2017年10月16日月曜日

失望の現在、絶望の未来

 

河合雅司『未来の年表』〔講談社現代新書〕
和田秀樹『この国の息苦しさの正体』(朝日新書)
『「高齢者差別」この愚かな社会』(詩想社新書)

・ただいま選挙期間中である。森友・加計問題での追求を逃れるための身勝手な解散で、世論は非難囂々になってもいいはずなのに、世論調査は自公が大勝といった予測を出している。政権支持が下落して不支持が増えているのになぜ、自民は議席を減らさないのか。この予測が実現したら、「希望」というの名の「失望党」の犯した罪は計り知れないくらい大きい。日本の将来はもう「絶望」と言うほかはない。「小池にはまってさあ大変」どころではないのである。

mirai1.jpg ・安倍首相が選挙の大義に掲げたのは「少子化」である。しかし、少子化の問題はすでに何十年も前から指摘されていたことであり、歴代政権が本腰を入れずにお茶を濁してきたために、もう手遅れでなすすべがなくなってしまっているのに、何を今更とといったものである。河合雅司の『未来の年表』は、高齢化と人口減少が日本をどういう国にするかという未来図を、現在から20年先までのカレンダーとして章立てしている。それは右の表紙のような内容だ。
・これらはもちろん、脅しなどではなく、政府やその他が実施し、予測しているデータを元にしたものである。しかも、人口減は日本の経済力はもちろん、地方だけでなく都市をも衰退化させ、毎日の生活が成り立たなくなったり、国家の機能そのものが不全になることを意味している。未来の予測を現在からカレンダーにした章立てはわかりやすいし面白い。ではどうするかがこの本の後半の内容で、そこに入ると途端にリアリティを感じにくくなる。これから起こることは、それだけ、解決が難しいのだとも言える。選挙目当ての口から出任せばかり言う政治家が乱立している現状からは、近未来に訪れる待ったなしの地獄絵図にリアルさを感じるばかりである。

wada1.jpg ・もっとも、現政権に対して強い批判を加えない多数の人たちにも、現状や未来に対する不安は強く存在する。和田秀樹の『この国の息苦しさの正体』は、その不安感にその理由を求めている。「不安」だからこそ、場の「空気」ばかりを読むようになる。目上の人の顔色をうかがって「忖度」に集中する。しかし、攻撃できる相手が見つかれば、タレントであれ、政治家であれ、そしてもちろん周囲の人であれバッシングをする。そんな風潮がネットはもちろん、テレビにも溢れている。

・「不安」は一方では、自分に危害が及ばないように身を潜め、意に反する同調を促すが、他方で感情を容易に爆発させたりもする。そして、第一章のタイトルになっているように「今だけ、金だけ、自分だけ」といった考えが誰の心にも根付いている。このような意識はもちろん個人だけではない。政権を担う政治家や、大企業の経営者にまで及んで、今この国を覆っている。感情に囚われれば冷静な判断はできないし、未来を予測することなどはほとんど不可能だ。そして「不安」は何より、自分より幸運や才能に恵まれた者に「嫉妬」し、劣った者や攻撃対象になった者を差別したり、罵倒することになる。

wada2.jpg ・「忖度」や「同調」は、もともと日本人の意識に深く根づいたものだが、それが過剰な状態になって息苦しさを蔓延させ、人々の不安感を増幅させている。その原因として攻撃対象になりがちなのが高齢者である。何しろどんどん数が増えて、しかも年金や医療で国の財政を危機に陥れる原因になっていると言われているからだ。
・同じ著者の『「高齢者差別」この愚かな社会』は、高齢者に向けられた批判に逐一反論し、国の財政赤字や膨大な借金が、現在の高齢社会ではなく、これまでの政治が作り出してきたものだと批判している。あるいはアクセルとブレーキを踏み違えて事故を起こすニュースが話題になり、免許を取りあげることが必要だとする世論が作り上げられたことに対しては、実際には、事故の増加は老人の数が増えたせいであるし、割合から言えば、若年層の事故の方がはるかに多いという反論をしている。また、認知症になったり、寝たきりになった人に向ける視線の中に、生きていてもしょうがないのではといった声があることなどを指摘している。

・日本が今抱えている問題は複雑で多様なものだから、政策一つで解決がつくわけはない。ましてや「希望」だの「一億総活躍」などといった標語でどうなるものではない。そのことがわかっていながら、政治家を筆頭にして、真剣に向き合おうとしないのは、まさに「今だけ、金だけ、自分だけ」が蔓延して、それ以上のことについては思考停止になっているからに他ならない。票読みだけに明け暮れる選挙情報を見ていると、つくづく、この国はもうダメだと思ってしまう。

2017年10月9日月曜日

「バリバラ」知ってますか?

