2017年7月17日月曜日

ロバート・D.パットナム『われらの子ども』 (創元社)

 

putnam2.jpg・ロバート・D.パットナムは『孤独なボウリング』の著者として知られている。アメリカは個人主義の国だが、同時にたがいに助け合うことをよしとする「一般的互酬の原則」を大事にしてきた国でもある。しかし、パットナムは「その「互酬のシステム」の衰退に注目し、「孤独なボウリング」を社会関係の希薄化を象徴するものとした。

・その本から10年経って、彼の新作が翻訳された。『われらの子ども 米国における機会格差の拡大』という題名だが、原題の副題は「アメリカンドリームの危機」である。アメリカでは「オキュパイ運動」に代表されるように、富の格差が極端に広がっている。この種の格差はアメリカではこれまで容認されてきたものだが、しかしそこには同時に、チャンスや機会は誰にでも平等に与えられるべきだというルールもあった。だからやる気と能力があって成功した者は、妬みよりは憧れの対象として扱われてきた。

・パットナムが『われらの子ども』で指摘するのは、訳書の副題になっているように「機会格差の拡大」という傾向である。つまり、裕福な家庭に生まれた子どもは人間関係や教育において恵まれた育ち方をして、親以上の社会的移動を達成する可能性を持つが、貧しい家に生まれた子どもは教育や人間関係はもちろん、家庭崩壊や犯罪に直面して、底辺に居つづけざるを得ない場合が多いということである。

・このような格差はもちろん、以前からあったものだ。しかし、それは主に肌の色の違いによるもので、現在では黒人やその他の人種や民族でも、上方への社会移動を達成した者はたくさんいるし、女たちの社会参加も当たり前になっている。だから「機会格差」は人種間や性別間ではなく、それぞれの中に現れているである。

・この本では、公にされたさまざまな調査結果だけでなく、オハイオ州のポートクリントン、オレゴン州ベンド、ジョージア州アトランタ、カリフォルニア州オレンジ郡、そしてペンシルベニア州のフィラデルフィアでの聞き取り調査を通してさまざまな格差の実態を明らかにしている。ポートクリントンはパットナム自身の故郷だが、そこはまた昨年の大統領選挙で話題になった「ラストベルト」に含まれている。


・経済学者マーサ・ベイリーとスーザン・ダイナスキーは1980年頃に大学に入学した者と、20年後のそれを比較している。前者の世代では、所得分布でもっとも裕福な四分の一の出身の子どもの58%が大学に進学したが、対してもっとも貧しい四分の一の子どもは19%だった。世紀の終わりには、これらの数字はそれぞれ80%と29%になっていた。(pp.207-208)

・第二次大戦後のアメリカは白人を中心に、それ以前よりは経済的に豊かな暮らしができるようになった。家庭生活についても、学校教育についても、格差は少なかった。70年代になると、公民権運動やフェミニズムによって肌の色の違いや性による差別や格差も是正された。しかし80年代から以降は経済格差が広がりはじめ、21世紀になると、その傾向が急速に拡大するようになった。

・しかし、この問題が深刻なのは、将来的には状況がさらに悪化するという点にある。つまり現在の子どもたちが大人になり、仕事について家庭を持つ頃には、機会の不平等によって格差がさらに大きくなるからである。それはアメリカ社会を支えてきた「一般的互酬の原則」という柱が壊れてしまうことを意味している。能力があり、やる気があっても、一部の最上位層の家庭に生まれた子どもしか夢を実現できない。それはもはやアメリカではない。

・このような状況を改めるにはどうしたらいいのか。そのためにはこの本が詳細に指摘しているように、経済的格差、家庭環境、人間関係、コミュニティ、学校教育など多岐にわたる改善が不可欠だ。それはとても困難だが、やらなければならないことでもある。しかし、没落した白人たちが選んだトランプ大統領は、この格差をさらに大きなものにする方向に舵を切ろうとしている。もちろん日本だって、同じような傾向に落ち込んでいて、それを改善させようとする動きなどは皆無だ。「機会の格差」の結果が出るのは20〜30年後になるのだが、そんな先のことを考える政治家はアメリカにも日本にもほとんどいない。

