2020年7月27日月曜日

電通という会社

 

・一般的には、電通は広告会社だと思われている。マスメディアの広告やCMを取り仕切る最大手の会社であるのは間違いないが、それだけではない。そんなことを多くの人たちに気づかせたのが、コロナ禍での中小企業向け対策である「持続化給付金」事業を、国から委託されたことだった。しかも、直接入札したのが実体のない「サービスデザイン推進協議会」で、電通に再委託して中抜きを行ったから、強い批判を受けることになった。コロナ対策については「go to キャンペーン」も強行されたし、2次の「持続化給付金」もあるが、批判を浴びて、電通は応募をやめるようだ。

・電通は日本最大手で世界第5位の広告代理店である。ウィキペディアによれば、1901年に「日本広告」という名で設立され、1907年に通信業務を加えて「日本電報通信社」(電通)になった。満州国で「満州国通信社」を創設して国策会社となったが、戦後は広告業務に限定した会社として再出発をした。テレビの普及とともに企業は急成長し、1984年のロス五輪以降スポーツイベント等に業務を拡大して現在に至っている。コロナで延期になった東京五輪についても、国や都の命を受けて開催権獲得に強い力を発揮したと言われている。

・現在では電通は広告会社ではなく、さまざまなイベントを企画し実行する会社であり、国から委託されるさまざまな業務を引き受けて、下請けの会社に再委託する会社になっている。経済産業省や総務省などとの関係を強くし、また内閣府にも深く入り込んで、この国の政策やその宣伝方法、あるいは世論の操作や政権批判に対する情報監視の役も担っているようである。過労死事件などが起きて、その企業体質が問題にされたりもしたが、国との強い関係が変わっていないことは、今回の業務委託でも明らかである。何しろ官僚の天下りは、他社の追随を許さないほどなのである。

genpatu.jpg・電通が国の政策に大きく関わっている例としては、原発行政とその宣伝が上げられる。このコラムでも本間龍の『原発広告』を取り上げたことがある。原発広告は3.11前までに総額で4兆円以上が使われ、安全神話の造成とメディアの懐柔という役割を果たしてきた。この本には、そのような実体について、メディアがほとんど批判してこなかった経緯が詳しく書かれている。この国と電通とメディアの関係は、延期になった東京オリンピックでも変わらない。主要な新聞やテレビはオリンピックを協賛しているから、そこにある問題を面と向かって取り上げて批判することなどできないのである。

・内田樹がTwitterで「『電通は五輪延期と裏金疑惑の訴追で経営危機に瀕するのではないか』ということは新聞読んでれば誰でも推察することだし、『その場合何が起きるのか』は多くの人が知りたいことだと思うけれど、この主題についてはすべてのメディアが完全黙秘していますね。」と書いて、「メディアを久しく支配してきた巨大広告代理店が経営危機でメディアの現場をグリップできなくなった場合に『何が起きるか』ということに僕は興味があるんですけれど、誰かシミュレーションしてくれないかな。」と続けている。

・全く同感だが、どうせなら、オリンピックが中止になり、安倍政権が倒れたらどうなるかまで予測したくなる。電通と日本とどっちが先につぶれるか。悪い冗談ではないことが恐ろしいのである。

2020年7月20日月曜日

コロナと雨

 

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forest168-2.jpg ・コロナの緊急事態宣言が解除されて、山登りができるようになったのに、毎日雨ばかりで、ほとんど登れていない。唯一行ったのは篭坂峠で、山椒薔薇を求めて3週連続出かけた。3度目の正直で満開の山椒薔薇を堪能した。霧が立ちこめていて幻想的な雰囲気だった。山椒薔薇は山中湖村の村花だが、村中に咲いているわけではない。天気のせいもあるが、誰にも会わず、あちこちに咲き誇る花を独り占め、という感じだった。数年前に摘んだ種を家の庭に蒔いたが、数センチの高さに成長して、日当たりのいいところに移しかえたりしている。さて成長して花が咲くまで何年かかることか。

forest168-3.jpg・河口湖のハーブ祭りも今年は中止になった。しかし、ラベンダーは咲いていて、人混みもないからゆっくり鑑賞出来た。ホテルが再開して、それなりに人も来ているが、何といっても外国人がいないし、観光バスも来ないから、静かなものだ。雨の合間を見つけて自転車で湖畔を一周している。例年なら車と歩行者を避けて走らねばならなかったのに、今年はそんなこともない。ただし、7月になってからは雨ばかりだから、天気予報と空模様を見て、出かけるかどうか判断しなければならない。コロナ同様、大雨もまた、環境破壊の影響で、深刻な被害がまた今年も続発している。

