2019年11月18日月曜日

『ジョーカー』

 

joker1.jpg・「ジョーカー」は『バッドマン』に出てくる最強の悪役である。この映画の舞台も同様に、ゴッサム・シティというニュー・ヨークに似た架空の都市だ。物語は「ジョーカー」が誕生するいきさつを描いたものだということだが、そんな架空のことではなく、きわめてリアルな話のように感じられた。

・主人公はピエロのメイクをしてサンドウィッチマンをしたり、病院に入院する子どもたちを慰問する仕事をしている。コメディアンとして有名になるという夢を持っているが、すでに中年になって、母親を介護して一緒に暮らしている。そんな母思いで子ども好きの男が豹変するきっかけは、黒人少年たちの悪ふざけだった。同僚が護身用にと貸してくれたピストルを持ち歩くことで、地下鉄で三人を撃ち殺すことになる。女性をからかう男たちを見て、突然笑い出したことが原因だった。彼には発作的に笑い出すという病気があって、その症状が出てしまったのだった。

・母親は自分の父が町の有力者だと言うのが口癖だった。しかしそれを確かめると、それが母の妄想にすぎなかったことがわかる。それだけでなく、母は幼い自分を虐待してきたことなどもわかってくる。で脳梗塞で入院した母を、病室で窒息死させ、ピストルを貸してくれた同僚をはさみで刺し殺す。疲弊した町で不満を鬱積した人たちが、ピエロを英雄視し、仮面をかぶってデモをするようになる。たまたまテレビ出演をすることになって、憧れていたはずのキャスターを撃ち殺して逮捕されるが、その護送車が襲われて、彼は自由になる。

・この映画を見ていて、その展開に引き込まれたが、同時にまた、最近起こった悲惨な出来事を思いだした。京アニの放火事件、障害者施設での殺傷事件、あるいはちょっと古いが秋葉原での無差別殺傷事件等々である。もちろん、アメリカで頻発している銃連射事件のこともだった。思い通りに行かない自分の境遇や人間関係のつまずきに対する悩みや不満が、他人に向けた暴力に向かう。そんな傾向は車のあおり運転や子どもに対する暴力などにもありふれている。

・映画を見ていてもうひとつ考えたのは『タクシー・ドライバー』との類似性だった。大統領候補の事務所で働く女性に好意を持って近づくが、嫌われてしまうことで、候補を暗殺しようと思う男の話だ。ところが、少女売春の現場でひもを殺して少女を解放することで、メディアからヒーロー扱いされることになる。どう転ぶかわからない、そんな社会の不条理さがテーマだった。70年代の映画で、これを見た時には、リアルさと言うよりアメリカ社会の怖さを覚えた記憶がある。ところが『ジョーカー』に感じたのは、身近にもありそうなリアリティだった。

・『タクシー・ドライバー』を思いだしたのは、ロバート・デ・ニーロが出ていたせいなのかもしれない。彼はバラエティ・ショーの人気司会者役で、発作的な笑いがおもしろいと「ジョーカー」を抜擢して番組に登場させて、番組中に彼に撃ち殺されるのである。主人公の名前はアーサーだが、放送中に初めて、自分を「ジョーカー」だと名乗り、殺人鬼であることを国中に印象づける結果になった。

・この映画は日本でもヒット中のようだ。けっして荒唐無稽ではない怖さを感じさせる映画を、どんな思いで見ているのだろうか。そんな興味もあるが、映画館では決して多くはない観客の多くが、紙コップにあふれるポップコーンをもって座席に着いていた。そんなもの食べながら見る映画ではないだろうにと思ったが、ちゃんと食べたかどうかはわからなかった。客席を見回す余裕のないほど没入してしまったからである。

2019年11月11日月曜日

一人になった母のこと

 

