2020年8月17日月曜日

テレビとコロナ対応

 

・2週間北海道に行ったせいでテレビをほとんど見なかった。テレビがなければないで、何の不満もない。しかし、帰って1週間、またいつも見ているものを見るようになった。とは言え、相変わらず再放送が多い。よく見ている旅番組は取材ができないのだから仕方がないが、見方はいい加減になるし、途中でやめることも少なくない。だからテレビではなく、ネットで映画やYouTubeということになる。

・もっとも、ネットでしか見られないテレビ番組もある。たとえばTVerではわが家では見られないテレビ東京やテレビ朝日の番組を見ることができる。「ぽつんと一軒家」「カンブリア宮殿」「ガイアの夜明け」などだし、「情熱大陸」などの夜の遅い番組もいくつかある。何しろ山梨県では民放が二つ(NTV系とTBS系)しか見られないのである。だから、テレビを見る時間は減り、そのぶん、パソコンを見つめることが多くなった。

・コロナ禍で中断していた火野正平の「心旅」が再開された。しかし、そのコロナ対応の仕方には首をかしげることが多かった。女好きの彼が、美人やかわいい娘を見つけると、磁石に吸い寄せられるように近づいていく。反対に中年過ぎのおばさんには後ずさりする。そんな対応がこの番組の魅力の一つだったのだが、社会的距離をとるために制限された。

・それは仕方がないのだが、自転車を走らせる時にマスクをつける姿には「なぜ?」と言わざるを得なかった。あるいは、昼食が弁当ばかりというのも、やり過ぎではないかと感じた。「安全」ではなく「安心」。それも視聴者からの疑問や批判を避けるための過剰防衛なのだろうか。だから当然、面白くない。三重から始まり静岡で中断され、神奈川から再開されて茨城で終わり。さて、秋に北海道から始められるのだろうか。

・「ぽつんと一軒家」は新しいところではなく、以前に訪ねたところをリモートで再訪という形式をとっている。それなりに面白いが、再放送の部分が多いから中だるみしてしまう。それでも視聴率は相変わらず高いようだが、いつまで続けられるか。この番組にかぎらないが、コロナ対応がテレビ離れを加速させるとしたら、それに合わせた新しい形式の番組が必要で、製作者たちの頭を悩ましているのだろうと思う。

・MLBが7月の末に始まった。わずか60試合で、ポスト・シーズンを拡大させた変則のシーズンだ。無観客で席には顔写真が並び、人工的な歓声などの工夫がされている。相変わらず感染者が多いから、客を入れることは難しいようだ。カージナルスなど感染者の多いチームは試合をできないようだから、この後どうなるんか見通しが立たないだろうと思う。DAZNを再開しようと思ったが、MLBの中継をやらないので解約をした。NHKは大谷一辺倒だから、ほかの選手の試合を観ることができない。その大谷は右腕の筋肉を痛めて今期は打者専任で行くことになった。

・それにしても暑い。コロナ禍がなければ今頃はオリンピックが終わったはずである。酷暑で大変だったから、延期になって良かったと思う。もちろん、来年だってできるわけはないし、やってはいけないだろう。ところがテレビは来年のオリンピックを話題にした番組を作り、ニュースを流している。コロナに猛暑の二重苦で、できるのだろうか、やっていいのだろうか、などといった発言が皆無なのが恐ろしい。そう言えば、モーリシャス沖のタンカー座礁事故は重油を大量に流出させて大きな出来事になっているのに、日本のメディアはほとんど報道していない。いやなことを隠す体質が、あちこちで露骨になっている。

2020年8月10日月曜日

久しぶりの北海道、その2

 

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hokkaido-2.jpg・旅も7日目になり,キャンプ生活にもくたびれたので、知床ではキャンプ場をキャンセルして、知床のホテルに続いて羅臼の旅館に泊まることにした。この日は船で知床岬まで行っただけだった。この船にはもう半世紀近く前に乗ったことがある。大学生の時に友達二人と小さなテントと寝袋を担いで、列車に乗った旅だった。旭川駅を拠点に夜行列車で知床に行き、そしてまた夜行列車で旭川に戻る。次はまた夜行列車で稚内に行き、また夜行列車で旭川に戻る。当時はもちろん蒸気機関車だった。そんなことを懐かしみながらの岬巡りだった。
・そう言えば、その時にも大雪山に登っている。やっぱり旭川駅からバスに乗り、ロープウェイに乗って、旭岳から黒岳に縦走をした。そしてまたバスで旭川へ。元気だったなとつくづく思った。