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forest168-5.jpg・東京はまた感染者が増え始めている。母のいる老人ホームは面会ができるようになったが、事前に予約をして2人で15分という制限がある。往復4時間かけて15分では、何しに行くのかという感じだし、どこかに寄ってというのは気が進まないから、まだ行っていない。会わなくなってもう半年になるから、本当に忘れられてしまうかもしれない。正月以来会ってない孫たちも、この間にどんどん成長しているようだ。『コミュニケーション・スタディーズ』の改訂作業も済んで、さあ夏だ!といきたいところなのに、コロナと雨が幽閉生活を強いている。湖畔一周の自転車だけが解放感を与えてくれるのだから、梅雨前線よなくなれと願うばかりだ。

2020年7月13日月曜日

レジ袋とストロー

 

・レジ袋が有料化されるというニュースに驚いた。もうとっくに有料化されているじゃないかと思ったからだが、経済産業省の通達で、制度化されたということだった。今まではスーパーなどで自主的にやっていたのだと、改めて認識した。しかし、レジ袋を有料化するという動きには、既に20年以上の歴史がある。レジ袋一つで、何でこんなに時間がかかるのかと思うが、実は、僕はずっとレジ袋の有料化には疑問を呈して批判してきた。

・その理由は、2007年に書いた「レジ袋は必要です」に尽きる。プラスチック・ゴミの中でレジ袋が占める割合は極めて低い(2%)のに、相変わらずレジ袋しか槍玉に上がらないという点についてである。もっとも数年前からストローが加わって、使うのをやめたカフェやレストランが出てもいる。しかし、レジ袋とストローだけでプラスチック・ゴミがなくなるわけではないから、どっちにしても典型的な「スケープゴート」であることは変わらない。

・とは言え、プラスチック・ゴミが環境に与えている害を軽視しているわけではない。むしろ逆で、もっと徹底的に規制すべきだと思っている。道を歩いていて、あるいは車に乗っていて目立つのはポイ捨てされたペットボトルや空き缶だし、スーパーの買い物でゴミになるのは、肉や魚を入れたトレイだし、生鮮食品から乾物まであらゆるものに使われているビニールの袋等々である。わが家ではクズカゴにレジ袋を入れて使っている。3日も経てばゴミでいっぱいになるが、そのほとんどは石油由来のプラスチックやビニールである。

・もちろん、ここ20年ほどの間に、ゴミの選別が進んで、再利用出来るものも多くなった。新聞、雑誌、段ボール、そして発泡スチールなどは処理業者のところに持っていくことにしているし、スーパーにはペットボトル、アルミ缶、スチール缶、瓶、牛乳パック、そして発泡スチールのトレイなどを選別して受け入れる箱が用意されている。しかし、再利用出来ずにゴミ袋に入れるものはまだまだ多い。収集されたゴミは焼却場で焼かれるから、二酸化炭素その他の物質を大気に排出する。

・経済産業省のホームページにはレジ袋の有料化について「普段何げなくもらっているレジ袋を有料化することで、それが本当に必要かを考えていただき、私たちのライフスタイルを見直すきっかけとする」と書いてある。今さら何を言っているのかと思うし、消費者の責任に転嫁しているから腹が立つ。プラスチックの容器を使って製造・販売する製造業者や販売業者には、何の規制もないままなのである。

・レジ袋の変わりにトートバックを使いましょう。こんな呼びかけを受け入れて、わが家でも数年前からトートバックを使い始めた。しかし、生ものや冷凍ものをいれたりするから汚れることが多い。定期的に洗ったりもするし、何年か使って捨てたりもしているが、コロナ禍で、ウィルスを運びかねないことが指摘されたりもしている。その意味では極めてタイミングの悪い制度だと思う。その点を考慮して、終息するまで延期するといった柔軟さがないのが、日本のお役所仕事の悪弊だというほかはない。