・父が死んで1ヶ月半が経ちました。今月の末には納骨式と49日をして、それで一応、やるべきことが済みます。やれやれという感じですが、一人になった母のことが気になります。老人ホームには出来るだけ行こうと思いましたが、台風による崖崩れでで中央道が通行止めになって、予定が立たないこともありました。前回は3連休の初日に出かけましたが、午後の2時すぎだというのに、中央道の渋滞は解消されず、ずい分時間がかかりました。行っても2時間ほどの滞在ですが、それでも朝出て、帰るのは夕方になります。出来るだけ行こうと思っても、1日仕事になりますから、なかなか大変です。

・母は父が死んだことは理解できるようになりました。一日中部屋で一人でいてすることがないから、どうして過ごしたらいいかわからない。外から見られているように感じるから、カーテンを開けるのが怖い。足が弱ってトイレまで歩くのも心許ない。あなたたちが帰ると、余計にさみしくなってつらい。行けばすぐにこんな話をくり返します。だったら訪ねてこない方がいいのかな、と言うと、首を振って、来てくれるのは嬉しいと言います。しかしすぐに、帰ると後がさみしいんだよね、とくり返します。

・母の認知症は脳溢血がきっかけでした。それによって直近の記憶がなくなってしまったのですが、心配性の性癖が消えて、老人ホームではのんびり、楽しく暮らしてきたのです。老人ホームでは絵画や習字、あるいは粘土といった教室がありますし、コンサートやイベントなどもあります。父と二人でそれらにも積極的に参加をして来ました。父以外には話をしたりする人がいないことが気になっていましたが、一人で入居している人たちには、二人でいる人には近づきにくかったのかもしれません。

・父は今年の初め頃から、ほとんど寝たきりで、出かけていってもいるのかどうかわからないような感じで、母とだけ話して帰ることが多かったです。しかし、そんな状態でも、いるだけで安心できていたようでした。父のベッドはまだ置いたままですが、そこに誰もいないことで、母の心配性が復活し、増幅してしまっているのです。教室やイベントにも出かける気がないようですし、耳が遠いし目が疲れるからとテレビをつけることもありません。母はよくラジオをつけていましたが、それも聞く気はないようです。

・しかし、介護をしている職員さんからは、部屋を出て応接室で入居している人と話をしていることもあると聞きました。父が死んだことで慰めてくれる人もあるようです。それを聞いてちょっと安心しましたが、ここで一人で生きていくんだという気持ちを、どうしたら自覚してもらえるか、なかなか大変だなと感じています。時々家まで連れて帰って、数日一緒に過ごそうかとも思います。しかしそれをやれば、老人ホームには戻りたくないというに決まっています。

・ホームに行くときにはパートナーが古い写真をもっていくことにしています。昔の記憶はすぐに思いだして、しかも鮮明に再現することもできますから、なるべくそれを話題にして、一緒にいる時間を楽しく過ごそうとしています。行けば必ず日記帳を取り出して、僕等が来たことを書かせるようにもしています。おそらく時間が解決してくれるのだろうと思います。不安が消えて落ち着けるよう願うばかりです。

2019年11月4日月曜日

それにしても雨が多い

 

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・それにしても雨が多い。前回の「カビと腐食」も雨を話題にしたが、その後立て続けに台風が来て、雨と言えば土砂降りになった。千葉や東北では堤防が決壊して、くり返し水害に襲われている。水が引いて土砂を片づけたらまた浸水。これでは生きる力も萎えてしまうのだろうと思う。台風にしても雨にしても、今までとは規模の違うものが襲ってくる。もう異常だなどとは言ってられないほどだが、政府の対応は何とも心許ない。被災した人たちはなぜ、もっと怒らないのだろうか。