 

・衆議院選挙を巡ってはドタバタが続いている。政策そっちのけの数あわせにばかり注目するテレビなど見る気もない。しかし、多くの人たちの情報源がテレビであることを思うと、そのはしゃぎようには腹が立つばかりである。「森友・加計」などなかったかのように選挙動向を報じたのでは、選挙はイメージ作りと人気取りに終始してしまう。ワイドショーやバラエティ番組は論外として、ニュース番組だって、変わらない。だから夕飯時に見るテレビでNHKのニュースにチャンネルを合わせることはほとんどなかった。

baribara.jpg・「バリバラ」はNHK教育テレビで毎週日曜日の午後7時から30分間放送されている。見始めて2年ほどだが、最近では欠かさずに見る番組になっている。さまざまな障害者が登場してバリアフリーをテーマに訴え、議論し、行動するバラエティ番組である。僕が見る唯一のバラエティ番組だと言っていい。

・この番組のコンセプトは「恋愛、仕事から、スポーツ、アートにいたるまで、日常生活のあらゆるジャンルについて、障害者が “本当に必要な情報” を楽しくお届けする番組。モットーは “No Limits(限界無し)”」である。2012年からから放送されているが、大きな話題になったのは、昨年の日本TV「24時間テレビ」の放送時間に「笑いは地球を救う」というテーマをぶつけて、障害者の感動物語を放送する「24時間テレビ」をお涙ちょうだいの「感動ポルノ」だと批判したことだった。

・障害者を感動的に描く姿勢には、得てして健常者からの視点が強調されがちになる。それは障害者にとってはしばしば、意に反する、不快な描き方として受けとられる。「バリバラ」は「24時間テレビ」に対してそのことを訴える番組をぶつけたのである。その姿勢は今年の「24時間テレビ」に対しても行われていて、この番組があくまで障害者の立場から明るいバラエティとして健常者に訴えるものであることを主張している。

・障害者にとってのバリアは、その障害によって多様に存在する。たとえば公共の場にあるトイレの問題。9月24日と10月1日の2回にわたって、主に多目的トイレについて、その使い勝手を検証していた。目が見えない、手が言うことを聞かない、車いすからトイレへの移動が難しいといった問題に、既存の多目的トイレがどの程度配慮しているかを、何人かの人たちが実際に使って報告したのである。現状は使いにくいものが多いというものだった。

・この番組の面白いのは、そういったことを福祉番組にありがちな真面目すぎるトーンで作っていないことだ。検証したのは全盲の「見えんジャー」と脳性麻痺の「揺れんジャー」で、あわせて「オベンジャース」。この二人がトイレで格闘するさまには、思わず笑ってしまったが、同時に、どれだけ大変なことかがよくわかりもした。あるいは男と女に別れたトイレに戸惑いを感じるLGBTの人たちの気持ちなども、言われなければ気づかないことだった。

・バラエティ番組は、政治や社会の問題を軽く扱って、事の本質を見えなくしてしまうことがよくある。その意味で、大事なことから目をそむけたり、無関心になったりする傾向を広げる役割を果たすことが多い。けれども「バリバラ」は、障害を抱える人たちがもつ多様な困難や問題を、バラエティとして面白く、明るく、しかし切実さを持った訴えを説得力のあるものにしている。裏番組の「ザ!鉄腕!DASH!!」とは大違いなのである。

2017年10月2日月曜日

ドタバタの季節?

