1997年11月11日火曜日

永沢光雄『風俗の人たち』筑摩書房,『AV女優』ビレッジセンター

 

・おそらく「風俗」を研究対象にしやすいのは社会学が一番だろう。現実に、そのような題名の本はたいがい社会学者によって書かれている。けれども、そこに「風俗の人たち」のことが書かれるのは、めったにない。書かれたとしても、周辺をさっと撫でた程度で終わってしまうか、自分を無関係な場所に置いて、得意の客観的分析をするかのどちらかである。要するに、性の生態は、社会学者が自分の問題として正面から扱うことのほとんどないテーマだといってもいい。もちろんこれは、他人への批判である以上に、自分に向けるべきものである。映画のレビューはやっても、AVのレビューは気が進まない。第一、レンタルするのでさえ気が引ける。品位が邪魔するといえば聞こえがいいが、要するに勇気がないのである。けれどもわかったような顔はしたがるから、何ともずるい性根だと思う。
・永沢光雄の『風俗の人たち』は、『AV女優』につづくルポルタージュである。前作はずいぶん話題になって、ぼくもおもしろい本だと思ったが、今度の作品も、またなかなかの力作である。ぼくは2作とも社会学のフィールドワークとして見ても、傑出したものだと思う。
・『風俗の人たち』は雑誌『クラッシュ』に6年間にわたって連載されたレポートをもとにしている。雑誌やスポーツ紙の風俗レポートといえば、自らの体験をもとにするというのがふつうだが、永沢はそれをしない。いや正確にいえば一度だけしかしなかった。だから、読んで欲望を刺激させるような内容のものにはなっていない。次々と新手がでてくる風俗産業を訪ねては、それを仕事にしている人たちに話を聞く。そんなやり方で、およそ70回ほどのレポートが書かれた。
・ 実践のない性風俗レポートなんて書いた本人と編集者しか読まない。永沢はあとがきで、そんな中途半端な記事が本になってしまった、と申し訳なさそうに書いている。謙遜ではなくて、たぶん正直な気持ちなのだと思う。何といってもこの文章が掲載された雑誌は、男たちが欲望をむき出して読みあさる種類のものなのだから。けれども、また、そんな雑誌にふさわしい内容のレポートだったならば、決して本になることはなかったはずである。実際ぼくも、こんな真面目なレポートがよくも6年間も続けられたものだと感心してしまう。そんな意味では、この本が生まれるうえで功績があったのは、作者以上にこの雑誌の編集者の見識と姿勢だといってもいいのかもしれない。
・性風俗のレポートを体験として書かなかったことについて、永沢は恥ずかしかったからと書いている。たぶん、このような感性の持ち主では、この種の雑誌のレポーターは勤まらないのがふつうだろう。けれども、その恥ずかしいという気持ちが、このレポートにまったく違うおもしろを生みだす結果をもたらしている。性に対する欲望とそれを何とか処理したいという気持ちは誰にでもあるものだが、ところが体面や自信のなさ、あるいは倫理観が、それを実行させにくくする。この本には、一言で言えば、そんな浅はかな男の性(さが)と心の揺れ動きをテーマにした私小説といった世界がつくり出されているといってもいいかもしれない。
・だから、このレポートにはセックスが好きとかテクニックが上手とかいうのとは違う女たちの正直な気持ちも描き出されることになる。たとえば永沢は、「今の少年少女たちは、性というフィルターを通して大人たちを軽蔑していることは確かだと思う」とドキっとするようなことを書いている。性と金を媒介にした男と女、大人と子どもの不信のドラマ。そんな傾向がますます強くなることに恐れながら、同時に性の欲望も否定できないアンビバレンス。この本には、そんな単純な性風俗レポートや、性の商品化を頭ごなしに否定する短絡的なフェミニズムとは異なる、きわめて説得力のある性にまつわる今日的なテーマが描き出されていると思った。

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