1999年2月3日水曜日

2月03日 A.プラトカニス、E.アロンソン『プロパガンダ』〔誠信書房)

「この不景気を何とかしなければ」というのは、今、誰もが同意するかけ声だろう。景気が良くならなければ、学生は就職もままならないし、職を持っている人だっていつリストラされるかわからない。勤め先そのものが倒産する危険は、中小企業だけのものではない。だから政府は商品券を配ってまで、消費行動に弾みをつけようとする。しかし、一度きつくなった財布の紐はなかなかゆるみそうにない。


今考えてみれば、バブルの時期に人びとがなぜ、やれ家だ土地だモノだと買いあさったのか不思議な気がする。そして、今こんなにまで消費が落ち込んでいる理由だって実際のところは、奇妙な現象なのだ。時に人は無理な借金をしてまで金を使いたくなるし、時にまた人は持っている金をしっかり握りしめて使おうとしなくなる。いったいどうしてなのだろうか?


『プロパガンダ』は我々の生活の中で日常化している「説得」の本質を解き明かそうとする本である。「宣伝」「広告」「キャンペーン」「CM」「デマ」「噂」「口コミ」「洗脳」「教化」........。「説得」ということばで表される行動はテレビ、ラジオ、新聞、雑誌といったマスメディアはもちろん、より直接的で個人的なコミュニケーションの中にも含まれている。
「説得」とは自分の考えを人に理解させたい、自分の思い通りに人を動かしたいと考えてする行動だが、それはもちろん強制する形でおこなわれるものではない。むしろ、人に自発性を

自覚させるものである。だから、「説得」には魅力的で鮮明な「イメージ」がなければならないし、人に「夢」や「欲望」を感じさせなければならない。セックス・スキャンダルで大騒ぎになっても演説上手なクリントン大統領の人気は衰えないし、良いおじさんといわれることはあっても、「ボキャヒン」の小渕首相の支持率は一向に上がらない。


『プロパガンダ』は政治家の言動やニュースの論調、それからもちろん新聞や雑誌の広告からテレビCMまでをふくめて、その説得のレトリックを社会心理学的な視点から分析する、なかなか面白い本である。けれども、これを読みながらぼくは、逆のことを考えてしまった。つまり、不況のような深刻な状況の中では、どんなに工夫を凝らした宣伝も広告も、空々しく見えたり聞こえてしまうのだな、ということである。


しかしそう思いながら、こうも考えた。今が不況だという認識は、やっぱりどこからか宣伝としてやってきたイメージなのではないのか。イメージの実体化をD.J.ブーアスティンは「疑似イベント」と読んで、そこのマス・メディアの本質を指摘したが、景気とイメージの関係はまさにそれの好例だろう。


スチュアート・ユーエンの『PR』はアメリカ人エドワード・バーネイズへのインタビューからはじまっている。ユーエンによればバーネイズはPRのパイオニアとも呼べる人だが、彼はそのPRを「環境創造」の科学として考え、実践した。出来事は上演されるもので、「ニュース価値」を持つよう計算されるものだが、同時にそれが脚色されていることは明らかにされてはならない。新聞が大衆化し、映画やラジオが人々の関心を集めるようになった20世紀初頭は、PRによって社会を動かすことが本格化した時代でもあった。


ユーエンの『PR』はその20世紀前半のメディアの成長とそれを使った「説得技術」の熟練を描き出した好著で、『プロパガンダ』とあわせて読むと、我々が日々無自覚のうちに、考えや行動、あるいは感覚までをいかに説得されているかをも思い知らされる。ユーエンは『欲望と消費』『浪費の政治学』(いずれも晶文社)ともに面白い本で、なかなか力のある人だと思う。『PR』もぜひ翻訳されて多くの人に読まれて欲しいのだが、不況の波は出版にも押し寄せていて、なかなか実現は難しいようである。


ついでに「浪費」ということから言えば、ぼくは景気の悪いのはむしろいいことではないかと、最近特に感じている。用もないものなど買うことはない。それで経済がおかしくなるというなら、それは社会の仕組みの方が悪いのだと。しかし、経済が悪くなると、現実には必要なものほど手に入りにくくなったりする。出版の世界は特にそのような傾向が強い。これは困ったことだと思うが、それもやっぱりプロパガンダやPRの力の差なのだろうか。

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