forest162-2.jpg・10月は自転車に乗ったのは二度だけだった。去年は12回も乗っているから、雨がいかに多かったかが改めてわかる。もっとも、父が死んで、そのために東京まで出かけることが多かったから、天気がよくても走れなかった日はあった。山歩きをしたのも2度だけ、精進湖からパノラマ台までの往復4kmほどは、雨には降られなかったが、雲が多くて、富士山は望めなかった。ここには去年も11月に登っている。九鬼山は500mほどを一気に登る急坂できつかった。この日は久しぶりにいい天気で、山の上からは富士山がよく見えた。さて、これから何度ぐらい登れるだろうか。


forest162-3.jpg ・いつものように原木を買い、チェーンソーで切って薪割りを始めている。しかしこれも、なかなかはかどらない。もちろん雨のせいだが、暖かくてまだ、ストーブに火を入れていないこともある。薪を燃やしてスペースを作らなければ、新しい薪を積むことができないからだ。雨に打たれればカビがつく。割る前からこんなふうになるのは、たぶん初めてのことだろうと思う。そう言えば、紅葉も遅い。庭の欅の葉は落ちているが、楓はまだ緑のままだ。河口湖の紅葉祭りも始まって客も増えているが、肝心の紅葉はやっぱり遅れている。

forest162-4.jpg ・外に出られなければパソコンかテレビ。ラグビーのワールドカップにメジャーリーグのプレイオフと、もっぱらスポーツ観戦だったが、地上波では見られない「孤独のグルメ」や「ぽつんと一軒家」など、見たいものはたくさんあった。さて、ラグビーも野球も終わったから、今月は寒くなる前に、自転車や山歩きができるだろうか。
・そうそう、アメリカからやってきたKちゃんファミリーがお土産に持って来たピーカンナッツを使って、パイを作ってみた。ネットで見つけたレシピー通りに作ったが、うまく焼けた。シロップを使わなかったから甘みはいま一つだったが、まあまあ、おいしかった。シュークリーム、パンプキンケーキ、ガトーショコラと作ってきたが、さて今度は何を作ろうか。

forest162-5.jpg・薪割りをしていたら、大きな音がして、何かがバルコニーに落ちた。野鳥が窓に激突して落ちたのだ。家ではよくあるが、冬雪がつもっているときが多い。この時期だと、よっぽどのうっかりものかもしれない。動かなかったが息をしているようで、死んではいないようだった。しばらくすると羽根を動かし、立ち上がった。しかし、しばらくは微動だにしなかった。薪割りを再開して15分ぐらい経った頃に、やっと首を左右に振り、ぴょんと跳ねて飛んでいった。脳震盪を起こしていたのかもしれない。ジョウビタキかなと思ったが、調べるとムギマキのようだ。


2019年10月28日月曜日

立山・称名滝

 

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photo86-2.jpg・毎年10月はパートナーの誕生日に合わせて一泊の旅行をしている。去年は戸隠、一昨年は黒部、その前は白馬だった。この季節だとどうしても紅葉のきれいなところとなって、信州方面にということになる。今年はどこに行こうかと相談して、立山の称名滝に決めた。

・天気予報は雨だったが、近づくと曇に変わり、当日はご覧の通りの秋晴れ。晴れ男・晴れ女は今年も健在だった。大体、旅行中に雨に降られたことがほとんどないのである。まずは甲府に出て、中央道を走り、八ヶ岳のPAで休憩。ここでクロワッサンのあんパンを買うのが恒例になっている。初冠雪だという甲斐駒ヶ岳と北岳がきれいに見えた。

photo86-3.jpg ・ルートは松本から上高地を抜けて奥飛騨を通って富山へ抜ける道を選んだ。上高地まではトンネルが多く道幅も狭いからあまり好きな道ではないが、平日だったからそれほど交通量は多くなかった。平湯からの奥飛騨湯ノ花街道はほとんど単独走といえるほど空いていた。富山平野に出ると立山方面に右折して称名滝へ。五時間半で着いた。駐車場から滝までは1.3キロで30分。きつくはないが、年配の人たちが多かった。霧がかかって遠くは見えなかったが、川がえぐりとった断崖は、紅葉もあって見事だった。そして日本一の滝へ。間近に行くとしぶきがかかるほどで、確かに雄大な光景だった。もちろん、ここでも崩落の危険はあって、途中何カ所も、補修や補強の工事をしていた。