2017年7月10日月曜日

ホビット

 

hobbit1.jpg・土曜日の昼、食事の後に寝転がってテレビをつけると『ホビット 思いがけない冒険』をやっていた。昼食の後はうつらうつらするのだが、見ているうちに引き込まれた。
・『ホビット』はJ.R.R.トールキンの作で、『指輪物語』の前作にあたるものだ。映画ではそれが原題のまま『ロード・オブ・ザ・リング』として先に製作され、大ヒットした。『ホビット』は『ロード・オブ・ザ・リング』の前史として、後から作られたものである。

・見終わった後に気になったから、アマゾン・プライムで検索すると、字幕番で続きが見られることがわかった。で『ホビット 竜に奪われた王国』と『ホビット 決戦のゆくえ』を見た。この三部作は2012年から14年にかけて製作され、公開されている。見ながら気づいたのだが、僕はこの二作目をロンドンに行く飛行機の中で見ていた。ただし、ビールやワインを飲みながらだったし、字幕もなかったから、断片的に思い出す程度だった。画面も小さかったから、面白いとは思わなかった。

・テレビで、そしてパソコンの大きな画面で見ると、壮大な風景や、コンピュータ・グラフィックスの技術を駆使したシーンの見事さに驚かされた。奇妙な、あるいはグロテスクな風体の登場人物や生き物たちは、どこまでが実写なのか、メイクなのか、そんなことに感心しながら見た。ただし、あまりにたくさんのキャラクターが登場して、その名前やいわれを覚えることができないので、原作を買って読んでみたくなった。

・『ホビット』についてはずっと前から、名前になじみがあった。1960年代の終わり頃に米軍の岩国基地の前に作られた反戦喫茶の名前だったからだ。基地に配属された米兵にヴェトナム戦争に反対することを呼びかける。マスターの鈴木正穂は息子に穂人〔ホビット〕という名前をつけた。僕は原作そのものを知らなかったから、なぜ反戦喫茶や息子に「ホビット」という名前をつけたのかは、一度も聞いていない。

hobbit2.jpg ・竜に滅ぼされた「ドワーフ族」が、祖国を取り戻すために「はなれ山」に向かうこの物語は、「ホビット族」のビルボの家に集まるところから始まる。招かれざる客に食べ物を食べ尽くされ、怒り心頭のビルボだが、魔法使いのガンダルフに説得されて、この冒険につきあうことにするのである。改めて原作を読むと、その映画との違いばかりが気になった。

・映画は戦うシーンの連続だが、原作にはあまりない。ホビットは身体の小さい種族で、ドワーフは毛深さが特徴だ。他に美形のエルフという種族がいて、人間という種族もいる。この冒険を妨げるのは地下に住む異形のゴブリン族やオーク族だが、映画とは違ってオーク族の存在は、原作では大きくはない。映画にはオオカミに乗ったオーク族との戦いのシーンがある。しかし原作では、オオカミだけが襲ってくるのであり、そのオオカミはことばをしゃべり、その窮状から救ってくれた大鷲もまたことばを話すのである。

・映画にはまた、原作にはない恋物語も登場する。そして、原作の魅力の中心であることばのやりとりや歌が、映画ではかなり省略されている。どれも2時間半を越える長編だが、原作のかなりの部分が省略され、勧善懲悪の物語になっている。映画と原作の違いを改めて、再認識した。

・トールキンは作家ではなく、英語学の研究を本来の仕事にしてきた。古英語や中英語、北欧やケルトの神話にも精通していて、W.モリスの作品を好んだという。この物語の中心である竜退治は、古英語の時代に書かれた「ベオルフ」がモチーフになっているようだ。『指輪物語』よりは研究者として書いたものを読みたくなった。

2017年7月3日月曜日

周辺をプチ山歩き

 

