2006年2月8日水曜日

ホリエモンのどこが悪いのか?

 例によって、テレビのニュースやワイドショー、あるいは週刊誌でのホリエモン・バッシングはすさまじかった。乗っ取りを仕掛けられたフジテレビはともかく、他の局はなぜ、こんなに手のひらを返したような取り上げ方をするのか。今さらながらにあきれてしまった。
事件があるたびに思うのだが、逮捕されて取り調べを受ける容疑者は、法に触れる事をした疑いがあるというのにすぎないのに、報道された時点で、悪玉のレッテルがしっかり貼りつけられる。罪があるのかないのか確定するのは、あくまで裁判の判決によってなのに、メディアはそのことに慎重でない。というよりは、率先して容疑者を血祭りに上げようとする。
容疑者の段階で犯罪者に仕立てあげて、あとで無罪という事件は過去にも沢山ある。その被害者が被った精神的、肉体的苦痛や、社会的、経済的な制裁はとても償いきれるものではないのだが、マス・メディアはその過ちをくり返して、しかも、その責任を自ら反省したことがない。
派手なパフォーマンスで名を売り、注目を集めて、それを自社の株価に反映させる。そのこと自体には何の犯罪性もない。ホリエモンはメディアの手法に乗って大儲けをしただけで、株価の暴落で大損する人が大量に出ても、それは買った人の自己責任なのである。同じことを小泉首相もやってきた。野党はどこもメディアの使い方で負けたのだから、今さら、選挙でホリエモンを担ぎ出したことを批判しても、負け犬の遠吠えにしか聞こえてこない。民主党だってホリエモンを担ぎ出そうとして断られたのだから。
「有名人は有名だから有名人なのだ」と言ったのはD.J.ブーアスティンで、彼はテレビのもつイメージを増殖させる圧倒的な力を60年代に指摘をしている。それから半世紀近く経ち、テレビにさらにネットが加わって、世はセレブ、ブランド、あるいはブームの時代なのである。「実」よりは「虚」がリアリティを持つ。魅力の核心が実体にではなくイメージにあることがいまほど顕著になった時代はない。その端的な例が小泉政権であり、ライブドアなのである。
ホリエモンが日本放送の買収に乗り出したのは、メディアの力を自分の手に握りたかったからに他ならない。その行動に痛快さを感じたのは、既得権を握りしめた人たちが慌てふためき、その古い体質が露呈したからだ。何も持たない若者がアイデアと行動力で巨大メディアを乗っ取ろうとした。それは閉塞した社会に風穴を開ける可能性を垣間見せたし、新しいテクノロジーの力を目の当たりにもさせた。ところが、その古い人たちが、今回の事件でそれ見たことかと発言し始めている。ナベツネ、フジテレビ、あるいは自民党を追われた抵抗勢力………………。
「虚」が支配する時代は危険だが、それを古き良き時代の「実」に求めてもかなわない。「虚」を前提にした上での「実」。今必要なのは、それを求めるための倫理感やルールの模索のはずだが、その「虚」を作り出す中心にあるテレビには、そんな意識がまるでない。ホリエモンの虚像を作り上げ、ライブドアを巨大な資産を有する会社に急成長させたのは、何よりテレビだったはずである。火をつけた本人なのに、手に負えなくなると消防士に早変わりして火消しのポーズをとる。メディアはまさに「マッチ・ポンプ」で、ホリエモンを追いかけてする言動には、無責任といよりは犯罪者といってもいいレッテルを貼りつけたくなってしまう。これは、ライブドアにかけられている容疑よりもずっと重いものだと思う。

ホリエモン報道が落ち着いたと思ったら、今度は「東横イン」の社長が晒し者にされている。儲け主義のひどいホテルだと思うが、ホテルに対する行政指導にも疑問を感じている。なぜすべてのホテルが一律に身障者のための施設や部屋を用意しなければならないのだろうか。個々のホテルが独自に特徴を出して、それを目玉にすればいいじゃないかと思う。お年寄りや身障者が安心して止まれるホテルは、それを第一に考えれば、ビジネスとしても大きな可能性があるはずで、それをお上が義務で押しつけるものではないだろう。ところが、そんな発想は皆無で、ころころ変わる社長の態度をおもしろおかしく映し出して、ひどいホテルだと言って非難するばかりだ。しばらくすれば話題にもしなくなるだろう。すべての局がすべての事件について同じ調子だから、もう本当にうんざりしてしまう。テレビが何かを煽りはじめたら、それとは反対の姿勢をとって考えてみる。ぼくには、ずいぶん前から、そんな習慣が身についてしまっているようだ。

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