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・富山の駅前のホテルに泊まり、夜は居酒屋へ。名物の白エビの天ぷらとつくね揚げがおいしかった。翌日は日本海沿いに旧道を走って、親不知から糸魚川、姫川沿いに南下して安曇野から高速に乗った。曇っていて富山湾から北アルプスの全景は見えなかったが、剱岳はよく見えた。親不知では海岸に出て翡翠探し(見つかるわけはないが)、小谷の道の駅で野菜などを買い、昼食(蕎麦)をとって、鮮やかな紅葉を横目に見ながら、雨が降る前にと家路を急いだ。河口湖に戻ると本降りの雨。

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2019年10月21日月曜日

竹内成明『コミュニケーションの思想』(れんが書房新社)

 

seimei1.jpg・竹内成明さんは2013年に亡くなっている。その6年後に出た本書は、かつての教え子たちによって編まれたものである。実は彼が書き残した原稿は他にもあって、本にまとめようという話は、ぼくにも持ちかけられた。現在の出版事情や竹内成明という書き手のネーム・バリュー、あるいは世界の情勢やネットなどによる人間関係やコミュニケーションの仕方の変化等々から、ぼくは強く反対した。本にするためにはそれなりの費用が必要だし、在庫の山を抱えて難儀することがわかっていたからだ。しかしそれでも出版した。

・編者の三宅広明と庭田茂吉の両氏は、竹内さんが同志社大学に赴任した時の最初のゼミ生で、それ以降ずっと、彼が死ぬまで関係を続けてきた。彼らより少し年長のぼくは竹内さんの授業を受講したことはなかったが、彼らに誘われて研究会に出席をした。会えば必ず酒盛りになる。酒に弱いぼくには、その関係の濃密さに辟易することもあったが、少し距離を置いて関わるかぎりは、おもしろい集まりであることは間違いなかった。

・ぼくが1989年に出した『メディアのミクロ社会学』(筑摩書房)のあとがきには、その本が竹内さんの『コミュニケーション物語』(人文書院、1986年)に触発されたものであることが書かれている。「この本は人間以前の猿の歴史から始まって活字の誕生までの人びとのコミュニケーションの歴史を、物語ふうに解き明かしたものである。その壮大な時間の流れを、語り部が村人を集めて語って聞かせるような文体で展開していることに強い印象を持った。」だから『メディアのミクロ社会学』は活字以降に登場して人びとにとって欠かせないメディアとコミュニケーションに注目した『続コミュニケーション物語』でもあるとも。

・この本は題名通り、さまざまな哲学者や思想家の業績を「コミュニケーション」を軸に分析した論考を中心にまとめている。たとえば第一章で登場するのはアダム・スミス、プルードン、マルクス、ガンジー、そして中井正一であり、第二章はルソーとデリダである。一章は主に70年代に本の一部として、二章は80年代に同志社大学文学部の紀要に連載されている。ルソーは竹内さんがした思索の出発点にいた人で、紀要という狭い世界で発表されたものであるから、この章が、この本の中心に位置づけられていると言えるかもしれない。

・第三章のメディアの政治学序説は三宅氏の解題によれば1994年に出版された『顔のない権力』(れんが書房新社)の理論的枠組みになっているということだ。しかしぼくは同時に、読み物であることを意識した『コミュニケーション物語』の後に書かれた理論的枠組みでもあるように感じた。第四章は新聞等に書いた書評や短いエッセイを集めている。