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御坂山塊の黒岳から富士山と河口湖

forest142-2.jpg・家の修理が終わった後、道路から家まで敷かれた踏み石を移動した。2cmほど飛び出していて、歩きにくいから避けて通っていた。自転車に乗って通る時にもぶつからないように気をつけなければならなかった。で、玄関先から複数を並べて置くことにしたが、石は重たくて持ち上げて移動するのに苦労した。もちろん形も大きさもそれぞれ違う。高さを地面と同じにするには石にあわせて穴を掘らなければならない。最初は一列に3個を4列、次に2個ずつ敷いて、最後は大きな石を一つ。全部で37個もあった。平らにしたつもりでも斜めになっているものや飛び出しているものが気になって、何度もやり直した。大汗をかく仕事だったが、何とか無難に収まった。途中にあったモグラの通り道をふさいでしまったから、モグラは困っているかもしれない、

forest142-3.jpg・パートナーのリハビリにと付近の山を歩いている。最初は1kmほどから始まって、2km、3kmと伸ばして、最近では4kmまで歩けるようになった。急坂の少ない尾根歩きやなだらかな斜面のある場所を選んでいるが、時には急なところに出くわしてしまう。右の画像は富士山の吉田口にある馬返しから2合目まで歩いた帰り道だ。本来のルートは深くえぐれていて滑りやすいから、脇道を歩いた。平日なのに森林限界の五合目までのトレッキングをする人が多い。ランニングで登る人もいて、ゆっくり歩いているから、大勢の人に抜かれた。

forest142-4.jpg・これまで歩いたのは、青木ヶ原の竜宮洞穴から紅葉台、芦川村どんべい峠から黒岳の途中、御坂山塊の新道峠から破風山、同じく新道峠から中藤山、芦川村鳥坂峠から春日山の途中などである。どこも近くて、家から車で30分ほどで着く。短い距離だが1kmを40分のペースだから、4kmだと3時間近くになる。で、以前のようにおむすびを持って出かけるようになった。もっとも僕は、彼女の歩く様子をビデオに収めたり、時には速く歩いて途中で待っていたり、少し先まで歩いて帰りに追いついたりと、山歩きと言うにはほど遠い。最初の画像は一人で歩いて黒岳から撮ったものだ。

forest142-5.jpg・少しずつ距離を伸ばしているが、どうしても帰りはスピードが落ちてしまう。筋肉が疲れてくるし、登りよりは下りの方が滑らないようにと慎重になるからだ。そこで、待ちくたびれてしまうからと、左手で僕の首襟をつかむようにして歩くことにした。これだとペースがずいぶん速くなる。まさに介助トレッキングである。
・彼女はリハビリの帰りに河口湖湖畔の羽根子山にも登っている。インドアバイクのトレーニングも欠かさない。それでも足はなかなか強くならない。いろいろ工夫をし、少しずつ距離を伸ばして、いつかは本格的な山登りをというのが、現在の目標だ。

2017年6月26日月曜日

表現と印象

 

・安倍政権は「共謀罪」を無理矢理成立させ、森友、加計と続いたスキャンダルへの追求から逃げるために、国会を閉幕させた。その最後の会見も、自らを貶める「印象操作」に振り回されて、オリンピックには欠かせない「テロ等準備罪」について、十分な議論ができなかったことについて謝罪するといったものだった。相変わらず、自分勝手でめちゃくちゃな話だと感じたし、「印象操作」といったことばについて、きちんと整理してみようかと思った。

・安倍首相がしきりに使う「印象操作」とは、どんな意味のことばなのだろうか。ネットで探すと「あることについて断定的な口調で自己の判断を提示し、それがあたかも『一般的』であるかのような印象を読み手に与える、という文章表現上の一技術。」といった説明があった。しかし、この種の「操作」はこれまで「大衆操作」とか「情報操作」といったことばで指摘されてきたもので、決して新しいものではない。それと「印象操作」はどう違うのだろうか。

・「印象」にあたる英語は「インプレッション(impression)」で、それに対応することばは「エクスプレッション(expression)」、つまり「表現」である。つまり「印象」とは、誰か(どこか)、あるいは相手が「表現」したものを、受けとめる側が、自分の判断によって取り込むことを意味している。だから、どういう「印象」を持ったかはあくまで受け手にあるのだが、「印象操作」とは、それを送り手側で決めてしまおうとする試みだということになる。そこから、自分の意図するとおりに受けとめさせる〔解釈させる)ためには、事実や真実を歪めもするということになるのである。