hokkaido-3.jpg ・そんなわけでホテルと旅館で2泊して、8日目は羅臼から野付半島、別海町を通って屈斜路湖へ。ここではまたキャンプ場のキャビンに泊まった。キャンプ場に着くといろいろ張り紙に書かれていて、キャンプ場ではマスク着用、ゴミは持ち帰り、車もキャビンに横づけ出来ずにリヤカーで運ぶなど、ほかとは違う様子だった。料金は一番高く、しかも前金で払うことを要求されていた。トイレや炊事場もお粗末で、ちょっと腹立たしかった。
・今日は初めての雨で、野付半島から16kmの距離にある国後島は見えなかった。北方領土ということばが目についたが、今ではロシアから、北方領土は存在しないと宣言されていて、政府もことばを使わなくなっている。 別海町で乳製品や肉などを仕入れて、屈斜路湖に向かった。

hokkaido-4.jpg・9日目は摩周湖、阿寒湖を経由して釧路湿原へ。朝はまだ雨が降っていたのに、出発する頃には上がって、摩周湖に着いた時には晴れ間も見え始めていた。で、摩周湖は霧ではなくはっきり見ることができた。阿寒湖は観光地化されていて、駐車場が有料だったので、素通りして湖畔の道を行き止まりまで走らせた。湖畔に出られる道をやっと見つけて一時過ごして、釧路湿原まで。湿原ではカヌーに乗った。北海道では車が皆スピード・オーバーで走っている。50km制限のはずなのに70kmぐらいは当たり前で、その車をさらに追い越す輩が続出した。中には大型のトラックがあったりしたから、事故が多いのもうなづける気がした。高速道路も整備されてきたようだが、あまり必要ないのではとも思った。この日は達古武湖畔のキャンプ場だったが、屈斜路湖と違って素晴らしかった。

hokkaido-5.jpg・10日目は釧路の町から池田町、帯広を通って富良野まで。毎日ひたすら走っている。この日は湿原の展望台以外には見るところもなかった。富良野では朝食付きのログハウス・キャビンで2泊した。
・11日目は旭岳に登るつもりだったが、台風崩れの温帯低気圧で、朝から暴風だった。当然ロープウエイは運休だったが、とりあえずは行ってみることにした。ビジターセンターで旭岳周辺の山々のビデオを見て、近くの天人峡へ行ったが、温泉のホテルは廃屋で、羽衣の滝に行く道にはゲートがあって、熊出没で危険と書いてあった。行くのはやめて、美瑛の丘や富良野のラベンダー畑等を見ながら宿に戻った。

hokkaido-6.jpg・12日目は日高の美術館に立ち寄って、サラブレッドを生産する牧場が続く道を走ってフェリーに乗る苫小牧まで。競馬はやらないからわからないが、名馬を産出した牧場や種牡馬になった有名馬がいる牧場もあるんだろうななどと思いながら車を走らせた。港に着くと出港にはまだだいぶ時間があるのに、車が並び、バイクが集まり始めていた。コロナ禍とは言え、北海道に来ている人が大勢いることを実感した。フェリーは大洗まで20時間ほどかかるが、ほとんど個室で過ごした。旅に出てから夕食を食べるとすぐに睡魔が襲ってきて8時過ぎには寝てしまっていた。この日も船の揺れなど気にせず爆睡で、朝目が覚めた時には宮城の金華山沖だった。午後2時には下船して、河口湖には5時過ぎに戻った。
・13日間の旅が終わった。事故もなく感染もせず(?)無事帰宅できたことを感謝して、眠りについた。家はかび臭かったが、掃除や洗濯は当然、後回しだった。

2020年8月3日月曜日

久しぶりの北海道 その1

 

