・「ファイナル・カット」は隠しカメラを使って友人の秘密をあばく話である。問題のビデオを撮ったのはイギリスの映画スターであるジュード・ロウで、彼はナイフで刺されて殺される。その葬儀の後で未亡人になったサディ・フロストが友人たちにビデオを見せ、その光景もまた記録する。物語はそのビデオをみんなで見る数時間のできごとで、映画は実名の出演者が演技ではなく撮られた現実の話のドキュメントのように映しだされるのだが………
・盗撮は、カメラを手にしたときに誰もがやってみたいと思うことのひとつだろう。通常のやり方では撮れない部分を写しとる。それは人との関係のなかでは隠された部分、秘密の一面、あるいは存在しないはずの顔などで、「ファイナル・カット」では、友人たちがそれぞれ、そんな一面を暴露される。友人同士が罵りあい、夫婦の間に不信感が芽生える。
・こんな光景は他人事の世界としてなら笑って見ることができる。けれども、自分の話として考えると、とんでもないことだと言わざるを得ない。たぶん友達関係も崩れ、夫婦なら離婚はまちがいないからだ。
・映画では、主人公が友人に殺される場面もまたビデオに記録されていることが示されるが、その原因は盗撮ビデオの存在を知った友人のひとりが逆上したからだった。ビデオには彼が主人公の妻を誘惑するさまや、彼の妻がトイレでおしっこをする様子、浮気願望の告白と実際の浮気シーンなどが写されていた。殺すのは短絡的で行き過ぎかも知れないが、こんな場面をビデオに盗撮されたら、僕だって逆上して「殺してやる」と思ってしまうかもしれない。
・悪趣味な映画だといってしまえばそれまでだが、「こんなことすると殺されるよ」という教訓話のようでもある。何しろ今では、それを可能にする道具は手近にいろいろある。他人、それも親密で気になる他人の秘密をちょっと見てみたい、自分でもやってみたい。そんな軽い気持がとんでもない結果になる。この教訓には説得力がある。
・私たちは、どんな人間関係にも表と裏があることを承知している。その関係が一面的で薄いものであれば、そこで示し合うのはきわめて表面的な作り物で、そのことを互いに了解し合ってもいる。だから、相手が表に出さない一面を知ってもそれほど驚かない。店員やセールスマンの笑顔は営業上のものであって、けっして「真心サービス」などではないけれども、無愛想よりははるかにいい。よく知らない人との関係は、そんな表面上の演技によって支えられている。
・しかしである。関係が親密なものであれば、そうはいかない。何でも話し合える関係、示し合える関係こそが親しさを証明する。親子、夫婦、恋人、友人………。ここでは裏がないこと、秘密をもっていないことが前提になるが、現実にはそんな透明な関係はつくれないし、またできたとしても、おそろしくつまらないものになってしまう。関係の維持には互いの距離をなくす努力は不可欠だが、同時にまた、距離がなくなってしまっては関係自体の魅力、それに対する興味も失われてしまう。
・お互いについての知識は関係を積極的に条件づけるが……また同じように一定の無知をも前提とし、ある程度の相互の隠蔽をも前提とする。
・いかにしばしば虚言が関係を破壊するにせよ、関係が存在するかぎりは、虚言はやはり関係の状態の統合的な要素である。(G.ジンメル『秘密の社会学』世界思想社)
・ジンメルは人間関係の維持に必要なのは「配慮」であって、それは、「1.他者の秘密への考慮、隠蔽しようとする他者の直接的な意志への考慮。2.他者が積極的に明らかにしないすべてのことについて、遠ざかること。」だという。親しくなれば、そんな配慮が不要になったり、無用になったりすると思いたくなるけれども、これは関係の絆の不確かさを忘れたとんでもない錯覚である。
・ジュード・ロウは友人たちに不信感をもったから盗撮をしたのではない。信頼感がそれを許容すると過信したのだ。友人たちとの関係を大事に思うなら、絶対にしてはいけないこと、そんな「配慮」の気持の軽視が、関係の破壊だけでなく、自分の死になって跳ね返った。「ファイナル・カット」はそんな人間関係の不確かさや危うさ自体を露骨に暴露しているし、死というオチによって強い教訓話にもしている。「それをやったらおしまいよ」である。
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。