・しかし、そもそも「印象操作」とは誰が使い始めたことばなのだろうか。僕が知る限りでは、これはアーヴィング・ゴフマンが『日常生活における自己提示』(翻訳題名は『行為と演技』誠信書房)と題された本の中で使った概念である。私たちがする言動には常に、自分が相手にどう思われるかを意識して行うという側面がある。自分が意図するように、相手も理解して欲しい。その意味で「表現」と「印象」には強い繋がりがある、というのがゴフマンの指摘だった。ちなみに、広辞苑では「他者に与える自分の印象を、言葉や服装などによって操作すること」となっていて、ゴフマンの概念を念頭に置いていることがわかる。

・もっとも「印象操作」と訳されたことばは「マニピュレーション(manipulation」ではなく「マネージメント(management」であって、語義通りに訳すなら「印象管理」が正しかったのである。間違った使われ方をしないように見守るという意味の「管理」とは違って「操作」には、より積極的にごまかしてでも操るという意味合いがある。ゴフマンが注目したのはあくまで「印象」の「管理」であって「操作」ではなかったのである。誤訳が一人歩きをして、権力者の方便に使われている。ゴフマンが生きていて、これを知ったら激怒したことだろう。

・安倍首相が使う「印象操作」はあくまで、事実を歪曲して謝った理解をさせようとする「表現行為」に向けられている。彼はそのことに被害妄想に近いほど敏感である。しかし、彼が首相として発言し、行動してきたことのほとんどが嘘や欺瞞に満ちた「印象操作」で合ったことを考えると、それは「自業自得」であるし、「天に唾する」ということわざそのものだと言わざる得ない。

・彼はまるで息を吐くように嘘を言ってきた。それで高支持率が維持できたことで、自信を高め、国民を侮る気持ちが生まれた。けれども彼が「印象操作」だといって非難する「表現」の多くは事実であって、決して操作されたものではない。だから慌てて国会を閉じて、だんまりを決め込んでいる。メディアはアメリカがやっているように、安部のついた嘘を列挙して、一つひとつ検証すべきだろう。三権分立が空洞化している現状では第四の権力であるメディアが頑張るしかないのである。

2017年6月19日月曜日

青木宣親選手に

 

aoki1.jpg・青木宣親選手が日米通算で2000本安打を達成しました。日米で2000本以上を打ったのは7人目です。メジャーリーグに移って6年目ですが、必ずしも順調にということではありませんでした。何より、今年所属しているヒューストン・アストロズが5球団目であることが、順風満帆でなかったことを物語っています。

・青木選手はヤクルト・スワローズに8年在籍して1284本の安打を放ち、0.329の打率を残しましたが、メジャーリーグでは5年ちょっとで720本、3割には届いていません。決して悪くはないのですが、イチローや松井ほどの派手さがありませんから、あまり注目されてこなかったと思います。試合が中継されることも少なかったのですが、僕はずっと気になっていました。

・メジャー・リーグにおける日本人選手の評価は圧倒的に投手の方が高いです。今年在籍しているのも、投手は上原、岩熊、ダルビッシュ、田中、田沢、前田と6人いますが、野手ではイチローと2人だけです。メジャー在籍17年目で、すでに3000本を越えているイチローは別格ですが、十分に活躍したと言えるのは松井秀喜選手ぐらいで、まあまあ通用したのは松井稼頭央、岩村明憲、井口資仁、福留孝介、田口壮、そして城島健司選手ぐらいです。それに比べて投手では、野茂英雄を初めとして、黒田博樹、石井一久、伊良部秀輝、大家友和、岡島秀樹、佐々木主浩、長谷川滋利、吉井理人、そして松坂大輔などが活躍しました。

・青木はパワー・ヒッターではありません。ヒットを量産できるわけでも.肩が強いわけでもありませんし。足も図抜けて早いというほどでもありません。ですから最初にメジャーと契約した時にも、ミルウォーキー・ブリュワーズは実力を調べるためのテストを行いました。レギュラーのポジションが確約されていたわけではありませんでしたが、彼はブリュワーズで外野の定位置を確保して、トップ・バッターとして活躍しました。しかし、ブリュワーズは青木をカンザスシティ・ロイヤルズにトレードしてしまいました。

