1999年11月16日火曜日

「恋愛小説家」"As good as it gets"

 

  • とにかく今年は映画を見る機会がない、というよりは余裕がない。だから、テレビは結構見ているのに、Wowowで見るものをあらかじめチェックしてといったこともしなくなった。で、思い出したように番組欄を調べたら、見たいものがいくつかあった。「恋愛小説家」はその一つである。ジャック・ニコルソンとヘレン・ハント主演で監督は「愛と追憶の日々」のジェームズ・L.ブルックス。この映画は「タイタニック」がアカデミー賞を総なめにした年に、主演の男優と女優賞を横取りにして、デカプリオ人気に肩すかしを食らわした。日本では「タイタニック」に隠れてほとんど話題にならなかっただけに、よけいに見たいと思っていた映画の一つだった。
  • ニコルソンが演じる小説家のメルヴィンは極端な潔癖性で動物嫌い、そしてなにより人間不信の毒舌家である。住んでいるのはマンハッタンの高級アパート。隣人とは口をきくのも嫌で、食事をするのは決まったレストランの決まったテーブルで、しかも注文を取るのも決まったウェイトレス。もちろん食べるものも決まっていつも同じもの。しかしそのウェイトレスに対しても、積極的にかかわろうとするわけではない。彼にとっては、かろうじて接触を許容できる相手というにすぎない。作家である主人公が人との関わりに積極的になるのはワープロに向かって恋愛小説を書くときだけである。
  • そんなメルヴィンが否応なしに隣人のゲイの画家と関わらざるを得なくなり、嫌いな犬とを世話するはめになる。ウェイトレスが店を休むと家まで行って、君がいないと食事ができないと懇願するようになる。けれども彼女にとって彼は決して印象のいい相手ではない。と言うよりは口が悪くて偏屈な嫌な客にすぎないから、家まで来たりしたことをひどい言葉でののしる。彼女には病気がちの男の子がいた。
  • フィクションの中では男女の恋物語を自由自在に操ることができるが、現実になると、相手をむかっとさせたり、うんざりさせたり、傷つけたりすることばしか吐けない。読者として女性ファンを虜にすることはできても、現実の、目の前にいる女性にはまるでだめ。すでに60歳を過ぎているはずの、男や女の心理を知り尽くしているはずの男が見せる、まるで初恋を経験する純情な少年のような一面。そのニコルソンの演技は、笑わずにはいられないがまた、何とも切なくなってくる。
  • 都会では、何か一つ才能があれば、あるいは仕事さえあれば、人とはつきあわなくたって生きていける。生身の人間は思うようにはならないし、信用もできないが、それに代わるフィクションや疑似現実的な世界でなら、親しさも、恋愛感情も経験することができる。そんな意識は若い世代にはごく自然なものとして現れているが、中年以上の世代だって例外ではない。そしてやっぱりどこかに欠落感や孤独感を抱えている。
  • メルヴィンはゲイの画家の犬をしぶしぶ預かってはじめて、その犬を返した後にあいた心の穴に気づく。あるいはいつも行く店にいつものウェイトレスがいないことであらためて、自分の居場所が消えてることを思い知らされる。
  • その欠落感や孤独感は、現在の人間が持つ共有意識で、少なくともある程度都市化したところなら、住んでる場所を問わないもの。この映画を見ながら思ったのは何よりそんなことだった。ある日突然、安住の場であるはずの職場や家庭が消えてなくなったら、僕らは、その欠落感や孤独感をどうやって埋めていくのだろうか?
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    unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。