 

・衆議院が解散ということになってから、情勢がめまぐるしく変わっている。民進党があっという間に消滅して、希望の党が自民党に対抗する勢力になってしまった。解散は、安倍首相の疑惑逃れが一番の理由だが、お粗末なドタバタ劇もいい加減にしてくれと言いたくなる。「この国の将来は絶望的だな」とつくづく感じてしまった。

forest144-1.jpg・ところでドタバタ劇は、最近の我が家でも起きている。愛用してきたスバルのアウトバックを車検に出したら、修理費に60万円以上かかると連絡が来た。17万4千キロを超えてはいるが、乗っていて不調なところは何もない。だから、20万キロが近くなったら買い換えを考えようと思っていた。しかし、悪いところがいくつもあって、何よりエンジンのオーバーホールが必要だという。ライトの光度も不足していているし、いくつもの管やバルブが劣化していて、取り替えなければならないのだ。当面走るのに不都合はないが、車検は通らないというのである。

forest144-2.jpg・で、仕方がないからアウトバックの新車を買うことにした。ただし、ちょうどマイナー・チェンジの時期で、手に入るのは11月の下旬以降だという。しばらくはXV一台でやりくりしなければならない。東京に行くのは週1度だけだから何とかなるだろうが、不便でなければ2台は必要ないのかもと思うかもしれない。

・レガシー・ワゴン、ランカスター、アウトバックと乗ってきて、今度で4台目になるが、タイヤはずっとオール・シーズンで通してきた。無茶だとか危ないと言われたが、河口湖に引っ越してから20年近くで、怖い思いをしたことはほとんどない。だから今度もと思ったのだが、現在のアウトバックはノーマルタイヤを装備していて、オールシーズンタイヤにすればノーマルタイヤが無駄になってしまう。ほとんど新品なのに引き取るところはほとんどないし、あっても二束三文のお金しか戻ってこない。ドタバタしたけれども、歳も取ったから冬はスタッドレスにしようかと思い始めている。

forest144-3.jpg・もうすぐ薪ストーブを燃やす季節になる。というわけで、庭を整理するために電動の草刈り機を買った。掃除機と同じマキタ製ならリチウムイオン電池と充電器が共通に使える。そう思ったのだが、草刈り機の電池とはボルトが違い、また形状も違っていた。そこでAmazonに電池と草刈り機を返却した。電池は郵便、草刈り機は佐川急便と別々に連絡をして、無事Amazonから返金の連絡があった。で、改めて確認をして、別の草刈り機と電池を購入した。

・よく確かめないからこんなことになる。そう言われると腹が立つが、その向けどころはもちろん自分自身である。歳を取ったんだから気をつけねば。買い物や車の運転だけではない。そんなことを思い知らされた出来事が続いた。
・寒くなってきたからリビングの大型ファンヒーターに灯油を入れ、点火してみたら、エラーが出てしまった。もう30年動いてきたから、とっくに寿命は過ぎていたのだが、春までは元気だった。さっそくこれも取り替えなければ。

2017年9月25日月曜日

卑劣な解散に怒りを

 

・安倍首相は臨時国会開催日の冒頭に解散を宣言するようだ。森友・加計問題の追求を逃れ、臨時国会の開催要求を無視し続けてきた末の解散である。年金の使い道を公約にするようだが、野党と対立するわけでもないから、争点にはなるはずもない。野党は理念や政策の違いなどにこだわらずに、統一候補を立てるべきだと思う、もうこれ以上安倍政権が続いたのでは、日本の将来がめちゃくちゃになりかねないと思うからである。

・安倍政権になって国政選挙は4回目である。いずれも選挙の公約になかったことをやってきた。13年の参院選は「アベノミクス解散」と言われたが、その後にやったのは「特定秘密保護法」だった。14年の衆院選では「消費増税延期」を掲げて「安保法制〔戦争法案)」を強行採決し、昨年の参院選では「消費増税再延期」と言いながら「共謀罪」を無理矢理可決させた。今度の衆院選では「消費税の使途変更」が主な公約だが、森友・加計問題をうやむやにして、憲法改正に突き進むのは自明のことだろう。

・北朝鮮のミサイルの連発や核実験に過剰に反応して、早朝から何度もJアラートが鳴ったようだ。安倍首相は国連で対話は無駄で強い圧力を加えるしかないと熱弁した。聞く人があまりいないさみしい会場だったが、日本ではテレビのニュースで大きく取りあげられた。トランプ〔虎〕の衣を借りた安部〔狐)の強がりは、北朝鮮には日本を敵視する好都合な材料にしかならないだろう。