・青木が所属した年にロイヤルズはアメリカン・リーグの勝者になりました。青木は途中故障したり、若手の台頭もあって出場機会が減りましたが、優勝を争う9月に4割近い打率を残し、プレイオフでも大活躍でした。しかしワールドシリーズのジャイアンツ戦ではわずか1安打で、チームも3勝4敗でチャンピオンにはなれませんでした。チームが契約延長せずにフリー・エージェントになった青木は、そのジャイアンツと契約しました。

・ジャイアンツは2010年から1年おきにワールドチャンピオンに3度もなった強豪チームでした。外野のポジションに空きがあったわけではなかったのですが、彼は頑張って、レフトの位置を奪取し、オールスターにも選ばれるのではという活躍をしました。ところが相次ぐ死球禍で、シーズンの後半を棒に振りました。脳震盪の後遺症を不安視したジャイアンツが契約しなかったのでシアトル・マリナーズに移りました。

・マリナーズでは不振からマイナー落ちを何度も経験しました。後半には調子を戻したのですが、また1年でヒューストン・アストロズに移籍ということになりました。アストロズには若くて有能な選手が大勢います。チームも好調で首位を独走しています。ですから青木選手は準レギュラーという位置づけで、左ピッチャーの時には試合に出ない状態が続いています。出たり出なかったりですから、今ひとつ調子も上がらないようです。2000本安打は彼にとっては大きな区切りになる数字でしょう。しかし、これで終わりというわけではありません。例年、後半戦の方が成績がいいですから、定位置を確保し、9番ではなく1番か2番に格上げされ、優勝してワールドチャンピオンになれるよう応援したいと思っています。

・青木選手は頑張り屋です。軽くあしらわれても、どん底に落ちても、跳ね返して這い上がってきました。それは高校生以来の彼の野球人生に一貫したことだったようです。現在35歳ですから、まだまだ何年もメジャーで活躍して欲しいと思いました。

2017年6月12日月曜日

●最近買ったCD

 

Sheryl Crow "Be My Self"
Ryley Walker "Primrose Green"
Jim Kweskin "Penny's Farm"

crow3.jpg・シェリル・クロウは1992年にデビューしているから、もう25年になる。そのデビュー・アルバムは鮮烈で、僕はそれ以降に彼女が出したアルバムのほとんどを持っている。しかし、最初の頃のはねっ返りとも言える威勢の良さが薄れていて、最近の彼女については、あまり印象に残るものはなかった。

・新作の"Be Myself"は2013年の"Feels Like Home"以来だから4年ぶりだ。製作スタッフに初期のメンバーを使っていて、もう一度初めに戻るといった思いがあったようだ。そんなインタビュー記事を読んだが、そのことは何より"Be Myself"(私自身であれ)というアルバム・タイトルに現れている。

・昨年のアメリカ大統領選挙以降、アメリカの政治は混乱状態にある。金持ちが金を隠す「タックス・ヘイブン」やひどい格差などといった経済的な問題も多い。そんな話題にストレートに怒り、「電話をしまってローラー・スケートに行け!」といった子どもに向けた忠告のような歌もある。それなりに頑張ったアルバムだと思うが、今ひとつ響いてこない。

ryley2.jpg ・ライリー・ウォーカーは今もっとも注目されているミュージシャンの一人のようだ。日本にも来てライブをやって話題になったから、聴いてみたいと思った。毎年のようにアルバムを出していて、最近の三枚のCD "All Kinds of You" "Primrose Green" "Golden Sings That Have Been Sung"を買った。

・ギターがうまいし、音楽ジャンルを超えて多様なサウンド作りをしているところが評価されているようだ。確かに、曲によっていろいろな人を連想させる。ジェームズ・コバーンだったり、サンタナだったり、ニール・ヤングだったり。レビューを読むと、デヴィッド・クロスビー〔ザ・バーズ〕やジェリー・ガルシア〔グレイトフル・デッド)を彷彿とさせるといったコメントもある。それだけ可能性があるのかもしれないが、器用貧乏に終わらなければいいがという感想も持った。

kweskin1.jpg ・ジム・クウェスキンはボブ・ディランと同年齢のフォーク・ミュージシャンだ。60年代からずっと一貫してフォーク・ソングをジャグ・バンドとして歌い演奏し続けてきた。と言っても僕は彼のことを全く知らなかった。"Penny's Farm"はジェフ・マルダーとのコラボレーションである。二人はずっとジャグバンドを一緒にやってきていて、一時的にはマリア・マルダーも参加していたようだ。