・コロナ禍といえば、外食が規制されて店はテイク・アウトで販売するようになった。当然、プラスチックの容器や包装ラップが大量に使われて、それがゴミとして捨てられているはずだが、そのことを指摘する声は皆無だと言っていい。使わなければ店はやっていけないし、食べたいものが食べられなくなってしまうかもしれないが、それはご都合主義と言うものである。せめて容器をすべて紙製にするといった対応ぐらいはすべきだと思った。

・プラスチックがゴミとしてどれだけ環境に悪影響を及ぼしているか。そのことに真摯に向き合えば、レジ袋やストローで何とかなる問題ではないことはすぐにわかるはずである。「スケープゴート」にしているのは、やる気がないことの証明にしかならないのである。世界からの批判に推されて石炭火力発電は縮小させると言うが、原発は使うと言う。どちらも政策に、根本的にどうするかという理念がない証でしかないのである。

2020年7月6日月曜日

田村紀雄『自前のメディアを求めて』

 

tamura.png田村さんについては、1年前にカナダ移民について書かれた『移民労働者は定着する』を紹介したばかりだが、また新著をいただいた。80代も後半だというのに、気力充実ですごいなと感心した。とは言え、『自前のメディアを求めて』は書き下ろしではなく、インタビューで、聞き手は『鶴見俊輔伝』をまとめた黒川創さんである。
黒川創さんからメールで、田村のこれまでの生涯60年間をこえる執筆作業について話を聞きたいと言ってきた。私も小さな新聞・雑誌を発行していた人たちに「パーソナル・ヒストリー」として聞き書きをとる仕事はたくさんしてきたが、立場をかえてじぶんの生涯をインタビューされるとは思いもよらなかった。
もちろん、このインタビューには事前に入念な準備がなされている。田村さんは少年時代の戦争体験から始まって、最近の仕事に至るまでを思い出し、調べ、整理しなければならなかったし、黒川さんには田村さんの著書の多くを読む必要があった。で、話はゼミでの教師と学生のやり取りのようにして行われた。

田村さんは1934年に群馬県前橋市で生まれている。自宅が爆撃されるという戦争体験、高校生の時の「レッドパージ」、東京に出て働きながらの大学生活、卒業後のフリー・ライターという仕事と関西移住、そこで何人もの研究者と出会って、メディアやコミュニケーションについて関心を持つようになる。その業績が認められて東京大学新聞研究所の助手になり、桃山学院大学、そして東京経済大学で教鞭をとり、研究者としての仕事を続けるようになった。

田村さんの仕事は大きく三つにわけられる。一つは小さなメディアとジャーナリズムに対するもの、そして田中正造を中心にした足尾銅山と鉱毒にまつわるもの、それからカナダを中心にした日本人の移住についてである。インタビューはそれぞれについて、代表作を中心にしながら行われていて、田村さんの記憶力と、黒川さんの読み込みの深さに感心させられた。実際に書かれたことの背後や奥にあるものについて質問し、そのことについて明確な理由が述べられていたからだ。

田村さんの研究は三つにわけられるとはいえ、そこには一貫して小さなメディアがあった。 彼の最初の著書は『日本のロ-カル新聞』(現代ジャーナリズム出版会)で、60年代から70年代にかけて盛んに発行されたミニコミやタウン誌に注目した『ミニコミ 地域情報の担い手たち』(日本経済新聞社)や『タウン誌入門』(文和書房)、そして『ガリ版文化史 手づくりメディアの物語』(新宿書房)などがある。しかし、『鉱毒農民物語』(朝日選書 )や『明治両毛の山鳴り 民衆言論の社会史』(百人社)にしても、『カナダに漂着した日本人 リトルトウキョウ風説書』(芙蓉書房出版)や『日本人移民はこうして「カナダ人」になった 『日刊民衆』を武器とした日本人ネットワーク』(芙蓉書房出版)にしても、その仕事のきっかけや研究の材料になったのは、その動きや運動の中で発行された新聞や雑誌だったのである。