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photo88-2.jpg・コロナの第二波が始まり、「go to キャンペーン」などという自殺行為が実行されている。こんな時にと躊躇をしたが、以前から予定していた北海道旅行に出かけることにした。全行程車で移動して、主に道東のキャンプ場で過ごしている。北海道は感染者が多く、既に第二波も来ていたが、その多くは札幌や小樽といった都市部だったから、そこは避けて、ルートを作っている。車とキャンプでの北海道は30年ぶりである。
・1日目は盛岡まで。途中福島から仙台にかけては猛烈な雨だった。山形では最上川が決壊したようだ。日本海のルートを取らなくて良かったと思った。岩手県は感染者が0のままだったが、たまたま1号が出たようだった。道を歩く人のマスク姿は少なかったが、ホテルの人に聞くと、室内ではマスクをしているということだった。1号になるまいと、みんなプレッシャーがかかって、大変だったろうと思う。

photo88-3.jpg・2日目は青森まで走って、青函フェリーで函館へ。昨日までの雨が嘘のように快晴で、暑い。船はほとんどが大型トラックで、乗用車は10台ほどだったから、客席はがらがらだった。津軽半島と下北半島の間を通ると、まもなく函館。4時間ほどの時間だった。ホテルに着くと「go to キャンペーン」の手続きの話と、食事が一人2000円引きになる券をもらったが、使えないウニの専門の店に入った。
・3日目は函館から層雲峡まで、500km程だが、ほとんど高速で6時間ほどで着いた。もちろん札幌は素通りで、最寄りの上川町のスーパーで食料を仕入れ、キャンプ場で宿泊した。森の中で鳥の声などがしたが、アブとハエの大群には参った。ガスのボンベはあるのに肝心のコンロを忘れて、また上川町に戻り、ガスコンロを買った。長距離運転の疲れのせいか食欲がなく、軽い食事にした。

photo88-4.jpg・4日目は黒岳に登った。ロープウェイとリフトで7合目まで行ける楽々登山のルートのはずだったが、岩ばかりの急坂できつかった。好天とは言え、この辺りには珍しいほどの暑さで、汗びっしょりになって、やっと頂上へ。膝が笑うほどの急坂降りでへとへとになった後に温泉に入って、キャンプ場に戻った。寝袋と薄いマットだけでは寝つけなかったが、この日は、食事の後にはもう爆睡で朝までぐっすりだった。
・5日目はサロマ湖へ。紋別の町でオホーツク流氷科学センターでクリオネを見て、町を一廻りしてサロマ湖へ。サロマ湖はオホーツク海に繋がっている汽水湖で、北海道で最も大きく、日本でも3番目に大きい湖である。キャンプ場は湖口近くにあって、ほとんど原野と言ってもいいところにあった。ここまで来ているのだからと湖口まで行ったが、テトラポットばかりで、何の風情もなかった。放っておけばふさがってしまうほど川から流れ込む土砂が多いので、絶えず浚渫工事をしているようだった。実は、ふさがっていたものをわざわざ海と繋げた歴史があったのである。

photo88-5.jpg・6日目はサロマ湖から知床へ。まずはサロマ湖の反対側の砂州に回り、タンデム(二人乗り)自転車をレンタルして、新しく造った湖口と真水が出る「ワッカ原生花園」まで行った。初めての二人乗りでバランスが取りにくかったし、ロードバイクと違ってやたらに重かった。今日も好天で、汗をかくほど暑かった。網走の町に入ったら、急に車や人出が多くなり、道外の車も目立つようになった。知床に近づくと一層顕著になって、観光地とそうでないところの違いが如実だった。最も今日は日曜日だから、人出が多いのも頷けた。この日は久しぶりにホテルで過ごした。
・こんなわけで、老夫婦で弥次喜多を続けている。家に帰るのは1週間先で、これからは屈斜路湖や釧路湿原、そして富良野で過ごして、苫小牧からフェリーで大洗まで戻る予定にしている。30年前は小学生の子どもたち2人と一緒の旅行だったが、今回は二人。色々思い出しながらの旅になっている。

2020年7月27日月曜日

電通という会社

 

・一般的には、電通は広告会社だと思われている。マスメディアの広告やCMを取り仕切る最大手の会社であるのは間違いないが、それだけではない。そんなことを多くの人たちに気づかせたのが、コロナ禍での中小企業向け対策である「持続化給付金」事業を、国から委託されたことだった。しかも、直接入札したのが実体のない「サービスデザイン推進協議会」で、電通に再委託して中抜きを行ったから、強い批判を受けることになった。コロナ対策については「go to キャンペーン」も強行されたし、2次の「持続化給付金」もあるが、批判を浴びて、電通は応募をやめるようだ。

