・3月26日から28日まで、筑波大学で「日本スポーツ社会学会」がある。ぼくはそこで、「20世紀のメディアとスポーツ」について話さなければならない。スポーツについてのぼくの仕事はほんのわずかで、その専門家を前にして話しをするのはおそれ多いのだが、ピンチ・ヒッターを頼まれて断ることができなかった。そもそもぼくは、筑波は中途半端な距離で面白いところも少なそうだから、今回は行かんとこと思っていたのだが、そういうわけにいかなくなってしまった。 ・本当は1カ月前にレジュメを提出することになっていたらしい。しかしそんな連絡を受けたように思わなかったから、レジュメの催促が来てから重い腰を上げた。しかしレジュメは10日前になった今でもできあがっていないから、当日持っていくしかない。100部?あるいは200?コピーをとるのも面倒なことだがこれは仕方がない。と、愚痴はともかく、いくつか本を読み直してみた。で、「スポーツはメディアによって文化になった」という話しをしようかという気になっている。
文化についての理解は規範的な理解からますます記述的な理解になっていった。文化は今や大演劇、一流コンサートやオペラや美術展覧会、良質な文学だけではなくなっている。文化は存在するものを記述する。(オモー・グルーペ『文化としてのスポーツ』ベースボール・マガジン社)・芸術や文学をさす狭い意味での文化には「高級」と「低俗」とか、「純粋」と「大衆」といった分け方があって、価値とか意味の重要性、あるいは享受する人間の階級などで区別がつけられてきた。グルーペはそれを「規範的な理解」と呼ぶのだが、現代の文化はその規範を無化させる方向に流れていて、どんなものも横並びに記述されるような性格になってきているというのだ。彼によればヨーロッパでスポーツが文化としてみなされはじめたのは最近のことのようである。
・その文化でさえなかったスポーツは今や誰にとっても欠かせないものとして位置づけられている。それはテレビ番組の大きな柱であり、広告やさまざまな商品と結びついたものである。私たちはすることはもちろん、見ること、聞くこと、読むことなどあらゆる形でスポーツを楽しんでいる。 ・このようなスポーツの変化は何よりアメリカで発展したものだ。そして、その発展には新聞に始まってラジオ、映画、そしてテレビといったメディアの力が大きかった。野球、アメリカン・フットボール、バスケットボール、そしてアイスホッケー………。もちろん、メディア自体の発達も、スポーツに夢中になった大衆の誕生も、それを可能にしたのはアメリカの急速な産業化と資本主義化だった。スポーツのビジネス化とレジャーにお金と暇を消費する人びとがアメリカで発生したことは、その意味ではきわめて自然な現象だった。ベンジャミン・G・レイダーの『スペクテイター・スポーツ』(大修館書店)はそのあたりの歴史をきわめて面白くまとめてある。彼にはもう一冊、テレビとスポーツの関係について書いた"In It's Own Game"という好著があるのだが、残念ながら、これは翻訳されていない。 ・レイダーの本でもそうだが、アメリカのスポーツをテーマにした本はなぜ、こんなに面白いのだろうといつも思ってしまう。宇佐見陽の『大リーグと都市の物語』(平凡社新書)も読み始めたら止まらないといった内容だった。アメリカのプロ・スポーツはメディアによって発展したと書いたが、同時にそれを積極的に指示した人びとがいたことを指摘しなければ、事実の半面だけをとらえたことになってしまう。ゲームの観戦を楽しむというだけでなく、自分の街、あるいは自分自身を支えるものとしてスポーツ、というより一つのチームを考える。『大リーグと都市の物語』にはそんなプロセスや現状がうまく描かれていて、新聞やテレビで巨人一辺倒のいびつな形になってしまっている日本のプロ野球との違いがよくわかる。
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。