僕は田村さんと大学院の学生の時に知り合い、雑誌『技術と人間』で一緒に「ミニコミ時評」をやり、彼が編集した『ジャーナリズムの社会学』(ブレーン出版)等に寄稿した。また彼が中心になって開設した東京経済大学コミュニケーション学部に、大学院開設時から赴任している。もう五十年近いつきあいで、彼から教えられたこと、影響を受けたことは極めて大きかった。本書には、そんな僕にとっても懐かしい場面の話がいくつも登場してくる。

この本のタイトルは「自前のメディアを求めて」で、田村さんは一時期『田中正造研究』を出していた。僕も田村さんと知り合った頃から、最初はガリ版、和文タイプと謄写ファックス、そしてワープロ、パソコンを使って自前のメディアを発信し続けてきた。このホームページは1995年以来25年になる。その意味で、田村さんからは、何より自前のメディアの大切さを教えられたと思っている。

2020年6月29日月曜日

Pearl JamとStereophonics

 

Pearl Jam "Gigaton"
Stereophonics "Kind"

jam3.jpg・パール・ジャムとステレオフォニックスは、僕が聴ける数少ないロック・バンドで、新譜が出るとほとんど買っている。そのパール・ジャムのアルバムは6年半ぶりのようだ。リーダーのエディ・ベダーのソロアルバムの方がじっくり聴かせる感じでいいのだが、今度のアルバムには、そんな落ち着いた歌もある。3月にリリースした後、今ごろはヨーロッパをツアー中だったはずだが、コロナ禍でキャンセルされたようだ。
・ アルバム・タイトルは「メガトン」の上を行く「ギガトン」という意味なのだろうが、それと同名の曲名はない。ジャケットは海洋生物学者のポール・ニックレンの作品を使用していて、ノルウェイのスヴァーバル諸島で撮影した、地球の温暖化によって解け出した氷河だという。ギガトン級の規模と速さで温暖化が進むことへの警鐘なのかもしれない。

・とは言え、アルバムのコンセプトが地球温暖化にあるわけではないようだ。エディ・ベダーはデビュー以来、政治的なメッセージを歌に載せてきたが、今度のアルバムでもトランプ大統領を批判することばがいくつも出てくる。


国境を越えてモロッコへ
カシミール、それからマラケシュ
トランプがまだ台無しにしてない場所を見つけて
どこまでも行かなければならない "Quick Escape"

ヤツが何と言い、何と言われたか
認めたくはないだろうが、ヤツの良き日は去った "Seven O’Clock"


stereophonics7.jpg・ステレオフォニックスの"Kind"は意外なほど穏やかなサウンドで仕上げられている。音は激しくても、メロディがあって歌詞に物語がある。それがこのグループの魅力だったが、この新譜は、僕にとっては音も好ましい。パール・ジャムはバンド結成30周年だが、ステレオフォニックスも20年を超えたようだ。ネットで見つけたこのアルバムの批評には、前作の"Scream Above The Sounds"を2017年に出して世界ツアーをした後で、リーダーでほとんどの楽曲を作っているケリー・ジョーンズがバンドを辞めたいと言い出したそうだ。で、しばらく休息期間があって、今までとは違う歌が生まれてきた。心身ともに疲れ、ただ休息をしようとした時に、自然に生まれてきた曲ばかりだと言う。今度のアルバムには、物語のある曲はないが、生ギターだけの曲もあって、繰り返し聴いている。

流れ星が遠くにあり
君はジャーから水を飲む
僕は自分の傷を癒やしたい
子供の世話をし、妻の面倒を見る
だが、自分の落ち着かない心にはあまり優しくなれない "Restless Mind"

・ケリー・ジョーンズには高校生の娘がいて、彼女が性同一障害であることをカミング・アウトした。その時に感じた動揺をもとに作った曲が、このアルバムの中にあって、シングル・カットされている。歌詞からはよくわからないが、ビデオ・クリップを見れば納得する。 「何もかも上手く行く。全て大丈夫だ」。親として悩み、葛藤した後で出てきたことばだと思う。。→"Fly Like An Eagle"

2020年6月22日月曜日

テレビ中継とスポーツ

 

