが、それ以前に売られたものは解除する義務はないというのがdocomoの方針だったのです。これもえげつないほどひどい話です。

・スマホに設定された料金は、とにかくスマホを十二分に活用する人をモデルにしています。学生を見ていると、あの小さな画面でネット検索やメール、それにゲームなど、あらゆることをやっていて、その分、パソコンを使わなくなっている気がします。そんな使い方なら、毎月6000円でも高くないのかもしれません。しかし、使い方はもっと多様で、それにあわせたコース設定が必要なはずで、格安スマホを売りにするところがたくさん出ているのもうなずけます。

・僕のスマホ歴はブラックベリーからで、これを5年使い、途中で機種を買い換えました。docomoにとってはあまり売る気のない機種で、しかも故障が多くて幾度か修理に出しました。しかし、小さくてもキイボーを使ってメールが打てるので、ずいぶん重宝しました。その2機種目のブラックベリーがまた故障した時にdocomoがiPhoneを扱いはじめたので、機種変更をしたのですが、仮想のキイボードがやりにくくて、メールを出すことはほとんどしなくなりました。ところが、毎月の料金は本体の分割も含めて3倍にも跳ね上がったのです。

・ちょうどこんな手続きをしているときに、アップルが新しいiPhone7を発表しました。手持ちの機種と交換すると格安で手に入れることができると、各社が宣伝しています。スマホは高額な商品ですが、それを格安で提供して使い捨てを勧めているのです。僕はずっとマッキントッシュだけを25年以上も使い続けていてアップル信奉者と言える時期もあったのですが、アメリカ資本主義の権化と化した最近の体質にはうんざりしています。

・すでにこのコラムで書いたように、僕は今使っているiPhoneの電池交換を自分でやりました。わずか1000円ほどの電池なのに、アップルに頼むと1万円もして、しかもdocomoでは対応せずに、自分でアップルに手続きする必要があったからです。ものすごくやりにくくて、カメラが一部使えなくなりましたが、買い換える気など少しも起こりませんでした。これが壊れたら、電話とメールだけに使える格安の機種を探そうと思っています。さよならdocomoですが、OCNもNTTなので、気持ちはちょっと複雑です。アップルにうんざりとは言っても今さらウィンドーズに変える気にもなりません。

2016年9月12日月曜日

久しぶりの映画館

・地元に映画館がなくなって、もう10年ぐらいになる。だから、映画館で映画を見ることもほとんどなくなってしまった。最近ではアマゾンで見たいときに見たいものが見られるから、わざわざ遠くの映画館まで出かける気にもならなくなった。ここにはもちろん、新作とは言ってもどうしても見たいと思うような作品がないという理由もある。とは言え、アマゾンで探すと、気づきもしなかった作品が結構あって、時折、映画鑑賞の時間を楽しんでいる。

・そんなことをしながら気づいたのは、邦画がずいぶんたくさん作られているということだった。もちろん、映画収入で邦画が洋画を抜いてからずいぶん経つことは知っていた。あるいはジブリなどのアニメが国内だけでなく、海外でもよく見られていることもわかっていた。しかし、映画館のある街をぶらついて、上映中の映画について関心を向けることもなかったから、ほとんど興味も持たなかった。

・ところが、ツイッターやフェイスブックでいろいろな人たちが『シンゴジラ』について、絶賛に近い感想を寄せていて、ちょっと興味が湧いてきた。『ゴジラ』映画について、これまでほとんど興味がなかったが、それなら見に行ってみようかという気になった。一番近い映画館は甲府のイオンモールにある。今まで一度も行ったことがないから、ショッピングモールの見物とあわせて出かけて見ようということになった。映画館にはシニア割引があって、1800円が1100円になる。そんなこともまた、新たな発見だった。

・で、肝心の『シンゴジラ』だが、評判ほどの映画だとは思わなかった。この映画はゴジラが主役ではなくて、それに対応する政府の動きやアメリカとの関係でストーリーが作られている。ゴジラは単に東京を壊滅させるだけでなく、やがて世界中を崩壊させる脅威を持っている。だから核攻撃をしてでも退治しなければならない。こんなアメリカと国連の決定に、将来を嘱望されている若い政治家が中心になって、冷凍させる作戦に打って出る。東京が広島、長崎に続く被爆地になることを避けるための必死の行動がクライマックスになる。

・しかし、映画を見ていて気になることがいくつもあった。なぜ、ゴジラが東京湾に出没したのか。謎の研究者がゴジラの卵を東京湾に落としたのかもしれないが、そのことは暗示的で、詳しくは語られていない。また、幼いゴジラはガラス玉のような目で、いかにも作り物でしかないし、変態を繰り返して成長するのだが、大きくなったゴジラもまた、生物と言うよりは作られたものにしか見えないものだった。そもそもゴジラがなぜ、火を吹いたり背中からレーザー光線を出したりするのだろうか。そんなことを思いながら見ていたから、映画に没入することは全然できなかった。

