1999年6月8日火曜日

村上春樹『スプートニクの恋人』講談社,『約束された場所で』文芸春秋

 

・村上春樹の『スプートニクの恋人』がベストセラーになっている。書評もだいたい好意的だ。しかし、まるで少女小説、というのが読みながらの感想で、ぼくはあまりおもしろいと思わなかった。もっとも駄作だと決めつけたわけでもない。はっきりとは指摘できないが、村上が、今までとは何か違うものを目指しているようにも思えた。手がかりになるのは、もちろん、オウムとサリン事件への彼の「関わり」だ。

・村上はすでに『アンダーグラウンド』というタイトルで地下鉄サリン事件の被害者にしたインタビューをまとめていて、つづけて、もう一方の当事者であるオウム真理教の信者の世界を描き出そうとした『約束された場所で』を発表した。ぼくは『アンダーグラウンド』があまりにおもしろくなかったから、『約束された場所で』は全然読む気がしなかったのだが、『スプートニクの恋人』を読んで、あらためて読んでみたくなった。

・『アンダーグラウンド』のつまらなさは、サリン事件の被害者達が語った世界の一様性にある。地下鉄にたまたま乗り合わせた人々が、あまりに似た世界に生きている。仕事、職場という世界、家族、そして自己。それらについての姿勢や思い。分厚いページをいくら繰っても、まるで金太郎飴のように同じ世界が出てくるばかり。その単調さにうんざりした。脚色や編集なしに本にまとめるのが最大の目的だとはいえ、村上春樹でなければ出版社はどこもOKしなかっただろう。もっとも、ぼくには、村上春樹がなぜこんなつまらない本を作ったのだろうという疑問が残って、そこには何かおもしろい理由がありそうに感じられた。で、少女小説のような『スプートニクの恋人』である。とにかく判断は『約束された場所で』を読んでからにしようと思った。

・『約束された場所で』は意外におもしろいかった。オウムに関心をもつ人たちに共通した心理は、現実の世界との違和感にある。現実と折り合いをつけることが下手、というよりは、現実を現実として認めたくない気持ち。そこからオウムとの出会いによる魅力的な世界と新しい自己の発見。出家、修行、解脱.......。もちろんここに登場する人たちの現在の考えや気持ちはそれぞれだが、入信前の状況やその後の意識の変容についての話はまた、奇妙に一様なものである。

・サリン事件を巡って両極に位置する人たちの日常生活に対する姿勢は対照的である。事件の被害者達の多くは、その理不尽な境遇を世間に訴えたり、裁判を起こしたり、勤め先に仕事をこなせないことを主張したりといったことはしない。そうすることによって、日常の安定性がさらに揺らぐこと、そこからはじき出されてしまうことを恐れるからだ。おまけに偶然の不幸にもかかわらず、自分を責めたりしたりもする。オウムに入信した人たちは逆に、日常生活を捨てたこと、それによってもたらされた幸福感やリアリティの確かさを力説する。けれども、それは、まるでまったく同じ世界であるかのようにも思える。


僕らは世界というものの構造をごく本能的に入れ子のようなものとしてとらえていると思うんです。箱の中に箱があって、またその箱の中に箱があって......というやつですね。僕らが今捉えている世界の外には、あるいはひとつ内側にはもう一つ別の箱があるんじゃないかと、僕らは潜在的に理解しているんじゃないか。そのような理解がわれわれの世界に陰を与え、深みを与えているわけです。音楽でいえば倍音のようなものを与えている。ところがオウムの人たちは、口では「別の世界」を希求しているにもかかわらず、彼らにとっての実際の世界の成立の仕方は、奇妙に単一で平板なんです。あるところで広がりが止まってしまっている。箱ひとつ分でしか世界を見ていないところがあります。『約束された場所で』p.232


・世界を平板にしか捉えられない、ひとつの世界としてしか理解したがらない感性。オール・オア・ナッシング的思考。これはもちろん、オウム信者やサリン事件の被害者に限ったものではない。たぶん村上春樹がこれまで書いてきたのは「入れ子」状の相対的な世界とそれを可能にする「デタッチメント」というスタンスだったはずである。けれども、そんな相対的な意識で捉える他はない世界に生きるには、また、「リアリティ」に対して柔軟に距離を加減する「アタッチメント」の感覚も欠かせない。そういったバランス感覚が崩れ、あるいは欠如してしまっている。そういった傾向を意識した小説の創造はたぶん、簡単には実現しない難しい作業だろう。『スプートニクの恋人には』をもう一回丹念に読んでみようと思った。

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