2016年10月17日月曜日

ディランとノーベル賞

 ・ボブ・ディランがノーベル文学賞を取った。村上春樹同様、何年も前から候補者に上がっていたから、それほど驚きもしなかった。そもそも、ノーベル賞自体に対して、「物理」や「化学」、そして「生理学・医学」は別にして、「文学」はもちろん、「平和」や「経済」については、いろいろ疑問があった。たとえば「平和賞」は佐藤栄作がとった時から信用しなくなったし、「経済学」があってなぜ、「哲学」や「政治学」、あるいは「社会学」がないのか、「文学」があってなぜ、「美術」や「音楽」がないのかといった疑問もあった。何より、取った、取らないで大騒ぎのメディアには,もう何年も前からうんざりしてきた。

・ノーベル賞はノーベルがダイナマイトなどで得た財産の使い道を遺言に残して生まれたものである。「人文科学」や「芸術」の分野が「文学」一つというのは、ノーベルの意思であるし、20世紀初頭の状況を表していたのかもしれない。その意味ではきわめて限定された個人的な賞に過ぎないと言える。しかしそれは今、科学(自然・社会・人文)の領域で最高の栄誉であるかのように扱われている。

・ディランの「文学賞」はそのちぐはぐさを如実に示したように思われる。その是正を意図して、「文学賞」が「文学」を超えて「思想」や「哲学」、あるいは「政治」や「社会」に広げはじめた結果だと言えるかもしれない。そう言えば,昨年の受賞者はチェルノブイリ原発事故を取り上げたジャーナリストだった。同様の傾向は「自然科学」の分野にも現れているという。平和賞などはとっくに迷走状態だが、であれば、「経済学賞」の狭さばかりが目立つということになる。いっそ「社会科学賞」に変えたらどうかと思う。

・ところでディランだが、ディランの作品に「文学性」はあるのかといった批判があるようだ。そう考える人にとって「文学」は活字になって本として発表されたものに限られているのかもしれない。しかし、「文字の文化」の前には「声の文化」があって、「文学性」は声(口承)から文字へという形で「文学」に凝縮されたという歴史がある。ところが20世紀になってレコードやラジオ、そしてテレビといった新しいメディアが相次いで登場して、「声の文化」が再生したのである。現在では「文字の文化」が隅に追いやられつつある。良し悪しは別にして、そういう流れは否定できないことなのである。

・ディランはフォーク・シンガーとしてスタートした。その先人はウディ・ガスリーでアメリカ中を放浪し、大恐慌の際に労働者や農民、あるいは浮浪者の中に入って、蒐集したり作った歌を歌って人々を慰め、鼓舞をした。その手法がピート・シーガーなどに受け継がれ、1960年代に新しいフォーク・ソングとして開花した。その先端にいたディランはやがてギターをエレキに変え、ロックというジャンルが生まれるきっかけを作った。そのうえで、労働者の音楽と差別されたフォーク・ソングやガキの音楽と馬鹿にされたロックが「文学性」「や「音楽性」、「政治」や「思想」、「哲学」を表現できるものであることが認知されたという経緯があった。ディランがその過程の中心に位置づけられた存在だったことは間違いない。

・ディランはこれまでに「芸術文化勲章」(仏1990年)「ピューリッツァー賞」(米2008年)や「大統領自由勲章」(米2012年)、「レジオンドヌール勲章」(仏2013年)を受賞している。グラミー賞は10回を超え、アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞の受賞歴もある。「ノーベル賞」を取って,取れるものは全て取ったという感じだが、本人はいつでも冷めている。おそらくノーベル賞も、サルトルのように辞退することはないだろう。「辞退」や「拒絶」はまたそれなりに強い意思表示だが、自分のあずかり知らないところで決まったことには謝意もしないし無視もしない。おそらくそんな態度だろうと思う。

・僕は高校生の時以来もう50年もディランを聴き続けている。彼は75歳になってなお精力的なコンサート活動をしていて、僕も4月に彼のライブに出かけた。ほとんど何も喋らないパフォーマンスで、昔懐かしい曲はほとんどやらなかった。ちょっとがっかりといった気持ちがなかったわけではないが、今のディランの姿には十分に満足をした。彼は今でも数年おきにアルバムを出していて、その都度、意外性に驚かされてきた。そこには何より、昔の俺など追い求めるなといったメッセージが込められてきたと言えるからだった。

・僕の人生はディランに出会わなければ今とは違っていただろうと確信できる。「文字の文化」を職業にし、始末に困るほどの書籍に囲まれているが、それほどの影響力を「文学」や「哲学」「思想」、そして「社会学」や「政治学」から受けた人はいない。そんな人であるだけに、僕にとってはボブ・ディランはアカデミーの「文学賞」に価するかどうかなどという判断をはるかに超えた存在なのである。

・もっとも今の彼は20世紀のポピュラー音楽を丁寧にふり返って、衛星ラジオで多くの曲を紹介したり、スタンダード・ナンバーを自ら歌い直したり、新曲を集めたアルバムに古いサウンドを取り入れたりしている。そこには何より、商業化されすぎてどうしようもない状況にある音楽や歌の現状に対する批判や抵抗の姿勢が強くある。それを一人のミュージシャンとして今でもステージで訴え続けている。こんなメッセージをどれだけの人が本気で受け止めているのか。少なくとも今の日本では、きわめて少数に過ぎない。だからオリンピックの金メダルのような調子の大騒ぎには,とてもついて行けない。

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