・韓国の大統領は強硬な発言をしながら、他方で冬季オリンピックへの参加を呼びかけたり、9億円の人道支援の用意があると発言した。硬軟取り混ぜて対応するというのは外交関係にとってはイロハのテクニックだが、安部にはそんな余裕が全く感じられない。そんな彼の言動を見聞きしていると、この人はつくづく臆病なのだと思う。どんな公約を掲げようと、今度の解散が、彼に向けられた疑惑から逃れるためであることは間違いない。彼にとっては、国会で追及されて窮地に追い込まれることが何より怖いのだ。選挙に勝って疑惑を解消させようとしているのだが、思い通りにさせたのでは、こんな政権が東京オリンピックまで続きかねないのである。

・国会の閉会中審査では、マスコミも森友・加計問題を大きく取りあげたが、最近ではほとんど話題にもならない。テレビは安部の扇動に呼応して北朝鮮の恐怖に大騒ぎするばかりだ。ミサイルの落下地点は襟裳岬沖ではなく北太平洋が正確だが、なぜマスコミは揃って襟裳岬沖と言うのだろうか。あるいは日本上空800キロというのは人工衛星が飛ぶ宇宙空間で、日本の領空をはるかに超えているのに、そんな疑問を呈することもしないのだろうか。そもそもJアラートに連動して番組を中断し、ほとんど役に立たないミサイル情報などを流し続けるのは、どうしてなのだろうか。

・あるいはタレントや政治家の不倫問題への関心も、どうかと思うほどである。解散の決断には、山尾議員の不倫問題と党籍離脱が引き金になったと言われている。民進党にとっては期待の星のスキャンダルで踏んだり蹴ったりの状態のようだ。しかし、不倫はあくまで個人の問題であって、それを社会悪のように追求するテレビの姿勢は醜悪だ。政治家を批判するなら、献金疑惑や政治資金の不正利用をした者にこそ向けるべきだと思うが、甘利も下村も知らん顔である。そもそも、安倍首相に対する疑惑をなぜ続けないのだろうか。

・今回の解散は安部の疑惑隠しでしかないが、これを機に彼の政治生命を絶つチャンスでもある。マスコミはそのことを強く主張しないだろうと思うが、信用できないやつにこれ以上政権を委ねたりしてはいけない。そう考える人たちが選挙行動に影響を及ぼすことを期待したいものである。国連で「これ以上楯突くなら北朝鮮をぶっ壊してやる」といったトランプが2日後には対話路線に変更したようだ。硬軟取り混ぜて対応するのは政治力学の常道だが、安部は、一体何というのだろうか。

2017年9月18日月曜日

中川五郎『どうぞ裸になってください』

 

goro1.jpg・中川五郎は僕と歳が同じだ。フォークソングを歌い始めて50年になるが、今でも精力的に全国各地を歌い歩いている。その彼が67歳の誕生日に下北沢のラ・カーニャでライブを行った。『どうぞ裸になってください』はその時の模様を記録したもので、CD2枚組で14曲が収められている。

・中川五郎が歌い始めたのは高校生の時だった。ボブ・ディラン、ウッディ・ガスリー、ピート・シーガーなどの歌を訳して歌い、あるいはメロディを借りて替え歌を作ったりした。その中の「受験生ブルース」が高石友也の歌でヒットして、一躍話題になった。僕も同じ頃にフォークソングに夢中になったが、歌うのは数年でやめてしまった。しかし彼は、その後もずっと続けて、50年を超えるまでになった。

・もっとも彼も、歌よりは音楽評論や翻訳、あるいは小説の執筆などを中心にした時期があった。その『渋谷公園通り』と『ロメオ塾』については以前にこの欄で紹介したことがある。その時には中川五郎は作家を目指しているのでは、と書いたが、以後はチャールズ・ブコウスキーを中心にした翻訳と、ライブ活動にその時間とエネルギーの多くを費やしてきたようだ。彼の訳したブコウスキーは何冊も読んでいるし、何より彼の音楽評論で教えてもらったミュージシャンはたくさんいる。僕にとっては、大事な情報源になっている。

・『どうぞ裸になってください』は全曲がメッセージに溢れている。「運命運命運命」は玄侑宗久『お坊さんだって悩んでる』から、「言葉」は寮美千子『奈良少年刑務所詩集』から、そしてアルバム・タイトルの「どうぞ裸になってください」は、村山槐多の詩をもとにしている。そのほかにも「真新しい名刺」は金素雲、「消印のない手紙」は長峰利造、あるいは「1923年福田村の虐殺」は森達也『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』からヒントを得ている。彼が、これらを歌にして伝えようとしているのは、社会から排除されたり、差別を受けた人たちの生の声であったり、関東大震災におけるデマと虐殺といった事実の伝承である。