・昔ながらの古い歌を、同じ調子で歌い続けている。アメリカにはガスリーの頃から変わらないサウンドがずっと流れている。伝統のない国だからこそ、自分たちの土地から生まれたものを大事にし、折に触れて初心に返る。今回紹介したCDには、そんな点で一貫したところがありそうだ。

2017年6月5日月曜日

ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(上下)』(河出書房新社)

 

sapiens1.jpg・話題の本だというので買うことにした。こんな世界を作りだした「ホモ・サピエンス」〔賢い人)っていったい何なのだろう。大風呂敷を広げすぎたような本だがおもしろかった。昨年読んだ『1492』や『1493』によって、現在に至る近代という世界がどんなふうにして構築されてきたかを教えられた。しかし、実は人間はそのはるか以前から、生態系に大きな力を及ぼしてきた。言われてみればその通りだが、改めて、人類の登場以後の世界の変容の歴史を自覚させられた。

・身体的には他の動物に劣っているサピエンスが、なぜ生態系の頂点に立つことができたのか。あるいは同時期に共存し、身体的には優れていたネアンデルタール人はどうして絶滅してしまったのか。著者はまず、生き物の頂点に立って好き放題にできる状態を作りだした理由に「虚構」をあげている。それは噂話に始まり、伝説や神話になり、神を創造し、宗教を作り上げた。単独では劣っても、考えや思いを共有する人々が集団で行動すれば、それは大きな力になる。他の部族との交易や情報交換をし、集団はさらに大規模なものになった。もっともDNAの解析によれば、サピエンスにはネアンデルタールのものがわずかに含まれていて、交雑の可能性も指摘されている。

・サピエンスが登場したのは7万年前で、農耕生活を始めたのは1万年ぐらい前である。狩猟採集から農耕生活への変化は、人類の歴史の中では画期的な変化だと言われている。しかし本書では、それは食の貧困をもたらしたらしい。つまり多種多様なものを食べていた人間が、農耕生活以降はきわめて限られたものだけを食べるようになったということである。にもかかわらず、農耕生活を始めた人類は一つの社会のうえにたつ支配者を生み、共有できる神話を創造し、文字を作り、時間や季節の存在に気づき、やがて貨幣を使うようになった。ここまでくれば、現在との繋がりは見えやすくなる。

sapiens2.jpg ・本書は上下2冊に分かれている。その下巻は歴史と言うよりは、サピエンスとは何かについての考察である。サピエンスは神話や宗教といった「虚構」を通して、森羅万象を理解しようとしてきた。しかし近代科学は、まず「知らない」といった前提に立って、観察結果の集計と数学的ツールを使って説や理論を作り上げる方法だった。この大きな転回は、さらにそこで得られた見地が新しいテクノロジーを作りだすことになり、それが強大な力や金を生み出す可能性を見出すことで、国家や資本家がそこに競って資金や人材を投入することになった。

・過去500年間には、驚くべき革命が相次いだ。地球は生態的にも歴史的にも、単一の領域に統合された。経済は指数関数的に成長を遂げ、人類は現在、かつてはおとぎ話の中にしかありえなかったほどの豊かさを享受している。科学と産業革命のおかげで、人類は超人間的な力と実質的に無限のエネルギーを手に入れた。その結果、社会秩序は根底から変容した。政治や日常生活、人間心理も同様だ。(下・214ページ)

・サピエンスの歴史はおおよそ、こんなふうに描かれる。とてつもない変化で、それをシンポとか発展として考えることもできる。しかし、私たちがそれで幸せになったかどうかは確かではない。にもかかわらず、科学と資本主義が進歩や成長のスピードを緩めることはない。この本のあとがきの最後は次のようなことばで締めくくられている。「自分が何を望んでいるのかもわからない.不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか。」サピエンスだけでなく、今現在の地球に生きるあらゆる生物の絶滅に向かってまっしぐらに突っ走っている。この本には何より、そんな感想を持った。