・プロ野球がやっと始まった。とは言え、しばらくは無観客で、試合はテレビで観戦するしかない。台湾は既に客を入れて試合が行われているし、韓国でも1ヶ月以上前に始まっている。日本よりも感染者数も死者数も多いヨーロッパでも、既にサッカーのドイツのブンデス・リーグやスペインのラ・リーガ、そしてイタリアのセリアAも行われていて。イングランドのプレミア・リーグも始まったが、それらももちろん無観客だ。

・無観客でも試合ができるのは、テレビで大勢の視聴者が観戦して、リーグやチームには放映権料が入るからだ。ヨーロッパのサッカー・リーグは世界を市場にしているから、収入の多くがテレビの放映権になっている。日本のプロ野球は、最近では、地上波ではめったに中継されていなかった。BSやCSで多くの試合を中継していたが、その放映権料は決して高くはないだろうと思う。試合数も少なくなったから、当然、収益減になるのだが、選手への報酬をどうするかという話は進んでいないようだ。とりあえず試合を始めて、お金については、後から決めようというわけだが、選手はいったい、どこまで納得しているのだろうと疑問に感じている。

・他方で、アメリカのMLBは選手会との交渉が難航して、開幕出来るかどうか危ぶまれている。当初は7月4日の独立記念日からシーズンを開始するといわれていたが、それ以前のキャンプや練習試合の期間を考えると、既に不可能になっている。一体、シーズンを何試合にするのか。選手の報酬をどうするのか。感染を恐れて出場を辞退する選手をどう扱うのか。そういったことがなかなか決まらないのである。MLB、各チームのオーナー、そして選手にとって、何より大事なのは、どれほどの収入が確保できるかだから、銭闘などと皮肉られてもいる。もちろん、経済的な事情はチームによってさまざまだし、選手がもらう報酬も、格差はあまりに大きなものである。

・MLBの各チームはそれぞれ、全米各地の小都市に4つか5つのマイナーチームを持っていて、若手の育成や、地域のファン獲得に努めている。経済的な負担から、その球団を縮小しようという動きがあったのだが、コロナ禍で、マイナーの選手を解雇した球団が続出した。あるいは解雇はしないまでも、報酬を払わないところもいくつかあった。マイナーの選手の年俸は100万円にも満たなかったりするようだが、それさえ払わないというのは、あまりに現金だというほかはない。

・他方で、一流選手の年俸は高騰が続いている。たとえば大谷選手が所属しているエンジェルスのトラウト選手は昨年、12年で479億円の契約をした。毎年40億円というのは。試合数で割れば2500万円になる。同じ野球なのに、シーズン通して100万円しかもらえない選手との格差には驚いてしまうが、野球にかぎらず、一部のエリート選手にお金が集中する傾向は、どんなスポーツでも変わらないようだ。もちろん、多くのスター選手がマイナーの選手やスタッフ、あるいはコロナ関連で多額の寄付をしている。しかし、格差そのものを疑問視する声は少ない。

・プロ・スポーツが無観客でもシーズンを開始できたのは、テレビの放映権料が入るあてがあったからである。実際それは、入場料収入よりもはるかに大きな額になっている。ただし、MLBのマイナー・リーグでは、入場料以外の収入は得られないから、今シーズンはなしということになった。そこは1部、2部を入れ替え制にしている世界中のサッカーリーグとは違うところである。小都市にある小さな球場で、将来、メジャーに上がるかもしれない選手を応援する。我が町の我がチームを支えているからこそのメジャーなのだが、それが壊れてしまいかねない状況なのである。

・コロナ禍でプロスポーツとテレビの関係が改めて浮き彫りにされたが、スポーツがテレビに左右されるのは、オリンピックの真夏開催でも明らかになっていて、そこにも巨額な放映権料という問題が立ちはだかっている。テレビでいろいろなスポーツを楽しむことができるのはいいことだが、テレビによってスポーツがむしばまれていることを目の当たりにすると、何とも矛盾した思いに捕らわれてしまう。スポーツを金のなる木に変えたのはテレビだが、そのスポーツをダメにしてしまうのもテレビなのである。

2020年6月15日月曜日

安全と安心

 

