1997年9月3日水曜日

高校野球について

  今年の夏一番時間をつぶしたのは、何といっても野球だろう。メジャー・リーグの野茂の試合はずっと欠かさず見てきたが、7月からは伊良部が加わった。ドジャーズもヤンキースもプレイ・オフに出場可能な位置にいるから、二人の登板以外の試合結果も気にかかる。ヤクルト・ファンだから、日本の野球も気にはなる。特に横浜が急追しはじめた8月は、こちらの試合もついつい見ることになった。それに甲子園。今年は京都の代表校が平安で、ピッチャーがNo.1の川口だったから、とうとう決勝戦までつきあってしまった。こんなわけで、日によっては、朝はメジャーリーグ、昼は高校野球、そして夜がプロ野球なんていう日が続く夏休みになった。もちろん、これは過去形の話ではなく、現在進行形である。
高校生のぼくの子どもにはあきれられてしまったが、彼は野球部の練習に一日も休まず行って、メジャー・リーグも甲子園も、プロ野球もほとんど見ることはなかった。朝早くから出ていって、夜暗くなってから帰ってくる。顔の日焼けは黒光りという状態で、頬もげっそりこけてしまった。どうせ、地区予選で初戦敗退だったくせに、何もこのクソ暑い時期に一日中外で練習しなくたっていいものを、などと皮肉を言いつつ、ぼくはカウチポテトでテレビの前に寝転がってばかりいた。もちろん、ひと夏、がんばり続けた子どもの努力には感心したし、ぼくのぐうたらな生活にはちょっぴり罪悪感を感じないでもなかったが、それでも、高校野球やプロ野球には、言いたいことをいくつか感じた。

  • ぼくの子どもの高校は地区予選で初戦敗退した翌日から、新チームの練習を開始した。岡山県での合宿や他府県への遠征もやり、夏休み中の休養日はたぶん3日ほどだった。監督のかかげる目標は県大会のベスト8だそうである。費用も相当にかかるが、激励会だの試合の応援だのとよく声もかかる。公立高校で決して強くはないチームだし、クラブとしてたまたま野球を選んだだけなのに、監督は一体何を考えているのだろうと、入学早々から疑問を感じたし、機会があったら文句の一つも言ってやろうという気にもなっている。けれども「それだけはやめてくれ」と子どもが言うから、今のところは沈黙している。ちなみに、子どもはレギャラーはもちろん、ベンチ入りも当分、というよりは3年まで続けても無理なようである。
  • メジャー・リーグを見ていると、選手も観客も楽しんでやっていることがよく伝わってくる。テレビ中継に解説者などはいないことが多いから、日本のように技術論をペラペラとやることもないし、精神論や集団論を唱える人もいない。野球が大味だなどと言われるが、野球を野球として楽しむ姿勢には大いに好感が持てる。そんなスタイルに比べると、日本の野球は高校から、ただただ一生懸命で、そこに人生や人間性を読みとろうとしすぎるという気がする。勝つことばかり考えずにもうちょっと楽しく、時間も短く、体にも気をつけて、と子どもには説教めいて話すが、彼は鼻で笑って、そんなんではクラブをやる意味はないと言う。すっかり洗脳されてその気になってしまっているのである。
  • 今年の甲子園は川口の4連投でわいたが、高校生にあんなに投げさせることを批判する人は解説者にもいなかったし、新聞の記事でも見かけなかった。野茂が100球を越えるとぼちぼち交代かなどとやってるベースボールとどうしてこんなに違うのだろうか。監督に行けと言われても、「ぼくは連投はしません」と言う高校生が出てきたらおもしろいのになどと思うが、自分の子どもを見ていると、とてもそんな土壌ではなさそうだ。自主性を養って自分を大事にするといった発想は、少なくとも高校野球を見る限りでは、ほとんどないと言ってもいいだろう。
  • しかしこのような傾向は学校教育だけに限ったことではない。野茂や伊良部がメジャーに行くことについては、やれわがままだ、自分勝手だと、マスコミはこぞって感情的な批判をした。それで活躍すれば、大々的に報じてヒーロー扱いする。で、日本のプロ野球についての中継や報道はと言うと、優勝争いとは無関係に相変わらず、巨人と阪神ばかりである。野球はチーム一丸、和が大事、報道は寄らば大樹の陰。日本での試合をほとんどテレビでは見ることができなかった野茂や伊良部が今は全試合見ることができる。イチローも佐々木も我を通してメジャーに行けばいい。アメリカは遠いが、メジャーの試合はプロ野球よりも近い。「周囲の声や上からの命令に惑わされずに自分を大事にしろよ。」とぼくは伊良部の試合を見ながらつぶやくが、そのことを一番わかってほしい子どもは、今日も練習で暗くなっても帰ってこない。
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    unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。