・電通は日本最大手で世界第5位の広告代理店である。ウィキペディアによれば、1901年に「日本広告」という名で設立され、1907年に通信業務を加えて「日本電報通信社」(電通)になった。満州国で「満州国通信社」を創設して国策会社となったが、戦後は広告業務に限定した会社として再出発をした。テレビの普及とともに企業は急成長し、1984年のロス五輪以降スポーツイベント等に業務を拡大して現在に至っている。コロナで延期になった東京五輪についても、国や都の命を受けて開催権獲得に強い力を発揮したと言われている。

・現在では電通は広告会社ではなく、さまざまなイベントを企画し実行する会社であり、国から委託されるさまざまな業務を引き受けて、下請けの会社に再委託する会社になっている。経済産業省や総務省などとの関係を強くし、また内閣府にも深く入り込んで、この国の政策やその宣伝方法、あるいは世論の操作や政権批判に対する情報監視の役も担っているようである。過労死事件などが起きて、その企業体質が問題にされたりもしたが、国との強い関係が変わっていないことは、今回の業務委託でも明らかである。何しろ官僚の天下りは、他社の追随を許さないほどなのである。

genpatu.jpg・電通が国の政策に大きく関わっている例としては、原発行政とその宣伝が上げられる。このコラムでも本間龍の『原発広告』を取り上げたことがある。原発広告は3.11前までに総額で4兆円以上が使われ、安全神話の造成とメディアの懐柔という役割を果たしてきた。この本には、そのような実体について、メディアがほとんど批判してこなかった経緯が詳しく書かれている。この国と電通とメディアの関係は、延期になった東京オリンピックでも変わらない。主要な新聞やテレビはオリンピックを協賛しているから、そこにある問題を面と向かって取り上げて批判することなどできないのである。

・内田樹がTwitterで「『電通は五輪延期と裏金疑惑の訴追で経営危機に瀕するのではないか』ということは新聞読んでれば誰でも推察することだし、『その場合何が起きるのか』は多くの人が知りたいことだと思うけれど、この主題についてはすべてのメディアが完全黙秘していますね。」と書いて、「メディアを久しく支配してきた巨大広告代理店が経営危機でメディアの現場をグリップできなくなった場合に『何が起きるか』ということに僕は興味があるんですけれど、誰かシミュレーションしてくれないかな。」と続けている。

・全く同感だが、どうせなら、オリンピックが中止になり、安倍政権が倒れたらどうなるかまで予測したくなる。電通と日本とどっちが先につぶれるか。悪い冗談ではないことが恐ろしいのである。

2020年7月20日月曜日

コロナと雨

 

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forest168-2.jpg ・コロナの緊急事態宣言が解除されて、山登りができるようになったのに、毎日雨ばかりで、ほとんど登れていない。唯一行ったのは篭坂峠で、山椒薔薇を求めて3週連続出かけた。3度目の正直で満開の山椒薔薇を堪能した。霧が立ちこめていて幻想的な雰囲気だった。山椒薔薇は山中湖村の村花だが、村中に咲いているわけではない。天気のせいもあるが、誰にも会わず、あちこちに咲き誇る花を独り占め、という感じだった。数年前に摘んだ種を家の庭に蒔いたが、数センチの高さに成長して、日当たりのいいところに移しかえたりしている。さて成長して花が咲くまで何年かかることか。

forest168-3.jpg・河口湖のハーブ祭りも今年は中止になった。しかし、ラベンダーは咲いていて、人混みもないからゆっくり鑑賞出来た。ホテルが再開して、それなりに人も来ているが、何といっても外国人がいないし、観光バスも来ないから、静かなものだ。雨の合間を見つけて自転車で湖畔を一周している。例年なら車と歩行者を避けて走らねばならなかったのに、今年はそんなこともない。ただし、7月になってからは雨ばかりだから、天気予報と空模様を見て、出かけるかどうか判断しなければならない。コロナ同様、大雨もまた、環境破壊の影響で、深刻な被害がまた今年も続発している。