・コロナ禍が落ち着いて、終息宣言も出された。人びとの生活が少しずつ元に戻ってきているが、誰もがおっかなびっくりといった状態に変わりはないようだ。新しい生活様式が上から推奨されているが、それで果たして本当に安全なのか不確かだし、経済活動も社会活動も、結局のところどうしたらいいのか、本質的なところは何もわからないのが現状だろう。その根本的な原因は、「安全」と「安心」の曖昧な関係にあるように思う。

・「安全」とは危険でないことを意味する。それは客観的な事実やデータに基づくもので、コロナで言えば、感染の恐れがない状態になることである。もちろん、100%とはいかないから、どこかで線引きが必要になる。これまでの例で言えば、新型インフルエンザの感染者数と死者数程度ということになるかもしれない。日本では毎年1割が感染し、1000人程度の死者が出ていたのに、それで三密を避けろとか、営業を自粛せよとかは言われなかったからである。ここにはもちろん、ワクチンが開発されて、希望者には全員、それが投与されることが必要になる。

・しかし、そうなるのは早くても来年以降のようだから、これから第二波や三波に備えて、より「安全」な状態にもっていくことが喫緊の課題になる。どうしたらそれが可能になるのか。おそらく、三密を避けた生活様式の励行や、人の集まる場でのマスクや距離の取り方ではないように思う。それらは結局、客観的な根拠のない対処法で、何となく「安心」を感じることに過ぎないからである。つまり「安心」とは、あくまで主観的に心が安らぐ状態のことであって、実際に「安全」であるかを確認するものではないのである。

・街中でマスクをつけない人を見かけたり、他県ナンバーの車とすれ違うと、何となく「不安」を感じてしまう。みんなが自粛をしているのに、営業している店や、海や山にでかけるのはけしからん。そんな空気が蔓延して、誰もが、その標的になるまいと萎縮をしてしまっている。政府や自治体、それにメディアがそれを推奨したりするから、誰もが「不安」の払拭に敏感になっている。何しろ「自粛警察」なる勝手な取り締まりが横行したりもしているのである。

・これは日本人が陥りがちな、良くない精神状態だと思う。たとえ「安全」であっても、けっして「安心」できるわけではないし、「安心」したからといって、必ずしも「安全」なわけではない。そこに無自覚になって「安全・安心」とひと括りにしてしまっている。ましてや「安心感」なるものは自己満足や自己納得以外の何ものでもないのである。

・コロナに安全に対処する方法は、感染者をできる限り多く見つけることで、「PCR検査」や「抗体・抗原検査」を大量に迅速にすることに尽きると思う。現在いくつかの大学で行われている「抗体・抗原検査」では被験者の0.7%ぐらいに陽性反応が出ているようである。極めて少ない数字だが、しかし、日本の人口では80万人ということになって、公表されている感染者数の50倍もいることになる。ちなみに、東京都の3月と4月の死者数が合計で、過去5年の平均値より1481名多かったそうだ。コロナによる死者数は、同時期で119名とされているから、実際には10倍以上多かったということになる。感染者数や死者数の報告がいかにいい加減なものかを如実に表していて、こんな数字で「安心」したり「不安」になったりするのはばかげたことだと感じてしまう。

・ウィルスの感染力が弱まるのは人口の6割以上の人に抗体ができた時だと言われている。スウェーデンの方針は、それを目指して、ほとんどの制限を設けなかったようだ。それでもとても6割には達しないし、死者数も多いから批判されること多いようだ。しかし、経済活動にそれほどの支障は起きなかった。日本はお粗末な政策にもかかわらず、理由の定かでない要因(factor x)で死者数が抑えられている。ところが「不安感」を煽って、経済活動や社会活動が恐ろしく停滞させてしまっているのである。

・皆保険制度が徹底している日本では、年一回の健康診断が義務づけられている。この時に、わずかの血液採取で済む「抗体・抗原検査」を行えば、かなりの人の感染状態がわかるはずである。何より優先すべきことが、そこにお金と人員をつぎ込むことであるのは自明なのである、「安心感」ではなく「安全」であることを徹底させて、不要な自粛をやめること。それができるかどうかが、日本の未来を左右するように思うが、多分、「go to キャンペーン」や「オリンピック」を電通と結託して決行しようとしている政権では難しいだろう。