・この種の映画には、そんなけちをつけてもしょうがないのかもしれない。しかし、一方でゴジラに立ち向かう政府や自衛隊の描き方は、きわめてリアルなものだった。おそらく東日本大震災のときの動きはこんなものだったのだろうと思わせるようなシーンがいくつもあった。この荒唐無稽さとリアルさが奇妙に混在した映画を楽しむためには、怪獣映画やアニメのファンであることが前提になるな、と思ったのが見終わっての感想だった。

・とは言え一つだけ納得できるセリフとシーンがあった。東京の中心部が破壊され、政府の首脳の多くが死んだ状況から、もう一度リセットして日本を復興させることを主人公が決意するところだ。確かに日本の現状はリセットでもしなければ、身動きが取れないような状況にある。古い考えや目先の利害に囚われた政治家や企業家ばかりが幅をきかせている。未来を見据えた国作りを目指す発想は、まったく影を潜めている。

・3.11でもダメだったのだから、ゴジラにというのがこの映画のメッセージだったのかもしれない。しかし、それはまたゴジラに頼まなくても、首都直下地震がいつ起きてもおかしくないと言われていることからすれば、荒唐無稽な話ではないとも思った。であれば、ビルが崩壊したり、鉄道や道路が寸断されたりして、多くの人々が逃げ惑う姿は他人事ではないだろう。3.11の経験を思い起こしたり、明日の我が身を想像しながら見た人がどのくらいいたのだろうか。実際僕は、東京に出かけるときにはよく、地震があったらと、思うことがよくあるのである。

2016年9月5日月曜日

文化としての食

  飽食と飢餓

・コミュニケーション学部では「現代文化論」を担当しています。「現代文化」というと学生たちは音楽やスポーツ、あるいはマンガやゲームのことを思い浮かべるようですが、僕が授業で主に話すのは「衣食住」と「ライフスタイル」に関連したことです。「文化」は「カルチャー」の訳語で、その語源には「耕す」という意味があります。つまり「文化」とは、基本的には「食べる」ことを含めて、人間が生存のためにしてきた独自の工夫の集積を表すことばなのです。で、「食」も数回にわたって話すことにしてきました。

・今は飽食の時代です。飢える経験をした人は日本ではほとんどいませんが、逆に食べ残したり、賞味期限切れだと言って捨ててしまったことは誰にでもあるでしょう。日本の食糧自給率は半分以下で、毎年5500万トンの食料を輸入していますが、また年間1800万トンを廃棄しています。金額にすると11兆円で、その処理にまた2兆円を使っています。他方で世界には飢餓のために死亡する人が年間1500万人もいて、その7割以上が子どもだと報告されています。これは私たち日本人が「食」を考える上で、避けることのできない問題だと言えるでしょう。アフリカから始まった「MOTTAINAI」キャンペーンは世界共通語を目指していますが、肝心の日本では「もったいない」はすでに「死語」と化しているのが現状です。

 食と人口の爆発
・ところで、現在の世界人口は70億人を超えましたが、その増え方はどんなものなのでしょうか。たとえばコロンブスがアメリカ大陸にたどり着いた頃の人口は3億人程度で、その半分以上はアジアに住んでいて、4分の一がアメリカ大陸、5分の一がヨーロッパだったようです。それが3世紀後の1800年には10億人に増え、1900年には20億に達し、2000年には60億人を超えました。このまま増えていくと2050年には90億人を超え、今世紀の終わりには100億人に達すると予測されています。

・この500年で人口が24倍に増えたのは食料生産技術の進歩によりますが、それ以上に大きいのは、食料にする植物や動物が、もともと生存していた地域を越えて「食料」として世界中に広まったことによります。チャールズ・C.マンの『1493』(紀伊國屋書店)は、それを「コロンブス交換」と呼び、アメリカ大陸からヨーロッパやアジアにもたらされたり、逆にヨーロッパやアジアから世界中に拡散した動植物を詳細に分析しています。

 食のコロンブス交換
・たとえば南米からジャガイモ、中米からはトウモロコシがヨーロッパにもたらされ、サツマイモが中国に伝わって、そこからさらに各地にひろがりました。これらは主に貧民層の食料として必需品になっていき、飢餓を減らし、人口を増やす原因になりました。またサトウキビはアジア原産ですが、適した土地がアメリカ大陸で探され、ブラジルやキューバに大規模なプランテーションが作られました。このように原産地から離れて新たな生産地が求められたものにコーヒー、カカオ(チョコレート)、バナナ、椰子などがあります。