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forest168-5.jpg・東京はまた感染者が増え始めている。母のいる老人ホームは面会ができるようになったが、事前に予約をして2人で15分という制限がある。往復4時間かけて15分では、何しに行くのかという感じだし、どこかに寄ってというのは気が進まないから、まだ行っていない。会わなくなってもう半年になるから、本当に忘れられてしまうかもしれない。正月以来会ってない孫たちも、この間にどんどん成長しているようだ。『コミュニケーション・スタディーズ』の改訂作業も済んで、さあ夏だ!といきたいところなのに、コロナと雨が幽閉生活を強いている。湖畔一周の自転車だけが解放感を与えてくれるのだから、梅雨前線よなくなれと願うばかりだ。

2020年7月13日月曜日

レジ袋とストロー

 

・レジ袋が有料化されるというニュースに驚いた。もうとっくに有料化されているじゃないかと思ったからだが、経済産業省の通達で、制度化されたということだった。今まではスーパーなどで自主的にやっていたのだと、改めて認識した。しかし、レジ袋を有料化するという動きには、既に20年以上の歴史がある。レジ袋一つで、何でこんなに時間がかかるのかと思うが、実は、僕はずっとレジ袋の有料化には疑問を呈して批判してきた。

・その理由は、2007年に書いた「レジ袋は必要です」に尽きる。プラスチック・ゴミの中でレジ袋が占める割合は極めて低い(2%)のに、相変わらずレジ袋しか槍玉に上がらないという点についてである。もっとも数年前からストローが加わって、使うのをやめたカフェやレストランが出てもいる。しかし、レジ袋とストローだけでプラスチック・ゴミがなくなるわけではないから、どっちにしても典型的な「スケープゴート」であることは変わらない。

・とは言え、プラスチック・ゴミが環境に与えている害を軽視しているわけではない。むしろ逆で、もっと徹底的に規制すべきだと思っている。道を歩いていて、あるいは車に乗っていて目立つのはポイ捨てされたペットボトルや空き缶だし、スーパーの買い物でゴミになるのは、肉や魚を入れたトレイだし、生鮮食品から乾物まであらゆるものに使われているビニールの袋等々である。わが家ではクズカゴにレジ袋を入れて使っている。3日も経てばゴミでいっぱいになるが、そのほとんどは石油由来のプラスチックやビニールである。

・もちろん、ここ20年ほどの間に、ゴミの選別が進んで、再利用出来るものも多くなった。新聞、雑誌、段ボール、そして発泡スチールなどは処理業者のところに持っていくことにしているし、スーパーにはペットボトル、アルミ缶、スチール缶、瓶、牛乳パック、そして発泡スチールのトレイなどを選別して受け入れる箱が用意されている。しかし、再利用出来ずにゴミ袋に入れるものはまだまだ多い。収集されたゴミは焼却場で焼かれるから、二酸化炭素その他の物質を大気に排出する。

・経済産業省のホームページにはレジ袋の有料化について「普段何げなくもらっているレジ袋を有料化することで、それが本当に必要かを考えていただき、私たちのライフスタイルを見直すきっかけとする」と書いてある。今さら何を言っているのかと思うし、消費者の責任に転嫁しているから腹が立つ。プラスチックの容器を使って製造・販売する製造業者や販売業者には、何の規制もないままなのである。

・レジ袋の変わりにトートバックを使いましょう。こんな呼びかけを受け入れて、わが家でも数年前からトートバックを使い始めた。しかし、生ものや冷凍ものをいれたりするから汚れることが多い。定期的に洗ったりもするし、何年か使って捨てたりもしているが、コロナ禍で、ウィルスを運びかねないことが指摘されたりもしている。その意味では極めてタイミングの悪い制度だと思う。その点を考慮して、終息するまで延期するといった柔軟さがないのが、日本のお役所仕事の悪弊だというほかはない。

・コロナ禍といえば、外食が規制されて店はテイク・アウトで販売するようになった。当然、プラスチックの容器や包装ラップが大量に使われて、それがゴミとして捨てられているはずだが、そのことを指摘する声は皆無だと言っていい。使わなければ店はやっていけないし、食べたいものが食べられなくなってしまうかもしれないが、それはご都合主義と言うものである。せめて容器をすべて紙製にするといった対応ぐらいはすべきだと思った。