・もちろん、自作の歌もあって、それもまた社会のおかしさに対する批判に満ちあふれている。「Sports for tomorrow」は東京オリンピックとアンダーコントロールがテーマだし、「二倍遠く離れたら」は東日本大震災と福島の原発事故の被害者の視点に立っている。あるいは「一台のリヤカーが立ち向かう」には横須賀基地や上関の原発に反対する運動と、公民権運動のきっかけになったバス事件やガザで石を戦車に投げる子ども、あるいはギターを持って抗議したガスリーやビクトル・ハラを歌っている。

・中川五郎の出発点は歌を訳して歌うことだったが、このアルバムにはジョン・レノンの「イマジン」とボブ・ディランの「風に吹かれて」が収められている。他にも金子光晴の「「愛情60」や高野文子の絵本「しきぶとんさん かけぶとんさん まくらさん」などもあって、彼が歌に込めた主張や思いの集大成といった感がある。「音楽に政治を持ち込むな」などというガラパゴス的発想のミュージシャンやファンが多い日本の現状の中で、そもそもフォークやロックをはじめ、ポピュラー音楽の原点になっているあらゆる音楽が、メッセージから出発していることを、改めて教えてくれる希有なアルバムだと思う。

2017年9月11日月曜日

再び、青木宣親選手に

 

aoki2.jpg
・青木宣親選手については、3ヶ月前のこのコラムで触れたばかりです。所属チームのヒューストン・アストロズは快進撃を続けていましたが、青木選手は準レギュラーで、思うように活躍できない状態でした。彼がMLBに行ってからずっと注目してきましたが、ここ数年は満足のいくシーズンを過ごせませんでした、で、応援のメッセージを書いたのですが、彼は7月末に、下位に低迷するトロント・ブルージェイズにトレードされてしまいました。

・準レギュラーとは言え、それなりの活躍はしていていましたから、ポスト・シーズンは間違いなしだったのです。それが、よりによってなぜトロントなのか。ニュースを聞いてがっかりしましたが、それは青木選手自身の方が何十倍も大きかったはずです。トロントは彼が移籍してすぐに、ヒューストンでアストロズと対戦しました。そこで青木選手はホームランを打って恩返し、というよりはざまーみろ!といった活躍をしたのです。

aoki3.jpg・その後風邪で休んだりもしましたが、なかなか出させてもらえない状態が続きました。三振ばかりで打てない選手を引っ込めて青木選手を使えよと腹が立ちました。とは言え、テレビでの中継はほとんどありませんから、もっぱらネットで追いかけていました。彼は今年も0.270前後の打率を残していて、それはトロントに行ってからも変わりませんでした。ホームランも出るようになって、レギュラーに定着してもおかしくない成績だったのです。

・ところが、8月末にまた、トロントは青木選手を自由契約にしました。プレイオフ進出の望みがなくなって、9月は若手の育成期間に切り替えるというのが理由でした。そのニュースがあった日の試合で、彼は4打数3安打で、ホームランを1本打っていたのです。監督は、プレイオフに出るチームと契約できるチャンスでもあると言いましたが、その期限である8月31日までに、青木選手と契約するチームは現れませんでした。

aoki4.jpg・9月に入って、ニューヨーク・メッツが青木選手と契約を結びました。メジャー・リーグは契約すればすぐ出場となるのですが、対戦相手はなんとまた、アストロズでした。ヒューストンはハリケーンによる水害で大変なことになっています。アストロズはそのために3試合ほどフロリダで球場を借りてゲームをしました。まだ町に水が溢れている中での試合でしたが、青木選手はトップバッターとして1安打しましたし、翌日には2番バッターで4打数3安打の大活躍でした。チームが決まるまでの数日間、彼は公園で、少年たちが野球をする脇で、キャッチボールなどをして、身体がなまらないようにしていたと言ってました。

・メッツの監督は以前にオリックスで指揮を執った経験のあるコリンズです。青木選手のことを知っているし、日本人選手の特徴もわかっている人です。今までと違って上位でレギュラーとして出場させるつもりのようです。青木選手は例年9月には大活躍をしてきました。あと一ヶ月頑張って、来年度のいい契約を勝ち得て欲しいと思います。どんな状況におかれても、腐らないし諦めない。そんな彼の精神的な強さに、改めて敬意を表したくなりました。