・ところで、なぜ、今このような内容で本を出そうと思ったのか。最後に二人の編者が書いた文章を紹介しておこう。先ず三宅氏から。「無知で先の見えない私たちの愚かな話を面白がりながら酒を楽しむ姿に、私たちはいつも励まされ、大人になるのもいいものだと思ったものだ。ちょうどその頃に書かれた文章がここに収められているわけで、当時は楽しい酒宴と発表される論文の広がりと深さのギャップに驚かされながら、同時にそこに通底する竹内の強い意志と価値観に圧倒される思いで読んでいたのを思いだす。」

・なぜ出したかったがわかる一文だが、もう一人の庭田氏はもう少しさめている。「竹内成明の仕事の過去と現在、そして書きつつあったことを考えた。残された、多くの論文や文章がある。何冊かの著書がある。いつか、それら全部を読まなければならない。まだ生々しさが残っているうちに。しかし、時間は残酷である。竹内成明は忘れられつつある。彼の本は消えつつある。本屋からはすでに消えている。大学からも消えている。では、それはどこにあるのか。はたして、読者はいるのだろうか。」

・冷たい言い方だが、ぼくは読者はほとんどいないと思う。ただ若者であったときから現在まで、竹内さんが二人にとってかけがえのない人であったことは、この本には十分すぎるくらいににじみ出ている。ただし、読みながら思ったのは、どの文章も決して時の流れによって陳腐化などはしない、普遍的な問題を深くついていて、筆者の立ち位置に共感できるものであることは間違いないということだ。ものすごく大事なことを問うているのに、ほとんど見向きもされないかもしれない。今はそんな空疎な時代なのである。

2019年10月14日月曜日

コラボの2枚

 

Sheryl Crow "Threads"
Ed Sheeran "No.6 Collaborations Project"

・このコラムの更新は3ヶ月ぶりである。それにしても聴きたいと思う新譜がまったく出ない。今回紹介する2枚のCDも、特に欲しいわけではなかったから、買おうかどうしようか迷った。しかし、3ヶ月も更新しないのは長すぎるからと買うことにした。

sheryl.jpg・シェリル・クロウの"Threads"は"Be My Self"から2年ぶりである。買おうかどうしようか迷ったのは、前作にそれほど感心しなかったからだ。今回はゲストを多く招いている。エリック・クラプトン、スティング、ブランディー・カーライル、キース・リチャーズ、ウィリー・ネルソン、クリス・クリストファーソン、エミルー・ハリス、ジェームズ・テイラー、ニール・ヤング、そしてジョニー・キャッシュ(故人)等々である。そしてそこで歌われているのも、ゲストや他の人のものだったりする。これが最後のアルバムになるかもなどと言っているようだ。引退するつもりなのだろうか。

・なぜ、このようなアルバムを作ったのか。ネットで探すと次のようなことばがあった。「少女だった自分と、床に転がって姉のレコードを聴いていたあの頃の昼下がりから今に至る私の人生の長い旅路を思い返すうちに、優れたソングライターに、ミュージシャンに、プロデューサーになりたいと思わせてくれたレガシー・アーティストたちと一緒に音楽を体感するようなアルバムを作ろうと思い立ちました。彼らと共に祝福し、彼らに捧げるものを作ろう、と」。

・アルバム・タイトルの"Threads"は糸や筋道といった意味だ。複数になっているから、彼女にとって大事な何本もの糸が織り合わされて、一枚の布になっているという意味が込められているのだろう。もちろん糸はそれぞれ、色も太さも材質も違うから、トーンは一つではない。彼女もそんなふうに自分の人生を振りかえる歳になったのかと思う。もっとも、次は若い人たちと仕事をしたいとも言っているから、これでやめるということではないだろう。迷ったが聴き応えのあるアルバムで、買ってよかったと思う。

sheeran.jpg ・エド・シーランの "No.6 Collaborations Project" も多数のゲストを招いている点で共通している。ただしこちらのゲストはぼくにはほとんどなじみがない。ぼくはラップは苦手だからやめておいた方がよかったかも、と思ったが、彼流にまとめられていて、聴きづらくはなかった。日本でやったライブをYouTubeで見て、たった一人でやっているのに感心した、コラボをやってもなかなかだと思った。共演したのは彼が大ファンだった人たちばかりだったようだ。「僕がキャリアの初期の頃から追いかけていたり、アルバムを繰り返し聴き続けているような人たちばかりで、そんな僕を刺激してくれるアーティストたちが、それぞれの曲を特別なものにしてくれているんだ。」ほとんど同時期に似たコンセプトをもったアルバムが出たことになる。