・プラスチックがゴミとしてどれだけ環境に悪影響を及ぼしているか。そのことに真摯に向き合えば、レジ袋やストローで何とかなる問題ではないことはすぐにわかるはずである。「スケープゴート」にしているのは、やる気がないことの証明にしかならないのである。世界からの批判に推されて石炭火力発電は縮小させると言うが、原発は使うと言う。どちらも政策に、根本的にどうするかという理念がない証でしかないのである。

2020年7月6日月曜日

田村紀雄『自前のメディアを求めて』

 

tamura.png田村さんについては、1年前にカナダ移民について書かれた『移民労働者は定着する』を紹介したばかりだが、また新著をいただいた。80代も後半だというのに、気力充実ですごいなと感心した。とは言え、『自前のメディアを求めて』は書き下ろしではなく、インタビューで、聞き手は『鶴見俊輔伝』をまとめた黒川創さんである。
黒川創さんからメールで、田村のこれまでの生涯60年間をこえる執筆作業について話を聞きたいと言ってきた。私も小さな新聞・雑誌を発行していた人たちに「パーソナル・ヒストリー」として聞き書きをとる仕事はたくさんしてきたが、立場をかえてじぶんの生涯をインタビューされるとは思いもよらなかった。
もちろん、このインタビューには事前に入念な準備がなされている。田村さんは少年時代の戦争体験から始まって、最近の仕事に至るまでを思い出し、調べ、整理しなければならなかったし、黒川さんには田村さんの著書の多くを読む必要があった。で、話はゼミでの教師と学生のやり取りのようにして行われた。

田村さんは1934年に群馬県前橋市で生まれている。自宅が爆撃されるという戦争体験、高校生の時の「レッドパージ」、東京に出て働きながらの大学生活、卒業後のフリー・ライターという仕事と関西移住、そこで何人もの研究者と出会って、メディアやコミュニケーションについて関心を持つようになる。その業績が認められて東京大学新聞研究所の助手になり、桃山学院大学、そして東京経済大学で教鞭をとり、研究者としての仕事を続けるようになった。

田村さんの仕事は大きく三つにわけられる。一つは小さなメディアとジャーナリズムに対するもの、そして田中正造を中心にした足尾銅山と鉱毒にまつわるもの、それからカナダを中心にした日本人の移住についてである。インタビューはそれぞれについて、代表作を中心にしながら行われていて、田村さんの記憶力と、黒川さんの読み込みの深さに感心させられた。実際に書かれたことの背後や奥にあるものについて質問し、そのことについて明確な理由が述べられていたからだ。

田村さんの研究は三つにわけられるとはいえ、そこには一貫して小さなメディアがあった。 彼の最初の著書は『日本のロ-カル新聞』(現代ジャーナリズム出版会)で、60年代から70年代にかけて盛んに発行されたミニコミやタウン誌に注目した『ミニコミ 地域情報の担い手たち』(日本経済新聞社)や『タウン誌入門』(文和書房)、そして『ガリ版文化史 手づくりメディアの物語』(新宿書房)などがある。しかし、『鉱毒農民物語』(朝日選書 )や『明治両毛の山鳴り 民衆言論の社会史』(百人社)にしても、『カナダに漂着した日本人 リトルトウキョウ風説書』(芙蓉書房出版)や『日本人移民はこうして「カナダ人」になった 『日刊民衆』を武器とした日本人ネットワーク』(芙蓉書房出版)にしても、その仕事のきっかけや研究の材料になったのは、その動きや運動の中で発行された新聞や雑誌だったのである。

僕は田村さんと大学院の学生の時に知り合い、雑誌『技術と人間』で一緒に「ミニコミ時評」をやり、彼が編集した『ジャーナリズムの社会学』(ブレーン出版)等に寄稿した。また彼が中心になって開設した東京経済大学コミュニケーション学部に、大学院開設時から赴任している。もう五十年近いつきあいで、彼から教えられたこと、影響を受けたことは極めて大きかった。本書には、そんな僕にとっても懐かしい場面の話がいくつも登場してくる。

この本のタイトルは「自前のメディアを求めて」で、田村さんは一時期『田中正造研究』を出していた。僕も田村さんと知り合った頃から、最初はガリ版、和文タイプと謄写ファックス、そしてワープロ、パソコンを使って自前のメディアを発信し続けてきた。このホームページは1995年以来25年になる。その意味で、田村さんからは、何より自前のメディアの大切さを教えられたと思っている。