1997年3月4日火曜日

知人の病気


  • ある親しい知人が入院している。末期の肺ガンで、もうベッドから立ち上がることもできない。食事らしいものも12月の中旬からほとんど口にしていない。医者からは2月までと覚悟するようにと宣告されたが、3月になっても生きている。ただ、見舞いに行っても、もうほとんどしゃべる元気もなくなってしまった。
  • 彼がガンに気づいたのは、去年の夏休み前。タイに旅行するつもりが、病院行きに変わり、そのまま入院生活が8カ月も続いている。僕は、9月の末まで彼の入院を知らなかった。肺ガンで脳にまで転移しているという話に驚いて病院に駆けつけると、わりと元気な顔でテレビを見ていた。ほっとしたら、「何でもっと早く知らせてくれなかった!?」と文句が言いたくなった。「大騒ぎするの好きじゃないから、それに、元気になっているし...........。」コバルト照射で脳のガンは消えたようだった。食欲もあって、体力もずいぶん回復したみたいだった。「11月には退院する」という言葉を僕は真に受けた。
  • 彼は27年前に京都に来た。高校の教師を辞めて短大の教員になった。家族と離れた単身赴任。というよりは、家族から逃れるための周到な計画だったようだ。彼には新しい恋人が一緒だった。彼は京都で当時起こりつつあった「関西フォーク運動」に参加した。ギターを手にした若い連中よりは一世代以上年長だったから、よき相談役として信頼された。僕が京都に来た理由の中にも、そんな彼を慕う気持ちがあった。
  • 溜まり場にした同志社大学近くの喫茶店でよく話をし、ライブハウスで音楽を聴き、集会やデモに一緒に出かけた。どこでも、表に立ってリーダー役をすることはなかったが、意見は的確で、話はおもしろかった。彼の周りにはいろんな人が集まった。岡林信康、泉谷しげる、高田渡、中川五郎、豊田勇造、古川豪、そして中山ラビ。僕はもう歌うことはやめていたが、彼の近くにいると、たくさんのフォーク・シンガーたちと話ができた。今から思えば、信じられないくらい楽しい瞬間だった。
  • 寺山修司の『書を捨てよ街に出よう』がベストセラーになって、大学院に行って本ばかり読んでいる僕は、よく彼のからかいの対象になった。「渡辺は本ばかり読んでいるからだめだ。見る前に跳べだよ。大事なのは頭じゃない。身体だよ。」そんなこと言われなくてもわかっていた。だけど、歌もギターもうまくない僕には、本を読んで考えることぐらいしか、周りの連中に対抗できる武器を手にする手段はなかった。けれども、それはレコードを出して、コンサートで拍手喝采をうけるフォーク・シンガーたちに太刀打ちできるようなものでは、とてもなかった。
  • 彼は僕に大学の非常勤の口をあちこち世話してくれた。で、学者の端くれのような態度をとり、それなりの気取った文章を書くようになった。それが本になり、何か、世の中がわかったような気分になると、僕は彼のところに次第に足を向けなくなった。フォーク・ソングが下火になり、僕も結婚して子供もできた。彼の恋人も東京に帰った。定職につくと、1年のうちに何度も会わないという状態になった。
  • 彼の病室には、何人ものフォーク・シンガーたちが訪れている。みんなもう50歳前後になっている。そんな連中が、彼を励ますつもりでやってきて、20数年前の気持ちを思い出して帰っていく。僕は、彼の入院を知ってから、週に1、2度病室を訪ねている。最近の話題や、大学の現状を話したりもするが、よりリアリティを感じるのは、昔話をして、20代の頃の自分を思い起こす時である。「あのときは面白かったね」と話すと、彼の顔もなごんでうなずく。しかし、そんなふうに話ができる時間も、もう残り少ないのかもしれない。だから何も話はできないかもしれないけれど、僕は明日も病院に行くつもりだ。
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    unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。