2017年9月4日月曜日

光岡寿郎『変貌するミュージアム・コミュニケーション』 (せりか書房)

 

・「ミュージアム」は日本では「美術館」と「博物館」に二分されていて、最近では「ミュージアム」自体も使われている。絵画と彫刻が中心の美術館はともかく、「博物館」にはさまざまな種類がある。さらに「ミュージアム」となると、一体何が展示されているのか。百花繚乱のように見えるし、玉石混淆にも思える。研究の場、学習、あるいは娯楽の空間?。「美術館」にしても「博物館」にしても、「ミュージアム」はずいぶん様変わりした。本書はそんな「ミュージアム」をテーマにした、本格的な研究書である。

museum1.jpg・美術館や博物館には今でも、堅苦しさやまじめさといったイメージがつきまとっている。そこは何より教育や教養の場であって、ミュージアムが指示したとおりに鑑賞し、学習しなければならないことを暗黙のうちに強要されがちだからである。しかし本書によれば、「ミュージアム」には、そのあるべき形態を巡っていくつもの論争があり、また時代の変化に伴った変容の模索も行われてきたようだ。著者はその歴史的・理論的推移を主に「コミュニケーション」をキーワードにして分析している。

・「ミュージアム」という空間は、そこに展示されたものと、それを鑑賞し、また展示物についての説明を見聞きする来館者の間にコミュニケーションを生成させることを目的にしている。そこに堅苦しさやまじめさといったイメージを持つのは、「ミュージアム」が基本的には教育の場であり、来館者は学習するためにやってくる(べきだ)と考えられてきたからだ。そして、来館者を受動的な存在ではなく、より積極的で自主的な人と見なすべきだとする主張やそのための変革がなされてきた。

・もっとも本書は主に、英米の「ミュージアム研究」を使って考察されていて、日本のミュージアムやその研究についてはほとんど触れられていない。僕の経験からすれば、日本のミュージアムは今でも、来館者を受動的な存在として見る姿勢が強いのではという印象が強い。順路に従え、私語をするな、飲食物を持ち込むな、触るなと、禁止事項がやたら多い気がする。それに比べれば、欧米で訪ねた「ミュージアム」には、確かに、もっと自由に鑑賞できる雰囲気があった。館内のカフェでランチをして、一日ゆっくり過ごせる場所がいくつもあったのである。

・「ミュージアム・コミュニケーション」の変容にはもう一つ、20世紀に登場したさまざまな新しいメディアをどう取り込んで活用するかといった問題もあった。本書ではその点についても、ラジオ、テレビ、インターネット、そしてミュージアムが提供する携帯型端末や来館者が所有するスマホについても詳細に言及している。それはもちろん、「ミュージアム」という空間における、その管理者や展示物と来館者の間に生起するコミュニケーションを主題にするが、また同時に、インターネットや携帯端末の発達が、ヴァーチャルな「ミュージアム」を作りだして、現実の場や実物を相対化してしまうのではといった指摘もある。確かに、混雑した会場で、立ち止まるなと言われて人混み越しに垣間見るよりは、インターネットでじっくり見た方がずっといいと思うことも少なくない。

・僕はこの本を読みながら、「ミュージアム」から離れてしまう自分をくり返し自覚した。最近の動物園や植物園の変容は「ミュージアム」をはるかに超えているし、「ミュージアム」と名のつく娯楽施設の乱立をどう捉えたらいいのだろうか。本物とそのコピーの主客転倒は、映画やアニメといったフィクションと、その舞台を聖地化して訪れる巡礼に典型だし、そもそも「ミュージアム」に展示されているものの多くは、それらがもとあった場所から移動させて集めたものである。それはすでに何かが死んでしまった遺物〔シミュラークル)だと言ったのはボードリヤールで、「ホンモノ」というなら、もとあったところに戻すべだと言いたくなってしまう。

・とは言え、本物の展示物に出会い、それをつぶさに経験することには、やっぱり大きな価値があるとも思う。その経験の場や空間としてミュージアムはどうあるべきか。本書はそのことを真摯に、詳細に分析した好著だから、誰より日本の「美術館」や「博物館」あるいは「ミュージアム」で働く学芸員に読んで欲しいと思った。