2019年10月7日月曜日

父の死

 

・父が死んだ。享年95歳。老人ホームに入って7年、最後は寝たきりになって、苦しそうに過ごす日が続いたが、最後は静かで、安らかだった。肺に水がたまって入院したと知らせを受けて病院に直行すると、酸素吸入と点滴をして、身体は拘束されていた。それでも「しんどいね」と声をかけると、小さくうなずいた。数日後には退院して、後は点滴も酸素吸入もせず、最後を迎えるようにするということだった。退院した翌日に老人ホームに出かけると、顔色もよく、目を開け、話すような仕草もしていたから、もうしばらく大丈夫だろうと思ったが、翌日亡くなったという連絡が入った。

・脳溢血をやって認知症が進んだ母も、父が死んだことはわかったようで、斎場への見送りもしたのだが、火葬をする日に出かけると、「おとうさんどこに行ったの?」と聞いてきた。「死んだんだよ、今日これから火葬にするんだ」と言うと、「えっ」と驚いたようにしていたが、斎場で火葬にする際には、最後のお別れをしっかり済ますことができた。これから一人で生きていかなければならないが、大丈夫だろうか。さみしいだろうが、すぐに忘れてしまう方が、悲しみにつぶされてしまうよりはいいかもしれないと思ったりした。

・本葬儀をしたのはそれから1週間後だったが、この間、2週間あまり、東京との間を何回も往復し、やるべきことを慌ただしく片づけた。遠いところにある墓ではなく、兄弟や子どもたちが出かけやすいところに新たに求めた。斎場やお寺との打ち合わせについても、知らないことばかりだった。戒名については疑問に思うところもあったが、生前父が直接相談していたから、その意思を尊重することにした。いずれにしても相当のお金がかかったが、すべて父が残したお金でまかなった。

・渡辺の「邉」にはいくつも変種がある。死亡通知書には戸籍通りの文字を正確に書く必要があるし、墓石にも正しく書かなければならない。父とぼくの健康保険カードを見ると少し違っていたから、それを確認するのも大変だった。以前にもそんなことがあったのか、書類を探すと本籍地から平成6年に戸籍上は一つに統一されたというものが見つかった。墓石に刻む年号は元号ではなく西暦にした。大正、昭和、平成と来て、今は令和である。後々のことを考えたら、西暦の方が断然わかりやすいし、そもそもぼくは、ずっと前から西暦を使ってきた。

・ところで父についてだが、高度経済成長期に猛烈サラリーマンとして過ごしてきて、退職後は好きな絵画を楽しんできた。いい人生を過ごしたと思う。ぼくは自分の進路から、政治についての考え方、あるいは生き方に至るまで、父とはずい分違っていて、反発したり、衝突したりすることが多かった。その意味では必ずしもいい関係だったとは言えないが、妥協しなかったことで、自分でも納得できる道筋を歩けたのではと思っている。

・他方で、母親については心配が尽きない。一人暮らしをしたことは一度もないし、何があってもすぐ忘れてしまう。やりたいことが何もないから、食事以外の時はベッドで寝ていることが多いようだ。その食事も、父の具合が悪くなってからはあまり食べなくなって、ずい分痩せたようだ。しばらくはできるだけ老人ホームに出かけるつもりだが、落ちついてくれるといいのだがとつくづく思う。