・あるいは牛や馬、豚、羊、山羊などが家畜としてアメリカ大陸に持ち込まれてもいます。アメリカ映画を代表した西部劇には大量の牛を移送する馬に乗ったカウボーイが出てきますが、馬も牛も移民が持ち込んだものでした。あるいはイタリア料理には欠かせないトマトは南米原産ですし、キムチや焼き肉に使うトウガラシも同様です。今ではすっかり嫌われものになっているタバコも、この交換によって世界中にひろまったもので、ここには煙を吸うこと自体が、特にインテリや芸術家、あるいは文学者等が好んだ新しい嗜好の仕方だったという特徴もありました。

 食文化とグローバル化
・今日本では居ながらにして世界中の食べ物が食べられます。あるいは寿司や天ぷらといった日本食が、世界各地でブームになっていると言われています。まさに食のグローバル化ですが、しかし、世界各地の固有の料理も、その食材を吟味してみれば、上記したように、「コロンブス交換」以後に普及したものが少なくないのです。と言うことは、どんなものも人類の歴史の中ではほんのわずかに過ぎない数百年程度のものだということになります。

・あるいは和食を代表すると言われている天ぷらは室町時代にポルトガル人が持ち込んだ料理法だと言われています。庶民の大衆料理になるのは江戸時代で、その理由は江戸が侍にしても町人にしても圧倒的に男が多い偏った人口構成だったことにありました。手軽に食事を済ます「屋台」が普及したのですが、寿司も蕎麦も天ぷらもここから広まったのだと言われています。

・私たちが今日常的に食べている洋食や中華料理は明治以降に入ってきたものです。しかしカレーライスはインドのものとは大違いですし、スパゲッティ・ナポリタンはイタリアのナポリに行ってもありません。同様に中華丼や天津飯も中国では注文できないメニューです。これらはあくまで、日本人の好みにあわせて作り上げられた和洋折衷の日本食と言えるものなのです。

 食から文化全般へ
・海外旅行を何度か経験して、あちこちでその地の食べ物を口にしてきました。カレーやパスタ、あるいはパンやチーズなど、日頃食べているものとの違いを実感しましたが、けれどもまた、外から入ってきた食文化を、日本人ほどうまく日本文化に取り入れた国民はないとも思いました。そしてこのような特徴は「食」に限らないことだということにも気づきました。外から入ってきたものを自国に合うように手を加えることこそ、日本文化の大きな特徴で、そのことはすでに多くの人によって指摘されています。

・たとえば小さく、しかも高性能にするという特技は、第二次大戦後の経済成長を牽引した家電製品や自動車に見られた特徴でした。しかしまた、この特技が携帯に代表される「ガラパゴス化」の原因だとも言われています。漢字を輸入してひらがなやカタカナを作り出した日本人はまた、明治以降に流入した外来語をカタカナで表記して、独特の使い方をするようになりました。もちろんそれは有効に機能した側面を持ちますが、カタカナ語はまたもともとのことばとは似て非なるものになって、日本人以外には通用しないものにもなっているのです。日本人にとってグローバル化が必要だとすれば、そのことの自覚からはじめる必要があるかもしれません。

 マルサスの罠を乗り越えるために
・ところで、最初に述べた飽食と飢餓にもどって、今回の話を終わりにしたいと思います。「コロンブス交換」が人間の数を飛躍的に増大させたと言いましたが、イギリスの経済学者として有名なマルサスは、たとえ食料の供給量が増えたとしても、結局は人口増加が食料の供給量を追い越して、貧困や飢餓がもたらされるだけだと言いました。この「マルサスの罠」は、70億人を超え、やがて100億にもなろうかという人間をまかなう食料生産は不可能だという議論と共に、最近よく見かけることばになりました。

・日本は人口の減少を問題にしていますが、これから急増するのはアフリカだと言われています。貧しい国が豊かになろうとするのは当然ですから、増加を抑制するのは難しいでしょう。だからこその「MOTTAINAI」キャンペーンで、捨てる無駄をどうやってなくすかといったことや、食糧にするもの自体の新たな発見や改良が、そう遠くない未来に差し迫った課題になると言われています。ここにはもちろん、農薬や遺伝子操作などがもたらす問題も含まれます。あるいは「新自由主義」的な政治や経済がもたらしつつある先進国における格差の問題を、世界大のレベルでどう克服していくのかといった難問もあるでしょう。

・地球に住む人間がすべて、衣食の足りた生活を送れるようになるといった理想が現実化できるのかどうか。やがて人口増が抑えられて「マルサスの罠」が取り越し苦労に終わる世界になるのかどうか。21世紀が抱える最大の課題であることは間違いないでしょう。

 <東京経済大学コミュニケーション学部ブログ「トケコミ」から再録>